此処は讃岐の国の麺処あやかし屋〜幽霊と呼ばれた末娘と牛鬼の倅〜

蓮恭

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36. 美桜と弥兵衛、戻る

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 弥兵衛が決めた十日間は、本当にあっという間に過ぎた。

 店先に腰掛けた弥兵衛は、これまでに自分の世話をしてくれたり声を掛けに来てくれたあやかしや物怪に対して、本物の家族のように抱きしめ合い、お互いに涙を流して別れを惜しむのだった。

 そして彼らが弥兵衛の事を皆口々に『友』だと呼んでいるのを聞いて、いつも以上に接客で忙しくしていた美桜も、胸がほうっと柔らかな温もりで安らぐような心地がしたのである。

 やがて美桜と弥兵衛が山を下りる日。

 しばらくは遠夜が一人で店を切り盛りする。どうしても店が開いてからでは忙しくなるだろうという事で、せめてもと朝日が登ってしまう前に出発する手筈になっていた。

「遠夜さん、そして産土神様。本当におらは此処で世話になったお陰で、寝たきりにならずにすんだ。初孫まで生まれてその顔をこの目で拝めるなんざ、ありがてぇ事この上ない」

 弥兵衛はまだ暖簾を掛けていない店の前で、前掛け姿の遠夜と相変わらず髭を撫でている産土神に向かって頭を下げる。
 その後ろでは山の主とお付きの二人が、大きな猪の姿のままで別れの時を黙って見守っていた。

 突然くるりと振り返った弥兵衛は、黒々とした山のように大きな身体の猪に向かって頭を下げる。

「それに、山の主様も。おら達をその背に乗せてもらえる事になって、本当にありがてぇ。自分の脚ならとても山を下りる事は出来ねぇところだった。ありがとうございます」

 そうして辺りがじわじわと白んできた頃、弥兵衛はお付きの猪の背にぐるぐるとしっかり紐で縛られた。
 美桜は山の主の背に乗るよう言われ、やがての如く高い背から遠夜と産土神の姿を見下ろす格好になる。

「遠夜さん、お休みを頂く事になってすみません。なるべく早く戻りますから」

 恐縮しきりの美桜に向かって、遠夜は紺色の組紐で結われた濡れ羽色の長い髪を指差して微笑む。

「こちらは気にせず、ゆっくりして来たら良い。私には美桜が一生懸命編んでくれたこの組紐があるから」

 美桜が集落に戻るのは、ひと月程度の予定だった。弥兵衛が一人でもきちんとした日常生活が送れるかどうかを見極めるのも、今回の目的の一つだったからだ。

 長く店を離れるのが名残惜しい気持ちになっているのは、既に美桜がこの場所へ骨を埋めるつもりでいるからだろう。
 それに初めて恋仲となった遠夜と離れるのは、家族と離れるのと同じくらいに寂しい。

 常に身に付けている前掛けと同じ色の組紐に想いを込め、昨晩までかかって編み上げた美桜は、今朝方になってそれを遠夜へ贈ったのである。

「はい、行って来ます。産土神様、あとはよろしくお願いいたします」
「分かった分かった。またワシは後で山を下りて様子を見に行くからのぅ」

 美桜だって遠夜と二人きりならばもっと長く別れを惜しんだかも知れないが、現実には産土神や山の主達が一緒に居るのでそうもいかず、一行は朝日が昇ってしまう前に麺処あやかし屋を出発する事が出来た。

 来た時と同じように山の主はつむじ風となって山の中を駆け抜けて行く。
 店から離れれば離れる程に、木や土の清々しい香りが一層強くなる。

「う、わあァァァァァァ……ッ!」

 美桜を乗せた山の主の後方からは、お付きの猪が背に縛り付けるようにして乗せた弥兵衛の叫び声が絶えずこだましていた。

「大袈裟な奴だ。あれ程しっかりと縛り付けているのだから、落ちるわけは無いというのに」

 途中で山の主が牙の生えた口元をニヤリと歪めてそう言う。

「おととさん、大丈夫でしょうか……」
「落ちた時には拾いに戻ってやる」
「そんな……」
「ふふ……嘘だ。落ちないように運んでやっているから、美桜は心配せずとも良い」

 それでも美桜は心配そうに後ろを確かめ、自らも山の主に振り落とされないようにと、しっかり手に力を入れて硬い毛並みに掴まるのだった。

 やがて木々ばかりの景色から抜け出すと、見慣れた田畑や家々が美桜を出迎える。

「ほぅら美桜、もう着いたぞ」

 山の主の言葉通り、美桜は久方ぶりに庄屋の屋敷へと戻って来たのだった。
 屋敷には美桜達が戻る事を伝えてはいたものの、時間までは予測が付かなかったので勿論出迎えは無い。

「ありがとうございます」

 美桜はそろそろと山の主の背から降り、失神寸前の弥兵衛を猪の背から降ろすのを手伝った。

 懐かしい門構えの周囲に見える風景はこの場所を離れた時とはすっかり変わっており、確実に季節が巡った事を知らせてくる。
 寒さで葉を無くしていた木々は青々とし、蝉の鳴き声が遠慮無しに鼓膜を揺らすのだ。

「山の主様、そしてお二人とも、本当にありがとうございました」

 美桜と弥兵衛は山の主と猪達に揃ってぺこりと頭を下げ、またひと月後に会う事を約束した。

「美桜、おらはどんな顔して百合と椿に会えばいい?
 今更だけども、えらく恐ろしくなって来たなぁ」
「どうして恐ろしいの? おととさんは私の為に山を登ってくれたのだから、何も引け目を感じる事は無いわ。百合姉さんも椿姉さんも、おととさんに会いたいはずよ」
「そうかなぁ。おらが居なくなって、お前や椿を受け入れてくれた庄屋さんにも謝んなきゃなぁ」

 門をくぐる前に怖気付く弥兵衛を相手に話をしていると、懐かしい声が二人の背中にかけられた。

「え……もしかして、おととさん? それに……美桜?」

 

 

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