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44. 悪人マツの改心
しおりを挟む美桜達が門に近付くと、そう時間を置かずに重厚な門扉が鈍い音を立ててゆっくりと開く。
まだ夜明け前だというのに、扉の向こうには庄屋夫妻と百合、そしてお付きの猪が一人だけ人の姿をして待っていた。
「美桜……っ!」
こんなにも揃って出迎えをされるとは思ってもみなかった美桜は、驚きと申し訳なさで胸がいっぱいになり、動けないでいる。
その代わり真っ先に百合が美桜の元へと駆け寄り、妹の無事を確かめるかのように強く身体を抱き締めたのだった。
「ごめんなさい。こんな時間に騒ぎにしてしまって」
「何を言うの。そんな事気にしないで。怪我は無い?」
「うん。皆に助けてもらったから」
「良かった……」
百合はひとしきり美桜の無事を確かめ、喜んでから、隣で見守る遠夜や産土神達に深々と頭を下げる。
「この度は妹を助けてくださって、本当にありがとうございました。しかも元はと言えば二番目の妹椿のしでかした事。本当に申し訳ございません」
対する遠夜は慌てて百合に頭を上げるように告げ、自らの名を名乗る。
すると今度は沈痛な面持ちの庄屋が前へ進み出て、遠夜達に向かって詫びた。
「産土神様、山の主様、そして遠夜様。此度は私どもの血縁者が皆様方のお手を煩わせる事になり、申し訳ございませんでした」
何も知らず眠っていた所を突然起こされたのだろう。寝巻き姿のまま顔を真っ青にした庄屋は、同じく血色を無くした妻と共に許しを乞う。
「構わぬ。寛太郎、顔を上げよ。そうか……あのマツという老婆はお前の遠縁の者だったのぅ。とにかくここではなんだ。詳しい話は中でしようではないか。のぅ?」
そう告げた産土神は相変わらず穏やかな表情と物言いで、山の主も口元にニヤリと笑みを浮かべ「気にするな」と口にした。
最後に遠夜が頷いて見せたところで、やっと庄屋はホッと肩の力を抜き、皆を奥の座敷へと案内したのである。
百合だけは部屋で弥兵衛に見てもらっている司郎がどうやら起きたようなのでと、皆と共に同席は出来なかったのだが、心配そうな表情で美桜の背中を見送った。
奥の座敷には身体を小さく縮こませたマツが居て、山の主のお付きに睨まれながら座っている。
年老いた身体を縄で縛られ、自由がきかないようにされていた。
離れた所まで聞こえてくる程歯をガチガチと鳴らし、皺だらけの顔を青褪めさせて俯くマツを見て、美桜はつい気の毒に思ってしまう。
椿と共謀しての事とは言え、マツが自分を騙したのには、何か理由があるはずだと思ったからだ。
「これは私の遠縁の者でマツと言います。実はお恥ずかしながら度々盗みを働いていた事が分かったものですから、少し前から仕事をさせずに蔵にある座敷牢へ入れておったのです」
庄屋の意外な言葉に美桜は驚き、思わずマツの方を見やる。マツは一層身体を小さくして、ガックリと項垂れていた。
「マツ、皆様方に何があったか話してみろ。嘘をついても産土神様は騙せぬ。先程私に話した事を全て話すのだぞ。くれぐれも正直にな」
「は……はい」
庄屋に促され、項垂れたままでマツはポツリポツリと語り始める。
「私は……この屋敷で盗みを働いていた事が知られて座敷牢に入れられてからというもの、惨めな毎日を送っておりました……」
マツが言うのには、庄屋の遠縁という事で長年下女の中で大きな顔をしていたが、そのうち給金に満足出来ずに小さな盗みを度々働くようになったと。
長年盗みは明らかにならなかったが、ある時それが庄屋に知られて叱責されたのだった。
どうやら庄屋にこれまでのマツの盗みをまとめて言いつけた者が居ると知り、マツはそれを同じ頃に下女として雇われていた椿か美桜の仕業だと思っていたという。
「私は……特に美桜……さん……には厳しく当たっておりましたから……。その腹いせに、美桜さんが旦那さんに言い付けたのでは無いかと……思いました」
そこまで言い終えたマツは一気に室内が冷えたような空気を感じ取り、「ヒィッ」とか細い悲鳴を上げる。
「それで、お前は椿さんからも美桜さんが言いつけたのだと聞いたのだな?」
これまで一度も聞いた事がないような庄屋の厳しい声に、話を聞きながら胸がチクチクと痛んでいた美桜までもがびくりとしてしまう。
「は、はい……っ! つい先日、座敷牢に椿さんがおいでになって……。あの時は美桜さんが……産土神様と山へ向かう前に、これまでしてきた私の折檻の腹いせにと、旦那さんに有る事無い事吹き込んだのだと……」
「他にもあるだろう。話しなさい」
「み、美桜さんに……私がまともに食事を与えなかった事への罰として……、座敷牢へ持って来る食事が二日にいっぺんになったのだと……」
そう語る以前の美桜のように痩せ細ったマツの姿が、二日にいっぺんになった食事のせいかと思うと、美桜は以前に自分が辛かった時の事を思い出して胸が引き裂かれそうな気がした。
「マツにも話しましたが、流石に私はそんな酷い罰を与えたりはしておりません。ただマツには座敷牢で、自分のした事をしっかりと顧みて欲しかっただけなのです」
そう言って、庄屋は全ての顔をぐるりと見渡すようにしてから、続きをマツに促した。
「私は……旦那さんからその事実を聞くまで、座敷牢へ食事を運ぶ役割だった椿さんの言葉を全て鵜呑みにし、無実の美桜さんへの怒りを募らせていったのでございます……」
つまりはこれまで椿がマツの食事を勝手に減らし、再三マツに嘘を吹き込み、それを信じたマツは此度美桜への復讐を果たそうとして事を起こしたのだというのだ。
「申し訳……ございませんでした……。美桜さん」
マツが何か言葉を発する度に、座敷の温度は刻一刻と下がり続けるようだった。
どこからともなく発せられたピリピリと肌を刺すような気配が、美桜にもひしひしと感じられる。
フッと短く息を吐き出したかのような笑い声がした。黙って話を聞いていた山の主が、その顔に冷笑を浮かべて口を開く。
「人間とは、こうも色々な者が居るのだな。弥兵衛や美桜のように魂が清らかな者も居れば、この老婆のように悪質な物怪よりタチの悪い人間も居る。よくもまあ産土神は、毎日こんな人間を見ていて嫌にならないものだ」
美桜も庄屋夫妻もマツも、誰も口を聞くことが出来なかった。
山の主の腹の底から沸き立つような怒りを、その声音に感じたからだ。
「まあまあ、そう言うな。それも含めて人間というのは面白い生き物なんじゃよ」
「我には理解出来ぬ」
「カッ、カッ、カッ、カッ! お主もまだまだ若いのぅ」
髭を撫で付けながら笑う産土神のいつもと変わらない柔和な態度が、ひりついた空気感をほんの少し和らげる。
それでやっと美桜はぎゅっと萎んでしまった肺が広がり、大きく息を吸う事が出来たような気がしたのだった。
「それで、美桜。どうする?」
呼吸が落ち着いた美桜の隣で、これまでじっと黙って話を聞いていた遠夜がゆっくりと問いかける。
遠夜が途中から強い怒りを覚えていたのを美桜は痛切に感じていた。
しかし今はあくまで冷静な態度でもって美桜に問いかけてくれる遠夜に、どうにもならない愛おしさが込み上げて来る。
自分の事を自分以上に大切に思ってくれ、何かあれば自らの事のように怒ってくれる存在が有難い。
「マツさん、歳を重ねた身体に空腹は辛かったでしょう。どうかこれからは穏やかな日々を過ごしてください」
空腹の辛さというものを、美桜はよく知っている。それを、こんなにも歳を老いてから知る羽目になったマツが哀れに思えてならない。
「……っ」
マツは美桜のあまりにも意外な言葉に息を呑む。
実はいかにも反省しているという態度を示しながら、口では謝罪しながらも、心の奥底では未だに美桜をさん付けで呼ぶ事に抵抗を感じていたのだから。
「本当に……私を……許してくれるのですか?」
大嫌いな母に似ているからと、かつては美桜を毎日のようにいびり倒していたマツ。
この期に及んでも、とにかく本気で反省しているかのように謝りさえすれば何とかなるだろうと、つい先程まで高を括っていた悪人だった。
「許します。マツさん、私は貴女を許します」
美桜の言葉は他人に自分を良く見せようとする演技などではない。本心からの言葉なのだとその場の誰もが思うような慈愛に満ちた声だった。
「う……ううう……っ、う、うう……」
自分を許すと言った美桜の言葉にマツは自然と涙が溢れ、喉の奥から迫り上がってくる腹の内のどす黒い物を次々と吐き出すかのように、激しく嗚咽を漏らす。
マツはまるで幼い子どものように肩を震わせ泣きじゃくった。庄屋はそっとマツの背中を摩ってやり、それから身体を拘束していた縄を解く。
「ありがとう……ござい……ます……」
乱れた白髪頭を畳にぴったりと付け、三つ指をついたマツは長年の心の澱が流れ切ってしまったようで、本心からの礼を述べたのだった。
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