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大雨
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雨が続いていた。
季節外れの激しい雨は、二日たっても、三日たっても一向に止む気配がない。
河川が氾濫し、田植えが済んだ田んぼの表面は、あっという間に水にさらわれた。
大納言藤原邸。
京でも誉れ高い一門、左大臣家の長子は、ただいま、大納言の御位だった。
その権威は、竜が天を昇るが如くと謳われている。
その邸の北の対。
今上帝の、たった一人の同腹の妹、やんごとなき身分の御方のために、左大臣家が莫大なお金をかけて設えた建物の、離れの一室。
亡き内親王が愛したその庭も、この一週間続いている大雨で、今は大きな池となっていた。
「雨は嫌いなんだよね……」
格子を閉じ切った暗い部屋で一人、藤原紘子はつぶやいた。
部屋は、几帳ひとつ。畳一枚敷かれていない。
だだっ広い板敷の室内の真ん中に置かれた円座に、ぽつんと一人、座っている。
燈台のほの暗い灯りに反射した髪は、長い裾の先まで濡れたように艶がかかっていた。
闇夜より深い黒い瞳が、ほとばしる生命力を隠し切れずに光っていた。
安倍晴明。
稀代の陰陽師が死んだのを待っていたかのように、左大臣家は、故内親王が産んだ末の姫御子、紘子を生まれ育った紫野から、京の大納言邸へと連れ帰った。
左大臣家の期待を一身に担い、東宮妃にと望まれて、裳着の式とはなったものの、式は散々だった。
「ああ。もう思い出したくもない」
はあ。
紘子は何度目かのため息をついた。
この身に宿る特異な血は、紫野という強固な結界を出た途端、
死霊、怨霊、魑魅魍魎。
よくもまあ、まあ、来るわ来るわ。
浄化を司る「力」を消滅せんと集まりに集まった異形のもの達が、自分を食らおうと、素直にまっすぐ突撃してきた。
幼馴染の二人が、紘子の警護にいなかったら、今、こうしてのんびり座っていることも、できなかっただろう。
裳着の式の大騒動以降、振るようにあった縁談も、求婚の文も、入内のためにと用意された四十人の女房も、一人減り二人減り、帰京してわずか数ヶ月で、お付きの女房は、一人も居つかず、入内もできず、嫁にも行けず、大納言家の最も高貴な末姫は、左大臣一家の、重い、重いお荷物となっていた。
それでも、紫野に逃げ帰らなかったのは、二日とあけずに訪ねてくれた幼馴染の二人のおかげだった。
その二人も、ここ数日の大雨で、紘子の元に、来るに来れない。
「だから、雨なんて」
紘子は懐から小さな鏡を取り出した。
黒光りする鏡の表に、紘子の顔は映らない。
千里鏡と名付けられたその鏡は、紫野を出る時に、母親代わりの大齋院から贈られたものだった。
その名の通り、千里の向こうも見通せると言われて渡されたが、昔から、紘子の望むものが見えた試しがない。
鏡の中には、外の雨が、音もなく降っていた。
「相変わらず何も見えないじゃない。いつもいつも、本当に見たいものを見せないんだから」
紘子は、国宝級の御神鏡を忌々し気に睨んだ。
「おばあさまの嘘つき……ボケたんじゃないかしら」
異例とも言われる長さの斎王を勤め上げ、大齋院と号した巫女も、紘子にかかっては、形無しだった。
見たいのはたったひとり。
この世にいない母の顔。
「おばあさまの嘘つき」
紘子はもう一度つぶやいた。
部屋の隅にある毬香炉から、深い荷葉の香りが立ち上っていた。
京の南、宇治の小さな村で、奇病が発生しているとの噂が流れたのは、豪雨が止み、二週間ほどしてからのことだった。
季節外れの激しい雨は、二日たっても、三日たっても一向に止む気配がない。
河川が氾濫し、田植えが済んだ田んぼの表面は、あっという間に水にさらわれた。
大納言藤原邸。
京でも誉れ高い一門、左大臣家の長子は、ただいま、大納言の御位だった。
その権威は、竜が天を昇るが如くと謳われている。
その邸の北の対。
今上帝の、たった一人の同腹の妹、やんごとなき身分の御方のために、左大臣家が莫大なお金をかけて設えた建物の、離れの一室。
亡き内親王が愛したその庭も、この一週間続いている大雨で、今は大きな池となっていた。
「雨は嫌いなんだよね……」
格子を閉じ切った暗い部屋で一人、藤原紘子はつぶやいた。
部屋は、几帳ひとつ。畳一枚敷かれていない。
だだっ広い板敷の室内の真ん中に置かれた円座に、ぽつんと一人、座っている。
燈台のほの暗い灯りに反射した髪は、長い裾の先まで濡れたように艶がかかっていた。
闇夜より深い黒い瞳が、ほとばしる生命力を隠し切れずに光っていた。
安倍晴明。
稀代の陰陽師が死んだのを待っていたかのように、左大臣家は、故内親王が産んだ末の姫御子、紘子を生まれ育った紫野から、京の大納言邸へと連れ帰った。
左大臣家の期待を一身に担い、東宮妃にと望まれて、裳着の式とはなったものの、式は散々だった。
「ああ。もう思い出したくもない」
はあ。
紘子は何度目かのため息をついた。
この身に宿る特異な血は、紫野という強固な結界を出た途端、
死霊、怨霊、魑魅魍魎。
よくもまあ、まあ、来るわ来るわ。
浄化を司る「力」を消滅せんと集まりに集まった異形のもの達が、自分を食らおうと、素直にまっすぐ突撃してきた。
幼馴染の二人が、紘子の警護にいなかったら、今、こうしてのんびり座っていることも、できなかっただろう。
裳着の式の大騒動以降、振るようにあった縁談も、求婚の文も、入内のためにと用意された四十人の女房も、一人減り二人減り、帰京してわずか数ヶ月で、お付きの女房は、一人も居つかず、入内もできず、嫁にも行けず、大納言家の最も高貴な末姫は、左大臣一家の、重い、重いお荷物となっていた。
それでも、紫野に逃げ帰らなかったのは、二日とあけずに訪ねてくれた幼馴染の二人のおかげだった。
その二人も、ここ数日の大雨で、紘子の元に、来るに来れない。
「だから、雨なんて」
紘子は懐から小さな鏡を取り出した。
黒光りする鏡の表に、紘子の顔は映らない。
千里鏡と名付けられたその鏡は、紫野を出る時に、母親代わりの大齋院から贈られたものだった。
その名の通り、千里の向こうも見通せると言われて渡されたが、昔から、紘子の望むものが見えた試しがない。
鏡の中には、外の雨が、音もなく降っていた。
「相変わらず何も見えないじゃない。いつもいつも、本当に見たいものを見せないんだから」
紘子は、国宝級の御神鏡を忌々し気に睨んだ。
「おばあさまの嘘つき……ボケたんじゃないかしら」
異例とも言われる長さの斎王を勤め上げ、大齋院と号した巫女も、紘子にかかっては、形無しだった。
見たいのはたったひとり。
この世にいない母の顔。
「おばあさまの嘘つき」
紘子はもう一度つぶやいた。
部屋の隅にある毬香炉から、深い荷葉の香りが立ち上っていた。
京の南、宇治の小さな村で、奇病が発生しているとの噂が流れたのは、豪雨が止み、二週間ほどしてからのことだった。
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