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パリ ジョワ本店 パウル・メール
パウル・メーヌの話 ~バラチラシ~
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「だから『ミヤコ』のバラチラシスシは売り切れていたって、何度言えばいいんだよ」
電話の向こうでジョーが怒鳴っている。
ジョン・マークレー。あのにっくきニューヨーカー。
これが食べたいとなったら、それ以外、他は何も口にしない、頑固なアメリカ人。
あの頑固さと強靱な精神力が五十年前、ストリートの露天で服をアレンジして売っていた少年を、パリコレクションのトップブランドの顔にした。
「バラチラシなんて、どこに売ってんだよ」
僕は、頭をかきながら吐き捨てるように言いながら公園のベンチに腰掛けた。
最新作のスーツが汚れるかな
ちらっと頭をかすめた。
かまうもんか。
色違いの美しいスーツが、ジョーと住んでいる十六区のアパルトマンの一室にうなっている。
腹が立つのは、ジョーに対してじゃない。
それでもジョーにスシを食べさせたいとパリ中を走り回る自分に対してだ。
ジョン・マークレーと出会ったのは九歳の時だ。
母の誕生日のプレゼントを買いに、父とサントレノ通りにある店の二階に案内された時だった。
美しいものが好きな母は、身につけるものにも一切の妥協を許さず、流行をも作った。
パリにあるハイブランド店は、こぞって母を顧客リストのトップに置き、敬意を示した。
ジョワ
喜びという名のブランドは、母のお気に入りのブランドの一つで、そこのデザイナーと母とは、旧知の仲だった。
ロココ調の部屋に通され、お洒落に疎い父と二人、所在なげに待っていたあの日の午後を忘れはしない。
気難しそうな小柄なアメリカ人は、王様のように傅かれて部屋に入ってきた。
王様は、父と二、三何か話すと、マホガニーで作られた机の上に、美しい色のショールを次々と広げた。
彼はウィットの飛んだ会話と、洗練されたその姿で、まだ小さかった僕に対しても大人と同じ扱いをした。
僕は瞬く間にファッションとその王様に魅了された。
どちらかというとその王様の方に。
彼に弟子入りしようかと血迷ったこともあったが、自分の中のどこを探しても、ファッションの才能は見つからなかった。
僕は洋服を作り出すことで彼の傍にいることをあきらめ、別な方法で王様の側にいることにした。
パリ大学の法学部を首席で卒業し、弁護士資格をもって、ジョーのブランドに売り込みに言ったのは二十五の年だった。
父は反対したが、様々な面で僕を理解していた母は強く味方をしてくれた。
ジョーと公私ともにパートナーになるまで、時間はかからなかった。
それから十年。
ブランドの名前と規模と売り上げは途方もなく大きくなったが、ジョーの飢餓感はひどくなるばかりだった。
何シーズンもトラブル続きで、その原因はほとんどジョーの癇癪だった。
睡眠薬とアルコールは手放せず、ここ数日は何も食べていなかった。
数時間前、久しぶりに食べ物の話をしたと思ったら、予約ができない『ミヤコ』のバラチラシスシを食べたい。だった。
朝からショーの準備にかかりきっていたスタッフの叫び声を振り切って、『ミヤコ』の開店時間に間に合わせたというのに、僕の前、五人を残して売り切れの札が出た。
「くそ」
為す術もなく、空を見上げた。
曇り空が今にも泣き出しそうだ。
観光客が通りを楽しげに歩いて行く。
公園には人がまばらだった。
白いひげを蓄えた年寄りがのんびりとハトにえさをやっている。
向かいのベンチには、ジーンズをはいた東洋人らしい女の子が、見慣れない布に包まれた箱を取り出すところだった。
美しい布だった。
コレクションで日本に行ったときに見た「縮緬」という布によく似ている。
そうだ。日本人だったらバラチラシスシの店を知っているかもしれない。
「すみません」
僕は考える前に声をかけていた。
「日本の方ですか?」
「はい。そうです」
女の子は警戒心も見せずに、にっこりと笑った。
コレクションのモデルを何百人も見てきたが、こんなにも印象深い女の子はいなかった。
澄んだ黒い瞳と、まっすぐな絹糸のような髪。バラ色の唇は今にも咲き出しそうだ。
「パリに住んでる子?」
「いいえ。仕事で少し滞在しているだけです」
驚くほど流暢なフランス語が、笑い出しそうな唇からこぼれ落ちた。
「仕事?ずいぶん若く見える」
「これでも十六です」
女の子は、すっと背筋を伸ばした。
「なるほど。それは失礼した。パリはどこへ行きましたか」
ここに来て女の子は初めて不思議そうに大きな目を動かした。
「いや。あやしいものじゃないんです。あなたはバラチラシの店をご存じないですか」
「バラチラシ?」
「ええ。バラチラシ。スシをご存じですか?」
「ああ。お寿司のばらちらしね」
「そう。バラチラシ。僕のボスが食べたがっているんだけど、空前の日本食ブームでどこも売り切れ。
ボスはもう何日も食事をしないで仕事をしているんだ。
口にしているものと言えば、錠剤とアルコールとブラックのコーヒーだけ。
日本人だったら僕の知らないバラチラシの店を知っているかと思って声をかけたんだ」
「ごめんなさい。パリにきて、外食をしたことがないんです」
女の子は本当にすまなそうに謝った。
「いや。こちらこそ邪魔してごめん。ありがとう。仕事がうまくいくことを祈っているよ」
僕は女の子に右手を差し出しながら、バラチラシの代わりになりそうなカルパッチョの美味しい店を頭の中で探し始めた。
「あの」
女の子は立ち上がった。
ああ。モデルだ。
すぐにわかった。
ランニングシューズを履いているにもかかわらず、百八十センチは超える僕の背より少し小さい。
バランスの良い骨格と伸びた背筋は、何のことのないジーンズと白いシャツをハイブランドのそれに見せた。
「もし良かったらこちらを召し上がりませんか?」
女の子は美しい布包みを開いた。
内側が朱色の器に白い米と色とりどりの具材がのっている。
「今日たまたま同居人のために、ちらし寿司を作ったんです。生の魚とかは入ってませんし、素人の料理なんですが、代わりのお店が見つからなかった時用にお持ちになりませんか?」
「なんてラッキーなんだ」
僕は彼女の細い手に包まれた箱を受け取った。
「いくら?」
「お金なんて頂いたらあたしの師匠に怒られてしまいます」
女の子は、顔の前で手を振った。
「良かったらこのお茶も。ちらし寿司には緑茶がないと」
そう言って持っていた紙袋から白い水筒を手渡してくれた。
見知らぬ人間に、こんなにも親身になってくれる女の子に、人は好感しか持てない。
「君はモデル?」
「はい。よくわかりましたね」
「そりゃ。この時期、この通りでモデルがやることはたった一つ。セレクションを受けに来たんだね」
「はい」
「セレクションはどこをうけたの?」
彼女は、老舗のハイブランドの名前を次々挙げた。
「でも、中々受からなくて」
それはそうだろう。人形のようにシャープに歩くモデルを求める伝統的なブランドには、彼女の持つ雰囲気は合わない。
「ジョワは? 受けた」
「いいえ。あそこはショーモデルの経験が三年以上必要なので、受けられないんです」
「そうか」
僕はジョーがここ数年、高い年齢の女性に合わせたコレクションの展開をしていることを思い出した。
売り上げは上がったが、ジョーが満足していないことは明らかだった。
ジョーの魂はストリートに戻りたがっていた。
もっと自由で、ジェンダーレスなショーを。
ジョーには新しい風が必要だ。
「僕はパウル。パウル・メーヌ。君の名は?」
「朔です。水島朔」
「オーケー朔。とにかくボスの頭にブドウ糖を送り込もう。話はそれからだ。それを持ってついてきてよ」
ジョワがサントレノの一等地にあったのが幸いした。歩いて案内できるし、半信半疑でも、ついてきてくれる。
門番のチャーリーにウィンクして重たい金のドアを開けてもらう。
進行係のミシェルが僕を見つけるなり叫んだ。
「パウル。捜したのよ。モデルのセレクションはもう最終組のウォーキングよ」
「ちょうどいい。最終組にこの子もいれて」
僕は、朔の手から美しい縮緬に包まれたスシを奪いながら言った。
「あそこに並んで。すぐ始めるよ」
最終組は、今期ジョワで使うことをほぼ確定しているモデルのセレクションだ。
ショーモデル三年未満の朔では見劣りするだろうが、選択肢はなかった。
このブランドを支えているのは抜け目のない、鷹のようなスタッフ達だ。
彼らにオーケーが出なければ、仕事はあげられない。
バラチラシの代わりに独断でジョワの仕事を与えてしまったら、僕は次の日には職探しをしなければならないだろう。
例え王様の恋人であっても。
でも、これは絶対大丈夫
直感が告げていた。
ジョーに新しい扉が開くかもしれない。
僕はミシェルの横にあったテーブルに浅く腰掛けて朔を見た。
朔は最初驚いたようだったが、すぐに正面を向いた。
立ち方はジョワのショーに何年も参加しているベテランに肩を並べられている。
長身のモデルの中ではやや小柄で細い。
だが、見劣りはしない。
よし。
音楽が流れ、モデル達が歩き始めた。
いや。これは。
僕は言葉を失った。
どこからか口笛が吹かれた。
たかだか二十メートルも歩かないウォーキングに、目を奪われた。
彼女の美しさはボーダーレスだ。人間が根源的に求めている伝統的な女性性が根底にありながら性別も超える美しさ。
これだ。これが欲しかったんだ。
最後のターンで朔の顔から微笑みがこぼれた。
見ているスタッフから自然に拍手が起こった。
セレクションではほぼあり得ないことだ。
「どこから連れてきたのよ」
ミシェルが僕の腕を引いた。
「公園に天使がいたから連れてきたんだよ。手続きはまかせるよ。まずはボスにこれを届けてくる」
僕は二段飛ばしで階段を上り、ジョーのいるアトリエに向かった。
「おっとその前に」
アトリエに向かう前に軽食やコーヒーなどが飲めるラウンジに寄る。
彼女が正真正銘、モデルなのはわかったが、さすがに見ず知らずの人間が作ったものを、毒味もせずにジョーに食べさせるわけにはいかない。
手早く縮緬をほどき、木の器のふたをあける。ピンクや黄色が散らしてある美味しそうなスシが現れた。
小さなティースプーンで口にする。
「おいしい」
これならジョーも喜ぶかも。
僕は嬉しくなって、スシをもう少し多めに口に入れた。
とたんにお腹が鳴る。そういえば最後に食べ物を口にいれたのは朝のクロワッサン一つだけだった。
水筒の中のお茶を白いカップに注いだ。
緑色の美しい液体が白い湯気をたてて、とろりとこぼれ落ちる。
「これもうまいな」
「この忙しさにお前はこんなところで何をやっている!しかもバラチラシはなかったと言ったじゃないか。お前がいま持っているのはなんだ!」
おそるおそる声のした方を見ると、ドアの側でジョーが真っ赤な顔をしてこちらを睨んでいる。
「やあ。ジョー。フィナーレのドレスの仕上げをしてたんじゃないの?」
「ドレスは今さっき、布に戻したばかりだ。お前は何をしている」
「見ての通りさ」
「それはなんだ」
あれ。彼女はなんていったっけ。バラチラシじゃなくて。ああ。そうそう。チラシスシと言っていた。
「チラシスシだよ」
「売り切れたと言っていたはずだ。それなのになんでお前だけ食べてるんだ?」
「落ち着けよ」
「朝からモデルは遅刻する。昨日注文した布は届かない。ステージの打ち合わせはこれっぽっちも進んでない。どうしたら落ち着けるんだ!どうしてすぐにスシを持ってこない」
最後はほぼ怒号だった。
「バラチラシじゃないって言ってたし、素人の作った料理だからあんたのお口に合うかどうか僕が毒味をしてたんだよ。ライバル会社の誰かが君がバラチラシを食べたがっていたのを知って、僕に毒入りのチラシスシを渡したかもしれないだろ」
「バラチラシが食べたいと言ったのは今日の朝、ベッドの中でだ。お前が漏らさない限りライバル会社にリークされることはない」
そう言ってジョーは僕の手から美しいスシを奪った。
やれやれ。まあいっか。毒も入ってなさそうだ。何よりうまい。
ジョーはしばらく無言で食べると、緑色のお茶に気づいてカップに手をかけた。
「バラチラシじゃない」
空になった朱色の器を見つめながら、ジョーはぽつりと言った。
「そうだよ。チラシスシっていっただろ。えーっとなんて言ったっけ。生魚は入っていない。って言ってた」
「足りない」
「え?」
「たりない。もっと食べたい。どこの店だ? すぐに買ってこい」
「え? ジョー。ちょっ」
止める間もなくジョーが廊下の向こうのアトリエの扉の奥に消えた。
「参ったね」
明日からショーが始まるのに彼女は今からチラシスシをつくってくれるかね。
僕は、二段とばしで階段を下りた。
モデル達は、すでに帰るところだった。
白いシャツに、滝のように落ちる黒い髪が出口に向かって歩き始める姿が目に飛び込んできた。
僕は、その華奢な肩をつかんだ。
朔が、驚いたように振り向く。
「チラシスシ」
息が上がってうまくしゃべれない。
「え?」
「このスシ。もう一個つくって」
僕は空の箱を彼女に返しながら説明した。
ボスが久しぶりに残さず食事をした。
今ボスが食事を口にしなければ今度のコレクションは失敗する。
君の仕事もなくなる。
僕の最後の台詞が全ての決め手だった。
「作るのはできますが、材料がないし、キッチンのあるところに帰らなければ」
「どこに泊まってるの?」
彼女が言った住所は、ここからちょっと離れていた。
「僕らのアパルトマンの方が近いから、キッチンを貸すよ。そこでもう一回このチラシスシを作ってください。もちろん材料はこちらで準備する。買い物は? どこに行けばいい?」
彼女はにっこり笑って「リトルトーキョー」と言った。
電話の向こうでジョーが怒鳴っている。
ジョン・マークレー。あのにっくきニューヨーカー。
これが食べたいとなったら、それ以外、他は何も口にしない、頑固なアメリカ人。
あの頑固さと強靱な精神力が五十年前、ストリートの露天で服をアレンジして売っていた少年を、パリコレクションのトップブランドの顔にした。
「バラチラシなんて、どこに売ってんだよ」
僕は、頭をかきながら吐き捨てるように言いながら公園のベンチに腰掛けた。
最新作のスーツが汚れるかな
ちらっと頭をかすめた。
かまうもんか。
色違いの美しいスーツが、ジョーと住んでいる十六区のアパルトマンの一室にうなっている。
腹が立つのは、ジョーに対してじゃない。
それでもジョーにスシを食べさせたいとパリ中を走り回る自分に対してだ。
ジョン・マークレーと出会ったのは九歳の時だ。
母の誕生日のプレゼントを買いに、父とサントレノ通りにある店の二階に案内された時だった。
美しいものが好きな母は、身につけるものにも一切の妥協を許さず、流行をも作った。
パリにあるハイブランド店は、こぞって母を顧客リストのトップに置き、敬意を示した。
ジョワ
喜びという名のブランドは、母のお気に入りのブランドの一つで、そこのデザイナーと母とは、旧知の仲だった。
ロココ調の部屋に通され、お洒落に疎い父と二人、所在なげに待っていたあの日の午後を忘れはしない。
気難しそうな小柄なアメリカ人は、王様のように傅かれて部屋に入ってきた。
王様は、父と二、三何か話すと、マホガニーで作られた机の上に、美しい色のショールを次々と広げた。
彼はウィットの飛んだ会話と、洗練されたその姿で、まだ小さかった僕に対しても大人と同じ扱いをした。
僕は瞬く間にファッションとその王様に魅了された。
どちらかというとその王様の方に。
彼に弟子入りしようかと血迷ったこともあったが、自分の中のどこを探しても、ファッションの才能は見つからなかった。
僕は洋服を作り出すことで彼の傍にいることをあきらめ、別な方法で王様の側にいることにした。
パリ大学の法学部を首席で卒業し、弁護士資格をもって、ジョーのブランドに売り込みに言ったのは二十五の年だった。
父は反対したが、様々な面で僕を理解していた母は強く味方をしてくれた。
ジョーと公私ともにパートナーになるまで、時間はかからなかった。
それから十年。
ブランドの名前と規模と売り上げは途方もなく大きくなったが、ジョーの飢餓感はひどくなるばかりだった。
何シーズンもトラブル続きで、その原因はほとんどジョーの癇癪だった。
睡眠薬とアルコールは手放せず、ここ数日は何も食べていなかった。
数時間前、久しぶりに食べ物の話をしたと思ったら、予約ができない『ミヤコ』のバラチラシスシを食べたい。だった。
朝からショーの準備にかかりきっていたスタッフの叫び声を振り切って、『ミヤコ』の開店時間に間に合わせたというのに、僕の前、五人を残して売り切れの札が出た。
「くそ」
為す術もなく、空を見上げた。
曇り空が今にも泣き出しそうだ。
観光客が通りを楽しげに歩いて行く。
公園には人がまばらだった。
白いひげを蓄えた年寄りがのんびりとハトにえさをやっている。
向かいのベンチには、ジーンズをはいた東洋人らしい女の子が、見慣れない布に包まれた箱を取り出すところだった。
美しい布だった。
コレクションで日本に行ったときに見た「縮緬」という布によく似ている。
そうだ。日本人だったらバラチラシスシの店を知っているかもしれない。
「すみません」
僕は考える前に声をかけていた。
「日本の方ですか?」
「はい。そうです」
女の子は警戒心も見せずに、にっこりと笑った。
コレクションのモデルを何百人も見てきたが、こんなにも印象深い女の子はいなかった。
澄んだ黒い瞳と、まっすぐな絹糸のような髪。バラ色の唇は今にも咲き出しそうだ。
「パリに住んでる子?」
「いいえ。仕事で少し滞在しているだけです」
驚くほど流暢なフランス語が、笑い出しそうな唇からこぼれ落ちた。
「仕事?ずいぶん若く見える」
「これでも十六です」
女の子は、すっと背筋を伸ばした。
「なるほど。それは失礼した。パリはどこへ行きましたか」
ここに来て女の子は初めて不思議そうに大きな目を動かした。
「いや。あやしいものじゃないんです。あなたはバラチラシの店をご存じないですか」
「バラチラシ?」
「ええ。バラチラシ。スシをご存じですか?」
「ああ。お寿司のばらちらしね」
「そう。バラチラシ。僕のボスが食べたがっているんだけど、空前の日本食ブームでどこも売り切れ。
ボスはもう何日も食事をしないで仕事をしているんだ。
口にしているものと言えば、錠剤とアルコールとブラックのコーヒーだけ。
日本人だったら僕の知らないバラチラシの店を知っているかと思って声をかけたんだ」
「ごめんなさい。パリにきて、外食をしたことがないんです」
女の子は本当にすまなそうに謝った。
「いや。こちらこそ邪魔してごめん。ありがとう。仕事がうまくいくことを祈っているよ」
僕は女の子に右手を差し出しながら、バラチラシの代わりになりそうなカルパッチョの美味しい店を頭の中で探し始めた。
「あの」
女の子は立ち上がった。
ああ。モデルだ。
すぐにわかった。
ランニングシューズを履いているにもかかわらず、百八十センチは超える僕の背より少し小さい。
バランスの良い骨格と伸びた背筋は、何のことのないジーンズと白いシャツをハイブランドのそれに見せた。
「もし良かったらこちらを召し上がりませんか?」
女の子は美しい布包みを開いた。
内側が朱色の器に白い米と色とりどりの具材がのっている。
「今日たまたま同居人のために、ちらし寿司を作ったんです。生の魚とかは入ってませんし、素人の料理なんですが、代わりのお店が見つからなかった時用にお持ちになりませんか?」
「なんてラッキーなんだ」
僕は彼女の細い手に包まれた箱を受け取った。
「いくら?」
「お金なんて頂いたらあたしの師匠に怒られてしまいます」
女の子は、顔の前で手を振った。
「良かったらこのお茶も。ちらし寿司には緑茶がないと」
そう言って持っていた紙袋から白い水筒を手渡してくれた。
見知らぬ人間に、こんなにも親身になってくれる女の子に、人は好感しか持てない。
「君はモデル?」
「はい。よくわかりましたね」
「そりゃ。この時期、この通りでモデルがやることはたった一つ。セレクションを受けに来たんだね」
「はい」
「セレクションはどこをうけたの?」
彼女は、老舗のハイブランドの名前を次々挙げた。
「でも、中々受からなくて」
それはそうだろう。人形のようにシャープに歩くモデルを求める伝統的なブランドには、彼女の持つ雰囲気は合わない。
「ジョワは? 受けた」
「いいえ。あそこはショーモデルの経験が三年以上必要なので、受けられないんです」
「そうか」
僕はジョーがここ数年、高い年齢の女性に合わせたコレクションの展開をしていることを思い出した。
売り上げは上がったが、ジョーが満足していないことは明らかだった。
ジョーの魂はストリートに戻りたがっていた。
もっと自由で、ジェンダーレスなショーを。
ジョーには新しい風が必要だ。
「僕はパウル。パウル・メーヌ。君の名は?」
「朔です。水島朔」
「オーケー朔。とにかくボスの頭にブドウ糖を送り込もう。話はそれからだ。それを持ってついてきてよ」
ジョワがサントレノの一等地にあったのが幸いした。歩いて案内できるし、半信半疑でも、ついてきてくれる。
門番のチャーリーにウィンクして重たい金のドアを開けてもらう。
進行係のミシェルが僕を見つけるなり叫んだ。
「パウル。捜したのよ。モデルのセレクションはもう最終組のウォーキングよ」
「ちょうどいい。最終組にこの子もいれて」
僕は、朔の手から美しい縮緬に包まれたスシを奪いながら言った。
「あそこに並んで。すぐ始めるよ」
最終組は、今期ジョワで使うことをほぼ確定しているモデルのセレクションだ。
ショーモデル三年未満の朔では見劣りするだろうが、選択肢はなかった。
このブランドを支えているのは抜け目のない、鷹のようなスタッフ達だ。
彼らにオーケーが出なければ、仕事はあげられない。
バラチラシの代わりに独断でジョワの仕事を与えてしまったら、僕は次の日には職探しをしなければならないだろう。
例え王様の恋人であっても。
でも、これは絶対大丈夫
直感が告げていた。
ジョーに新しい扉が開くかもしれない。
僕はミシェルの横にあったテーブルに浅く腰掛けて朔を見た。
朔は最初驚いたようだったが、すぐに正面を向いた。
立ち方はジョワのショーに何年も参加しているベテランに肩を並べられている。
長身のモデルの中ではやや小柄で細い。
だが、見劣りはしない。
よし。
音楽が流れ、モデル達が歩き始めた。
いや。これは。
僕は言葉を失った。
どこからか口笛が吹かれた。
たかだか二十メートルも歩かないウォーキングに、目を奪われた。
彼女の美しさはボーダーレスだ。人間が根源的に求めている伝統的な女性性が根底にありながら性別も超える美しさ。
これだ。これが欲しかったんだ。
最後のターンで朔の顔から微笑みがこぼれた。
見ているスタッフから自然に拍手が起こった。
セレクションではほぼあり得ないことだ。
「どこから連れてきたのよ」
ミシェルが僕の腕を引いた。
「公園に天使がいたから連れてきたんだよ。手続きはまかせるよ。まずはボスにこれを届けてくる」
僕は二段飛ばしで階段を上り、ジョーのいるアトリエに向かった。
「おっとその前に」
アトリエに向かう前に軽食やコーヒーなどが飲めるラウンジに寄る。
彼女が正真正銘、モデルなのはわかったが、さすがに見ず知らずの人間が作ったものを、毒味もせずにジョーに食べさせるわけにはいかない。
手早く縮緬をほどき、木の器のふたをあける。ピンクや黄色が散らしてある美味しそうなスシが現れた。
小さなティースプーンで口にする。
「おいしい」
これならジョーも喜ぶかも。
僕は嬉しくなって、スシをもう少し多めに口に入れた。
とたんにお腹が鳴る。そういえば最後に食べ物を口にいれたのは朝のクロワッサン一つだけだった。
水筒の中のお茶を白いカップに注いだ。
緑色の美しい液体が白い湯気をたてて、とろりとこぼれ落ちる。
「これもうまいな」
「この忙しさにお前はこんなところで何をやっている!しかもバラチラシはなかったと言ったじゃないか。お前がいま持っているのはなんだ!」
おそるおそる声のした方を見ると、ドアの側でジョーが真っ赤な顔をしてこちらを睨んでいる。
「やあ。ジョー。フィナーレのドレスの仕上げをしてたんじゃないの?」
「ドレスは今さっき、布に戻したばかりだ。お前は何をしている」
「見ての通りさ」
「それはなんだ」
あれ。彼女はなんていったっけ。バラチラシじゃなくて。ああ。そうそう。チラシスシと言っていた。
「チラシスシだよ」
「売り切れたと言っていたはずだ。それなのになんでお前だけ食べてるんだ?」
「落ち着けよ」
「朝からモデルは遅刻する。昨日注文した布は届かない。ステージの打ち合わせはこれっぽっちも進んでない。どうしたら落ち着けるんだ!どうしてすぐにスシを持ってこない」
最後はほぼ怒号だった。
「バラチラシじゃないって言ってたし、素人の作った料理だからあんたのお口に合うかどうか僕が毒味をしてたんだよ。ライバル会社の誰かが君がバラチラシを食べたがっていたのを知って、僕に毒入りのチラシスシを渡したかもしれないだろ」
「バラチラシが食べたいと言ったのは今日の朝、ベッドの中でだ。お前が漏らさない限りライバル会社にリークされることはない」
そう言ってジョーは僕の手から美しいスシを奪った。
やれやれ。まあいっか。毒も入ってなさそうだ。何よりうまい。
ジョーはしばらく無言で食べると、緑色のお茶に気づいてカップに手をかけた。
「バラチラシじゃない」
空になった朱色の器を見つめながら、ジョーはぽつりと言った。
「そうだよ。チラシスシっていっただろ。えーっとなんて言ったっけ。生魚は入っていない。って言ってた」
「足りない」
「え?」
「たりない。もっと食べたい。どこの店だ? すぐに買ってこい」
「え? ジョー。ちょっ」
止める間もなくジョーが廊下の向こうのアトリエの扉の奥に消えた。
「参ったね」
明日からショーが始まるのに彼女は今からチラシスシをつくってくれるかね。
僕は、二段とばしで階段を下りた。
モデル達は、すでに帰るところだった。
白いシャツに、滝のように落ちる黒い髪が出口に向かって歩き始める姿が目に飛び込んできた。
僕は、その華奢な肩をつかんだ。
朔が、驚いたように振り向く。
「チラシスシ」
息が上がってうまくしゃべれない。
「え?」
「このスシ。もう一個つくって」
僕は空の箱を彼女に返しながら説明した。
ボスが久しぶりに残さず食事をした。
今ボスが食事を口にしなければ今度のコレクションは失敗する。
君の仕事もなくなる。
僕の最後の台詞が全ての決め手だった。
「作るのはできますが、材料がないし、キッチンのあるところに帰らなければ」
「どこに泊まってるの?」
彼女が言った住所は、ここからちょっと離れていた。
「僕らのアパルトマンの方が近いから、キッチンを貸すよ。そこでもう一回このチラシスシを作ってください。もちろん材料はこちらで準備する。買い物は? どこに行けばいい?」
彼女はにっこり笑って「リトルトーキョー」と言った。
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編端みどり
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隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
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