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第1話 僕は妹を愛しているけれど妹は僕にだけ冷たい。
しおりを挟む「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!! コハクの膝に、僕の大切な妹の膝に傷がついてるううううううううううううう!!」
などと、夕暮れ時のそこそこ人の行き交う広場であるにもかかわらず恥も衒いもなく叫ぶ少年がいる。傷といってもちょっと石か何かで切った程度で、すでに血は止まっており、喧伝するかのように大声を上げる必要など絶対にない、皆無であるにもかかわらず、妹が四肢の一つでも失ってしまったかのごとく絶望する、そんな十六歳男子がいる。
それこそまさに僕であると、僕は胸を張って言おう。
こんなに力強く妹を心配する人間なんて僕以外存在しないし、この心配は僕がそれだけコハクを愛しているという証拠だ。
例え血のつながりはなくてもな。
うんうん。
「お兄ちゃん、うるさいの。コハクの傷がまた開いちゃうの。次大声出したら二度と口きかないの」
「はい、すいません」
「え? なんて言ったの? コハクには聞こえなかったの。もっと広場に響くくらい大声出してほしいの」
大声出したら口きいてくれないのに!?
僕はどうしたらいいんだ!
僕と同じく孤児である九歳のコハクが腹を空かせて道ばたに倒れているのを見つけたのはもう二年も前の話で、孤児同士支え合って――兄妹として――生きていこうと毎日を過ごしてきたけれど、未だにコハクは警戒しているのか僕には冷たい。
僕にだけ冷たい。
「どうして僕にだけ冷たいんでしょう。不思議だ」
「ヒーロー君がしつこいからってのもあると、あーしは思うけどねえ」
しつこいって言われた。シズクさんにしつこいって……。
コハクのそばで今日も羽織に袖を通さず肩にかけ、その下からなまっちろい腕を出して組んでいるシズクさんは、二十代前半、女性、髪は短いけれど、どうやって手入れしているのか絹みたいに綺麗で、顔を縁取るようにくるりと内側に巻いている。
あーしあーしと言っているけれどそれは母音を無駄にのばす独特の発音が原因で、本当はあたしと言っているはずだし、僕の名前だってヒーローじゃない。
正しくはヒイロだ。
シズクさんは僕と同じくこの島の貧しい地域に住んでいて、僕が働いている間、愛するコハクの面倒を見てくれている。女性一人暮らし、住まいの近くにいる子供たちに読み書き計算を教えてわずかなお金をもらっているようだけれど、それ以外の時間は日がな一日ぼーっとして生きている。着ているものは僕のものよりずっといい。数年の付き合いだけれどよくわからない人だった。
そんなシズクさんはニヤニヤと笑いながら、
「黒いコハっちゃんだねえ。虎白ならぬ虎黒だね。コハっちゃんはヒーロー君よりあーしの方に懐いてるんじゃないかと時々思うんだよねえ」
「そんなこと……ありません」
「ほんとかなあ。コハっちゃん、コハっちゃん。手ー出して。はい、握手」
コハクはシズクさんの手を握り返し、すぐに離して傷口を乾かす作業に戻る。
「コハク、コハク、僕も」
僕はコハクの前にしゃがみこんで手を出したけれど、コハクはちらとも見ずに、
「今傷を乾かすのに忙しいの。お兄ちゃんはウジ虫とでも握手していればいいの」
僕が何をしたって言うんだ。
半ば絶望していると、突然、コハクは「ひっ」と小さく悲鳴を上げて立ち上がり膝の傷も忘れて僕の陰に隠れ、それを見下ろした。
僕もそいつを見る。
片手で投げるにはちょうどいい大きさの子犬が、官能小説の新刊を手に入れたばかりのシズクさんみたいにかはかはと荒く呼吸をしてそこに陣取っていた。
コハクは犬嫌いだからな。
「ワンちゃんなんて怖くないの。一匹見つけたら一万匹はいると思えってシズクお姉ちゃんが言うから隠れてるだけなの」
「そんな繁殖力があったら魔動歩兵より危険な存在だねえ。世界がワンちゃんに包まれてしまうよお。毛玉まみれだあ」
シズクさんは言って笑う。
絶対毛玉どころじゃないけど。
「かかってくるならくればいいの。コハクは膝を負傷してても戦えるの。『九の字』みたいに! 『九の字』みたいに!!」
最近コハクが憧れている英雄守護官の肩書きを口にしながら、コハクはますます僕の後ろに隠れていく。
子犬は相変わらず、馬鹿にするように、挑発するように舌を出してその場で鞭のごとく尻尾を振っていたけれど、突然、昨日魚だと思って食べたのは本当は野菜だったんじゃねえか、と今更気づいたみたいに短く吠えた。
きゃおん!
「ひっ」
ウジ虫と握手でもしてろと僕に冷たく言っていたはずのコハクが僕の手を両手で握りしめる。
「怖くないの! コハクは一人で、一人で戦え――」
きゃおん!
「ううう、お兄ちゃあぁああああああああん! 追い払ってほしいのぉ!」
コハクは今日も敗北した。
連戦連敗、無勝記録を積み重ねている。
コハクはもう手だけじゃなくて僕の体にすがりつくようにしていたので、僕は自由になった手で何かを隠しているフリをして子犬に見せたあと、それを遠くへ投げる仕草をする。
とってこーい。
子犬は追いかけるように走って行った。
馬鹿め。
一生虚無を追いかけ続けるがいい。
子犬がいなくなったのを確認したあともしばらくコハクは僕にしがみついていて、それを微笑みながら見ていたシズクさんは、
「災難だねえ、コハっちゃん。一日に二度も野良ワンちゃんに絡まれるなんて」
「二度目なんですか?」
「そうだよお。一度目で驚いて転んじゃって膝をすりむいたんだから」
「やっぱり虚無を投げるんじゃなくてあの子犬を投げるんだった」
「ワンちゃんを投げちゃダメだよお。それに一回目は違うワンちゃんだったから、それをやったらただの八つ当たりだよお」
「じゃあ、次コハクを傷つけようとしたら容赦しないことにします! 僕は愛するコハクを必ず守る!!」
右手を強く握りしめて宣言すると、コハクが僕の背中にしがみついたまま、
「あ、大声出したの。もう二度と口きかないの」
それまだ続いてたの!?
救ったのに!!
子犬から救ったのに!!
「コ、コハク……嘘だよね?」
「…………」
「コハクさん!?」
「…………」
「……ちょっとこの刀で死んできます。後は頼みます」
「死んじゃだめだよお」
シズクさんは呆れて言うと僕の腰にぶら下がる刀をみて、
「……というか、気になってたんだけど、その刀、どうしたのかなあ? 盗んできたのかなあ?」
「んなわけないでしょう。いや実は……はあああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………………………………………」
と僕は長く深く溜息をついて、今日の昼、僕の働いている鍛冶場であったことを思いだしつつ、痛む右肩をぐるぐると回した。
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