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第6話 コハクが単眼鏡を覗いて、黄色と赤の悲鳴が上がる
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シズクさんは人混みが和らいだ場所でいつの間にか買っていた川魚の串焼きをかじっていた。よく漂流されながら買えたな。手品師ですか、あなた。
「あー人間嫌いだよお。どうして人は争うのー? 場所を奪い合って人を押しのけて。分け合えば余るのに」
「突然道徳的にならないでください。あと串焼きください」
「これはあーしのだよ」
分け合えよ。争いたいのか。
「もう川まで行かなくてもここでいいよねえ。どうせここからでも見えるよお。坂の上だしさあ。ほらこんなものを用意したんだ」
言ってシズクさんが取り出したのは単眼鏡だった。カチカチと引き延ばして片目をつぶり、「んー」と言いながら遠くを眺める。
「あ、下着見えた」
「……どうしてそんな高価そうなものを持ってるんです?」
「んー、まああれだよ。昔盗った杵柄、みたいな?」
「昔盗んだものの話じゃなかった気がするんですけどそれ。というか盗んだんですね?」
「違う違う、ええと、借りパク? いや借りただけだよお。いつか返すよお、うん」
だれから盗んだんだろう。この単眼鏡、守護官が持ってるのを見たことがあるんだよなあ。
ヤバいよなあ。
と言うかさっき「どうして人は争うの?」だの、「分け合えば余る」だのと道徳的なことを言ってたのに、自分は倫理の境界線をるんるんで跳び超えているのがヤバかった。
「シズクお姉ちゃん、人から物を盗んじゃダメなの」
コハクにすら言われてる。
「ヒーロー君もコハっちゃんも勘違いしてるみたいだから言うけどねえ、あーしはこれを借りたんだよ? ちゃんと持ち主から貸してあげるって言われて、わーいって借りたの。盗んだんじゃないんだよお。手渡し、手渡し」
「でも、返してないんでしょ」
「シズクお姉ちゃん、悪い子なの」
僕とコハクが言うと、シズクさんは嘘泣きを開始する。
「忘れてたんだよお。責めないでよお。泣くよお、ふええ」
「お兄ちゃんが、泣かせたの」
と、コハクが僕の耳を引っ張った。
え! 僕だけ!?
コハクも責めたよね!?
「泣かないで、シズクお姉ちゃん」
コハクがシズクさんの頭をなでてあげる。
「コハっちゃんは優しいねえ。ヒーロー君とは大違いだ」
みんなが僕のことをいじめるんだ!!
とかなんとかしている内に九の字の来訪を知らせるざわめきが遠くから聞こえてくる。
渡し船の五倍くらい大きな船が産卵を間近に控えた魚のように竜の川を上ってくる。甲板には守護官たちが乗っていて、中でもお調子者らしい若い女性が両手を大きく振っているのが肉眼でも見えた。
山なりの橋の下を通り抜けるには船の高さがギリギリらしく、その瞬間だけ甲板に立った守護官たちはしゃがみこんでいたけれど、お調子者の女性は間に合わず、頭をぶつけていた。笑い声が上がる。
「シズクお姉ちゃん貸してほしいの!」
コハクは近くにあった安定した岩の上に乗ると、シズクさんから単眼鏡を受け取り、使い方を教えてもらいながらのぞき込んでいる。
「九の字はどこなの?」
「船の先にいるよお。銀の髪に黒い鎧を着てるからすぐわかるはず。ほらこっちだよコハっちゃん」
「あ! 見えたの! 綺麗な人! お兄ちゃんも見るの!」
コハクが単眼鏡を僕の顔に押しつけてくる。わかったわかった。
見ると確かに船の先頭に九の字らしき女性がいる。肩までの銀の髪は波打っている。黒い鎧と守護官の証である金属の腕輪。胸には九の文字。袴のような白い布が腰から下がっていて、鎧姿なのに彼女をより魅力的に見せている。
コハクの方が美人だけどな!
「返してえ。もっと見たいの!」
単眼鏡を返してやるとコハクは「わあ」と感嘆の声をあげて、シズクさんに尋ねた。
「あの船どうやって動いてるの? 誰か漕いでるの?」
「水棲馬が引いてるんだよお。頭は馬だけど足にヒレがついてる獣。馬車を引くみたいに何頭も船の前にいるはずだけど、あんなに大きいと何頭必要なのかわからないねえ。中央まで引いていくなんてお馬さん大変だねえ」
持ち前の知識でシズクさんは答える。最近授業を受けていなかったからこの人ただの官能小説好きだと思っていたけれど、本当は色々知ってるんだよな。
コハクはシズクさんの説明を聞きながらきゃあきゃあ黄色い声を上げ、周囲の人も同じく、九の字を――英雄を見に来た子供も大人も、手を振ってはしゃいでいる。
黄色い悲鳴。
それが遙か後ろからも聞こえていたことに、僕は気づいていなかった。
その色が黄色ではなく赤だったことにも。
『主人様!』
耳鳴りがするほど叫ばれて僕は顔をしかめる。
『先ほど主人様がすれ違ったのは本当に魔眼の女性だったのかもしれません! 今すぐここから逃げないと!』
何、突然……。
『魔動歩兵が近くにいます!』
待て、
この島は安全だ。
小竜の墓があって竜の血が際限なく流れてるってシズクさんが言ってた。
地面の赤土は竜の血が染みこんだ証だって。
魔動歩兵が踏めば、ドロドロに溶けてしまうって。
だから、百年以上、魔動歩兵の侵入を許してない。
あり得ない。
『いいから、主人様! 逃げてください!』
僕はあたりを見回した。魔動歩兵なんて近くにいるはずが……
高い警笛音が鳴る。空に赤い信号弾が打ち上がる。
船を見ていたはずの人々が空を見上げた。
全てがゆっくりと緩慢になって、あの日のことを思い出す。
全ての始まり。
村が襲われた春の日。
ネイロの声が聞こえる。
『あの日のことを思い出すよね、おにい。ネイロは十一、おにいは十二歳。村に上がった信号弾は真っ赤で、でも助けが来るには遅すぎた。あっという間に五体の魔動歩兵に襲われて、お父さんもお母さんも殺されて、そして、おにいはネイロを見殺しにした』
全身に鳥肌が立つのを感じる。背筋が凍って、なのに、心臓がバクバク音を立てて汗が流れ出している。ネイロはクスクスと笑って、言った。
『おにい。無力なおにいは誰も助けられないよ。今度はコハクちゃんを置き去りに――見殺しにするんでしょ?』
「あー人間嫌いだよお。どうして人は争うのー? 場所を奪い合って人を押しのけて。分け合えば余るのに」
「突然道徳的にならないでください。あと串焼きください」
「これはあーしのだよ」
分け合えよ。争いたいのか。
「もう川まで行かなくてもここでいいよねえ。どうせここからでも見えるよお。坂の上だしさあ。ほらこんなものを用意したんだ」
言ってシズクさんが取り出したのは単眼鏡だった。カチカチと引き延ばして片目をつぶり、「んー」と言いながら遠くを眺める。
「あ、下着見えた」
「……どうしてそんな高価そうなものを持ってるんです?」
「んー、まああれだよ。昔盗った杵柄、みたいな?」
「昔盗んだものの話じゃなかった気がするんですけどそれ。というか盗んだんですね?」
「違う違う、ええと、借りパク? いや借りただけだよお。いつか返すよお、うん」
だれから盗んだんだろう。この単眼鏡、守護官が持ってるのを見たことがあるんだよなあ。
ヤバいよなあ。
と言うかさっき「どうして人は争うの?」だの、「分け合えば余る」だのと道徳的なことを言ってたのに、自分は倫理の境界線をるんるんで跳び超えているのがヤバかった。
「シズクお姉ちゃん、人から物を盗んじゃダメなの」
コハクにすら言われてる。
「ヒーロー君もコハっちゃんも勘違いしてるみたいだから言うけどねえ、あーしはこれを借りたんだよ? ちゃんと持ち主から貸してあげるって言われて、わーいって借りたの。盗んだんじゃないんだよお。手渡し、手渡し」
「でも、返してないんでしょ」
「シズクお姉ちゃん、悪い子なの」
僕とコハクが言うと、シズクさんは嘘泣きを開始する。
「忘れてたんだよお。責めないでよお。泣くよお、ふええ」
「お兄ちゃんが、泣かせたの」
と、コハクが僕の耳を引っ張った。
え! 僕だけ!?
コハクも責めたよね!?
「泣かないで、シズクお姉ちゃん」
コハクがシズクさんの頭をなでてあげる。
「コハっちゃんは優しいねえ。ヒーロー君とは大違いだ」
みんなが僕のことをいじめるんだ!!
とかなんとかしている内に九の字の来訪を知らせるざわめきが遠くから聞こえてくる。
渡し船の五倍くらい大きな船が産卵を間近に控えた魚のように竜の川を上ってくる。甲板には守護官たちが乗っていて、中でもお調子者らしい若い女性が両手を大きく振っているのが肉眼でも見えた。
山なりの橋の下を通り抜けるには船の高さがギリギリらしく、その瞬間だけ甲板に立った守護官たちはしゃがみこんでいたけれど、お調子者の女性は間に合わず、頭をぶつけていた。笑い声が上がる。
「シズクお姉ちゃん貸してほしいの!」
コハクは近くにあった安定した岩の上に乗ると、シズクさんから単眼鏡を受け取り、使い方を教えてもらいながらのぞき込んでいる。
「九の字はどこなの?」
「船の先にいるよお。銀の髪に黒い鎧を着てるからすぐわかるはず。ほらこっちだよコハっちゃん」
「あ! 見えたの! 綺麗な人! お兄ちゃんも見るの!」
コハクが単眼鏡を僕の顔に押しつけてくる。わかったわかった。
見ると確かに船の先頭に九の字らしき女性がいる。肩までの銀の髪は波打っている。黒い鎧と守護官の証である金属の腕輪。胸には九の文字。袴のような白い布が腰から下がっていて、鎧姿なのに彼女をより魅力的に見せている。
コハクの方が美人だけどな!
「返してえ。もっと見たいの!」
単眼鏡を返してやるとコハクは「わあ」と感嘆の声をあげて、シズクさんに尋ねた。
「あの船どうやって動いてるの? 誰か漕いでるの?」
「水棲馬が引いてるんだよお。頭は馬だけど足にヒレがついてる獣。馬車を引くみたいに何頭も船の前にいるはずだけど、あんなに大きいと何頭必要なのかわからないねえ。中央まで引いていくなんてお馬さん大変だねえ」
持ち前の知識でシズクさんは答える。最近授業を受けていなかったからこの人ただの官能小説好きだと思っていたけれど、本当は色々知ってるんだよな。
コハクはシズクさんの説明を聞きながらきゃあきゃあ黄色い声を上げ、周囲の人も同じく、九の字を――英雄を見に来た子供も大人も、手を振ってはしゃいでいる。
黄色い悲鳴。
それが遙か後ろからも聞こえていたことに、僕は気づいていなかった。
その色が黄色ではなく赤だったことにも。
『主人様!』
耳鳴りがするほど叫ばれて僕は顔をしかめる。
『先ほど主人様がすれ違ったのは本当に魔眼の女性だったのかもしれません! 今すぐここから逃げないと!』
何、突然……。
『魔動歩兵が近くにいます!』
待て、
この島は安全だ。
小竜の墓があって竜の血が際限なく流れてるってシズクさんが言ってた。
地面の赤土は竜の血が染みこんだ証だって。
魔動歩兵が踏めば、ドロドロに溶けてしまうって。
だから、百年以上、魔動歩兵の侵入を許してない。
あり得ない。
『いいから、主人様! 逃げてください!』
僕はあたりを見回した。魔動歩兵なんて近くにいるはずが……
高い警笛音が鳴る。空に赤い信号弾が打ち上がる。
船を見ていたはずの人々が空を見上げた。
全てがゆっくりと緩慢になって、あの日のことを思い出す。
全ての始まり。
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ネイロの声が聞こえる。
『あの日のことを思い出すよね、おにい。ネイロは十一、おにいは十二歳。村に上がった信号弾は真っ赤で、でも助けが来るには遅すぎた。あっという間に五体の魔動歩兵に襲われて、お父さんもお母さんも殺されて、そして、おにいはネイロを見殺しにした』
全身に鳥肌が立つのを感じる。背筋が凍って、なのに、心臓がバクバク音を立てて汗が流れ出している。ネイロはクスクスと笑って、言った。
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