春になるまで、名前のないままで

藍原みらい

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第1話 春のはじまりは、名前の前で

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駅の改札を抜けたところで、少しだけ足を止めた。
 人の流れが思ったより多くて、胸の奥がきゅっと縮む。今日は大学の入学式。分かっていたはずなのに、いざその場に立つと、世界が急に広くなった気がした。

 空はよく晴れている。雲は薄くて、光がやわらかい。四月の朝の匂いがする――そんなふうに思った瞬間、自分でも少し笑ってしまった。匂いなんて、よく分からないくせに。

 改札を出て、校門へ向かう道に足を向ける。スマートフォンで地図を確認しながら歩いていると、前方を歩く女の子がふと目に入った。

 白いブラウスに、少し大きめのバッグ。歩く速度が私とほとんど同じで、一定の距離を保ったまま進んでいる。
 ただ、それだけのことなのに、なぜか視線が離れなかった。

 理由は分からない。顔をはっきり見たわけでもないのに、背中の輪郭や、揺れる髪の感じが、妙に印象に残る。
 ――あ、同じ方向なんだ。
 そんな当たり前のことを考えながら、私はその後ろを歩き続けた。

 横断歩道で信号が赤に変わる。自然と、彼女のすぐ隣に並ぶ形になった。距離は、腕一本分くらい。近すぎず、遠すぎず。

 一瞬だけ、視線が合う。

 驚いたように目を丸くして、それから少しだけ困ったように笑う。その表情が、思っていたよりも柔らかくて、胸の奥が小さく跳ねた。

「……あ、えっと」

 声をかけるつもりはなかったのに、口が勝手に動いた。
 相手も同じだったみたいで、ほとんど同時に声が重なる。

「あ……」

 それだけで、二人して黙ってしまう。信号の音だけがやけに大きく聞こえた。

「……大学、ですか?」

 先に言ったのは、向こうだった。少し高めで、やわらかい声。

「うん。たぶん、同じ……だと思う」

 曖昧な返事になってしまったけれど、彼女は小さくうなずいた。

「よかった。ひよりも、そうで」

 ――ひより。
 一人称、なんだろうか。それとも名前?

 聞き返す前に、信号が青に変わる。人の流れに押されるように、私たちは並んで歩き出した。

「迷ってて。駅から、合ってるのかなって」

「……たぶん、合ってます。私も、地図見ながら来たので」

 そんな、どうでもいい会話。なのに、不思議と続いた。
 歩幅が自然と揃っていくのが、少しだけくすぐったい。

「ひより、は……あ、名前です」

 照れたように付け足されて、思わず頷く。

「私は、朝比奈ゆいです」

「ゆい……」

 名前を呼ばれただけなのに、胸の奥が少し温かくなる。理由は分からない。初対面なのに、距離が急に縮んだような気がした。

 校門が見えてくる。写真を撮る人、友達同士で笑う人、家族と話す人。にぎやかな光景の中で、急に言葉が途切れた。

 このまま別れるのかな、と思った瞬間、なぜか惜しい気持ちが浮かぶ。

「……同じゼミだと、いいですね」

 気づけば、そんなことを口にしていた。

 ひよりは一瞬驚いたあと、ふわっと笑った。

「うん。そうだったら、いいな」

 それだけで、胸の奥が静かに鳴った。

 校門の前で、自然と足が止まる。周りは騒がしいのに、この一瞬だけ、音が遠くなる。

「じゃあ……」

「また、どこかで」

 それぞれ、違う方向へ歩き出す。
 数歩進んでから、なぜか振り返ってしまった。

 同じように、ひよりも振り返っていて、目が合う。
 少し気まずそうに、それでも確かに笑って、軽く手を振ってくれた。

 胸の奥が、また小さく揺れた。

 ――名前を呼ぶほど、まだ近くない。
 でも、知らない人のままでも、もういられない気がした。

 春の光の中で、その予感だけが、静かに残っていた。
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