春になるまで、名前のないままで

藍原みらい

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第2話 同じ名前の席

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教室に入った瞬間、少しだけ肩に力が入った。

 ゼミ初日。
 昨日までとは違って、今日は「偶然」じゃない。同じ時間、同じ場所に集められた知らない人たちの中に、自分の居場所を探さなきゃいけない日だ。

 空いている席はまだ多い。けれど、どこに座るかで、この先が少し変わってしまう気がして、なかなか決められない。

 そんなとき――視界の端に、見覚えのある横顔が映った。

 あ。

 胸が、ほんの少しだけ跳ねる。

 昨日、駅から一緒に歩いた女の子。
 望月ひより。

 同じ教室にいる、という事実だけで、理由もなく安心してしまう自分に気づいて、内心で苦笑した。

 ひよりは窓側の席に座っていて、膝の上に資料を置いたまま、きょろきょろと周囲を見ている。落ち着かなさそうなのに、表情はどこか柔らかい。

 ……行くしかない、よね。

 私は一度深呼吸してから、その隣の席に腰を下ろした。

「おはよう」

 声をかけると、ひよりは少し遅れてこちらを見て、ぱっと目を見開いた。

「あ……! ゆい」

 名前を呼ばれた瞬間、胸の奥がまた小さく鳴る。

「同じゼミだったんだね」

「うん。よかった……あ、よかったっていうのも変かな」

 そう言って、ひよりは困ったように笑った。その笑顔が、昨日より少し近い。

「でも、知ってる人がいると安心する」

「それは……分かるかも」

 言いながら、私は視線を前に戻した。近くにいるのを意識しすぎると、変な顔をしてしまいそうだったから。

 担当の先生が入ってきて、簡単な説明が始まる。ゼミの方針や、年間の流れ。メモを取りながら聞いているふりをして、意識はどうしても隣に引っ張られてしまう。

 ひよりは、字を書くとき少しだけ首を傾ける。ペンの持ち方が丁寧で、ノートの文字が丸い。そういう細かいところが、やけに目につく。

 ――見すぎ。

 自分に小さく注意して、ノートに視線を落とす。

 途中、先生が「隣同士で軽く自己紹介して」と言ったとき、教室にざわっとした空気が広がった。

 ひよりがこちらを見る。

「……改めて、かな」

「うん。改めて」

 お互い、少し笑ってしまう。

「朝比奈ゆいです。よろしくお願いします」

「望月ひよりです。ひよりって呼んでほしい、です」

 昨日よりも、少しだけはっきりした声だった。

「じゃあ……ひより」

 口に出すと、思った以上に自然で、でもどこか照れくさい。

「ゆい、も」

 名前を交換しただけなのに、距離が一段階縮んだ気がした。

 自己紹介が終わると、先生の話に戻る。けれど、ところどころでひよりと目が合ってしまう。そのたびに、どちらからともなく視線を逸らすのが、少しおかしかった。

 授業が終わり、ざわつく教室の中で、ひよりが小さく声をかけてくる。

「このあと……時間ある?」

「うん、特には」

「じゃあ、学食とか……どうかな」

 控えめで、でも勇気を出しているのが分かる言い方だった。

「行きたい」

 即答してしまってから、少し恥ずかしくなる。でも、ひよりは嬉しそうに目を細めた。

 廊下を並んで歩く。昨日より距離が近い。肩が触れそうで触れない、その微妙な間隔が、なぜか心地いい。

「大学、まだ全然分からなくて」

「私も。迷子になりそうだった」

「一緒だ」

 くすっと笑う声が重なる。

 学食の前で立ち止まったとき、ひよりがふと足を止めた。

「ね、ゆい」

「なに?」

「……同じゼミで、よかった」

 それはとても小さな言葉だったのに、胸の奥に静かに広がった。

 どう返せばいいのか分からなくて、少し考えてから、私は答える。

「私も。……なんか、安心する」

 ひよりは少し驚いた顔をして、それから、ゆっくりとうなずいた。

「うん。ひよりも」

 その一言だけで、十分だった。

 まだ友達、と言うには早いのかもしれない。
 でも、知らない人よりは確実に近い。

 そういう場所に、今、私たちは立っている。

 学食の入口に差し込む光が、床に細長く伸びていた。
 その中を並んで歩きながら、私は思う。

 この一年が、どんな時間になるのかは分からない。
 でも――少なくとも、ひとりじゃない。

 その事実だけで、胸の奥が少しあたたかかった。

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