毒苺

植木みかん

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 思考回路が定まらない中でも、申し訳なさと羞恥に居ても立ってもいられず、さえはまだ気だるい身体を叱咤して、首に引っかかっていたシャツを脱ぐと、それで直哉の手を必至に拭った。

「ご、めなさい……っ!」
「どうしてさえが謝るの?私が勝手にした事なのに」
「ふぇ…っ」
「泣かないで、さえ。私のことが嫌いになった?」

 問いを否定するように、ブンブンと首を振る。

 嫌われたというなら自分の方だ。
 直哉の長く綺麗な指を汚してしまった。

「こっちを向いて」

 優しく命じられ、さえは直哉に背を向けていた身体をゆっくりと動かす。

 対面の形になっても、羞恥のあまり顔は上げられず、直哉を見つめることができない。

「……ぁっ」

 直哉は自分の着ていた上着をさえの肩にかけながら、まるで内緒話をするように耳元で囁いた。

「もう、私とは一緒に暮らしたくない?一緒に暮らすのは嫌?」

 さえの粗相などまるで気にした風も無く、直哉は変わらぬ態度で話す。

 ただ、直哉のバリトンが甘い艶を含んでいるように聞こえるのは、自分の耳が変なのだろうか。

「さえ、答えて」
「………嫌じゃ、ないです」

 それは紛れもない本心で、出来ることなら直哉の側にいたい。
 
 自分でもおかしいと思うが、実の母親の元よりも、さえは直哉の側にいたかった。

「じゃあ、私と一緒に住んでくれるね?」

 声は優しいが、どこか否とは言わせない強さがあった。

「でも…」

 ここで甘えてしまえば、先々後悔するのは直哉の方だ。

 直哉ほどの男なら、再婚相手は山ほどいるだろう。その時になって、邪魔な存在にはなりたくない。

 直哉に袖にされることが、さえには何より一番怖かった。

「……この先、直哉さんもまた違う方と一緒に住むことになると思いますし…」

 邪魔したくないと暗に言えば、柳眉を顰められた。

「それで私がさえを蔑ろにするとでも思っているの?安易な同情で言っているわけじゃないんだよ」
「でも……、僕なにも出来ないし。全然…直哉さんの役に立てない、…から」
「さえがいてくれるだけで、私は嬉しいよ」

 今までだって迷惑しかかけたことがないのに?

 公立高校の受験に失敗した時も、私立は莫大な授業料がかかるから絶対にイヤだと、就職すると言ったさえに、直哉はわざわざ学校を調べあげ、公立の通信制の学校を進めてくれた。

 高校卒業という証さえあれば、大学受験の切符を手に入れることができる。

 国立大学なら授業料もさほどかからないし、通信制で頑張って国立を目指してみるといいと、直哉は優しく諭してくれた。

 それなのに、自分は何一つ直哉の役に立っていない。ただの寄生虫でしかない。

「さえは私の役に立ちたいの?」

 コクリと頷く。

「あんまり料理もうまくないですけど、でも…」
「料理?そんな事して、この綺麗な指に怪我でもしたらどうするんだ」
「ぇ…あ…」

 言いながら、直哉はさえの指をすくい上げ、大きな手で包み込まれる。

「重い物を持つのも駄目だよ。落として痣でも残ったら大変だ」

 女の子でもあるまいし、直哉の心配は度が過ぎているような気がする。

「あ…、あの…」
「私の傍に居る事に、理由や価値がいるなら……じゃあ、さえが私のお嫁さんになってくれる?」
「え…?」

 言われた意味が分からず直哉を見つめると、急に直哉の顔が近づき、ちゅと唇にキスをされた。

「ん、…んっ!?」

 それは情愛を示すような優しいものではなく、食われるんじゃないかと一瞬怯えるほど濃厚なものだった。

「ふぁ…んっ!……ちゅ、ぷ…ぁンっ」

 逃げることを許さない指に身体を抱きこまれ、下唇を吸われる。

「んっ……ンっ…んぁ、っ!」

 舌を引きずり出され、まるで食されているかの様に甘く噛まれる。

(え…何で? およめさん? およめさんって……)

 角度を変えて施される激しい口づけに、放ったはずの熱がまたぶり返される。

 けれど、先ほどより身体は反応しなかった。

 それは、身体は熱くなっても頭は冷静に直哉の意図を理解できたからだろう。

(お嫁さん……僕は、母さんの身代わりなんだ…)

 性格は似なかったが、容姿だけは麗子によく似ていると祖母にも言われていた。

 漆黒のストレートの髪に、それと同じ色のアーモンドアイ。

 鼻梁は麗子のように高くはないが、顔の造形を崩さない程度にはおさまっている。

(母さんに、似てるから……)

 どうして自分をここまで引き止めてくれるのか、やっと分かった。

(直哉さんの一番は、今も昔も母さん。母さんだけ…)

 胸が苦しくなる。
 嫌だと心が叫ぶ。

(僕の方が……!僕の方が、先に直哉さんと出会ってたのに!)

 そう、直哉と初めて出会ったのは、麗子よりさえの方が先だった。

 麗子から受けた痣を見られたのも、その時だ。

(母さんより、僕の方が…)

 胸の中にドロリとしたどす黒い感情が湧き上がってくるのを止められない。

 ずっと覆い隠していた想いが、どんどん表面に浮上していく――。





 直哉と初めて出会ったのは、直哉と麗子が結婚する半年前だった。
当時、自分を育ててくれた祖母が亡くなり、施設行きを覚悟していた。

 麗子が自分を育ててくれるなど期待は皆無だった。

 癇癪の激しい麗子の傍にいるよりは、施設の方がよいだろう事もわかっている。

 だからこそ、思い知らされる。

 自分には、もう愛すべき家族がいないということに。

 質素ながらも、自分を育ててくれた祖母はもういない。

 自分を邪険にもせず、寝床を与えてくれた優しい人はもういない。

 誰からも、母親からさえも愛されない自分に、生きる価値があるのだろうか……。

 不意に、赤い実が目に入った。

 それは土手に実をつけていた毒苺だった。とげとげしい、赤い実に視線がはずせない。

(毒苺って、たくさん食べたら死ぬのかな?)

 毒とついている位なのだから、多少は毒があるかもしれない。

 そう思って手を伸ばし、実を握って手のひらに置く。

 これを食べれば、死ねる?

 そう思って、口に入れようとした時―――

「君」

 突然、声をかけられた。

 とっさに毒苺を手に隠し、振り向くと、この辺ではお目にかかった事の無いような美丈夫がいた。

 高い身長に、キリッとした切れ長の瞳。スッと美しいラインが顔の造詣を際立たせている高い鼻梁。無表情だと少し怖いが、微笑んだ時の顔は、男のさえですらドキドキするほどカッコいい。 
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