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 訳の分からない状況に耐えられなくなって酷く呼吸が浅くなる。こんなの夢だ。そうじゃなければおかしい。あり得ない。でも、イビルボアに襲われた時の傷や締め上げる鎖がズキズキと痛みを伴って俺に現実を突き付けてくる。

 俺は一体どうなってしまったんだ。

「シグルド、拘束を解いてやれ。ひとまず落ち着かせよう」
「しかし殿下」
「いいから」

 様子のおかしい俺を気遣ったアルフォンスの命令で、シグルドは渋々俺の拘束を解く。全身を雁字搦めに圧迫していた鎖が瞬く間に消え去り、少しだけ呼吸が楽になった。
 俺は自由になった両手で頭を抱えてぐしゃぐしゃに髪を掻き乱す。ウィッグであるはずのそれはまるで地肌から生えているような感触がした。

 俺の髪は黒髪なのに。

「オークラ、手荒な真似をしてすまなかった。お前にも事情があるのだろう。ゆっくりでいいから、俺に聞かせてくれないか?」
「アル、フォンス……殿下」

 いつの間にかアルフォンスが隣にいて、しゃがみ込んで俺の顔を覗き込んでいる。アルフォンスの明るい青の瞳には凡庸な顔ではなく悲壮感に溢れたアルフォンスの顔が映っている。さっぱり理解できないがこれが今の俺の顔、らしい。
 微かに震える肩を撫で摩るアルフォンスの手は優しい。威圧感のない問いかけに少しだけ落ち着いて、もう一度シグルドに告げた説明を繰り返した。

「なるほどな……全く知らぬ場所から場所へ飛ばすには、かなり高度な転移の魔術が必要なはずだ。オークラ、お前自身に心当たりがないのなら、周囲に不審な人物がいたり、ゲートに細工をされているようなことはなかったか?」
「そんな、やつは……」

 あそこは更衣室から会場へのルートだったから周りにいたのは俺と同じようにコスプレをした奴がほとんどだった。そんな中で不審者と言われても、普段の時以上にわかりにくいかもしれない。入場ゲートの細工だってこの世界の技術ならわかるはずがない。

「あ、でも……」

 そうだ。ひとつだけ、いつもと違うことがあった。桜色の長い髪が脳裏に浮かんで俺は思わず言葉を零す。

「ああ、でもこんなの関係ないか」
「いや、何か気付いたことがあるなら言った方がいい。何か意味はあるかもしれない」

 あれもただ気分がハイになったコスプレイヤーだろう。そう思って言葉を濁すがアルフォンスは食い下がってきた。その目は至って真剣で、俺の信じ難い話にきちんと耳を傾けてくれている。そう思うと俺も勝手な判断はできないとその時にあったことを振り返りつつ答えた。

「女の人に声を、かけられました。『あなたの助けが必要です。私の世界を救ってください』って」
「世界を」
「救う?」

 怪訝そうなアルフォンスとシグルドの声。思えば俺が入場ゲートを潜ったのは彼女が声をかけてきたすぐ後のことだった。世界が一変したことの方が衝撃的でそんなことすっかり忘れていた。

 彼女はLoDにおける創世の女神ユーミルの姿をしていた。
 ユーミルはドラゴンを生み出した時、己の姿の一部を彼らに与えたと言われている。それを証明するように彼女の頭部には白く長い二本の角が生えていて、手足は髪と同じ桜色の固い鱗に覆われている。そのうえ背中には蝙蝠のような皮膜が張った羽が、腰からは引きずるほどに長いトカゲのような尻尾が生えているのだ。
 人型にドラゴンのパーツが付いた感じと言えばいいだろうか。
 俺に声をかけてきた彼女のコスプレは完璧だった。一瞬言葉を失って見惚れてしまうほどの美しさと厳かな空気があって、ガチで女神じゃんと内心思ったものだ。そしてそんな彼女はゲーム開始時に入るボイスと同じ言葉を俺に投げかけ、俺はスタートボタンを押す気持ちで軽々しく『いいよ!』と言ってしまったのである。

 あの時のことを思い返せば、もうそれしかないと思えてくる。あの後彼女は満足げに頷いて微笑み、俺が見惚れているうちに跡形もなく姿を消していた。
 あんなに目立つ姿をしていたにも関わらず、辺りを見回してもどこにもいなかったのだ。

「もしかして……」

 もしかして、ガチで女神じゃん……?
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