かさなる、かさねる

ユウキ カノ

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12.想いが重なる

12-①

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「つかれた……」
 倒れこむようにして沈んだベッドは、自宅のものとはちがって軋みひとつなく俺の身体を受けとめた。さらさらとした肌触りをしているはずの布地が、肌に触れると沁みるように痛む。ささいなことが刺激になってしまうほど疲労しているらしい。
 沖縄に着いて、三日目の夜だった。一度東京へ出てそこから沖縄へ飛行機に乗るという移動だけで重くなった身体を引きずって、平和についての講和を聞いただけで終わった一日目のつかれは、一晩寝たくらいではとれそうもなかった。地元ではすっかり涼しくなった空気に慣れた身体が、沖縄の夏日の暑さに順応できないでいる感覚がまとわりついてくる。その疲労を引きずったまま今日は水族館へいったけれど、おおきな水槽で泳ぐジンベエザメに感動している余裕もなかった。
 どうにか早くホテルに着かないだろうかと願っていた。時間が経つのがやたらと遅く、だれかが時計の機能を壊したのではないかと思うほど、一日が長く感じる。
「顔色悪いけど、シュウだいじょうぶか」
 ベッドに突っ伏してふかふかの布団に埋まった耳に、武本の声が聞こえる。身体を起こすと、シュウは焦ったように手を振っていた。
「平気だよ。ただつかれただけで」
 もともと白いシュウの肌は、この暑さのなかでかさついているように見えた。薄い身体が、頼りなく揺れているようにも見える。自分より先に武本がシュウの不調に気づいたことが悔しくて、またベッドに沈みこんだ。
 最近走っていなかったとはいえ、俺とシュウの体力なんて比べるまでもない。文化祭の準備がはじまってから、息つく暇もなく旅行の準備をして当日を迎えた。俺でさえこんなに参っているのだから、シュウが平気なわけがないのだ。
 大広間での夕食を終え、あとは風呂に入って寝るだけだった。人混みのなかで離ればなれになって一緒に食事を摂ることができなかったけれど、この様子だともしかしたらシュウはろくに食べていないのかもしれない。そういえば昼間に入った店でも、出された食事を残していた。
「風呂いくけどお前らどうする」
 武本が着替えを持ってたのしそうに尋ねる。部活で合宿に慣れている武本は大浴場が好きだ。俺やシュウとはちがってだれとでも打ち解けるから、服を脱いだときに自分の境目があいまいになる感覚なんてものともせず、同級生と戯れることができるらしい。
「俺は、いいや」
 きわめて不本意だとでも言うように、シュウが困った顔で笑った。布団にうつぶせになったまま、横目でシュウのことを見る。左腕に触れそうになる右手が、腰の前でゆらゆらと所在なさげにしていた。
「俺もパス」
 寝返りをうって、天井に向かって声をあげる。シュウがこちらを見たのがわかったけれど、その視線は受けとらなかった。昨日もおとといも、俺は部屋についているユニットバスを使っている。きっとシュウもそうするだろうと思って、沖縄にくる数日前に決めていたことだった。
「わかった。じゃあ俺いってくるわ」
 いってらっしゃいと言うシュウの声を背中に受けて、ほんの一瞬ためらうような素振りを見せたあと、武本が部屋を出ていく。ドアが音を立てて閉まったあと、ひとつちいさなため息が聞こえて、バスルームにシュウが入ったのがわかった。そちらに顔を向けると、壁一枚を隔てて、大量の水が蛇口を流れ落ちる音が聞こえる。
「明、あの」
 ありがとう。バスルームから出てきたシュウが、困ったように笑った。礼を言われるようなことはなにもしていなかった。そしてシュウがしずかな怒りを見せたあの日から、俺たちはどこかぎくしゃくしている。武本もそれに気づいていて、俺たちを無理に近づけようとはしてこない。
 消えそうな礼のことばに「うん」と答えるだけでやめた。どこかうまく話せないのは俺だけだ。シュウはいつもどおり、おおきな背をまるめて俺を見ている。
 となりのベッドに腰かけたシュウと、なにを話したらいいのかわからないまま時間だけが経っていった。ドアの外から同級生のだれかがあげる笑い声が、バスルームから水の流れる音が聞こえる空間のなかで、俺とシュウとの呼吸は重なりそうで重ならない。
 どれくらい経っただろうか。ゆっくりと立ちあがったシュウが、バスルームに入っていった。水道管の震える音が聞こえなくなって、シュウが顔を出す。あの、と声をかけられて、シュウのほうに首を向けた。「あの」と、口癖のように繰り返すシュウを見るのは嫌だった。
「つかれたでしょ、先に風呂入ってよ」
 不安げに身体の前で指を組んで声をかけてきたシュウの、細い肩を眺める。
 こいつは、俺のために風呂の蛇口をひねったのか。そう思ったら、以前にも感じたことのある、胸がぎゅっと苦しくなって、涙が出そうになる感覚がした。
「いいって。シュウ先入れよ」
 腕を枕にして顔をあげる。できるだけ声が震えないように、冷たく聞こえないように、注意しながらうながした。うんと答えたシュウの声は、さっき俺が言ったのと同じく、どこかよそよそしいものに聞こえた。
 壁の向こうから、こぽこぽと水が排水管に流れていく音がする。傷を抱えた左腕は、湯に触れると沁みるのだろうか。いつか見た真っ赤な痕を思いだしながら、ベッドのうえで今日買ったみやげを手にとった。
 ジンベエザメのふわふわとしたキーホルダーは、樹里に頼まれたものだった。
「おにいちゃん、聞いてる?」
 いつものように、家族四人で食卓を囲んでいるときだった。こちらを睨んでいる秋刀魚の塩焼きと目が合ってぼうっとしていると、となりに座る樹里が肩を小突いてきたのだ。
「え、なに」
「もう、おみやげのこと!」
 体型を気にして量を食べないようにしている妹は帰宅して風呂に入るまで中学の体操着を着ていて、背伸びをした言動とその幼い見た目が一致しない。
 ああ、と生返事をすると、樹里はまた「もう!」と繰り返した。
「明くんは最近またぼんやりしてるのね」
 樹里の前に座る母が、のんびりとした声で言う。父は、あいかわらず黙って秋刀魚の身をほぐしていた。
「最近、じゃないよ。おにいちゃんのこれはいつもだよ」
 明くん、と母親が俺を呼ぶことにいちいち腹を立てる樹里が、やはり抗議するように声をあげる。
「そんなことないよねえ。文化祭くらいからじゃなかったかしら」
 どきりとすると同時に、母はなにもかもお見とおしなのだなと改めて感心する。
 山村先輩に声をかけられたあの日から、自分を取り巻くすべてのものがまるで映画のなかで起こっている他人事のように感じられた。ずっと見ていたはずのシュウのことを見つめる余裕もないほど、自分のことばかり考えていた。
 俺は、なんのために走るのだろう。タイムのために走るのはやめようと、あの新人戦のときに決めた。それなのに陸上部に入った理由なんて、深く考えたこともなかった。
「明?」
 シュウの声が聞こえたとき、ジンベエザメのキーホルダーを握りしめたままの左手の力が緩んだ。
「風呂、あいたよ」
 振り向くと、髪を濡らしたシュウが立っていた。シュウの着る黒い長袖のシャツを見て、現実に戻ってきたような気がした。
「ああ、うん」
 返事をして、風呂に入る。狭いユニットバスでしっかり身体をあたためてバスルームを出たころには武本も帰ってきていて、気まずい時間は終わり、眠りに落ちるまで俺はひとりでベッドに横になっていた。
 翌朝、目が覚めると武本のベッドは空だった。着替えを済ませていたシュウが身動ぎした俺に「おはよう」と声をかけてきて、寝ぼけ眼でおなじことばを返す。
 武本は朝食前にホテルの周囲をランニングしているはずだ。修学旅行でも部活という習慣はなくならないらしい。こちらにきてから三日間、欠かさず早朝練習をしている。
「明も走るか?」
 山村先輩とのやりとりを知ってか知らずか、沖縄での最初の朝、武本はそう誘ってきた。
 いまは走ろうという気持ちになれなかった。シュウのことを疎ましく思うことなんてなかったのに、俺の行動をうかがうようなシュウの視線はひどく不快だった。
 普段肌身離さず持ち歩いているランニングシューズを、じつはキャリーケースの奥底に押しこんであった。走るときに着るジャージも、シューズと一緒に狭い入れもののなかでじっとしている。そこに俺の迷いがあった。向きあうこともできないけれど、完全に捨てることもできない。
 シュウと一緒にいたいと言ったのに、その約束も中途半端にしているままで、情けなさとやるせなさでこぶしを握る。朝食のあいだも、結局俺とシュウのあいだに壁のようになった武本が座り、会話は一言もなかった。
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