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◆◇第一幕◇◆ 時空の監視者の愛情は伝わらない
カイナの謀略
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バルドゥールのごつごつとした指は、繊細さからは遠くかけ離れているはずなのに、手のひらに受けるその感触は身じろぎしたくなるほど、くすぐったいものだった。
けれど、そのくすぐったさとは反対に、私の胸は、もうここにはいない二人のことを思い出して、きりきりと痛んでいた。
手のひら傷はとっくに塞がっていて、今は赤い筋が一本うっすらと残っているだけ。
それもきっと時とともに薄れて消えていくのだろう。でも、傷は消えても消せない事実がある。そして、そのことまで消し去ってはいけない。
むず痒さより、胸の痛みに耐え切れなった私は、そっと手を引き抜………こうとしたけれど、思いの外バルドゥールの掴む力が強くて引き抜けなかった。
離してと声に出そうか一瞬考える。けれど、きっと彼は首を横に振るだろうという結論に達して諦める。
ただ、もし仮にバルドゥールがこの傷を見て、あの時のことを悔やんでいるなら、頼みたいことがあった。
「あの二人に悪いことをしてしまいました。故郷に戻ってしまったんですよね………」
「カイナから聞いたのか?」
唐突に口を開いた私に、バルドゥールは誰のことかと名前を問うことはしないし、何の話だと急かすこともしない。その口調は、ただただ穏やかなものだった。
カイナは私と必要以上に会話をすることは懲罰にあたると言っていた。
問いかける彼の口調に棘は含まれていないが、懲罰を受けるのが自分だけではない事実を知っているので、ここは無言という選択をさせてもらう。
ちなみにあの二人とは、カイナと共に私の身の回りをしていた侍女のリリーとフィーネのこと。
今思えば、あの自殺未遂の騒動の一番の被害者は、間違いなくあの二人だった。
カイナはあの二人は責任感から屋敷を去ったと言っていた。何も知らなかったとはいえ、無関係なあの二人を屋敷から追い出してしまったのは、間違いなくこの私だ。
屋敷を去った彼女達には何の罪もなかった。彼女たちは侍女として、自分の仕事を全うしていただけだ。私とバルドゥールの行き違いに巻き込まれてしまっただけのこと。
ほんの少し前まで、何も知らなかった私は、助けてと口に出し、縋る視線を彼女たちに何度も投げかけた。そしてそれを無視され腹を立て、憎んでいたことは間違いない。
けれど、彼女たちには悪意はなかったのだ。私を嘲笑っていたわけでもなかった。必要以上の会話を禁止され、私はといえば、日に日に心を閉ざしていたあの頃、どうする術もなかっただけだ。
もちろんその原因は………と、突き詰めていけば、どうしたって目の前の朱色の髪の男に辿りついてしまう訳で。
なので、お館様でもある彼に、もし叶うなら、二人には何の責任もないことを伝え、二人が望むなら屋敷で再び働かせて欲しい。そう取り計らってもらいたかったのだけれど───。
「ああ。カイナから聞いた通りだ。ただ、二人が戻ってきたら、俺からきちんと話をするつもりでいる。だから、アカリが気に病むことはない」
「へ?………、いえ、えっと………戻ってきたら、というのは?」
意外過ぎる返答に、思わず間の抜けた声を出してしまった。ついでに言うなら、きっと、表情も間抜けなものになってしまっているだろう。
そして気付いたときには、私は中途半端に身体を起こして彼の袖を握っていた。
そんな私を見て、バルドゥールは驚いたように眼を見開く。けれどすぐ穏やかな表情に戻り、落ち着けと言って私を寝かしつける。そして、私の手を離さないまま口を開いた。その口調は、ゆっくりと噛み砕くようなものだった。
「もしかして辞めたと思っていたのか?それは違う。あの二人はカイナの判断で、一時的に休暇で故郷に戻っているだけだ。でも、二人ともお前に会いたいと言っていた。そうだな………あと数日もすれば、戻ってくる。安心しろ」
その言葉を聞いて、私はぐにゃりと全身から力が抜けていくのを感じた。
………やられた。
確かにカイナは一言も辞職したなんて言ってない。私が勝手に早とちりをしただけだ。でも、あの言い方では、辞職したと勘違いしてもおかしくない言い方だった。
「ははっ。アカリ、どうやらカイナに嵌められたらしいな」
詳細を説明した訳ではないけれど、バルドゥールは大体の内容を察したようで声を上げて笑った。けれどすぐ、いかにも困ったという風に、眉を下げ申し訳なさそうに口を開いた。
「まぁ、本当ならアカリの肩を持ちたいところだが……。悪いな。カイナは俺とは遠縁で、姉のような存在なんだ。幼少の頃から世話を焼いてもらった手前、弱みもさんざん握られているから俺はカイナには敵わない……。ここは一つ甘んじて、嵌められてやってくれ」
「………はい」
会話の途中で小さく身を震わせたバルドゥールを見て、彼でも敵わないなら、カイナがこの屋敷で最強であることは間違いないと妙に納得してしまう。
でも、あの時、カイナに侍女達のことを聞かなければ、ずっと私は二人がどんな思いでいたかなんて、気付くことができなかっただろう。
ああ、居ないな、ああ、今日は居るんだと、彼女達が私の見えないところで、胸を痛め涙を流していたのかなんて気付かず、見過ごしてしまっていただろう。
二人が一時とはいえ、私のことで心を痛めたことを、私はちゃんと知らなければいけなかったし、そんな風に心を砕いてくれる人がこの世界にいることを受け止めないといけなかった。
それに、そんな大事なことに気づくこともしないで、奇跡的に私が死ぬことができたとしても、その死には何の意味もなかった。
バルドゥールに自分の過ちを気付かせることもできず、ただいたずらに、無関係な人達の心を傷つけるだけだっただろう。
あの時、自由になりたかった気持ちは今でも偽りないと断言できる。でも、むやみやたらに誰かを傷つけたいわけではなかった。
だから、カイナが取った行動に本音は不満も苛つきも無い。あの会話が、私に考える時間を与え、やり直しの糸口になったことは揺るぎない事実なのだから。
ただ……まぁ、自分はもう自立して、そこそこ大人だと思っていたのに、カイナのポーカーフェイスを見抜けなかったことが悔しかっただけ。
あと余談だが、今、バルドゥールが口にした言葉で、私は気になることがある。
「ところで私は侍女の人たちと会話をして良いのですか?」
「ああ、お前が望むならそうすればいい」
「………………」
あっさりと口にしたバルドゥールの言葉を飲み込むのに時間がかかった。
私から話しかけるのは良いけれど、侍女たちが私に話しかけるのは、いけないらしい。それはこの世界の決まり事なのだろうか。それとも、この屋敷に限ったルールなのだろうか。
この前のルークとの会話で、この世界は未だに階級社会だということは知っている。だから私が知らない決まり事は沢山あるのだろう。
知っていることより、知らないことが多い。ここが異世界なのだから、当たり前と言われればそれまでだけれど、私はこれから先、沢山のことを学んで覚えていかなくてはいけないのだ。
それはうんざりするほど面倒くさいこと。だけれども、生きる目的を見いだせない私にとって、当面の課題でもあったりする。
そんなことを考えているうちに、バルドゥールは、腫れた私の手の甲に薬を塗って包帯を巻いた。そして反対の手に指を絡めて、軽く揺すった。
「さ、もう寝ろ」
頭は冴えてしまっているけれど、身体は睡眠を求めている。
それに、この世界が恐ろしいことばかりに満ち溢れている訳でもないと知った今、眠れなくても、独りになって考えたいことが山積みだ。
「………はい」
息を吐くついでのように、返事をした私にバルドゥールは掛布をそっと被せると、私の額に口付けを落とした。そして、包帯を巻いてある手を撫でて扉へと向かう。
「アカリ、おやすみ」
扉を開け、振り返りながら私に向かったその声は、どこまでも優しく、薄暗い部屋の中でいつまでも暖かさを残していた。
ちなみに翌日は、約束通り朝食にジャムが出た。
それは桃のような甘い香りなのに、酸味が強いクセがあるもの。なのに、不思議とさっぱりとして後味が良くて甘すぎない大人の味だった。
そう、まるで穏やかな微笑の中に、凛とした優しと厳しさを兼ねそろえているカイナのような味だった。
「アカリ、美味しいか?」
少し離れた場所にいる朱色の髪を持つ人からそう問われ、私は、そこに視線を向ける。
真っ白な軍服を着て、窓辺に立つ姿は、とても凛々しく美しい。そして私の視線に気付いたその人は笑った。太陽なんてここにはないのに、とても眩しそうに眼を細めて。
────トクン。
瞬間、心臓が小さく跳ねた。
それは、今まで感じたものとは違う別の感覚。ただ、その感情の名前を私は知らない。
「とても、美味しいです」
気持ちを誤魔化すように、彼に向かってそう言えば、更に目を細めながら私に近づき手を伸ばす。
戸惑いながらも目の前にある、ごつごつした大きな手にそっと触れれば、何かが始まる音がした。
けれど、そのくすぐったさとは反対に、私の胸は、もうここにはいない二人のことを思い出して、きりきりと痛んでいた。
手のひら傷はとっくに塞がっていて、今は赤い筋が一本うっすらと残っているだけ。
それもきっと時とともに薄れて消えていくのだろう。でも、傷は消えても消せない事実がある。そして、そのことまで消し去ってはいけない。
むず痒さより、胸の痛みに耐え切れなった私は、そっと手を引き抜………こうとしたけれど、思いの外バルドゥールの掴む力が強くて引き抜けなかった。
離してと声に出そうか一瞬考える。けれど、きっと彼は首を横に振るだろうという結論に達して諦める。
ただ、もし仮にバルドゥールがこの傷を見て、あの時のことを悔やんでいるなら、頼みたいことがあった。
「あの二人に悪いことをしてしまいました。故郷に戻ってしまったんですよね………」
「カイナから聞いたのか?」
唐突に口を開いた私に、バルドゥールは誰のことかと名前を問うことはしないし、何の話だと急かすこともしない。その口調は、ただただ穏やかなものだった。
カイナは私と必要以上に会話をすることは懲罰にあたると言っていた。
問いかける彼の口調に棘は含まれていないが、懲罰を受けるのが自分だけではない事実を知っているので、ここは無言という選択をさせてもらう。
ちなみにあの二人とは、カイナと共に私の身の回りをしていた侍女のリリーとフィーネのこと。
今思えば、あの自殺未遂の騒動の一番の被害者は、間違いなくあの二人だった。
カイナはあの二人は責任感から屋敷を去ったと言っていた。何も知らなかったとはいえ、無関係なあの二人を屋敷から追い出してしまったのは、間違いなくこの私だ。
屋敷を去った彼女達には何の罪もなかった。彼女たちは侍女として、自分の仕事を全うしていただけだ。私とバルドゥールの行き違いに巻き込まれてしまっただけのこと。
ほんの少し前まで、何も知らなかった私は、助けてと口に出し、縋る視線を彼女たちに何度も投げかけた。そしてそれを無視され腹を立て、憎んでいたことは間違いない。
けれど、彼女たちには悪意はなかったのだ。私を嘲笑っていたわけでもなかった。必要以上の会話を禁止され、私はといえば、日に日に心を閉ざしていたあの頃、どうする術もなかっただけだ。
もちろんその原因は………と、突き詰めていけば、どうしたって目の前の朱色の髪の男に辿りついてしまう訳で。
なので、お館様でもある彼に、もし叶うなら、二人には何の責任もないことを伝え、二人が望むなら屋敷で再び働かせて欲しい。そう取り計らってもらいたかったのだけれど───。
「ああ。カイナから聞いた通りだ。ただ、二人が戻ってきたら、俺からきちんと話をするつもりでいる。だから、アカリが気に病むことはない」
「へ?………、いえ、えっと………戻ってきたら、というのは?」
意外過ぎる返答に、思わず間の抜けた声を出してしまった。ついでに言うなら、きっと、表情も間抜けなものになってしまっているだろう。
そして気付いたときには、私は中途半端に身体を起こして彼の袖を握っていた。
そんな私を見て、バルドゥールは驚いたように眼を見開く。けれどすぐ穏やかな表情に戻り、落ち着けと言って私を寝かしつける。そして、私の手を離さないまま口を開いた。その口調は、ゆっくりと噛み砕くようなものだった。
「もしかして辞めたと思っていたのか?それは違う。あの二人はカイナの判断で、一時的に休暇で故郷に戻っているだけだ。でも、二人ともお前に会いたいと言っていた。そうだな………あと数日もすれば、戻ってくる。安心しろ」
その言葉を聞いて、私はぐにゃりと全身から力が抜けていくのを感じた。
………やられた。
確かにカイナは一言も辞職したなんて言ってない。私が勝手に早とちりをしただけだ。でも、あの言い方では、辞職したと勘違いしてもおかしくない言い方だった。
「ははっ。アカリ、どうやらカイナに嵌められたらしいな」
詳細を説明した訳ではないけれど、バルドゥールは大体の内容を察したようで声を上げて笑った。けれどすぐ、いかにも困ったという風に、眉を下げ申し訳なさそうに口を開いた。
「まぁ、本当ならアカリの肩を持ちたいところだが……。悪いな。カイナは俺とは遠縁で、姉のような存在なんだ。幼少の頃から世話を焼いてもらった手前、弱みもさんざん握られているから俺はカイナには敵わない……。ここは一つ甘んじて、嵌められてやってくれ」
「………はい」
会話の途中で小さく身を震わせたバルドゥールを見て、彼でも敵わないなら、カイナがこの屋敷で最強であることは間違いないと妙に納得してしまう。
でも、あの時、カイナに侍女達のことを聞かなければ、ずっと私は二人がどんな思いでいたかなんて、気付くことができなかっただろう。
ああ、居ないな、ああ、今日は居るんだと、彼女達が私の見えないところで、胸を痛め涙を流していたのかなんて気付かず、見過ごしてしまっていただろう。
二人が一時とはいえ、私のことで心を痛めたことを、私はちゃんと知らなければいけなかったし、そんな風に心を砕いてくれる人がこの世界にいることを受け止めないといけなかった。
それに、そんな大事なことに気づくこともしないで、奇跡的に私が死ぬことができたとしても、その死には何の意味もなかった。
バルドゥールに自分の過ちを気付かせることもできず、ただいたずらに、無関係な人達の心を傷つけるだけだっただろう。
あの時、自由になりたかった気持ちは今でも偽りないと断言できる。でも、むやみやたらに誰かを傷つけたいわけではなかった。
だから、カイナが取った行動に本音は不満も苛つきも無い。あの会話が、私に考える時間を与え、やり直しの糸口になったことは揺るぎない事実なのだから。
ただ……まぁ、自分はもう自立して、そこそこ大人だと思っていたのに、カイナのポーカーフェイスを見抜けなかったことが悔しかっただけ。
あと余談だが、今、バルドゥールが口にした言葉で、私は気になることがある。
「ところで私は侍女の人たちと会話をして良いのですか?」
「ああ、お前が望むならそうすればいい」
「………………」
あっさりと口にしたバルドゥールの言葉を飲み込むのに時間がかかった。
私から話しかけるのは良いけれど、侍女たちが私に話しかけるのは、いけないらしい。それはこの世界の決まり事なのだろうか。それとも、この屋敷に限ったルールなのだろうか。
この前のルークとの会話で、この世界は未だに階級社会だということは知っている。だから私が知らない決まり事は沢山あるのだろう。
知っていることより、知らないことが多い。ここが異世界なのだから、当たり前と言われればそれまでだけれど、私はこれから先、沢山のことを学んで覚えていかなくてはいけないのだ。
それはうんざりするほど面倒くさいこと。だけれども、生きる目的を見いだせない私にとって、当面の課題でもあったりする。
そんなことを考えているうちに、バルドゥールは、腫れた私の手の甲に薬を塗って包帯を巻いた。そして反対の手に指を絡めて、軽く揺すった。
「さ、もう寝ろ」
頭は冴えてしまっているけれど、身体は睡眠を求めている。
それに、この世界が恐ろしいことばかりに満ち溢れている訳でもないと知った今、眠れなくても、独りになって考えたいことが山積みだ。
「………はい」
息を吐くついでのように、返事をした私にバルドゥールは掛布をそっと被せると、私の額に口付けを落とした。そして、包帯を巻いてある手を撫でて扉へと向かう。
「アカリ、おやすみ」
扉を開け、振り返りながら私に向かったその声は、どこまでも優しく、薄暗い部屋の中でいつまでも暖かさを残していた。
ちなみに翌日は、約束通り朝食にジャムが出た。
それは桃のような甘い香りなのに、酸味が強いクセがあるもの。なのに、不思議とさっぱりとして後味が良くて甘すぎない大人の味だった。
そう、まるで穏やかな微笑の中に、凛とした優しと厳しさを兼ねそろえているカイナのような味だった。
「アカリ、美味しいか?」
少し離れた場所にいる朱色の髪を持つ人からそう問われ、私は、そこに視線を向ける。
真っ白な軍服を着て、窓辺に立つ姿は、とても凛々しく美しい。そして私の視線に気付いたその人は笑った。太陽なんてここにはないのに、とても眩しそうに眼を細めて。
────トクン。
瞬間、心臓が小さく跳ねた。
それは、今まで感じたものとは違う別の感覚。ただ、その感情の名前を私は知らない。
「とても、美味しいです」
気持ちを誤魔化すように、彼に向かってそう言えば、更に目を細めながら私に近づき手を伸ばす。
戸惑いながらも目の前にある、ごつごつした大きな手にそっと触れれば、何かが始まる音がした。
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