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春の音は少し遅れる
しおりを挟む彼女の名前はもえこ。僕が出会ったのは、大学の図書館の片隅だった。
もえこはいつも同じ席に座っていた。窓際の、四人掛けのテーブルを一人で占領して、大きなヘッドホンをかけ、ノートに何かを書き続けている。時々、鉛筆を止めて天井を見上げたり、指でテーブルの木目をなぞったりする。その仕草が、なんだか愛おしくて、僕は遠くから見ているだけだった。
ある日、勇気を出して声をかけた。
「そこ、いつも座ってるよね。隣、いい?」
もえこはびっくりしたように顔を上げ、ヘッドホンを外した。少し遅れて、僕の言葉を理解したみたいだった。
「……うん。いいよ」
それが始まりだった。
もえこは注意欠如多動症だった。診断名を自分で教えてくれたのは、三回目に会ったときだ。
「私、音が大きすぎると頭が痛くなるの。だからヘッドホンしてる。人の話も、ちょっと遅れて聞こえるときがある。ごめんね」
謝る必要なんてないのに、彼女はいつも先に謝った。
デートらしいデートは、ほとんどできなかった。映画館は音が大きすぎるし、人混みのカフェは苦手だと言った。仕方ないから、僕らは大学の裏手の小さな公園で過ごすことが多かった。ベンチに座って、コンビニのおにぎりを食べながら、ぼんやりと空を眺める。
もえこは、特定のことにすごく詳しかった。電車の時刻表とか、雲の名前とか、一度覚えたことは完璧に覚えている。でも、僕が何気なく言った「今日、疲れたな」という一言のニュアンスを、読み取るのが苦手だった。
「疲れたって、どういう疲れ? 身体? それとも心?」
真剣な目で聞いてくるから、僕は笑ってごまかした。
「どっちでもないよ。ただの言い回し」
「……そうなんだ」
もえこは少し俯いて、指でスカートの裾を摘んだ。その仕草が、胸を締めつけた。
好きだと言ったのは、僕からだった。
桜が散る頃、公園のベンチで。
「もえこのこと、好きだよ。一緒にいたい」
もえこは目を丸くして、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと頷いた。
「私も……りょうくんといると、安心する」
それだけで十分だった。僕らは手を繋いだ。もえこの手は冷たくて、少し震えていた。
夏になると、もえこはサンダルを履くようになった。足の指が可愛くて、僕はつい見とれてしまう。
「どうしたの?」
「いや、もえこの足、可愛いなって」
「……変態?」
真顔で言うから、僕は吹き出してしまった。もえこも、遅れて笑った。その笑顔が、宝物みたいに思えた。
でも、すれ違うことも増えた。
僕が冗談を言っても、もえこには通じないことがある。逆に、もえこが真剣に話すことを、僕が軽く流してしまうこともあった。
ある日、喧嘩した。
僕が遅刻したのだ。電車が遅れただけなのに、もえこは待っている間にパニックになってしまったらしい。
「約束の時間にいないと、私、頭の中がぐちゃぐちゃになるの。どこ行ったのかな、嫌われたのかなって、ずっと考えて……」
泣きそうな顔で言うもえこに、僕は苛立ってしまった。
「ただの遅刻だよ。そんなに大げさに……」
言い終わらないうちに、後悔した。
もえこは黙ってヘッドホンをかけた。そして、立ち上がって歩き出した。
追いかけたけど、もえこは振り向かなかった。
その後、一週間連絡が取れなかった。
僕が悪いのは分かっていた。でも、どう謝ればいいのか分からなかった。もえこの世界は、僕の想像とは違う場所にある。そこに踏み込むのが、怖かった。
結局、もえこから連絡が来た。
「ごめんね。私も、うまく説明できなくて」
再会した公園で、もえこは言った。
「りょうくんが遅れるのは、自分のせいじゃないって分かってる。でも、頭で分かってても、心が追いつかないの。こういうの、ずっと治らないと思う」
僕はもえこの手を取った。
「僕もごめん。もっと、ちゃんと向き合えばよかった」
もえこは小さく笑った。
「向き合うって、難しいよね。私たち」
秋になると、紅葉がきれいだった。
僕らはまたベンチに座って、落ち葉を拾った。もえこは、形のいい葉っぱを見つけるのが上手だった。
「これ、ハートみたい」
そう言って差し出される葉っぱを受け取るたび、胸が温かくなった。
冬が近づいて、初めてもえこの部屋に行った。
一人暮らしで、部屋はすごく整頓されていた。同じ色の服が、きれいに並んでいる。本棚には、電車や天体の本がぎっしり。
「ここ、私の安全な場所」
もえこはそう言って、僕に温かいココアを入れてくれた。
その夜、初めてキスした。
もえこの唇は、震えていた。でも、優しくて、温かかった。
「好きだよ、もえこ」
「……私も」
それ以上、何も言わなかった。
僕らは、普通の恋人みたいにはなれないかもしれない。
記念日は忘れてしまうかもしれない。サプライズも、うまく喜べないかもしれない。旅行に行っても、もえこが疲れてしまうかもしれない。
でも、この子と一緒にいたいと思った。
もえこが笑うとき、ちょっと遅れてくるその笑顔が、愛おしくてたまらない。
春がまた来て、桜が咲いた。
僕らはまた、同じベンチに座った。
もえこが、僕の肩にそっと頭を預けてきた。
「ねえ、りょうくん」
「ん?」
「ずっと、一緒にいてくれる?」
僕はもえこの手を握りしめた。
「もちろん」
もえこは、静かに微笑んだ。
風が吹いて、桜の花びらが舞った。
その瞬間、世界が少しだけ優しくなった気がした。
もえこの世界と僕の世界は、完全に重なることはないかもしれない。
でも、こうして手を繋いでいられるなら。
それで、十分だと思った。
少し切ないけど、温かい。
そんな、僕らの恋だった。
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