不思議なショートストーリーたち

フジーニー

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犬宮城

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雨上がりの静かな夜だった。  
萌子はいつものように、古いソファに腰を下ろし、膝の上で小さく丸まっているジョルを優しく撫でていた。  
保護されてからもうすぐ一年。  
ジョルは相変わらず静かで、ほとんど吠えることもなく、ただ黒い瞳で萌子の表情をじっと見つめているようなチワワだった。

最近、萌子の仕事は残業続きで、帰宅しても疲れ切った顔をしていることが多かった。  
ジョルはそんな萌子の変化を、誰よりも敏感に感じ取っていた。

「……萌子、今日も疲れた顔してるね」

突然、柔らかく少しハスキーな声が響いた。

萌子の手がぴたりと止まる。  
ジョルは膝の上でゆっくり顔を上げ、黒い瞳をまっすぐ萌子に向けた。

「ジョ……ル?」

「うん。僕だよ」

ジョルは小さく鼻を鳴らし、まるで「びっくりした?」とでも言うように首を軽く傾げた。

萌子は息を詰めて、震える声で尋ねた。

「いつから……喋れるようになったの?」

「わからないんだ。  
でも、萌子が僕を抱きしめて『ジョルがいてくれて、本当に良かった』って泣きながら言ってくれた夜から……  
なんか、胸の奥が熱くなって、言葉が自然に溢れてきた」

ジョルは少し照れたように目を細め、続けた。

「人間の愛情って、本当にすごいね。  
僕みたいな、捨てられて小さくて弱いチワワでも、  
こんなに深く、こんなに温かく感じられるんだ」

萌子の目から涙がぽろりと落ちた。  
彼女はジョルを両手でそっと抱き上げ、頬を寄せた。

「ジョル……ありがとう。  
こんなに私のこと、ちゃんと見ててくれて……」

その瞬間、部屋の隅に、青く透き通った光の渦が静かに現れた。  
まるで水面が揺れるようにきらめき、優しい波の音がどこからか聞こえてくる。

「ようこそ、深く愛を知った子犬よ。  
そして、その愛を注いだ優しい人間よ」

現れたのは、長いヒレのような耳と、雪のように白い毛並みを持つ犬だった。  
体は半透明で、光の粒をまといながらゆらゆらと浮かんでいる。

「僕はシロ。犬宮城の使いの者です。  
乙姫さまがお二人をお迎えしたいと仰っています」

萌子は驚きを隠せなかった。

「犬宮城……? 竜宮城じゃなくて?」

シロは穏やかに微笑んだ。

「ええ。  
ここは『人間に心から愛された犬』と、その愛をくれた人間だけが招かれる、もう一つの海底の楽園。  
だから、私たちはそれを『犬宮城』と呼んでいます」

ジョルが萌子の腕の中で小さく体を震わせた。

「萌子……僕、一人じゃ行きたくない。  
萌子と一緒じゃなきゃ、意味がないよ」

シロが優しく頷く。

「もちろん。  
お二人の絆こそが、犬宮城への鍵なのです。  
どうぞ、一緒においでください」

萌子はジョルをぎゅっと胸に抱きしめ、深呼吸した。

「……行こう、ジョル。  
一緒に、すごいところ見てこようね」

青く輝く光の渦が二人を優しく包み込んだ。

光が消えたとき、そこはもう人間の世界ではなかった。

海の底なのに息ができて、  
色とりどりの魚たちが歓迎の輪を作り、  
珊瑚と貝殻でできた巨大な宮殿が、虹色の光を放っている。

そして、玉座に座っていたのは、美しい白い毛並みの大きな犬――乙姫だった。  
長い尻尾が優雅に揺れ、瞳はまるで満月の光のように穏やかだ。

「ようこそ、ジョル。萌子さん。  
あなたたちの愛は、ここではとても貴重な宝物なのです」

乙姫の声は、波のささやきのように優しかった。

二人は犬宮城で、まるで夢のような五日間を過ごした。  
(人間の世界では、ほんの数時間しか経っていなかった)

光る真珠の海で一緒に泳いだ。  
魚たちが歌を歌ってくれて、ジョルは興奮して萌子の周りをくるくる回りながら叫んだ。

「萌子! 見て見て! この魚、歌ってるよ! 僕の名前呼んでる!」

大きな貝殻のベッドで一緒に昼寝をした。  
乙姫が特別に用意してくれた、ふわふわの海藻の毛布は、  
萌子の膝の上の感覚にそっくりで、ジョルはすぐに丸まって寝息を立てた。

夜になると、星のような光の粒が浮かぶ海底の空を見上げながら、  
乙姫が静かに語ってくれた。

「愛された犬は、言葉を話せるようになることがある。  
それは、心が人間の温もりに満ちた証。  
そして、その愛をくれた人間と共にここへ来られるのも、  
とても稀なことなのです」

萌子はジョルの小さな頭を撫でながら、呟いた。

「ジョルと一緒じゃなかったら、こんな素敵なところに来れなかった。  
ありがとう、ジョル」

ジョルは萌子の胸に顔を埋めて、  
「僕もだよ。  
犬宮城はすごいけど……やっぱり、萌子の温もりが一番だ」

最後の夜、乙姫は二人に小さな贈り物をくれた。

「これは『永遠の絆のしずく』。  
二つとも、同じ貝殻でできています。  
離れていても、いつもお互いの鼓動を感じられるようになります」

ジョルの小さな首に、萌子の首に、同じ虹色の貝殻の首飾りがかけられた。

帰りの光の渦が現れる直前、  
ジョルが萌子の手を小さな前足でそっと握るような仕草をした。

「萌子……  
またいつか、来れたらいいね。  
でも、今は……家に帰って、いつもの膝の上で寝たい」

萌子は涙をこらえながら、大きく頷いた。

「うん。  
帰ろう、ジョル。  
私たちの家に」

光が二人を包み、次の瞬間――  
いつもの古いアパートのソファに戻っていた。

ジョルの毛並みはいつもよりつややかで、  
首の貝殻がほのかに青く光っている。  
萌子の首にも、同じ貝殻のペンダントが静かに輝いていた。

萌子はジョルをぎゅっと抱きしめて、  
「ただいま、ジョル」

ジョルは幸せそうに目を細め、  
「ただいま、萌子。  
これからも、ずっと一緒にね」

その日から、二人の日常は少しだけ特別になった。

ジョルが時々、夢見るように呟く。

「ねえ、萌子。覚えてる?  
あの歌う魚とか、光る星の海とか……」

萌子は笑って頷き、  
「うん。全部覚えてるよ。  
でもね、一番きれいだったのは、  
ジョルと一緒にいられたことだよ」

ジョルは照れくさそうに鼻を鳴らして、  
萌子の膝にぴったりと体を預けた。

犬宮城は遠い夢のようだけれど、  
二人の絆は、今ここにある。  
これからもずっと、  
小さなチワワとその飼い主の、  
温かい日常を優しく照らし続けるだろう。

ところが、数日後。

ジョルと公園を散歩している日のこと。

すれ違う人皆、萌子の方に視線を向ける。
ジロジロと見ている。
間違いなく見ている。

ワン!と元気よく吠える犬と喋る飼い主。

そう。
ジョルが人間の言葉を喋れるようになった訳では無かったのだ。
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