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皆川さん
しおりを挟む雨が叩きつける夜だった。
コンビニの自動ドアが開くたびに、湿った冷気が店内を這うように流れ込み、蛍光灯の白い光をわずかに歪ませる。
深夜2時を少し回ったレジカウンターに、いつものように皆川さんが立っていた。
皆川さん。
誰も本名を知らないし、知ろうともしない。
社員証には「皆川」とだけ記されていて、年齢は30代後半から40代前半のどこか——誰も正確に当てられない。
黒のポロシャツに黒のチノパン、髪は短く刈り込まれ、表情はほとんど動かない。
ただ、目だけが違う。
澄みすぎていて、深すぎていて、見つめられると自分の心臓の鼓動が急に大きく聞こえる。
まるで、胸の奥に誰かが耳を当てているような、そんな錯覚を起こさせる目だった。
「袋にお入れしますか?」
皆川さんの声はいつも平坦で、抑揚がない。
客が「いらない」と答えると、
「了解しました」とだけ返し、商品を丁寧にトレーに並べ直す。
その動作は機械的でいて、どこか優雅だった。
でも、時々——本当に稀にしか起こらない——
客が「袋に」と言う前に、
皆川さんが先に口を開くことがある。
「今日は袋、要りませんよね」
その一言で、客はなぜか頷いてしまう。
まるで、自分の喉が勝手に動いたみたいに。
そして後になって気づく。
本当に、今日は袋なんて必要なかったのだと。
---
俺が初めて「何かおかしい」と感じたのは、3ヶ月前の夜だった。
風邪を引いて、頭がぼんやり熱っぽかった。
レジに並んだとき、皆川さんが一瞬だけ俺の顔を見て、
静かに、しかしはっきりとこう言った。
「明日の朝、熱は下がりますよ。
でも薬は飲まないでください。
体が自分で治そうとしてる最中ですから」
「……は?」
俺は笑って流した。
冗談か、適当な世間話かと思った。
でも次の朝、本当に熱がぴたりと引いていた。
枕元の風邪薬のパッケージは、開封すらされていなかった。
俺はそれを眺めながら、ぞっとした。
なぜなら、昨夜の皆川さんの言葉を、完全に忘れていたからだ。
それ以来、俺は皆川さんを観察するようになった。
毎週のように深夜に来店し、わざとレジに並び、
何気ない会話を振ってみた。
でも皆川さんは、いつも同じ調子で答えるだけだった。
---
ある夜、いつもの酔っ払いの常連が絡んできた。
「おいおい兄ちゃん、いつまでこんなところでバイトしてんだよ~。
もっとマシな仕事ねえのか?
顔は悪くねえんだから、キャバクラでも行けよ~」
皆川さんは商品をスキャンしながら、変わらない声で返した。
「ここがいいんです。
皆さんが来てくださるから」
酔っ払いがさらに声を荒げようとした瞬間、
皆川さんが静かに、しかし鋭く続けた。
「あなた、今夜はタクシーで帰った方がいいですよ。
あと3分後に歩いて帰ろうとしたら、
一番近くの交差点で、右から来た軽トラに……
跳ねられます」
空気が凍った。
酔っ払いの顔が一瞬で青ざめ、
ビニール袋を握る手が震えた。
「何だよそれ……脅しか?
ふざけんなよ」
「違います。
ただ、見えてるだけです」
皆川さんの目は、酔っ払いの瞳をまっすぐ捉えていた。
そこに嘘はなかった。
嘘なんて、最初から存在しないような目だった。
酔っ払いは黙って会計を済ませ、
スマホを取り出してタクシーを呼んだ。
店を出るとき、背中が小さく見えた。
次の日、その男がまた来た。
今度は酒を買わず、ただコーヒーだけをレジに置いた。
顔はすっきりしていて、昨夜の酔いが嘘のようだった。
「……昨日、マジで軽トラ来たわ。
信号無視で突っ込んでくるやつ。
俺が横断歩道歩いてたら、確実に死んでた」
皆川さんはコーヒーのバーコードを読み取りながら、
静かに言った。
「袋にお入れしますか?」
男は小さく頭を下げて、出て行った。
---
ある雨の強い夜。
店内には俺と皆川さんだけだった。
外の雨音が、まるで店全体を包んでいるようだった。
俺はレジの前に立ち、勇気を振り絞って聞いた。
「皆川さんって……未来が見えるんですか?」
皆川さんは商品をスキャンする手を止めず、
淡々と答えた。
「未来というより……
『決まっている』ものが見えるんです。
ほとんどの人は、自分で選んだと思ってる道を、
実はもう歩き始めているだけなんですよ。
分岐点は、思ってるよりずっと少ない」
「じゃあ、俺の未来も見えてる?」
皆川さんは初めて、俺をまっすぐ見た。
その目は、雨に濡れた窓ガラスの向こう側みたいに遠く、
でも同時に、俺の心の奥底まで見透かしているようだった。
「見えてます」
「……どんな未来?」
皆川さんは少し間を置いて、ゆっくりと言った。
「あなたは、来年の夏に結婚します。
相手は今、隣の県に住んでいる人です。
まだ一度も会ったことがない。
でも来年の4月、たまたま同じカフェに入って、
隣の席になる。
彼女は窓際の席が好きで、あなたはいつもカウンターを選ぶのに、
その日はなぜかテーブル席を選ぶ。
そこから、始まります。
小さな会話から、連絡先の交換から、デートの約束から……
そして、来年の8月、彼女の実家で両親に挨拶をする。
指輪はシンプルなシルバーで、彼女が選んだものです」
俺は笑おうとした。
でも喉が詰まって、声が出なかった。
「それ……幸せな未来?」
皆川さんは少しだけ首を傾げた。
まるで、初めてそんな質問を受けたかのように。
「幸せかどうかは、あなたが決めることです。
私はただ、『起こること』を言ってるだけですから。
未来は、絵画みたいなものじゃないんです。
まだ乾いていない絵の具で、触れば少しは滲む」
「じゃあ、変えられるの?
その未来を」
皆川さんは、初めて小さく微笑んだ。
それは、すごく寂しそうな、
でもどこか優しい笑顔だった。
「変えようと思えば、変えられます。
でも……ほとんどの人は、変えないんです。
だって、それが『自分らしい』と思ってるから。
変えるってことは、自分を否定するような気がするから」
雨音が一層強くなった。
俺は最後に、震える声で聞いた。
「皆川さん自身の未来は……見えてるんですか?」
皆川さんはレジのディスプレイをゆっくりと消した。
店内の蛍光灯が一瞬だけ揺れた気がした。
静寂が、雨音と一緒に広がった。
「見えてます」
「……どんな未来?」
皆川さんは、目を伏せずに答えた。
「私が、ここに立ち続ける未来です。
ずっと。
何年経っても、何十年経っても。
誰かが来るのを、待ってる未来。
新しい顔が来て、話しかけて、
そして去って行くのを、ただ見ている未来」
俺は言葉を失った。
皆川さんは最後に、静かに付け加えた。
「あなたが来てくれて、よかったです。
今日は、これで終わりですね。
……また、来てください」
自動ドアが開く。
雨が、まるで俺を追い出すように激しく降っていた。
俺は傘も差さず、外に出た。
背後で、皆川さんの声が小さく響いた。
「来月も、来てくださいね。
まだ、あなたの物語は続きますから。
……そして、いつか、私の物語も」
振り向いたとき、
レジの向こうにいたのは、いつもの皆川さんだった。
でもその目は、
もう俺を見ていなかった。
まるで、ずっと先の雨の向こう側を、
永遠に待ち続けるように、
静かに見つめているみたいに。
続く。
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