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十四段目の階段
しおりを挟む少女の名前は、もう誰も呼んでくれなかった。
地下室の天井は低く、頭を少し上げただけでコンクリートに触れてしまう。
壁には爪で引っ掻いたような無数の線が刻まれていて、それが日数の記録だと気づいたのは、三年目の夏だった。
監禁されていると気付いたのもそのもっと前だった。
鍵はいつも外側からかけられていた。
でも今日は違った。
朝、いつものように鉄の扉の向こうから「ご飯だよ」という声がしたあと、
カチャリ、という音が二回続いた。
普段は一度しか聞こえない音。
二回目は、鍵が外される音だ。
少女は息を殺した。
扉がゆっくり開く。
男はいつも通りトレイを持って立っていたが、今日は少し様子が違う。
目が赤く、頬がわずかに濡れていた。
「……今日は、外に出てみない?」
少女は一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
男はトレイを床に置いて、扉を大きく開けた。
その先は、薄暗い階段。
十四段あることを、少女は知っていた。
毎晩、眠れないときに数えていたから。
「行ってごらん。
もう、鍵はかからないよ」
少女はゆっくり立ち上がった。
足が震えて、最初の一歩がうまく踏み出せなかった。
でも男はただ静かに待っていた。
責めるでも、急かすでもなく。
階段を一段ずつ登る。
一、二、三……
十段目あたりで、少女は振り返った。
男はまだ地下室の入り口に立っていて、
小さく手を振った。
「……ありがとう」
少女はそう呟いて、また前を向いた。
十一、十二、十三。
十四段目。
最後の段を踏んだ瞬間、
目の前に広がったのは、普通の玄関だった。
靴箱の上に、少女のサイズのスニーカーが揃えて置いてある。
窓の外には、夕焼けが沈みかけていた。
少女は玄関のドアノブに手をかけた。
そのとき、背後から男の声がした。
静かで、どこか諦めたような声。
「ねえ」
少女は振り返らなかった。
「もし外に出て、また誰かを傷つけたくなったら……
どうする?」
少女の手が、ノブの上で止まった。
長い沈黙。
そして、少女は小さく笑った。
それは、初めて聞くような、乾いた笑い声だった。
「……そんなこと、考えたこともなかったよ」
ドアノブを回す。
外の空気が、冷たくて、少し甘かった。
少女は一歩踏み出した。
ドアがゆっくり閉まる音がした。
その音が完全に消えるまで、
男は地下室の入り口に立ち尽くしていた。
そして、誰もいなくなった家の中で、
男はぽつりと呟いた。
「……これで、終わりだ」
十四段目の階段は、
今日も静かに、そこにあった。
――そして、ここでようやく明かされる。
少女が外へ出たその瞬間、
男の背後で、地下室の扉が自然に閉まり、
カチャリと鍵がかかった。
男はゆっくりと振り返った。
扉の向こう側から、かすかな声が聞こえた。
「また、鍵がかかっちゃった……
なんで監禁されてるの?」
男は目を閉じて、深く息を吐いた。
少女は覚えていない。
自分が何者なのかを。
自分が何をしていたのかを。
三年前、少女は連続殺人犯だった。
笑いながら人を刺し続け、
捕まる直前に「自分が何をしたのかわからない」と泣き叫んだ。
男は父親だった。
家族を失った男は、復讐ではなく、
「もう誰も死なせたくない」という理由で、
少女を監禁し続けた。
でも、少女は毎回、記憶を失う。
薬のせいか、トラウマのせいか、
それとも少女自身が作り出した防衛機制か。
だから男は、鍵を外す。
少女を外へ出す。
そして少女は、自由を手に入れたと思った瞬間に、
自分で自分を閉じ込め直す。
なぜなら、少女の心の奥底では、
「自分がまた誰かを殺してしまうかもしれない」という恐怖が、
男よりも強く、少女自身を縛り続けているから。
十四段目の階段は、
少女が自分で登り、自分で降りるためのものだった。
男はもう何年も、
その「最後の段」を踏ませてあげていた。
今日もまた、
少女は自分で鍵をかけた。
男は静かに呟いた。
「……お疲れ。
また明日も、鍵を外してあげるから」
家の中は、再び静かになった。
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