不思議なショートストーリーたち

フジーニー

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オヤジがオカンになった日

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俺は五十路手前、佐藤健一。  
通称「ケンちゃん」じゃなくて、もう完全に「オヤジ」だ。  
妻の美佐子とは結婚して二十五年になる。  
娘の彩花は大学四年生で、就活真っ最中。  
実家暮らしのまま、毎日スーツを着て面接に行ったり、落ちて帰ってきたり。  
俺はそんな彩花の背中を、いつもリビングのソファからぼんやり見てるだけだった。

ある土曜の朝。  
いつものように新聞を広げてコーヒーをすすっていたら、美佐子が台所から大声で言った。

「健一! 今日、彩花の就活スーツ買いに行くって約束したよね?  
私、午後から実家に顔出さなきゃいけないから、絶対頼んだよ!  
彩花、ちゃんと選んであげてね」

「……ああ、わかった」

俺は新聞から目を離さず返事した。  
内心では「俺が女の子のスーツ選びとか、絶対無理だろ」と思っていた。  
美佐子はもうバッグを持って玄関へ向かい、ドアを閉める音が響いた。  
逃げ場はなくなった。

彩花は電車で先にデパートへ向かうと言っていた。  
俺は車で後から行くことにした。  
……本当は、一緒に家を出て一緒に車に乗るつもりだったのに、  
出発前に「ちょっとトイレ」とか言って時間を潰し、  
結局、駐車場に着いてからも車の中で三十分ほどぼーっとしていた。

デパートに着いたのは午後一時半。  
彩花はエスカレーターの前でスマホをいじりながら待っていた。  
顔を見た瞬間、ちょっと疲れたような笑顔を浮かべた。

「お父さん、遅いよ……」

「渋滞してた」

嘘だ。  
本当は駐車場でアイスコーヒーを二杯飲んで、娘とまっすぐ向き合うのを先延ばしにしていた。  
彩花の就活が本格化してから、俺はなんだか怖かった。  
もう子供じゃない。  
もう俺の手を離れていくんだって、薄々わかっていたから。

試着室の前で待つこと三十分。  
彩花が最初に着て出てきたのは、紺のテーラードジャケットに白いブラウス、膝丈のタイトスカート。  
ヒールはまだだけど、鏡の前に立った彩花は、もう完全に「社会人」だった。

「……似合ってるじゃん」

俺の声が、思ったより震えた。

彩花は少し照れくさそうにくるっと回って見せた。

「どう? おかあさんみたい?」

その一言で、俺の胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

二十五年前。  
美佐子が就活のスーツを着て、俺のアパートに初めて遊びに来た日の記憶が、急に鮮やかによみがえった。  
あの頃の美佐子は彩花より少し背が低くて、笑顔がもっと柔らかくて、  
でも目には同じような不安が浮かんでいた。  
「これから社会に出るんだ」って、ちょっと怖がってる目。

俺はあのとき、何て言ったんだっけ。

「似合ってるじゃん」  
それだけだった。  
美佐子は照れ笑いして「ありがとう」って言って、  
そのまま俺の膝に座ってきて、  
「健一さん、私、ちゃんとやっていけるかな……」って小さな声で呟いた。

俺はただ「大丈夫だよ」って頭を撫でただけだった。

今、目の前にいるのはその娘だ。  
同じように不安を抱えて、同じように笑おうとしている。

試着を繰り返す彩花を見ながら、俺は気づいてしまった。  
俺はずっと「オヤジ」でいるつもりだった。  
仕事から帰って飯を食って、風呂に入って、寝る。  
彩花の面倒は美佐子がほとんど見てくれていた。  
熱が出たときも、受験の前夜も、失恋したときも、  
俺は「オカンがいるから大丈夫だろ」って、どこかで逃げてた。

彩花が五着目を出してきたとき、  
俺は思わず立ち上がって、彩花の肩に手を置いた。

「彩花。お前、もうおかあさんみたいだな」

彩花がびっくりした顔をした。

「え、お父さん……今なんて?」

「いや、なんでもねえよ」

俺は慌てて手を離したけど、彩花はニヤニヤしながら近づいてきた。

「ねえお父さん。  
さっきからずっと『スカート短くない?』『ブラウス透けてない?』『ジャケットの肩パッド入ってる?』『ボタンちゃんと閉めて』って、  
完全に美佐子さんと同じこと言ってるよ?  
もうお父さんも『おかん』でいいんじゃない?」

「……うるせえ」

俺は彩花の頭を軽く小突いた。  
でも、その手はいつになく優しかった。  
彩花は笑いながら、俺の腕に軽く寄りかかってきた。

「ありがとう、お父さん。  
今日、一緒に来てくれて……なんか、安心した」

その言葉で、俺の目頭が熱くなった。  
慌てて目を逸らして、試着室の隅にある鏡を見た。  
そこに映ってるのは、五十路手前の疲れた顔の男。  
でもその目が、なんだか少しだけ優しくなってる気がした。

彩花がさらに二着試して、最後に最初に着た紺のセットに戻ってきた。  
俺が「これが一番似合ってる。背筋が伸びてる感じがいい」って言ったら、  
彩花は目を輝かせて「じゃあこれにする!」って即決した。

帰りの車の中。  
助手席の彩花が、静かに言った。

「お父さん、私ね……  
最近、面接で落ちまくってて、  
『私なんかダメかも』って思ってたんだ。  
でも今日、お父さんが真剣に選んでくれて、  
『これが一番似合ってる』って言ってくれたとき、  
なんか……『私、ちゃんとやっていけるかも』って思えた」

俺はハンドルを握る手に力を込めた。  
喉が詰まって、声が出なかった。

「……お前は、ちゃんとやっていけるよ。  
おかあさんも、俺も、そうだったから。  
お前は俺たちの娘なんだから」

彩花は少し泣きそうな顔で、俺の方を見た。

「お父さんも……おかんみたいになってきたね」

家に着くと、美佐子がすでに帰っていて、  
玄関でエプロン姿で出迎えた。

「どうだった? スーツ買えた?」

彩花が紙袋を掲げて、得意げに言った。

「買えたよ! お父さんが選んでくれたんだから!  
しかも『これが一番似合ってる』って、めっちゃ真剣に言ってくれた!  
お父さん、完全に美佐子さんみたいだったよ」

美佐子が俺を見て、くすっと笑った。

「へえ、健一がねえ……珍しい」

俺は照れくさくて、靴を脱ぎながらぼそっと言った。

「……俺も、今日ちょっとおかんになった日だったわ」

美佐子は一瞬目を丸くして、それから大きな声で笑い出した。  
でもその笑顔の奥に、涙が光ってるのがわかった。

「やっと自覚したんだ……  
ずっと待ってたよ、健一。  
彩花の面倒、ひとりで背負ってるみたいに思ってたけど、  
本当は私も、健一が一緒にいてくれるのを待ってた」

彩花が俺の背中をぽんぽん叩いた。

「これからは三人でおかんチームだね!  
お父さん、これからもよろしく!」

俺はため息をついて、  
でも口元が緩むのを止められなかった。

オヤジがオカンになった日。  
それは別に、急に胸が大きくなったとか、  
生理が始まったとか、そんな話じゃない。

ただ、  
家族の「温かさ」を、  
自分の手でちゃんと抱きしめられた日だった。

娘の未来を、  
妻のこれまでを、  
そして自分のこれからを、  
初めてちゃんと見つめられた日。

リビングの灯りが、いつもより少し優しく感じた。  
俺は三人分のコーヒーを淹れながら、  
静かに呟いた。

「これからも、よろしくな」

美佐子と彩花が、同時に「うん」って頷いた。

その声が、俺の胸に深く染みていった。

夕飯の支度をしながら、美佐子がふと俺の背中に寄りかかってきた。

「健一、ありがとう」

俺は振り返らずに、ただ小さく頷いた。

「俺の方こそ」

三人でテーブルを囲んだ夜は、  
いつもより少しだけ、温かかった。
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