栗姫と獅子 ―第三皇女誘拐事件―

菊池浅枝

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栗姫

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 あれは確か、去年の、年始の挨拶の時だった。皇后の住む奥殿に参上し、栗姫が挨拶口上を述べていた時。

「虫が煩いの」

 栗姫の言葉を遮って、皇后が言った。

「この寒さで死んでおれば良いものを。いつまで煩い羽音を私に聞かせる気か」

 皇后は、栗姫を見てすらいなかった。
 凍りつくような、暗く光る瞳を外の雪景色に向けて、手にした扇を、今にも羽虫を打ち殺そうかと言うように固く握り締めていた。

 背筋を寒気が撫でていった。雪が音を掻き消すような、それほどに寒い、年明けだった。

 皇后付きの女房が、俄に察して道をあけたので、栗姫も黙って頭を下げ、そのまま退出する。その、腰を上げる一瞬。
 栗姫を見遣った皇后の眼が、底冷えのする青い炎で燃えているのを、視界の端に映した。





 ――良い名前だな。焼いて塩を振ると美味しい。

 そう言って笑った顔が、どこかほっとした顔のようにも見えて、栗姫は彼の差し出す手を取ったのだった。

 今考えても、獅子の褒め言葉というのは独特だと思う。
 まさか名前を美味しいという言葉で褒められるとは思わなかったと、栗姫は桜の木の根を足がかりにしながら思い出していた。いや、確かに栗は、甘く煮るのも良いけれど、焼いてほくほくとした食感と仄かな甘みのあるところに、塩で味を調えるのもとても美味しいのだが。

 紫苑党の牢を逃げ出してから、三日目の朝が来ていた。
 道は記憶通りに進めている。

 さすがに獅子たちのような速さでは山をけなかったが、それが逆に功を奏した。一日目の夕方には、栗姫は紫苑党の者たちに追いつかれていたのだが、白の小袖を撫子の帯で覆い、夜陰に紛れるようにして高い木の葉陰でやり過ごせばあとは、栗姫は彼らの後ろを追えば良かった。彼らが一旦都に着いてしまうまでは、引き返してくる可能性も低い。おかげでこれまでの道のりを、栗姫はかなり楽に歩けた。

 とはいえ、もう三日。そろそろ紫苑党の者たちが都に着いて、そこにまだ自分がいないとなれば、探しに戻ってくるはずだった。ここからは少し記憶とは違う道を行った方が良いだろうと考えて、栗姫は、記憶の道からは数間離れた、高い木の側を歩くようにしていた。少し手間にはなるけれど、時々木に登って元の道を遠目に確認しつつ進む。木の上なら身も隠せるし、周囲を遠く見通すこともできた。音を殺すことまではさすがにできなかったが、遠目に人が見えた時点で木の上でじっとしていれば、早々見つからないことは、一日目の夕方で経験済みだった。

 それにしたって。

 網の目に伸びた樫の木の根を踏みながら、栗姫は眉根を寄せる。
 追ってきた紫苑党の人たちの中に、獅子がいなかった。勿論、目の前で逃げ出しておきながら、そんな事に自分が拗ねるのは筋違いにもほどがある。それは分かっている。それでも、追いかけてくれていれば。

 もう一度、遠目でも獅子の姿を見ることができたのに。

 子供じみた我が儘だった。
 獅子に酷いことをした。あんなに気遣ってくれて、あんなにずっと、傍にいてくれたのに。
 嫌いにならないで欲しいなんて、馬鹿みたいな願いだった。都に戻れば自分は、六嘉のどこか適当な大臣に嫁ぐ。そうなれば獅子はおろか、二度と彩葉の山を見る日も、来ないかも知れないのに。





 ――紫苑党って知ってるか。
 あの日、皇宮の庭の林で、栗姫が木を下りるのを手助けしながら獅子が言った。
 栗姫は獅子の腕に体を支えてもらいながら、しばらく考えて思い出す。確か、女房の噂話にあった。

「ああ、地方で義賊みたいなことをやってるって言う」
「俺、そこの雑用係なんだけど」
「なるほど、だから皇宮では見かけない人がこんなところに」
「なるほど?」

 獅子が怪訝そうに眉を顰める。その瞳が、あっさり納得しすぎじゃないかと言外に問うているので、今更過ぎて栗姫は笑った。怪しいという意味でなら、最初の時点で悲鳴を上げている。それをしなかったのだから、素性を聞かされたところで、今更慌てることもなかった。

 とん、と地に足をつけ、獅子と正面から向かい合う。月は半分しかなかったが、星が明るかったので顔はよく見えた。獅子の少し吊り上がるような明るい眼、薄茶に白の混じった髪、土で汚れ、細かい傷のついた爪。

「それで、紫苑党の人がどうして皇宮に?」
「……地方豪族による蜂起は、知ってますか」
「勿論」
「皇女を人質に、皇宮に豪族たちの要求を呑んでもらう。うちはその、実行部隊として来た」
「……随分、危ない橋を」

 栗姫は息を呑んだ。目の前の少年は、自分とそう変わらない歳に見える。皇宮の庭に忍び込んだだけでも打ち首になっておかしくない罪だ、まして誘拐ということは、紫苑党は、人質に正体を教えてしまう可能性が高くなる――というか、今まさに、獅子と名乗った少年は己の顔と名を栗姫に教えてしまっていた。

「待って、なんで顔をさらしているの。覆面は?」
「必要ないだろう」
「必要でしょう! 命を無駄に危険にさらさないの!」

 栗姫の言葉に、獅子がふ、と目を細める。
 とたん、獅子の表情が柔らかくなった。さっきまで少し緊張しているような面持ちだったのに、その瞬間、最初に栗姫が名乗ったときと同じように、どこか――安堵したような。
 その瞳のまま、獅子が口を開く。

「あんた皇女だろ」

 木を下りるときに繋いだままだった手を持ち上げて、獅子は微笑みながら言う。

「俺についてきてくれないか」

 ――いいわ、と。

 その返事は、栗姫の中ですでに用意されていたものだったにも拘わらず。
 まるで、口から零れ落ちてしまったかのように、言葉が口をついて出た。

 獅子に手を引かれて皇宮を抜け出すと、宮廷にほど近い山の裾で、今にも皇宮に忍び込もうとしていた紫苑党の人たちと合流した。唖然としている彼らに、栗姫が自身の身分の低さ、ひいては人質としての価値の低さを告げれば、隣で獅子が、眉を顰めるのが見えた。

 ごめんなさい、と栗姫は心の中で謝る。ここまで連れてこさせておいて、これを言うのは卑怯だっただろう。だが、騒がれ正体を明かされる危険のある姫よりも、よっぽど扱いやすいはずだと踏んでいた。結果、目論み通り栗姫は、人質として紫苑党のアジトへ連れていかれることになった。

 夜の山は危ないからと、獅子に背負われた栗姫は、その細い背中に乗りながら口を尖らせる。

「他の人は、ちゃんと顔を隠してるじゃない」
「あんたには必要なかったでしょう」
「結果論ね?」
「あんただって、自分の利用価値が低いかもなんて、言う必要なかっただろうが」

 獅子が苦々しそうに、そう言った。

 長い袿の裾を獅子が体の前で結び、栗姫が落ちないようにして、その日は少しでも遠くにと夜通しで山を越えた。獅子は栗姫より少し背が低かったので、正直重そうだったのだが、道中の仲間の代わろうかという申し出は、結局、全部獅子自身が断った。色々と理由をつけていたが、端的に言えば、

「大人の男に負ぶわれる方が恐くないか」
「それは……まあ……」

 朝方、限界が来た栗姫は、獅子の背で眠ってしまった。そのまま昼の休息まで、ずっと獅子が背負い続けてくれたことを知って申し訳なく思った栗姫が問うたときの、獅子の返答が、それだった。

 獅子は近くの三角蔓さんかくづるを小刀で切って栗姫に渡す。紫苑党の半分は、昼食調達のため傍を離れていた。栗姫の近くには、手を繋いだ獅子だけがいて、この蔓の汁は水気のない山では貴重な水分なのだと、獅子が教えてくれた。

「少ししたら穂刈たちが兎か鳥でも狩ってくる。それまではこれで我慢してください」
「鹿は?」
「大きいから移動中は狩らない。猪も」

 全員で火を囲んで食事をするときと、蔓草を繋ぎ紐にして用を足すとき以外、獅子はずっと手を握っていてくれた。目が覚めてからは栗姫も自分で山を歩いたが、それでも獅子の手助けは必要で、獅子は歩きやすいように栗姫の手を引き、険しいところは、再び獅子の背を借りることもあった。

 けれど、多分。
 手助けのためだけに、繋いでくれているのではない。

 そう思ったのは、夜、交代で見張りをしながら洞窟内で眠るときだった。
 獅子は栗姫の隣で静かに目を閉じながら、一晩中、栗姫の手を離さなかった。
 逃げ出さないように。そう言われればそうかも知れないけれど。
 それだけで、こんなにも、離れないように傍にいてくれるものだろうか。

 うとうとと微睡まどろみながら、握り返した獅子の手は、栗姫にはひどく温かかった。
 細いけれど固くて皮の厚い手。その手の甲に、洞窟の外から星明かりが届いている。白々とした明るさに吊られて、狭い洞窟の外にそっと目を遣れば、木々の合間に、さんざめくような星空が見えていた。それは満天に銀を鏤めたようで、賑々しく、木々の隙間からでも十分に明るかった。ひとり、皇宮の庭から眺めていたときは、遠く、遙かなものに見えていたのに。

 それが、今。どうしてか、こんなにも近く感じる。
 手を伸ばせば届くのじゃないかと思った。

 物心つく頃にはもう、栗姫はひとりだった。数の少ない女房たちは、仕事の多さや自身の境遇を愚痴っていることが多く、話が盛り上がれば栗姫は、置き物のように放っておかれた。筆や絵巻を手にしても指の隙間が薄ら寒くて、まるで本当に置物のように一人で部屋にいるのが嫌で、外で木の実や草花を集めて、何か、あたたかいもので、この掌を埋めたかった。

 ――虫が煩いの。
 ――この寒さで死んでおれば良いものを。

 樫の木の下で、手を差し出した獅子の、安堵したような微笑みを思い出す。
 何に安堵していたのだろう。何が、獅子にとって嬉しかったのだろう。
 自分の手も、獅子にとってあたたかいものであれば良いと思った。








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