栗姫と獅子 ―第三皇女誘拐事件―

菊池浅枝

文字の大きさ
9 / 10

もう一度

しおりを挟む
 樫の木の幹に足をかけ、ぐっと腕を伸ばして枝にしがみつく。斜面に張り出すように伸びた太い枝を這い、辺りを見回して、栗姫はほ、と息をついた。

「――着いた」

 樫の枝のすぐ先。褐色に染まった葉の向こう。
 もう日も暮れそうな茜色の光に包まれた、朱塗りの大きな宮殿が見えていた。
 皇宮のすぐ側にある山の裾だ。栗姫の住んでいた北殿や、柘榴姫のいる斎宮殿、皇太子や望月姫のいる東宮殿も、すぐ近くに見えている。

 ここまでくればもう、来た道をなぞる必要はない。下へ向かえば都に着く。見つからないように道を逸れようと、樫の木の幹を振り返った。

「おい」

 びくりと、肩が震えた。
 枝の下から、声をかけられた。しまった。もう都が近いからと、焦ってきちんと周囲の人の気配を探れていなかったか。いや、もしかしたら、待ち伏せされて向こうが気配を消していたのかも。もっと早く、道を逸れているべきだった。

 栗姫は固まったまま動けない。大人しく下りるべきだろうか。万一に賭けて逃げてみるべきか。あまり顔は合わせなかったが、これまで随分我が儘を許してくれた紫苑党の人ならば、必死で訴えればこのまま自分を都に行かせてくれるかも知れない。

「なあ――あんた、名前は?」
「え」

 栗姫は目を見開く。
 問われた内容に、ではない。

 その声が――あまりにも、聞き覚えのあるものだったから。

 あの日、皇宮の庭で、今と同じ言葉で。
 この二ヶ月間、毎日ずっと、聞き続けていた声。

「――獅子?」
「うん」

 届いた返事の柔らかさに、おそるおそる、栗姫は自分の足下へと視線を向ける。裾を切ってぼろぼろになった袴から覗く素足の、さらに、その下。
 薄茶に白が混ざって、黄金きんのように見える獅子の髪が、風に揺れた。

「迎えに来た。なあ、頼むから、もう一度俺の手を取ってくれないか、栗姫」

 そう言って、微笑みながら手を差し伸べてくるその瞳が、まるで、ほっとしたように柔らかく細められて。

 ぽた、と。
 乾いた落ち葉に、滴が落ちた。

 滴の元は、自分だった。ぼたぼたと、下瞼から熱いものがあふれて、どんどん零れていく。枝についた手の甲を、獅子の頬を、眼下のかさつく枯れ葉のうずを、栗姫の涙が濡らしていく。
 止められなかった。そんなことを思う前に、もう、あふれだしてしまっていた。

「泣くほど困らせてるのに悪いんだけど、でも、栗姫、」
「馬鹿」

 眉間に皺を寄せる獅子を見て、栗姫は枝から体を離す。差し出されていた獅子の手を取り、樫の枝から足も離すと、どさりと、獅子の上に落ちた。

「……っ」

 獅子が僅かに体をよろめかせる。
 それでも、倒れることなく栗姫を受け止めた。腰と背中を支えられ、栗姫はその肩に顔を埋める。

 自分よりまだ身長も低い。
 けれどずっと、自分の手を引いて、背負ってくれた、獅子の腕だった。落葉の匂いがする。木の実の匂いがする。獣の匂いも、乾いてぱさついた、黄金色の髪の匂いも。

「……泣いてるのに、何で」

 戸惑う獅子に、栗姫は笑った。

「馬鹿ね、これは嬉しくて泣いてるの」

 もう一度、会えた。
 追いかけてきて欲しかった。
 捕まりたくはなかったのに、こうして獅子の手を取ることが、これほど嬉しいと思わなかった。

 ――どうしよう。もう一度逃げられるだろうか。

 泣き笑いしながら、栗姫は考える。芳野と六嘉の要求は退けなければならない。代案が他にあったとして、権力のある皇后の意見をひっくり返せるだろうか……難しいだろう。今の皇宮で、皇后と同等に言い合える人物など、それこそ皇太子ぐらいしかいない。皇王陛下はどの意見にも平等だが、だからこそ、どちらかに肩入れすることもない。
 二ヶ月、皇宮が何もできていないことが証左だった。

 栗姫は獅子の肩を掴んだ手にぐ、と力を入れる。この手を離さなければいけない。今度はちゃんと、話をして。
 その時、大勢の足音が周囲を取り囲むのが聞こえた。
 獅子の肩がぴくりと動く。栗姫も体を強張らせた。大勢の足音。声。武具の音。
 紫苑党ではない。

「いたぞ! 皇女様だ!」

 がさりと、すすきの茂みを掻き分けて現れたのは、鎧を身につけ、槍や刀を手にした、大柄な男たちだった。嫌と言うほど知っている。皇宮を警備する、都の兵士たちだ。
 栗姫はぎゅ、と獅子の服を掴む。
 獅子を、獅子をどうにかして、今すぐ逃がさなければと思った。いや、このまま自分がしがみついて、この身を盾にしていた方が良いのか。どうすれば、獅子を守れる。
 獅子の身がどうにかなることだけは、絶対に嫌だった。

 緊張で硬くなった栗姫の背を、ふいに、獅子の手が撫でる。
 驚いて栗姫は獅子を見た。獅子は、片手でその薄い色の髪を掻きながら、ばつが悪そうな顔で、

「悪い。大丈夫だから、ほんと、悪いんだけど……ついてきてくれないか?」

 訳の分からない謝罪を、口にしたのだった。







しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました

桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。 言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。 しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。 ──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。 その一行が、彼の目に留まった。 「この文字を書いたのは、あなたですか?」 美しく、完璧で、どこか現実離れした男。 日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。 最初はただの好奇心だと思っていた。 けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。 彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。 毎日19時に更新予定です。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

処理中です...