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3.柊の花
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しおりを挟む困りますよ、御堂さん。
りくの声だった。
小和は熱と腹痛ではっきりしない意識のまま、その声を聞く。
――小和さんは、山の影響を受けやすいんです。町の人よりもずっと山の気にあてられやすい。あなたみたいな山の深淵にいらっしゃる方が、怒りを連れて接触などしたら、こうして倒れてしまうこともあるんです。
――時期が悪かったのは、認めよう。
知らない声が答えた。
誰の声だろう。低くて太い声だ。栢ではない。小和は目を開けられない。瞼がとても重かった。
――三角の時期に、不用意に接触した。里人にはあまり罹らぬからと油断していた。しかし、りく。この者のことを俺に話していなかったのは、お前の責だぞ。
――それは、まぁ。申し訳ありません。
――……あの方も、一言言ってくれればいいものを……。
ああ、ここはりくの小屋なのかな、と小和は思った。栢の声がしないけれど。どこにいるのだろう。おかみさんや、姉さんたちはどうしているだろう。もうすぐ秋の茶会なのに、倒れてしまって申し訳がない。
母さんや、父さんや、姉さんと兄さんたちにも、申し訳なかった。
死んでしまったと思って、どれほど悲しませただろう。
あの、低い声の人は。
御堂さんというのかと、そこまで考えて、小和は再び眠りに落ちた。
小和は、四人兄弟の末子だった。兄が二人、姉が一人。手先の器用な母と、勤勉で物静かな父と、六人で畑を耕して暮らしていた。収穫時期になると一家総出で手伝って、秋には芋を甘く煮たのを、春には、山で採れる野いちごをおやつに食べるのが、小和の楽しみだった。母似の姉は、よく木の実で独楽やらヤジロベエやらを作ってくれた。小和はよく、その手がくるくる動くのを、傍らで眺めていた。まだ幼くて、家の手伝いと言えば芋洗いだとか、山菜採りだとかで、あとは兄や姉と、竹トンボや独楽で遊んでいることが多かった。
小和が五歳の春だった。質の悪い風邪が村で流行って、それに小和も罹ってしまった。周りの同じ歳の子たちよりも体が小さかった小和は、高い熱に体力がもたなかった。朦朧とした意識の中、父がいつにないほど何度も声をかけてくれるのを聞いていた。兄と姉が代わる代わる手を握ってくれて、母が、大丈夫、大丈夫よと言いながら、額の汗を拭いてくれた。
いっぱい吐いて、息が苦しくて、いったいいつの間に、眠って、息をしなくなったのか。
ふと目を覚ました時には、周りは真っ暗で、冷たくて息苦しくて、それで夢中で湿った土を掻き分けた。そんな力がどこにあったのか、ただひたすらに土を掻いて、ひどく臭いそこを、なんとか這い出た。
痛くはなかった。痛みはどこか遠い感覚で、ただ、口の中に入った土が気持ち悪く、咳き込むたびに軋む身体を他人事のように感じながら、ふらふらとそこを――村の墓地を、転がり落ちた。
りくの小屋や、尾羽の町があるのとは反対側。今はもう廃村となった、西の集落にほど近い、尾羽山の谷に。
ふ、と目を覚ます。嗅ぎ馴れた薬草の匂いがした。綺麗な土と、草を潰した緑の匂い。近くの滝から漂う、清廉な清水の気配。そして、濃い、強い山の気が近くにあった。ここは山の中なのに。思いながら首を巡らすと、目が合った。
「起きたか」
低く太い、しなやかな声だった。
がっしりとした大柄な体躯に、白い鈴懸。太い眉に高い鼻、日に焼けた浅黒い肌。眉間の深い皺に対して、黒々とした瞳は、意外と若そう――りくの外見と同じくらいかもしれない――に見えた。
短く刈った髪を乱雑に掻いて、その大男が立ち上がる。
「りくを呼んでくる」
「――天狗様ですか」
零れ落ちた小和の言葉に、男は立ち止まった。
その背には何もない。普通の大柄な男だ。だが、男が立ち上がった瞬間、重い羽ばたきのような音を、小和は聞いていた。
「母さんが、昔、尾羽の山には天狗がいると言っていました」
子供を拐うから、あんまり奥に入ってはいけない、とも。
夢うつつに思い出していた幼少時のことを思い浮かべて、小和は言う。
足を止めた男は、小和に向き直ると再び腰を下ろした。
「お前、生まれは」
「尾羽山の、西の麓の村です」
「然もありなん。尾羽は東には水を恵むが、西には何もないからな。むしろ村の墓地があるから、ほとんど入らずの山になっていた。薬師のことも煙たがっていたな」
「りくに拾われた時、りくこそが天狗様かと、聞いたんです。そうしたら笑って、違う、と」
「いい加減なことを。確かにりくは天狗ではないが、お前が教えられた話は、半分は俺で、半分はりく、というか、薬師のことだぞ」
そうなんですかと、いまだ夢半分で問い返す小和に、男は眉を歪めて、愉快そうに笑う。
「薬師は小さいうちに見習いとして山に入るからな。西の麓の集落は薬師と親しくない。それで、いつの間にか薬師見習いが天狗の悪さにされたんだろうさ」
人は、すぐに本当のことを忘れるな、と。
そこだけ、男は、怒るような、悼むような声で言った。
ぱちりと、囲炉裏の火の音が、少し遠くでする。小和の寝ている周囲には、本の詰まった書棚がところ狭しと並んでいた。りくの書斎だ。
ふと、縁側から声がした。
「御堂さん? 小和さんが起きたんですか?」
縁廊下に続く障子戸から、りくが顔を覗かせる。腕には栢を抱えていた。目を開けている小和を見て、栢がよ、と挨拶よろしく二股の尾を振る。
「あ、良かった、顔色も良さそうですね。起き上がれますか?」
「……はい」
りくに促されて、小和は布団の上で上体を起こした。
頭がようやくすっきりしてきていた。死にかけたときのことを思い出して、ついぼんやりと寝たまま話し出してしまったが、無作法をしてしまったかしら、と傍らの男を窺い見る。
御堂と呼ばれた男は、小和が起き上がるのを見て、眉間の皺を僅かに弛めた。
「小和さんは初めてですね。この方は、尾羽山の山深くに棲んでいる天狗で、御堂さんです」
りくが小和の横に膝を付きながら、男を手のひらで示した。栢がするりとりくの腕から抜け出して、小和の足元で身を隠すように丸くなる。
御堂が笑った。
「ははっ、余所者の猫又には、俺は怖いか」
「笑い事じゃないですよ。そういう無神経なところが今回みたいなことを起こしたんですから」
りくの言葉に、御堂はむ、と口を噤む。
どういうことかと小和がりくに問うと、りくは実はと、申し訳なさそうな顔をした。
「小和さん、二週間も寝込んでいたんです」
「……二週間も?」
小和は、思わず問い返した。そんなに寝込んでいたとは、思わなかった。数日経っていそうには感じていたが、熱に魘されて、時間の感覚は曖昧だった。
「二週間……」
「ええ、二週間です。秋のお茶会は、もう終わってますね」
小和さんが倒れてすぐ、御堂さんが僕の所に運んでくれたんです、とりくは言った。
「なので、おかみさんには僕の方から伝えておきました。夜明けに申し訳なかったですけれど。とても、心配していましたよ」
せっかく、手前を披露するかもしれないお茶会だったのに、本当にすみません、とりくは頭を下げる。小和は慌てて首を振った。確かに、お茶会は楽しみにしていたが、席主を務めると決まっていたわけでもないのだ。むしろ、忙しい日に何も手伝えなかったことが、申し訳なかった。
「りくが謝ることじゃ、」
「ええ、まあ、悪いのは御堂さんなんですけど」
生真面目な顔のまま、しれっとりくの言うのに、御堂が眉間の皺を深くする。
「――御堂さんはですね、尾羽の山の重鎮なんですよ」
人の言葉で言うならばですが、と、りくは息を吐いた。
「尾羽の山神の右腕、と言っても良い。普段はこんな山の下側――表側には、出てこない方なんです。それが、この三角の時期に、思いっきり濃い山の気を連れて、小和さんを脅しに来たものだから」
色んなものにあてられてしまったんですね、と、りくは御堂を睨む。
御堂は腕を組んで、目を眇めた。
「……すまなかった。まさか、あれほど山の気に敏感な人間が、まだいるとは」
「僕のところにいた子だってことは、少し気を回せば直接問わなくても分かったことなんですから、もう少し、ご配慮いただきたかったですね。御堂さんは人を信じなさすぎです」
「否定はしないがな」
自分を半分置き去りにして交わされるやりとりを、小和はまだ少しぼんやりとする頭で聞く。
――その、人嫌いの尾羽の天狗様を怒らせてしまったことは、やはり、自分が悪いのでは、
そう、小和が口を開こうとして、
「おい、小和」
ぺしりと、布団越しに脚を尻尾で叩かれた。
見れば、栢が顔を顰めて小和を見上げている。
「お前、腹空いてないか」
「……はい。空きました」
ぽつん、と落ちた言葉に、傍らの男達が反応した。すみません、今お粥を、とりくが腰を上げ、御堂が白湯も要るか、と立ち上がる。
それまであった頭の中身が、空いたお腹と一緒に空っぽになったようだった。小和は、栢を撫でながら、何となくありがとうございます、と栢に囁いた。栢は澄ました顔で、御堂がいなくなったからか、小和のお腹の上で丸くなる。
ありがとうございます。その言葉を口にした理由を、小和は自分でもよく分かっていなかった。
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