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3.柊の花
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くつくつと音をたてる鍋の底で、ふっくらと小豆が柔らかくなるのを待ちながら、小和は時折浮かんでくる灰汁をお玉で掬った。袖を捲った腕に、竈の熱と冷たい夜気が同時に触れてくる。日の落ちた店内は薄暗く、厨房の竈の明かりだけが、ぽつんと揺らめいている。
おかみさんは、今日は先に休んでいた。終業後、翌日用のお汁粉を作るのは当番制で、今日は小和が当番だ。
もうすぐ冬至だ。
小豆の煮える匂いを嗅ぎながら、小和は店の柱にかかった日捲りを見やる。
柚子風呂の用意をするのは勿論、南瓜や人参を煮付けにして、りくのところにも持っていこうと考えていた。りくの畑にも、人参や柚子の木などはあるが、南瓜はない。
遠く、牟田酒店の老犬が、遠吠えをするのが聞こえる。
空気が澄んで、音がよく響くようになっていた。幾日もおかず、本格的な冬がやって来るだろう。年末になれば、増穂は実家に帰省すると言っていた。その前に一度、店に顔を出すと約束してくれている。
ふと、御堂はどうするのだろう、と、厨房から店の入り口の方に小和は目をやった。広く取られた格子窓の向こう、並んだ縁台の右手に、店の戸口が見えている。閉じられているので外は見えないが、碧水屋の斜め向かいの宿に、御堂が泊まっているはずだった。
これほど長く町に滞在することになるとは、小和は思っていなかった。りくからもらう薬の量も、とっくに普段通りに落ち着いていたし、小和の様子窺いならば、もう必要はないはずだ。
冬が来る前には、御堂は山に帰るのだろうか。
増穂と出掛けるとき以外、本当に全てに付き添ってくれているというのに、小和はいまだに、御堂のことがよく分からなかった。分からないというより、少し、怖い。萎縮してしまって、あまり話せないから、御堂が何を考えているのか分からない。御堂と話していると、何か、聞きたくないことを聞いてしまいそうで、それが――
「おい、」
がた、と、戸の開く音と同時に、低く太い声が店内に響いて、小和は思わずお玉を取り落とした。
心臓が大きく跳ね返る。どきどきしたまま、いつの間にか俯いていた顔を上げると、先ほどまで見ていた店の入り口に、今まさに考えていた御堂が、夜闇を背に立っていた。
脚絆姿だったが上はいつもの法衣ではなく、薄墨色の袷を着ている。
「御堂さん」
「小豆を煮てるのか」
御堂が小和の手元を見た。御堂の位置から鍋は見えないはずだが、匂いで察したのだろう。
「はい、今日は私が当番で」
「冷え込んできたからな。三角は過ぎたが、今夜辺り、山から雪催しの風が吹くぞ。小豆を煮たら夜更かしせずに早く寝ておけ」
小和はお玉を拾おうとしていた手を止める。
もしかして、それだけのことを、言いに来てくれたのだろうか。店の灯りがまだ点っているのを見て。
確かにこの時期は、小和は気を付けていないとすぐに風邪を引く。幼い頃よりは随分力もついたが、それでもあまり、体力のある方ではなかった。おかみさんからも、無理はしないようにと言い含められていた。
「お前は山と縁深い。他の町の者よりも気を付ける必要があるんだろう。だからりくも薬を用意する。りくの薬を、もう、町の者は要らないみたいだがな」
御堂の言葉に、小和は俯く。
りくの薬を、おかみさんは神棚に盛るだけで、飲むことはほとんどない。姉さんたちにも、りくから薬をもらったことのある人は、いなかった。奈緒だけは、昔足を挫いたときに、おかみさんからもらったというりくの薬を、今も持っているけれど。
御堂は怒るだろうか。
小和は唇を噛む。
小和は、りくの薬をあまり必要としなくても、大事に棚にしまって、お遣いの度にお土産を持たせてくれるおかみさんや、町の人たちのことを、大事に思う。
「焦がすぞ」
ふ、と、小和の頭上に影が差した。
御堂が厨房の中に入ってきて、鍋の中を覗いている。
「あっ、す、すみません」
小和は慌てて、落としたままだったお玉を拾って、水で洗ってから鍋の中を確認した。大量の水で煮ているので焦がすことはないはずだが、中を見ると、水が少し減っていた。
分量が変わると味が変わってしまう。小和は用意していた継ぎ足し用の水を鍋の中に注ぐ。
「新しくした汁粉は美味かったからな。さすがに、百年以上も前の砂糖とはそもそも質が違うみたいだったが、俺が食べた汁粉の中では、一番美味かったぞ」
小和は御堂を見上げる。
御堂は悪戯っぽく、にやにやと鍋を見ていた。
「……甘いもの、お好きですか」
小和は思わず訊ねていた。先程の台詞は、甘いものを食べ慣れている人の言葉に聞こえたからだ。
思えば御堂は、碧水屋のお茶請けの菓子を必ず食べきっている――希望すれば、お茶請けは断ることもできるのに。
「酒のあては甘味だな」
御堂は真顔で頷いた。腕を組んで、小和を見下ろす。
「お前の琥珀糖も、ありがたくいただいたぞ。もう少し配分を考えた方が良いな」
精進しろよ、と、御堂は笑ってみせる。
「碧水屋は、茶も、茶請けも、昔から特に気が利いていて、美味い」
その、声が。
一緒にりくの小屋から町に下りたあの日の、道を語った声に、重なった。
ああ、そうだった。
小和は手をぎゅ、と握りしめる。
御堂は、変わっていく尾羽の町を何百年と見ている。きっと、百年前と二百年前とでも、町並みは同じではなかったはずだ。
この人は。
変わることを、怒っているんじゃない。
――失われてしまうことに、苦しんでいるのだ。
それは、小和が笹岡や、増穂と関わることに怯えたのと、同じように。
冷えきった夜闇の空気と、竈から立ち昇る温かな湯気を同時に頬に感じながら、小和は、小豆の煮える鍋を、ただ見つめた。
おかみさんは、今日は先に休んでいた。終業後、翌日用のお汁粉を作るのは当番制で、今日は小和が当番だ。
もうすぐ冬至だ。
小豆の煮える匂いを嗅ぎながら、小和は店の柱にかかった日捲りを見やる。
柚子風呂の用意をするのは勿論、南瓜や人参を煮付けにして、りくのところにも持っていこうと考えていた。りくの畑にも、人参や柚子の木などはあるが、南瓜はない。
遠く、牟田酒店の老犬が、遠吠えをするのが聞こえる。
空気が澄んで、音がよく響くようになっていた。幾日もおかず、本格的な冬がやって来るだろう。年末になれば、増穂は実家に帰省すると言っていた。その前に一度、店に顔を出すと約束してくれている。
ふと、御堂はどうするのだろう、と、厨房から店の入り口の方に小和は目をやった。広く取られた格子窓の向こう、並んだ縁台の右手に、店の戸口が見えている。閉じられているので外は見えないが、碧水屋の斜め向かいの宿に、御堂が泊まっているはずだった。
これほど長く町に滞在することになるとは、小和は思っていなかった。りくからもらう薬の量も、とっくに普段通りに落ち着いていたし、小和の様子窺いならば、もう必要はないはずだ。
冬が来る前には、御堂は山に帰るのだろうか。
増穂と出掛けるとき以外、本当に全てに付き添ってくれているというのに、小和はいまだに、御堂のことがよく分からなかった。分からないというより、少し、怖い。萎縮してしまって、あまり話せないから、御堂が何を考えているのか分からない。御堂と話していると、何か、聞きたくないことを聞いてしまいそうで、それが――
「おい、」
がた、と、戸の開く音と同時に、低く太い声が店内に響いて、小和は思わずお玉を取り落とした。
心臓が大きく跳ね返る。どきどきしたまま、いつの間にか俯いていた顔を上げると、先ほどまで見ていた店の入り口に、今まさに考えていた御堂が、夜闇を背に立っていた。
脚絆姿だったが上はいつもの法衣ではなく、薄墨色の袷を着ている。
「御堂さん」
「小豆を煮てるのか」
御堂が小和の手元を見た。御堂の位置から鍋は見えないはずだが、匂いで察したのだろう。
「はい、今日は私が当番で」
「冷え込んできたからな。三角は過ぎたが、今夜辺り、山から雪催しの風が吹くぞ。小豆を煮たら夜更かしせずに早く寝ておけ」
小和はお玉を拾おうとしていた手を止める。
もしかして、それだけのことを、言いに来てくれたのだろうか。店の灯りがまだ点っているのを見て。
確かにこの時期は、小和は気を付けていないとすぐに風邪を引く。幼い頃よりは随分力もついたが、それでもあまり、体力のある方ではなかった。おかみさんからも、無理はしないようにと言い含められていた。
「お前は山と縁深い。他の町の者よりも気を付ける必要があるんだろう。だからりくも薬を用意する。りくの薬を、もう、町の者は要らないみたいだがな」
御堂の言葉に、小和は俯く。
りくの薬を、おかみさんは神棚に盛るだけで、飲むことはほとんどない。姉さんたちにも、りくから薬をもらったことのある人は、いなかった。奈緒だけは、昔足を挫いたときに、おかみさんからもらったというりくの薬を、今も持っているけれど。
御堂は怒るだろうか。
小和は唇を噛む。
小和は、りくの薬をあまり必要としなくても、大事に棚にしまって、お遣いの度にお土産を持たせてくれるおかみさんや、町の人たちのことを、大事に思う。
「焦がすぞ」
ふ、と、小和の頭上に影が差した。
御堂が厨房の中に入ってきて、鍋の中を覗いている。
「あっ、す、すみません」
小和は慌てて、落としたままだったお玉を拾って、水で洗ってから鍋の中を確認した。大量の水で煮ているので焦がすことはないはずだが、中を見ると、水が少し減っていた。
分量が変わると味が変わってしまう。小和は用意していた継ぎ足し用の水を鍋の中に注ぐ。
「新しくした汁粉は美味かったからな。さすがに、百年以上も前の砂糖とはそもそも質が違うみたいだったが、俺が食べた汁粉の中では、一番美味かったぞ」
小和は御堂を見上げる。
御堂は悪戯っぽく、にやにやと鍋を見ていた。
「……甘いもの、お好きですか」
小和は思わず訊ねていた。先程の台詞は、甘いものを食べ慣れている人の言葉に聞こえたからだ。
思えば御堂は、碧水屋のお茶請けの菓子を必ず食べきっている――希望すれば、お茶請けは断ることもできるのに。
「酒のあては甘味だな」
御堂は真顔で頷いた。腕を組んで、小和を見下ろす。
「お前の琥珀糖も、ありがたくいただいたぞ。もう少し配分を考えた方が良いな」
精進しろよ、と、御堂は笑ってみせる。
「碧水屋は、茶も、茶請けも、昔から特に気が利いていて、美味い」
その、声が。
一緒にりくの小屋から町に下りたあの日の、道を語った声に、重なった。
ああ、そうだった。
小和は手をぎゅ、と握りしめる。
御堂は、変わっていく尾羽の町を何百年と見ている。きっと、百年前と二百年前とでも、町並みは同じではなかったはずだ。
この人は。
変わることを、怒っているんじゃない。
――失われてしまうことに、苦しんでいるのだ。
それは、小和が笹岡や、増穂と関わることに怯えたのと、同じように。
冷えきった夜闇の空気と、竈から立ち昇る温かな湯気を同時に頬に感じながら、小和は、小豆の煮える鍋を、ただ見つめた。
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