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3.柊の花
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しおりを挟む朝陽が薄ぼんやりと尾羽の町を照らし出す頃、小和は箒とちり取りを持って、店の軒先に出た。溜まった砂埃と、山や店の庭から飛んできたぼろぼろの落ち葉たちを一ヶ所に集めて、掃き清めていく。
顔を上げると、金色の朝焼けを浴びて、錦に輝く尾羽の山が見えた。薄紅の空を刺すように光が冷たく、乾いている。唇を震わす冷気が山から吹き降りてきて、肌に染みた。
山が、今日は何かさざめきをたてている。
小和は落ち葉を集める手を止めた。
さざめきは、ざわつきなのか囁きなのか、判別がつかない。子供のはしゃぐ声のようにも、毛を逆立てる猫のようにも、思えた。
「……今日は少し、甘味の強いお菓子にした方が良いかしら」
小和は呟いて、箒を再び動かしてちり取りに砂と落ち葉を片付ける。それから、店に戻ってごみを中庭へ捨てると、厨房でお茶とお菓子を見繕っていたおかみさんに、山について話した。
「へぇ、じゃあ、お茶は苦みのあるやつにしようかね」
「はい、強い味の方が、気持ちが落ち着くと思います」
「冷えるからねぇ。ちょうど、ちょっと濃いめに淹れるか、苦みの強いやつにしようかと思ってたところなんだよ」
おかみさんの言葉に、小和は微笑んだ。小和が山に感じていることを、おかみさんは、肌や経験で理解している。町の大人たちも、多分そうなのだった。小和の言葉を、おかみさんが否定したことは一度もない。
厨房から布巾を持ってきて、縁台を乾拭きしていく。そうこうしているうちに、姉さんたちがやってきて、準備を手伝ってくれた。奈緒が二階の掃除を引き受け、ちかや他の姉さんたちがおかみさんを手伝って、茶釜に湯を沸かしたり、お汁粉や今日の茶菓子の準備をしたりする。
小和は乾拭きを終え、店の入り口に暖簾を揚げた。
ふと、増穂はどうだろうか、と考えた。
もし、おかみさんに伝えるように、山のことを話したとして。
三角の一件以来、これまでよりもずっと気を付けているから、小和はあまりりくや山の話を、増穂としていなかった。勿論、笹岡ともだ。その代わりのように、町のことを話すようにしていたおかげか、今のところ、不審がられている様子はない。
増穂は。
おかみさんみたいには、小和の言うことを分かってはくれないかもしれなかった。
理解されなくても、小和は構わなかった。そういう付き合い方も、きっとある。ただ、もし話して、増穂に不審がられたり、嫌われたりはしたくない――なんて、贅沢な。
贅沢だ。
もう十分、自分は恵まれているのに。
「小和? 済んだなら、こっちにおいで」
様子を見にきたおかみさんに呼ばれて、小和は顔を上げて店の中に戻った。
今日のお茶菓子は、菊の形をした最中だ。たっぷりの小豆餡が、苦いお茶には良く合う。いつもの通り、午前中のうちに御堂はやってきた。いつもは一杯だけ飲むお茶を、今日は二杯目を頼んだ。頼まれた奈緒が新しく茶葉を取り出し、茶請けを添えて二杯目の準備をする。
「……今日は、冷えるからな」
他に客もいないので、何とはなしに小和が御堂を見ていると、御堂は少し眉を寄せて、そう呟いた。小和はきょとんとする。
確かに今日は、日が昇っても、肩や背中が芯から冷やされていくような肌寒さだ。御堂自身、昨夜、雪催しの風が吹くと言っていた。それを、なにかの言い訳のようにいわずとも――。
そこで、気付く。
照れているのだ。昨日は、恥ずかしがる素振りもなく、真面目な顔で頷いていたのに。
「……そうですね。雪催しの風が吹きましたから」
小和が笑って話を合わせると、御堂はふん、と鼻を鳴らした。
奈緒が二杯目のお茶と最中を持ってくる。萩の実が垂れる薄香色の袖を片手で押さえて、どうぞと御堂に差し出した。店の柱に掛かっている時計が、十時を指す。
この時間でも冷える、と、客の少ない店内で小和が指先を思わず擦りあわせた時、店の表の方から、ぱたぱたと誰かの駆けてくる音がした。
あまりに急いだその足音は、段々とこちらに近づいて、その勢いのまま碧水屋の入り口をパシンと開く。
「小和! いる?」
息を切らしながらそう叫んで、そしてその場でぺたりと膝をついてしまったのは、ウールの白いワンピースに羽織を着た、増穂だった。
「増穂さん!」
小和は慌てて駆け寄って、それからすぐに、踵を返して厨房から白湯をとってきた。茶釜の湯を水で適温にまで冷ましたそれを増穂に渡すと、増穂は大きく呼吸をしながら、ありがとう、と受け取った。小和は増穂の背を撫でる。
増穂が、午前のうちに町に降りてきたことは、今まで一度もなかった。山から町まで下りるのに、それなりに時間がかかるからだ。馬車を毎度使う訳にもいかず、最近では、山登りにも結構慣れたわよ、と、増穂は笑って言っていた。
増穂は白湯をひと飲みすると、呼気を落ち着けてから、それでもなお、弾む声で口を開く。
「父様が、折れたのよ!」
「え?」
「年始の、地方企業への挨拶回りに、私も連れていってくださるの!」
やれるだけやってみなさい、経営の基礎は教えてやるって、今、寮に電話があって、と、矢継ぎ早に話す増穂の頬は、紅く、輝くように上気していた。慌てて寮を出たのだろう、いつもきちんとしている増穂が、髪もまとめず、防寒着もろくに持たずに地べたに膝をついている。増穂にしては珍しい大柄の菊の羽織も、恐らくは手近に置いていたものを取り敢えず掴んできたのに、違いなかった。
「結婚も、跡継ぎも、しばらくは考えないでいいから、とにかく事業内容と起業までの計画を、卒業までに具体的に作ってみなさいって……」
ほた、と。
増穂の眼に涙が浮かんで、そのまま、落ちた。
ほた、ほた、小さな雫は、ゆっくりと下瞼に浮かび、すぐに堪えかねて、地面へと落ちて行く。
やだ、ごめんなさい、と、増穂はその白い指先で涙を拭った。
山道は町よりも寒かっただろう、指先がわずかに震えている。
ハッ、と。
鼻で笑う声がしたのは、その時だった。
「小娘の世迷い言だな」
低く、強い声が、店の中に響いた。
小和も、増穂も。傍で見守っていた奈緒やおかみさんでさえ、凍りついたように、動きを止めた。
朝の陽射しが翳る。暗い店内に、底冷えのする山の冷気が、漂った。
「……御堂さん」
小和は、恐る恐る、振り返る。店の中には今、客は御堂しかいない。御堂は、縁台で奈緒の淹れたお茶を飲みながら、口の端だけで、笑った。
「好きにできるのはせいぜい卒業までだろう。卒業したら、すぐに跡継ぎ候補と結婚させて、自分の会社を継がせるつもりだろうな。経営を教えるのも、その時の内助になれば良し、というところだろう」
縦しんばお前が家族を無視して勝手に起業しようとしたとして、と御堂は腕を組む。二つ目の最中には、まだ手がつけられていない。
「お前の家は大きいだろう、潰すのは訳ないだろうな。何なら結婚ついでに自分の会社のどこか適当な役職にお前をつかせておいても良い。おままごとで満足してくれれば、儲けものだ。所詮、世間知らずの小娘が語る夢物語、誰も本気にしてはいな」
い、という言葉を、言い切る前に。
ぱしんと乾いた音が響いた。
辺りが静まり返る。
増穂も、姉さんたちも、おかみさんも、何も言えずに立っている。
小和は、肩で息をしていた。振り下ろした手がじんじんと痛い。
気が付いた時には、小和は、御堂の頬を手で叩いていた。
こんな、こんなことは、
「――漸く怒ったな」
ふん、と、頬を赤くした御堂が、笑った。
「――!」
ざ、と血の気が引いた。
喉が震え、悲鳴が出そうになるのを堪える。身体の奥がす、と冷え、御堂を叩いた右手を、左手で固く握って胸元に寄せた。
こんなこと。
こんなことは、して良いはずがないのに。
「も、申し訳、」
言いかけた小和の言葉を遮るように御堂は、お前、と口を開いた。
「お前、生きている意味がほしいんだろう」
小和は、目を瞠る。
冴えきった空気は、凍るような温度のまま、戻ってこない。
御堂は小和の様子になどまるで構うことなく、続けた。
「生かされた理由がほしいんだろう。お前は十年前に、奇跡的に助かった、その奇跡を受けるだけの価値が、自分にあるのかが分からないからだ。だから、何かの役に立っていないと不安で、誰かと不和を起こすのが怖い。誰かを責めたり、誰かに迷惑をかける人間では、生かされた価値に値しないとでも思っているんだろう」
淀みなく放たれる言葉に、小和は一言も挟めない。自ずと下がっていく視界の中、膝が、今にも床に頽れそうに震えている。
いけない。
そんなことをしても、良いことなどないと分かっているのに。
足が、後ろに下がってしまう。
「謙虚と言えば聞こえはいいがな。あのな、お前――」
御堂が、呆れたように頭を掻いて続きを言おうとするのを。
小和は最後まで見ていられなかった。
くるりと身体を返して、呆然と座り込んでいる増穂の横を駆け抜ける。碧水屋の外へと出ると、そこからはただ、一目散に、お山を目指して走った。
おい、と後ろから御堂の叫ぶ声がする。小和、と奈緒の呼ぶ声も。それらを無視して、小和はただ、ひた走った。涙がぼろぼろ落ちてきた。声を上げて泣いてしまいそうなのを、必死で、堪えた。
こんな、こんなことをしたいのでは、なかった。
増穂への御堂の言葉に、腹が立ったのは事実だ。けれど、それは、こんな風にぶつけてはいけないものだ。なのに、よりにもよって、頬を叩くなんて。どうして。
今だって。逃げずに耐えなければいけないのに。ちゃんと、御堂の怒りを聞いて、謝罪をしないといけない。それが、どんなに聞きたくない言葉でも。
そう、だって。
御堂の言ったことは何一つ。
何一つ、間違いではないのだから。
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