春告げ

菊池浅枝

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4.雪催い

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 氷を砕いて風にしたような冷気が、尾羽の町に降りてきていた。朝から灰色の雲が空を覆い、隙間から射し込む太陽も、明るいだけで、きん、と冷えている。

「小和の言った通りになりそうだねぇ」

 店の厨房から中庭を見遣ったおかみさんがそう言って、着物の袖を捲った。たすきで留めて、小和の用意した茶器や茶道具を洗ってくれる。

 茶釜には既に水が汲まれている。朝起きてすぐ、小和が井戸から汲んできたものだった。店の厨房の大茶釜には勿論のこと、庭に出した、茶道具を置くための腰高台こしだかだいの茶釜にも、水がなみなみと湛えられている。

 縁台は、庭の椿の垣根の傍に置いた。右端には大きな松の木があって、縁台の上に大きく枝を広げている。左端には釜と道具棚を置いた腰高台、それに、野点傘を用意した。
 緋毛氈をかけた縁台の足下を掃き浄め、小和はちり取りを持って店の勝手口から厨房を覗く。

「洗い物、ありがとうございます、おかみさん」
「良いから、そろそろ火の準備しな」
「はい」

 頭を下げて踵を返した小和の息が、瞬く間に白く煙って、風に流されて消えていく。ほんの少し外にいただけで、手指がひりひりと強張っていた。
 空気が芯から冷えている。

 箒とちり取りを片づけ、店の厨房奥の物置から、七厘を三台取り出す。縁台の足元に二つ、腰高台の脇に一つ置いて、木屑にマッチで火をつけて、上から炭を被せる。腰高台の竈にも火を入れて、用意した茶葉と、おかみさんが洗ってくれた茶器を道具棚に揃えたところで、店の入り口の開く音がした。駆け足で店の中へと戻る。

 からからと店の格子戸を開けて先に姿を見せたのは、御堂だった。
 黒地に銀の巴紋が彫られた袷、白磁の色の羽織には、袖のところに一羽の水鳥が描かれている。足元はいつもの下駄や草鞋ではなく、銀の鼻緒の草履だった。

「いらっしゃいませ」

 小和がそう頭を下げると、御堂は小和を見下ろして、此度はお招きいただき感謝つかまつる、と、丁寧に頭を下げ返した。

「こちらこそ、お越しいただきまして、ありがとうございます。どうぞ、お席の方へ。今日は冷えますが、火をおこしておりますので、お温まりくださいませ」

 小和は中庭へと御堂を導こうとする。そこで、ごめんください、と、御堂の後ろから、温めたミルクに似た、柔らかくまろやかな声がした。

 御堂の背にすっぽり隠れるようにして、入り口の外に、増穂が立っていた。通りの少し離れたところには、山を下りるのに使ったのだろう、馬車が停まっている。

「いらっしゃいませ、増穂さん」
「本日はお招きいただきまして、ありがとうございます。もしかして、お待たせしてしまったかしら」

 御堂を見上げて問う増穂に、小和は首を横に振る。

「いいえ、時間通りです」

 瑠璃紺に水仙の花丸文があしらわれた振袖姿の増穂は、良かった、と朱華はねず色の唇を綻ばせる。若草色の帯揚げに、白い毛皮のショール。長い髪は外巻きに結い上げている。

 小和は二人を中庭の縁台に案内した。冬の茶会で室内の席ではないことに、二人とも少し驚いていたが、小和がお茶の支度を始めると、二人は並んで、縁台の端と端に腰を下ろす。足元に置いた七厘から、パチパチと小さな音がする。どうぞ手をかざして暖をとってください、と、小和は茶釜からお湯を掬って急須に入れながら言った。

「碧水屋は、茶店ですから、茶会と言っても作法のようなものはないんです。秋や春の茶会でも、お抹茶も煎茶も両方、お客様や席主の好みでお出しします。いつものお茶を外で楽しむ、それくらいのものですけれど、折角ですから、季節の景色を目一杯楽しんでいただくための設えを、用意します」

 今日は寒い中ありがとうございます、と小和は二人に微笑んでから、茶棚から茶碗を手に取った。

 今日のために選んだ茶器だ。装飾がなく、透明な釉が素地の土肌をそのまま映した、素朴な焼き物である。器の底にはガラスのひび割れたような貫入があり、薄い砂色から底に向けてしゃを帯びる土の風合いが、繊細さと温かみの両方を感じさせた。

 碧水屋の茶器は、おかみさんの曾祖父の頃、得意客だったお武家様から下げ渡されたというものを皮切りに、町の名士から少しずつ、何かしらの折にいただいてきたものである。一介の茶店ではあるが、せっかく良い茶器があるのだからと、町の人を集めて茶会を催したのが、春と秋のお茶会の始まりだ。

 小和は急須に淹れたお湯を捨てると、今度は茶碗に柄杓でお湯を掬って入れる。急須や碗が冷たいと、せっかくのお茶が冷めてしまうし、茶碗に入れた方は、いくら冬といえ熱湯では熱すぎるので、湯を少し冷ます意味もある。

「暖かい格好でと招待状にあったのは、こういうことだったのね」

 蕾をつけた寒椿の垣根を眺めていた増穂は、そう呟いて、つと、気遣わしげに眉を下げて小和を見上げた。

「小和は寒くない?」

 いつもの紬に前掛けをかけただけの、普段通りの店内着姿の小和は、大丈夫ですよ、と笑う。

「茶釜の火がありますから」

 準備をしていた先程までと違って、ずっと火に当たっていた手や頬は、肌が少し弛んできていた。さすがに足元までは竈の火は届かないが、それを見越して、自分の足元にも七厘を置いている。

 秋の茶会でも、琴の披露にはそれなりの晴れ着を着るが、それ以外の娘は、いつもの仕事着で茶を淹れていた。冬であっても仕事着を厚くするものはあまりいない。釜の近くで作業をするから、時間が経つにつれ、暑くなってくるのだ。

 茶筒から茶葉を取り出し急須に入れて、そこに茶碗で軽く冷ました湯を注ぐ。ちょうど良い頃合いまで蒸らし、茶漉しで濾しながら、お茶を碗に注いでいく。最後の一滴までしっかりと注ぎきって、盆に載せて御堂と増穂に差し出した。

「どうぞ、尾羽の茎茶くきちゃです」

 若菜色をしたお茶が、土色の茶碗の中できらりと揺れた。

 茎茶は、その名の通りお茶の葉ではなく、その茎を使ったお茶だ。
 茶葉を生成する過程で取り除くものだが、茎で入れたお茶は、すっきりした味で香り高く、爽やかな甘みを感じられる。葉に比べて苦みや渋みが出にくいので、熱い湯でも淹れられるが、玉露の茎を使用しているものは、玉露特有の風味もあった。

 冬の茶会だ、先ずは熱いお茶を振る舞いたい。けれど、味の弱いものは寒さの中では物足りないかも知れない。玉露茎茶は低温でも高温でも淹れられるお茶で、お湯の温度と蒸らし時間で全く味わいが違ってくる。小和は何度も試飲して、これと決めたお茶だった。

 小和から茶碗を受け取り、一口飲み下した二人が、同時にほ、と息を吐き出したのを見て、小和は安堵の気持ちと共に微笑む。高温で淹れたお茶は香りが高く、茎茶の青く甘い芳香が、湯気とともに立ち昇る。

 茶碗棚に用意していた菓子箱から茶菓子を取り出し、艶消しされた墨色の漆皿に、それぞれ載せていく。
 椿餅だ。
 真っ白なもち米で餡を包み、二枚の椿の常盤ときわで挟んだお菓子。かなり古くからあるもので、椿の名はあれど、花よりもその葉に積もった雪を思わせる。

 皿と同じく漆塗りの菓子切りを添えて二人に茶菓子を差し出すと、小和は空になった茶碗を受け取って、二煎目に取りかかった。

 二煎目は、一煎目より香りが落ちる。
 そのため、お茶の味が最も強く、けれど決して苦くはならないように、小和は蒸らし時間に細心の注意を払った。茎茶の種類や配合具合にもよるが、小和は、高温で一煎目より長く蒸らすのが、この茎茶の二煎目では一番美味しいと感じた。高温で淹れることで香りも仄かに残るし、一煎目よりも強く甘みを感じる。

「どうぞ」

 浅黄緑の水色が、茶碗の底のひび割れにきらきらと反射していた。
 御堂と増穂が一礼して碗を受け取り、それを一口、口に含む。

「……美味しい」

 増穂が、溜息をつくように声を零した。
 御堂も碗を静かに見つめ、一つ頷く。
 それを見届けてから、小和は少し体を後ろに引き、改めて、深く頭を下げた。

「本日は、お越しいただき誠にありがとうございます。先日は、お二人には大変失礼をしてしまいました。御堂さんには勿論、増穂さんにも、無作法をしたと、思っています」

 増穂は、そんなこと、と慌てたように声をあげ、御堂は、黙したままだった。
 小和は顔を上げる。

「これは、差し出がましいことですが――」

 そう、言葉を紡いで、小和は膝の前で重ねた手を握り締める。声に、力が出るように。震えて、口を閉ざしてしまわないように。

「増穂さんのことを、よく知らずに何かを言う立場には、私も、御堂さんも、ないと思っています。御堂さん、頬を叩いてしまって、本当に申し訳ありませんでした。暴力に訴えたことは勿論、増穂さんに対しても、出すぎた真似でした」

 小和が固い声で、再び頭を下げるのに、増穂が寂しそうな顔をしたのが一瞬見えた。御堂は、まだ静かな目で、ただ小和を見つめている。
 ぐ、と、顔に力を入れて、小和は身体を起こして、微笑んだ。

「だから、どうかこれを機に、お互いのことを、もっと知っていけたら、嬉しいです」

 御堂が、緩やかに目を見開くのを、小和は心臓が口から飛び出そうな思いで、眺めていた。

 この、謝罪の言葉を、小和は今日ここに至るまで、何度も何度も考えた。嫌みに聞こえていないだろうか、否、御堂には、意趣返しの意味合いを多少含んでいるのは、確かなのだが。

「……くっ」

 ふと、御堂が俯く。
 口許に手を当て、顔を逸らしたかと思うと、肩を震わせて大きく笑い出した。

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