春告げ

菊池浅枝

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エピローグ 春告げ

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 ◇



 尾羽の山には、薬師が住んでいる。

 薬師とは、山と里との仲介人だ。山の脅威も恵みも、山のことはみんな、先ずは薬師に聞く。おもだった山には必ず薬師がいて、麓の里はどこも、山のことは薬師に頼んで、生活をしていた。

「覚えておきなさい。薬師が仲介しているのは、お山の動植物や天候だけじゃない。お山そのものだ」

 それを、碧水屋のおかみ、葛路かつろが先代の父から聞いたのは、父が床に就き、碧水屋を継ぐことになったときだった。

 妻を早くに亡くし、身体の元々弱かった父は、葛路が二十歳を迎えたその頃にはもう、店に出られず一日中伏していることも多くなっていた。店には馴染みの店員が三人、近所に住む、葛路にとっては妹のような子が二人と、それに、葛路の幼馴染でもうすぐ嫁ぐ予定の、はるだけだ。

「……それは、山中村にある、祠のこと?」

 床の上で上半身を起こし、痩せ細った背を丸めながら話す父に、葛路は聞き返す。
 山の中腹にある村には、尾羽の山神を祀る祠がある。小さいながら鳥居もあって、昔から、村や町の人たちからは大切にされていた。町にはもっと立派な神社もあるが、古いのは祠の方だと聞いていた。あそこには、薬師の小屋に繋がる獣道もある。

 しかし、窶れた顔をした父は、首を横に振った。

「どうかな……私も、実際に目にしている不思議は薬師ぐらいのものだ。その薬師も、もう、町に降りてくることはなくなるかも知れない。それでも、知っておきなさい。そして、それを次代に伝えるも、伝えないも、自由になさい」

 町長はご子息に、あまり詳しいことを話さないことにしたそうだよ、と。父はそう言って、葛路が淹れたお茶に視線を落とした。

 町長の息子は、今年五歳だった。そして、町には少しずつ、余所から来る人が増えている。その、町の外から来る人々が、どうやらもう薬師のことなど忘れ去っているのだと、葛路も勘づいていた。

「……少しずつ、世の中が変わってきた。古くからあるものも、忘れられ、消えようとしている。きっと、この先も変わるだろう……だが、りくが山から降りてこなくとも、りくがいなくなる訳では、ない。尾羽の山もだ。だから、知っておきなさい。薬師が仲介しているのは、お山そのものだということを」
「……はい」

 その日を境に、葛路は碧水屋のおかみとなった。そして数日後、父は、りくの薬で僅かばかり痛みの和らいだ顔で、息を引き取った。

 その、数ヵ月後。
 葛路は、途方に暮れた顔で荷物を抱え、帝都から来たと言ってお茶を一杯頼んだ娘を、従業員として雇うことにした。
 りくが小和を連れて山を下りてくるのは、さらにその、数十年後のこと。

 山と縁深いものは、まだ、確かにいる。
 そして、それを知っている人間もまた、まだ、いる。



 ◇


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