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第8夜 心休める時
第7話 言えないこと
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扇であおいだかのように弱々しく、湿気を含んだ冷たい風が吹いていた。すきま風によってカタカタと鳴る扉が開き、黎明神社の境内に人影が現れた。
暗闇でも目立つ、淡いひだまり色の白袴の青年。神の遣いである陽春だった。片手に徳利を持ち、楽しそうに鼻唄を口ずさんでいる。
「雨上がりの月も、なかなか乙だよなぁ。久々に月見酒と洒落込みますか!」
境内にどかっと座ると、勢いよくお猪口に酒を注いだ。芳醇な甘ったるい香りが広がり、ほぅと息をつく。それを一気に煽ると、滑らかで爽快な味わいが口のなかで広がっていく。
「ぷはーっ、やっぱ最高! ビールもいいけど、風情を感じるなら断然こっちだね」
また次を注ぎ、 今度は酒器に映る逆さ月を楽しもうとした。
「?」
ふと、何か気配が感じる。誰か。いや、何かが鳥居を潜ったようだ。
こんな時間に何のようだろう。とはいっても、狭間や彼岸の者からしたら、今が活動時刻である。何もおかしなことはない。
しかし──。
「たまにはゆっくり飲ませてくれよ」
はぁとため息を吐いて、注いだ分はきっちり飲み込んだ。ぺろりと口の端を舐めると、視線を階段の方へ向ける。
近づくほど、見知った気配。遠くからでも目立つ銀色の毛並み。子供泣かせの切れ長の瞳。ふわふわの尻尾。現在陰陽師である少女に仕えているはずの旧友、銀狼だった。
陽春は見知った顔に顔を輝かせると、ぴょんっと境内を飛び下りた。
「おー、珍しいな。夜更けに訪ねてくるなんて」
また主人を怒らせたか。それとも、暇をもらったか。
しかし、どちらも違うようだ。いつもの小憎らしい澄ました表情はどこか苦しげで、息が切れている。
『悪い、休ませてもらっていいか?』
「構わないが、何があったんだ? いや、回復が先か」
陽春は柴犬ほどの大きさの銀狼を抱き上げると、境内を上がり、拝殿の中へと向かった。無理をしてここまで来たのか、銀狼は少しぐったりしていた。
薄暗い中、赤絨毯を捲り床板を外す。地下へと続く階段を、慣れた様子で足早に降りていった。人の手によって掘られた岩壁を横切り広がっていたのは、自然によって作られた洞窟だった。
温かい湯気が立ち上ぼり、湿気が髪を湿らせる。洞窟の底には、源泉の温泉で満ちていた。ちょうど階段のように岩が重なったところに、そっと銀狼を下ろしてやる。
銀狼は少し熱めの湯に、ゆっくりと前足から入る。魚のように滑らかに泳ぐと、力を抜いて静かに潜った。芯からゆっくりと熱が染み入り、冷えきった体を温めていく。しかし、この温泉はそれだけではなかった。
突然底が光だし、洞窟内を鮮やかなエメラルドブルーに染める。それに反応して、天井に生えているヒカリコゲが星のように瞬いた。
銀狼は水面から顔を出し、息を吐いた。酷使し、流れの悪くなった霊力が、再びもとの調子を取り戻していくのを感じる。
試しに、術を使ってみることにした。
そっと目を閉じて、人の姿を思い浮かべる。
『変化』
ポフンッと白い煙に包まれ、目を開けば肌色の骨張った人間の手が視界に入った。ゆっくりと手足を動かしてみても、まったく問題もない。
「どうだー? 調子は戻ったか?」
そういいながら、陽春はお盆に酒を乗せて近づいてくる。銀狼は岩肌に背を預けながら、頷いた。
「ああ。悪かったな、突然押しかけて」
「別にいいぜ。いつだって俺は暇だからな~。けど、あれだけ疲れてるのも珍しいな。何かあったのか?」
銀狼は緋鞠を助けに行ったはずなのに、逆に守られてしまったこと。地下牢で霊力の暴走状態になったことを話した。それを聞き、陽春は顔をしかめた。
「なんだそれ。最悪な人間もいるもんだな。あとで天罰リストに加えとくか」
「死なない程度、苦しむやつで頼む」
「任せとけ。んで、暴走でそれだけ霊力を枯渇させたのか」
「澪がなんとか治療してくれようとしてんだが、やはり妖怪用の治療だけで全快は無理そうだった」
「確かに、俺たちを正しく治すのならこっちが正解だ」
この温泉は、銭湯花火と同じで霊力を含んだ源泉だ。しかし、やはり神聖な結界が張られたこことは純度が違うのである。より神気に近いこの温泉のほうが、銀狼には合っていたのだ。
「でも、それだけでよかったな。下手すれば契約まで壊れてたぞ」
銀狼は右手の人差し指に浮かんだ契約印をみつめた。
契約印は、主と妖怪を繋ぐ霊力の鎖である。しかし、これは万能ではない。陽春が言った通り、過剰な霊力の供給や暴走が長く続けば契約印が壊れていた可能性があった。それに加え、霊魂さえも再起不能になる可能性だってあったのだ。
それを助けてくれたのは──。
銀狼は重苦しいため息をつくと、勢いよく肩まで湯につかる。
あの時、思考が激痛で塗り潰されていた。出口の見えない記憶の激流に募るのは、後悔ばかりで大事なことを見失うところだった。それを自分が傷つくことを厭わずに、必死に呼び掛けてくれたのはあの翼だった。
驚いたし、腹も立った。どうしておまえなんだ。おまえの手なんか借りないと言ったはずなのに。
だけど、あの術によって流れてきた記憶。悲しみと、後悔、絶望──。
僅か十五の少年が背負うには、あまりにも酷だった。
それに、本当はわかっていた。そんなに悪い奴ではないことは。
鬼狩り試験の日、気を失って倒れそうになった緋鞠を真っ先に支えたのは、翼だったのだから。
それでも、まだ素直に認められない自分がいるのだ。
気難しい顔をしている銀狼に、陽春は首を傾げた。
「どうした?」
「別に。……助けてくれたのが、あの小僧で腹が立っているだけだ」
「あー、初めて会ったときに嬢ちゃんを攻撃したからか? そんなんあれよ、好きな子に対してちょっかいだ」
「ああ?」
「……なんでもないでーす」
ドスの聞いた声に、陽春は関わらないどこ、と酒を煽った。 本当にあの子に関しては過保護である。彼氏ができた日にゃ、相手を血祭りにあげそうだ。
でも、銀狼がそこまで誰かを敵対視するのも珍しくて、陽春は聞いてみることにした。
「なな、その子の名前は?」
「聞いてどうする」
「俺はここら辺の情報に詳しいんだぜ。 おすすめのデートスポットから穴場の食事処、さらにはうわさまで。なんでもござれだからな、嬢ちゃんに害がないか教えてやるよ」
「ほぅ、珍しく役に立ちそうだ」
銀狼は少しバカにしたような物言いをすると、まぁ名ぐらい構わないかと教えることにした。
「名は、三國翼だ」
そのとき、陽春にひとつの記憶が呼び覚まされた。
確か、ちょうど今ぐらいの季節感だった。空気が澄みきっていて、星がきれいに見えた夜。遠くで、消防車のサイレンが叫ぶように鳴りやまなかったのを、今でも覚えている。
『神様……!』
いくら否定しても、神様と言って聞かなかった少女。黒髪に、深い青の瞳をしていて、兄妹揃って修行に励む姿は微笑ましかった。
それが、どうしてこんなことになったのだろう。
可愛らしい顔は火傷で痛々しく血だらけになっていた。それでも小さな体で兄を背負って、瞳に涙をためながらも必死に堪えていた。
『お願い、お兄ちゃんを……お兄ちゃんを助けて!!』
その少年は、一目で分かるほど呪いに冒されていて。
それで、俺は──。
「おい! おい、陽春!」
陽春は我に返ると、瞳を伏せた。その様子に、銀狼は気遣うように陽春を見る。
「どうした?」
「……悪い、なんも知らなかったわ! ここ最近ほかの参拝客も、妖怪もさっぱりでさ。全然話のネタなくて、嘘ついちった」
てへっとウインクする陽春を見て、銀狼は気味悪そうに距離を取る。
「なんだよ~。逃げんなよ親友!」
「うるさい! ていうか俺が下戸なの知ってて、いっつも酒しか出さないのやめろ!」
「いいじゃん、雰囲気でも楽しめるだろ!」
そういって、どうにか誤魔化した。
あの子が命を懸けて守ったものを、俺が壊すわけにいかない。
『絶対に、誰にも言わないで。……ごめんね、お兄ちゃん』
大事なものを奪ってでも、貴方が生きていてくれるなら。
例え、身を滅ぼすことになろうとも──。
暗闇でも目立つ、淡いひだまり色の白袴の青年。神の遣いである陽春だった。片手に徳利を持ち、楽しそうに鼻唄を口ずさんでいる。
「雨上がりの月も、なかなか乙だよなぁ。久々に月見酒と洒落込みますか!」
境内にどかっと座ると、勢いよくお猪口に酒を注いだ。芳醇な甘ったるい香りが広がり、ほぅと息をつく。それを一気に煽ると、滑らかで爽快な味わいが口のなかで広がっていく。
「ぷはーっ、やっぱ最高! ビールもいいけど、風情を感じるなら断然こっちだね」
また次を注ぎ、 今度は酒器に映る逆さ月を楽しもうとした。
「?」
ふと、何か気配が感じる。誰か。いや、何かが鳥居を潜ったようだ。
こんな時間に何のようだろう。とはいっても、狭間や彼岸の者からしたら、今が活動時刻である。何もおかしなことはない。
しかし──。
「たまにはゆっくり飲ませてくれよ」
はぁとため息を吐いて、注いだ分はきっちり飲み込んだ。ぺろりと口の端を舐めると、視線を階段の方へ向ける。
近づくほど、見知った気配。遠くからでも目立つ銀色の毛並み。子供泣かせの切れ長の瞳。ふわふわの尻尾。現在陰陽師である少女に仕えているはずの旧友、銀狼だった。
陽春は見知った顔に顔を輝かせると、ぴょんっと境内を飛び下りた。
「おー、珍しいな。夜更けに訪ねてくるなんて」
また主人を怒らせたか。それとも、暇をもらったか。
しかし、どちらも違うようだ。いつもの小憎らしい澄ました表情はどこか苦しげで、息が切れている。
『悪い、休ませてもらっていいか?』
「構わないが、何があったんだ? いや、回復が先か」
陽春は柴犬ほどの大きさの銀狼を抱き上げると、境内を上がり、拝殿の中へと向かった。無理をしてここまで来たのか、銀狼は少しぐったりしていた。
薄暗い中、赤絨毯を捲り床板を外す。地下へと続く階段を、慣れた様子で足早に降りていった。人の手によって掘られた岩壁を横切り広がっていたのは、自然によって作られた洞窟だった。
温かい湯気が立ち上ぼり、湿気が髪を湿らせる。洞窟の底には、源泉の温泉で満ちていた。ちょうど階段のように岩が重なったところに、そっと銀狼を下ろしてやる。
銀狼は少し熱めの湯に、ゆっくりと前足から入る。魚のように滑らかに泳ぐと、力を抜いて静かに潜った。芯からゆっくりと熱が染み入り、冷えきった体を温めていく。しかし、この温泉はそれだけではなかった。
突然底が光だし、洞窟内を鮮やかなエメラルドブルーに染める。それに反応して、天井に生えているヒカリコゲが星のように瞬いた。
銀狼は水面から顔を出し、息を吐いた。酷使し、流れの悪くなった霊力が、再びもとの調子を取り戻していくのを感じる。
試しに、術を使ってみることにした。
そっと目を閉じて、人の姿を思い浮かべる。
『変化』
ポフンッと白い煙に包まれ、目を開けば肌色の骨張った人間の手が視界に入った。ゆっくりと手足を動かしてみても、まったく問題もない。
「どうだー? 調子は戻ったか?」
そういいながら、陽春はお盆に酒を乗せて近づいてくる。銀狼は岩肌に背を預けながら、頷いた。
「ああ。悪かったな、突然押しかけて」
「別にいいぜ。いつだって俺は暇だからな~。けど、あれだけ疲れてるのも珍しいな。何かあったのか?」
銀狼は緋鞠を助けに行ったはずなのに、逆に守られてしまったこと。地下牢で霊力の暴走状態になったことを話した。それを聞き、陽春は顔をしかめた。
「なんだそれ。最悪な人間もいるもんだな。あとで天罰リストに加えとくか」
「死なない程度、苦しむやつで頼む」
「任せとけ。んで、暴走でそれだけ霊力を枯渇させたのか」
「澪がなんとか治療してくれようとしてんだが、やはり妖怪用の治療だけで全快は無理そうだった」
「確かに、俺たちを正しく治すのならこっちが正解だ」
この温泉は、銭湯花火と同じで霊力を含んだ源泉だ。しかし、やはり神聖な結界が張られたこことは純度が違うのである。より神気に近いこの温泉のほうが、銀狼には合っていたのだ。
「でも、それだけでよかったな。下手すれば契約まで壊れてたぞ」
銀狼は右手の人差し指に浮かんだ契約印をみつめた。
契約印は、主と妖怪を繋ぐ霊力の鎖である。しかし、これは万能ではない。陽春が言った通り、過剰な霊力の供給や暴走が長く続けば契約印が壊れていた可能性があった。それに加え、霊魂さえも再起不能になる可能性だってあったのだ。
それを助けてくれたのは──。
銀狼は重苦しいため息をつくと、勢いよく肩まで湯につかる。
あの時、思考が激痛で塗り潰されていた。出口の見えない記憶の激流に募るのは、後悔ばかりで大事なことを見失うところだった。それを自分が傷つくことを厭わずに、必死に呼び掛けてくれたのはあの翼だった。
驚いたし、腹も立った。どうしておまえなんだ。おまえの手なんか借りないと言ったはずなのに。
だけど、あの術によって流れてきた記憶。悲しみと、後悔、絶望──。
僅か十五の少年が背負うには、あまりにも酷だった。
それに、本当はわかっていた。そんなに悪い奴ではないことは。
鬼狩り試験の日、気を失って倒れそうになった緋鞠を真っ先に支えたのは、翼だったのだから。
それでも、まだ素直に認められない自分がいるのだ。
気難しい顔をしている銀狼に、陽春は首を傾げた。
「どうした?」
「別に。……助けてくれたのが、あの小僧で腹が立っているだけだ」
「あー、初めて会ったときに嬢ちゃんを攻撃したからか? そんなんあれよ、好きな子に対してちょっかいだ」
「ああ?」
「……なんでもないでーす」
ドスの聞いた声に、陽春は関わらないどこ、と酒を煽った。 本当にあの子に関しては過保護である。彼氏ができた日にゃ、相手を血祭りにあげそうだ。
でも、銀狼がそこまで誰かを敵対視するのも珍しくて、陽春は聞いてみることにした。
「なな、その子の名前は?」
「聞いてどうする」
「俺はここら辺の情報に詳しいんだぜ。 おすすめのデートスポットから穴場の食事処、さらにはうわさまで。なんでもござれだからな、嬢ちゃんに害がないか教えてやるよ」
「ほぅ、珍しく役に立ちそうだ」
銀狼は少しバカにしたような物言いをすると、まぁ名ぐらい構わないかと教えることにした。
「名は、三國翼だ」
そのとき、陽春にひとつの記憶が呼び覚まされた。
確か、ちょうど今ぐらいの季節感だった。空気が澄みきっていて、星がきれいに見えた夜。遠くで、消防車のサイレンが叫ぶように鳴りやまなかったのを、今でも覚えている。
『神様……!』
いくら否定しても、神様と言って聞かなかった少女。黒髪に、深い青の瞳をしていて、兄妹揃って修行に励む姿は微笑ましかった。
それが、どうしてこんなことになったのだろう。
可愛らしい顔は火傷で痛々しく血だらけになっていた。それでも小さな体で兄を背負って、瞳に涙をためながらも必死に堪えていた。
『お願い、お兄ちゃんを……お兄ちゃんを助けて!!』
その少年は、一目で分かるほど呪いに冒されていて。
それで、俺は──。
「おい! おい、陽春!」
陽春は我に返ると、瞳を伏せた。その様子に、銀狼は気遣うように陽春を見る。
「どうした?」
「……悪い、なんも知らなかったわ! ここ最近ほかの参拝客も、妖怪もさっぱりでさ。全然話のネタなくて、嘘ついちった」
てへっとウインクする陽春を見て、銀狼は気味悪そうに距離を取る。
「なんだよ~。逃げんなよ親友!」
「うるさい! ていうか俺が下戸なの知ってて、いっつも酒しか出さないのやめろ!」
「いいじゃん、雰囲気でも楽しめるだろ!」
そういって、どうにか誤魔化した。
あの子が命を懸けて守ったものを、俺が壊すわけにいかない。
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