アグネイヤIV世

第一章 さすらいの皇女

交錯３

　サリカは、暫く声を出すことが出来なかった。
　見知らぬ女性が、肩で息をつきながら目の前に屑折れる。彼女は乱れた銀髪を手でかき上げ、ふわりと安堵の笑みを浮かべた。
「ご無事で」
　心底嬉しそうな声色に、サリカは更に眼を見開く。誰だろう、この女性は。自分は彼女を知らない。けれども、彼女は自分を知っている。
「誰？」
　思わずそう問いかけそうになって、やめた。本能が警鐘を鳴らしたのだ。何も言ってはいけない。口を利いてはいけない。何か一言でも漏らせば、均衡が崩れてしまう、と。サリカの中で、何かが囁いていた。
　女性は身を起こし、サリカに対して礼をとると
「戻りましょう。遅くなってしまいました」
　彼女に部屋を出ることを促す。
（戻る？）
　一体どこへ？
　尋ねたくとも、声が出なかった。この女性は、どこへ自分を連れて行こうとするのだろう。遅くなりました、ということはもとから自分を迎えに来るつもりだったのか。となれば、アヤルカスの密偵か。それにしては、容姿が完全なティノア人である。
「妃殿下？」
　女性は、答えもせず、動こうともしないサリカに業を煮やしたのか、こちらに近づいてきた。そして、不審そうに彼女の顔を覗き込んで。
「……」
　サリカの首筋についた口付けの痕に、眼を止める。
「これは」
　眉をひそめる女性の前で、サリカは慌てて首筋を隠した。だが、もう間に合わない。彼女は何があったのか察したらしく。厳しい表情のまま室内を見回す。
「不埒な真似を」
　搾り出すような、くぐもった声がサリカの耳を打つ。女性にしては、低すぎる声だ。サリカは痕を隠したまま、女性を見上げる。女性もまた、鋭い視線でサリカの双眸を射抜いていた。
「不躾な問いをお許しください。職務上、必要なことですので」
　手短に自身の無礼を詫びてから、女性は本題を切り出した。
「純潔を、奪われたのですか？」
　即座にサリカは、かぶりを振った。まだ、ジェリオに全てを許したわけではない。許しかけてはいたが。直前で、彼は興ざめしたとサリカを置いて出て行った。
「そう、ですか」
　サリカの答えに、女性は再び安堵の息をつく。
「よかった」
　それは、心からの言葉だったのかもしれない。女性は彫像の如く整った顔に硬質なる笑みを浮かべて、サリカの手をとった。
「早く参りましょう。例の男が戻ってきては面倒ですから」
　もう一度。彼女に部屋を出るよう促してから、女性は踵を返す。その無防備なる後姿に、サリカは違和感を覚えた。
　もしも。自分の予想が当たっていたとしたら。
　自分を、「妃殿下」と呼ぶこの女性がマリサの――フィラティノア王太子妃付の侍従武官だとしたら。
（これは）
　願っても無い好機なのではないだろうか。
　何が起こったのかは、今ひとつ定かではないが。この女性が自分とマリサとを取り違えていることは、わかる。まさか、この女性を伴ってマリサがこの街に来ているとも思えぬが――いや、今までの言動を考えればその可能性は極めて高いが。
　このままいけば、ここでマリサと摩り替わることが出来るのではないか。
　サリカの脳裏を、そんな考えが過ぎる。
　この女性の後に従えば。誰にも疑われること無くクラウディアとしてフィラティノア王宮に入ることが出来るだろう。そうなれば。彼女の計画は半分以上成功したことになる。
　天が与えたこの好機、見逃す手は無かった。
（クラウディア）
　いま、ここで。漸く自分はクラウディアとなれる。本来そうあるべきであった姿に――フィラティノア王太子妃として、かの国に足を踏み入れることが出来る。
　サリカは、短剣を帯に挟むと女性の後を追った。背後から聞こえる足音に、女性は三度みたび安堵の表情を見せ、宿から出るとその足で辻馬車を拾う。
「ご報告が遅れましたが」
　馬車が動き出し、オルネラの灯りが少しずつ遠のき始めた頃を見計らってか。女性が口を開いた。サリカは、問い返そうとして、慌てて声を抑えた。尋ねる代わりに、首を傾げる。と、女性はそれを発言許可と受け取ったのだろう。
「アレクシア殿下への書簡、使いのものに託しました。おそらく、近日中には殿下のお手元に届くでしょう」
　要件のみを答える。
　サリカは「ありがとう」と簡単に礼を述べはしたが。アレクシア、という名に内心驚きを隠せなかった。アレクシアと言えば、カルノリアの皇女である。第四皇女にして、才色兼備と名高い少女である。確か、サリカよりも二つほど年上か。錬金術や魔術に興味を持つ薄気味悪い女性だと聞いていたが、マリサは彼女のことを尊敬し、慕っていたようだ。

　――また、アレクシア殿下に手紙を書いているの？

　彼女との文通は、マリサにとって楽しみの一つであったようだ。嫁いでからもやめていなかったとは意外である。ことに、フィラティノアのように魔術などに関して偏見を持っている国は。錬金術の論文を書く皇女との交際を、快く思わないのではないか。
　そこまで考えて、ようやく得心が行った。
　マリサは、秘密裏に書簡を渡すためにこの街に来たのだ。この街に、フィラティノア王室専用の密偵が潜んでいるのだろう。その者に書簡を託して、この女性は戻ってきた。ところが、そこにいるはずのマリサがいない。
（彼女のことだから）
　何処かに出かけてしまったのだろう。
　読書家の皇女、といえば淑やかで内向的な印象を持たれがちだが。マリサは違う。彼女は、活発である。ひとところにじっとしていることは無い。好奇心旺盛で、常に何か刺激を求めている。そんな片翼のことが羨ましくて。密かに妬んだこともあった。
「今宵は、早くお休みになられるとよいでしょう」
　女性の申し出に、サリカは頷く。下手なことを喋って、ぼろが出てしまっては元も子もない。ここは、旅に疲れたフリをして、元気の無いところを演じればよい。――無論、この女性にそのような猿芝居が通用すればの話だが。
「明日は、一日お休みになられて。明後日には、王宮に帰ることにしましょう」
　もともと、その予定だったらしい。サリカは、女性の言葉に頷いた。
　いつに無く、口数の少ないクラウディアを不審に思ったのか。女性はふと表情を厳しくする。だが、すぐに見知らぬ男に襲われかけたせいだと思い直したのだろう。なぜか彼女のほうが傷ついたような眼をして。サリカから視線を逸らした。月光に洗われる夜道を進む馬車の小さな窓から外を覗いて、小さな溜息をついている。
　彼女のほうにも、何かがあったのかもしれない。
　サリカは、女性の端麗なる横顔を、無言で見詰めた。

◆

　部屋は、もぬけの殻だった。
　サリカがルーラとともに退室してからほぼ入れ違いの状態で、マリサとジェリオが到着する。勢い込んで扉を開けたマリサだったが、そこに目的の人物が見当たらぬことを確認すると、盛大に息をついた。
「逃げられたわね」
「って、皇女さん。あんたここにいるだろうが」
　間抜けな答えを返すのは、ジェリオ。ジェリオ、と名乗った刺客である。彼はこの期に及んでまだ気づいていないのか。マリサはくるりと踵を返し、彼に向かってもう一度、溜息をついた。
「いい加減、鈍い男よね。そろそろ気がついたらどうなの？」
「気付く？　何を？」
　わからないらしい。眉間に皺を寄せる男の脇腹を肘でつついて。マリサは「もういい」と。身を翻す。サリカの姿がここに無いと言うことは、ここをルーラが訪れた可能性がある。ルーラもジェリオと同じく、サリカをマリサと勘違いして、彼女を連れ去ったのだ。それしか考えられない。
　宿の主人に確認をとれば、それらしき女性が訪れたと言う。
「あれ？　そんときにお嬢さんも一緒に出て行ったはずだけど？」
　幽霊でも見たかのような顔で、主人はマリサを見る。失礼な、と彼女は両手を腰に当てて。
「それは、双子の妹よ。区別つかないの？　失礼な話ね」
　怒りの言葉を投げつける。
　しかし性格は異なれど、見た目は寸分たがわぬ姉妹である。いとこにすら見分けがつかぬと言うのに。赤の他人にであれば当然だろうという気もするが。
「双子？　妹？　あんた、冗談もいいかげんにしろって」
　ジェリオが呆れ顔で呟く。彼もまた、惑わされた人物のひとりである。マリサは、ぽんぽんと彼の肩を叩いた。それから、つつ、と部屋の隅に押しやり、あたりに人影がいないのを見計らうと、胸元の飾り紐を解き始める。何をする気だとジェリオが瞠目する前で、彼女は僅かに服をはだけ、くるりと背を向けた。
「う……？」
　押し殺したような、ジェリオの声が聞こえる。彼は、見たのだ。背中の傷を。少女の柔肌に刻まれた、醜い創傷を。それを確認すると、マリサは身なりを整え彼に向き直った。
「どう？　わかったでしょ？」
「……」
「あの子には、こんな傷は無かった。――違う？」
　挑戦的に尋ねるマリサに、ジェリオは呻きに似た声を投げた。
「あんた、本当に」
「そう。あの子の双子の姉。フィラティノア王太子妃・クラウディア」
　にやり、と。マリサは不敵に笑う。ジェリオが唾を飲み込む音が聞こえた。彼女はことさら自身の笑みが不気味に見えるよう、燭台の陰に回りこむ。
「あなたの計画、教えてもらいましょうか？　私を暗殺する計画」
「あんた」
「ここで立ち話もないわね。道々、聞くことにしようかしら」
　マリサは、すっと身を引く。
「あなた、馬には乗れる？」
　問いかけに、ジェリオは不貞腐れた表情で頷いた。先程までサリカと信じ込んで話をしてきた相手が、実は標的である双子の姉だった。その事実に気付いて、衝撃を受けているのだろうか。いな。この、彼の表情はそれとは違う。
　なにやら企みを持った者の、ふてぶてしい笑みがその口元を彩っていた。

◆

　馬車がついたのは、オリアの王宮ではなく。グランスティアの離宮であった。このようなところに、マリサは滞在していたのだ。女性に介助されて地面に降り立ったサリカは、迎えに出た使用人たちの挨拶を受けて、小さく目礼を返した。
　見上げれば、聳える異形の塔。アヤルカス生まれの彼女にとっては、異形と思える塔であった。もともと、フィラティノアは都市群の集合体である。個々の都市が現在もそれぞれに自治体の役割を果たしているのだ。ともすれば、都市国家を束ねているのがフィラティノア王宮だと、そんな印象を持ってしまいそうになる。
（この国は、国家としてはとても脆い）
　軍事大国として名を轟かせてはいるが、その実フィラティノアは烏合の衆である。王家とて、それほどの力を持っているとは思えない。有力貴族がそろって反旗を翻せば、簡単に首のすげ替えなど出来てしまう。
　そんなところに、マリサは嫁いだのだ。
　アヤルカスの刺客だけではない。国内の有力者の刺客も、王家のものの首を狙っている。
　――むろん、それはこの国だけとは限らないが。
「お疲れになられたでしょう」
　女中頭と思しき女性が、サリカの元に歩み寄ってきた。彼女は、サリカの前に立つ銀髪の女性に恭しく頭を下げ。
「湯浴みの用意を整えてございます、ルナリア様」
　告げてから、先にお食事になさいますかと問いかける。その言葉に、サリカは軽い驚きを覚えた。ルナリア――その名は、聞いたことがある。確か、ディグルの愛妾。寵姫ではなかったか。出自は明らかではないが、王太子ディグルはルナリアをことのほか重用し、ただの寵姫としてではなく、己の参謀として利用していると言う。
（このひとが）
　ルナリア。北方の、月の精霊の名を持つ女性を、サリカはそっと見つめた。
　マリサは、夫の愛妾と行動をともしているのか。場合によっては、敵とも言える間柄なのだが。どうも、先程からのルナリアの言動を見ているとそれとは違う気がする。ルナリアは、マリサを主人の正室としてではなく。守るべき存在として扱っているように思えるのだ。
（どういうことだ？）
　いまひとつ、感覚がつかめない。
　純潔を奪われたのか、と尋ねてきた彼女の表情。それは、主人のためを思う寵姫のそれではなかった。どちらかと言うと寧ろ――。
「妃殿下」
　呼ばれて、それが自身のことだと気付くまで、しばしの時間を要する。サリカは、曖昧な笑みを浮かべて、
「なに？」
　ルナリアを見上げた。
「湯浴みを、なさってはいかがですか？」
　彼女の視線は、アヤルカスの首筋に注がれている。彼女はそれに気付き、思わず口元を押さえた。
「――わかった」
　小さく頷いて。サリカはルナリアの言葉に従う。と、女中頭はルナリアに一礼してから、サリカを促した。このまま、湯殿へ案内しようというのだろう。食事はその後からだと、女中頭は彼女らに告げて。
「あとから、お部屋に運ばせましょう。今夜も、おふたりご一緒に召し上がりますか？」
　こちらも気を利かせているのか。
　マリサはいつも、ルナリアとふたり、私室で食事を摂っているようだ。
「任せる」
　ルナリアは素っ気無く答えていた。が。ふとサリカのほうに眼を向けて。
「妃殿下」
　何か問いたげなそぶりを見せた。彼女の許可を得ようと言うのか。それとも、他の問いなのだろうか。サリカは、逡巡したが。
「ルナリア殿も、一緒に」
　そう答える。一瞬、ルナリアの表情が曇ったのは、気のせいか。呼び方が違うのか、それとも。


　そのわけは、後になってから解かった。
　湯殿に付き従った若い女中。彼女がくすくすと笑いながら
「何かあったのですか？　妃殿下？　ルーラ様と随分よそよそしいですけど」
「ルーラ？」
　正室と愛妾の仲が悪いのは、古今全てに共通することである。サリカはそう考えているのだが。どうも、フィラティノアにおいては、それは常識ではないらしい。クラウディアとルナリア。王太子を巡る二人の女性は、何を思っているのか。非常にその仲は良好のようだ。それは、この女中の話し振りからも察することが出来る。加えて、ルナリアの態度。あれは、危なっかしい妹を心配する姉のそれである。幼い頃共に遊んだ従姉たちが、あのような態度で双子に接していた。
　それに。
「ルーラ」
　ルーラ、と。マリサは愛称で側室を呼んでいたのか。だから、先程周囲の空気が変わったのだ。
「ひとまえでは、正式に呼ばないといけないかと思って」
　なんとなく、ごまかしてみる。そうですか、と。女中は何の疑いも無く頷いた。
「先日、湯殿に賊が押し入ってから。ルーラ様も色々気を使われていらっしゃるみたいですし」
「湯殿に？」
　賊が。――刺客だろうか。それとも、アヤルカスの密偵？
　もしも、それがアヤルカスがらみであるとすれば。
（バディール）
　彼が、ここを訪れたことは間違いない。マリサを信奉する乳兄弟。彼は、片翼に何を伝えたのだろう。愚かなる『妹』が、姉の身代わりになろうとしている、と。そんなことを告げたのではないか。
「……」
　それは違う。バディールのことだ。サリカのことは好ましく思っていない。サリカの身がどうなろうが、彼は気にも留めぬだろう。
　後は自分でで出来るから、と。女中に伝えて、サリカはひとり湯殿に入る。いつもそうしていたのだろう。女中のほうも不信感を抱くことなく、素直に彼女の言葉に従った。こちらでお待ちしています、と笑顔で応える彼女に。
「冷えるから」
　サリカは、己の上着を差し出した。と、女中ははにかむように笑って。
「いつも、お気遣いありがとうございます」
　深々と頭を下げるのだった。
　いつも、ということはここに来るたびに、マリサは女中を気遣って寒くないよう手配しているのだろう。サリカは、片翼らしい、と密かに笑みを浮かべる。
　扉が閉まったことを確認すると、サリカは衣服を脱いだ。簡素な旅装束ではあるが、それなりに質のよいものである。ジェリオが彼女のためを思って、どこからか仕入れてきてくれたものだ。彼は普段憎まれ口ばかりきいているけれども、根は優しいに違いない。時々サリカを気遣うそぶりを見せるものの、彼女が礼を述べると慌てたように素っ気無く振舞う。他のことは器用なのに、なぜかその辺りだけ妙に不器用で。

　――俺は、女には不自由してないからな。

　そんな部分が、女性の母性本能をくすぐるに違いない。
「ジェリオ」
　刺客の名を、呟いてみる。彼は、突如姿を消した自分を探しているだろうか。今度顔をあわせるのは、クラウディアとして彼に殺されるときだ。同じ暗殺者に別人として命を狙われる人物も、そうはいないだろうと考えると、可笑しくなってくる。そうだ、結局のところ、自分はジェリオに殺されるのだ。
　彼は、果たしていつ来るのだろう。
　明日か。それとも、明後日か。一月後か。
　その前に、マリサが戻ってきたとしたら。自分は、うまく彼女を説き伏せることが出来るだろうか。横面を数回叩かれることを覚悟しなければならないだろうが。それでも、彼女を失うよりはましだった。片翼が受けた傷――あの光景を、もう一度目にするくらいなら。自分が幾度でも代わりたい。いや。一人で刺客と闘った片翼のために。今度は自分が闘いたい。片翼を守りたい。
　サリカは深く息をついて、洞窟のごとき湯殿に降りていった。