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第一章 さすらいの皇女
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夜の街を疾駆する馬影がふたつ。墨を練り上げたような青鹿毛の馬と、黄金に輝く栗毛の馬。並んだ二頭は先を競うように。鼻面を合わせて灯りの絶えた街道をひた走っている。
青鹿毛に乗るのは、同じ黒髪の少女。長い衣裳の裾をなびかせて、横座りの姿勢のまま巧みに馬を操っている。これで、併走する栗毛と速度はあまり変わらない――寧ろ、栗毛よりも勝る速さで駆けているのであるから。その技量はたいしたものであろう。栗毛を駆る青年は、横目に彼女の姿を見て、内心舌を巻いていた。見かけは楚々とした令嬢、しかしその実かなりのお転婆ときている。姿だけは男子だが、内面はか弱い少女そのものである双子の妹とは、対照的だ。
「あとどれくらいだ、皇女さん?」
尋ねる声に応えるのは、
「もうすぐ。この山を越えれば、見えてくるわ」
息一つ乱さぬ言葉。
星明りだけが頼りの夜道では、正確な距離も時間も量ることはできない。けれども、グランスティアの離宮からオルネラへの道筋を思い返せば。それほど遠くは無いということに思い至ったのだ。ことに、今は。二人とも馬を飛ばしている。馬車で訪れた往路とは速度が違う。このままいけば、半刻も経たぬうちに離宮に着くことが出来るだろう。
「問題は、その後なのよね」
マリサは、今日幾度めかしれぬ溜息をつく。
そう。問題は、どうやって離宮に入るかだ。先日、バディールが入らぬ潜入をしてくれたおかげで、警備がさらに厳しくなった。ことに、王太子妃の部屋ともなればルーラを初めとする精鋭たちが警護をしている。その眼を掻い潜って部屋に到達したとしても。うまく『妹』と入れ替わることが出来るかどうか。
サリカは、頑固だ。お人よしで、人の前に出ることを嫌う控えめな性格ではあるけれども。一度自分が決めたことは、頑として翻そうとはしない。ことに、片翼の――『クラウディア』の命がかかっていることであれば尚更。どうあっても、ジェリオの刃を受けて死ぬつもりだろう。
そうすることで、故国と片翼を守ろうとする。
健気と言えば健気だが、マリサにとっては、迷惑な話である。
(残されるほうの身にもなってよね)
自分の命か、他人の命か。二つにひとつを選ばなければならなかったとしても。そこであっさりと自身の命を差し出すような愚を、自分は犯さない。両方とも助けるのだ。助かるのだ。痛みわけだろうが、なんだろうが。可能性が僅かでもある限りそこに賭けなければならない。それが、人生というものだ。
そう言い放つ気性こそ、アヤルカスの皇帝に相応しい、と。バディールなどは絶賛する。それならばいっそ、ここで、このまま二人が入れ替わって。サリカを予定通りフィラティノアの后に、自分がアヤルカスの皇帝に――なればよいだけのことなのだが。
それが一番よい方法なのだが。
「どうした、皇女さん?」
ジェリオが、意味深長な笑みを向ける。
「あっちの皇女さんと、入れ替わるつもりか?」
「……」
見抜かれた。ジェリオに。彼も、伊達に片翼と日々を過ごしていたわけではないらしい。
「どっちでもいいぜ、俺は。高貴な生娘を抱けるんだったらな」
「あら? わたしは人妻よ?」
言い返すが。
「見りゃわかる。あんたは、処女妻だ」
あっさりと彼は言い放つ。遊び人は一瞥で処女と非処女の区別が出来るというが。彼はどうやらそれらしい。
「……」
マリサは眉をひそめ、そっぽを向いた。
「そういうところは、あっちの皇女さんと同じだな」
ほかは違う、というのだろう。その言葉も癇に障る。マリサはさらに表情を険しくし、彼を無視して脚を速めるべく。馬の脇腹を強く蹴った。
と。
ふいに目の前を影が過ぎる。馬は驚いて棹立ちになり、マリサは危うく振り落とされるところであった。手綱を引き、体勢を整えて、なんとか馬を宥めたあと。
「何者?」
彼女は闇の中に、鋭く誰何の声を上げた。
街道を囲む、暗き森。その中からこちらを窺う気配がある。殺気とも取れるその冷ややかなる視線に、マリサは自然、身構えた。
春とはいえ、ここはフィラティノア。いまだ森には雪が残り、吐く息は白い。その息の白ささえも覆い隠そうとするのは、木陰の闇――しかし、視線は隠せはしない。殺気を伴う、刃のごとき視線。それは、過たずマリサを狙っている。
アグネイヤを狙う、フィラティノアの刺客か。
それとも。クラウディアを仕留めんとする、アヤルカスの手のものか。
おそらくは、前者であろう。それは、ジェリオの反応で解かった。彼は鬱陶しげに前髪をかきあげると、吐き捨てるように呟く。
「また、あんたかよ」
また、ということは。ジェリオは以前『彼ら』と遭遇している。となれば、狙われているのはサリカだ。マリサは、自然手綱を握る手に力を込める。ここは突破するか。それとも、応戦するか。同行者であるジェリオの動きにそれはかかっているのだが。彼がどう動くか。
マリサが、傍らにちらりと視線を向けると同時に、深き闇の中からほっそりとした影が滑り出す。
「この間は、よくも恥をかかせてくれたわね、坊や」
艶かしい声がよく似合う、蠱惑的な女性であった。長い黒髪を、結いもせずに背にたらしているということは、未婚の娘か。それにしては、年齢が高いように思える。ルーラと同じ、もしくは彼女よりもひとつふたつ年上であろう。
言葉尻に南方の訛りを持つその女性は、朱唇を歪めるように笑った。その笑みが向けられているのは、ジェリオ。彼とは少なからぬ因縁があるようである。
「恥ずかしい思いして、誰かに助けてもらったか? ついでに誘ってやっちまったんじゃないのか? ドゥランディアの獣が」
ドゥランディアの獣――その言葉に、女性の眉が僅かに上がる。
(ミアルシァ?)
マリサは、乾いた唇を舐めた。
ドゥランディアの獣――エルディン・ロウとはまた異なる、南方の暗殺者の一族。それを手中に収めているのはミアルシァの王室である。彼らが放った刺客といえば、普通はフィラティノアに嫁いだマリサに向けられるはずであるが。どうやら、彼女の狙いはサリカらしい。
(どういうこと?)
やはり、アヤルカスの中ではサリカの廃嫡、もしくは暗殺が叫ばれているのだろうか。彼女を失脚させて、フィラティノアからマリサを秘密裏に呼び戻す。そんな愚かなことを考える大臣がいたとしても、おかしくはない。
政治というものは、必ずしも道理に則ったものではなく、寧ろ他者から見れば滑稽なほどお粗末なものなのだ。
「まだ、その娘にくっついているのね。よっぽど良かったのかしら?」
肉体的な意味を込めた皮肉を、ドゥランディアの女性が吐いた。彼女は値踏みするようにマリサを見上げ、それから、おや、といった風に首を傾げる。
「あなた」
不審そうに、彼女が眉を寄せたときだった。
「殺るのか?」
ぬっ、と。彼女の背後から巨漢が姿を現した。あの細いからだの背後に、こんな男が隠れていたのか、と驚いたのもつかの間。彼は太い腕をマリサの方に伸ばしてきた。殺気を感じた馬が、再び棹立ちになる。
「……っ」
それを利用して、マリサは馬首を巡らせた。馬は後肢を蹴り上げ、巨漢はそれを避けきれずに後方に吹っ飛ぶ。
「おやおや。乱暴な妃殿下だ」
ジェリオは茶化すように言い、口笛を吹く。その言葉を、ドゥランディアの女性は聞き逃さなかった。
「妃殿下?」
彼女は、馬上のマリサを再び見上げる。黒い瞳が星灯りの下煌いて、何かを探るように細められる。
「あなた、もしかして……?」
彼女が全てを口にする前に、巨漢が身を起こした。彼がかぶりを振りつつ立ち上がろうとするところを、マリサは一気に馬で飛び越す。――つもりだった。しかし。
「うっ!」
伸ばされた手が、彼女の足を掴んだ。均衡を失った身体は、宙に投げ出される。
「あっ」
空が、歪んだ。
マリサは受身をとることも出来ず、路上に放り出される。背中に激しい衝撃が走り。身体を庇った右腕が嫌な音を立てた。
「……くっ」
痛みに、全身の感覚が麻痺を起こす。
「皇女さん」
焦ったようなジェリオの声が、遠くの世界のもののように聞こえた。
「カイラ。おまえ、こいつはアグネイヤじゃねーぞ」
彼は女性に向かって怒鳴りつけている。カイラと呼ばれた女性も、そのことには気付いていたらしい。慌てて巨漢を止めに入るが、間に合わなかった。
「もーらい」
歌うように呟いて。巨漢はマリサの身体を踏みつける。ぐぎっと肩の関節が音を立てた。脱臼してしまったのか。左腕が、だらりと肩から垂れ下がる。それでも飽きたらぬのか、巨漢はマリサの首を締め上げて、玩具のように宙に投げ上げる。
「馬鹿! カイル、やめなさい!」
悲鳴に似た声が、はるか下方に響いていた。マリサは白濁しかけた意識の中で、彼らの入り乱れる声を聞いている。
「聞こえたでしょう、その子は、あたしらのエモノじゃないわ」
「エモノじゃない?」
カイルはきょとんとカイラを振り返る。その鼻先を掠めて、マリサは再び地面に叩きつけられる――ところであった。
「……?」
衝撃を予想して身を固くしていたマリサは、思いのほか軽い衝撃に眼を見開く。
「意外に重いな」
目の前に、皮肉げな笑みがあった。
ジェリオである。彼が寸でのところで受け止めてくれたのだ。
「あ、ありが……」
礼を言いたかったが、痛みで口が思うように動かない。おそらく、口の中も切ったのだろう。血の味が口内にじんわりと広がっている。マリサは激しく咳き込み、血の混じった唾を吐き出した。
「大丈夫か?」
切迫した声が聞こえる。マリサは頷こうとするが、これも叶わない。
「馬鹿野郎が。玄人が狙う獲物間違えるんじゃねぇ」
そういう自分も、先程まで間違えていたくせに。
心の中で悪態をつきながら、マリサは必死に意識を呼び覚ましていた。ここで時間を無為に過ごすわけにはいかない。早く、離宮に戻らなければ。それだけが、彼女の気力の支えとなっていた。マリサはジェリオの肩につかまり、自身の足で立とうとするが。
動けない。
力はことごとく、身体からすり抜けていってしまう。
「早く」
離宮に、と。唇の動きでジェリオに訴える。彼はこくりと頷き、マリサを馬上に乗せた。その後から自身も馬に飛び乗り、彼女の身体を支えるように手綱を持つ。
「エルディン・ロウ!」
カイラが叫んだ。
「説明しなさい。これは、一体」
「商売敵に何も言う必要は、ねーな」
不敵な笑みを残し、彼は馬の脇腹を蹴る。走れ、の指示を受けた馬は、再び闇に延びる街道を走り始めた。
振動が、傷に響く。マリサは顔を歪め、ジェリオにもたれかかった。
「しっかりしろよ。皇女さん」
耳元にささやきが聞こえる。クラウディアは小さく頷いた。
死ねない。このようなところでは、死ねない。『妹』に、アグネイヤに、逢うまでは。彼女に翻意をさせるまでは。絶対に。
(サリカ)
遠のく意識の中で、彼女は片翼の名を呼んだ。
青鹿毛に乗るのは、同じ黒髪の少女。長い衣裳の裾をなびかせて、横座りの姿勢のまま巧みに馬を操っている。これで、併走する栗毛と速度はあまり変わらない――寧ろ、栗毛よりも勝る速さで駆けているのであるから。その技量はたいしたものであろう。栗毛を駆る青年は、横目に彼女の姿を見て、内心舌を巻いていた。見かけは楚々とした令嬢、しかしその実かなりのお転婆ときている。姿だけは男子だが、内面はか弱い少女そのものである双子の妹とは、対照的だ。
「あとどれくらいだ、皇女さん?」
尋ねる声に応えるのは、
「もうすぐ。この山を越えれば、見えてくるわ」
息一つ乱さぬ言葉。
星明りだけが頼りの夜道では、正確な距離も時間も量ることはできない。けれども、グランスティアの離宮からオルネラへの道筋を思い返せば。それほど遠くは無いということに思い至ったのだ。ことに、今は。二人とも馬を飛ばしている。馬車で訪れた往路とは速度が違う。このままいけば、半刻も経たぬうちに離宮に着くことが出来るだろう。
「問題は、その後なのよね」
マリサは、今日幾度めかしれぬ溜息をつく。
そう。問題は、どうやって離宮に入るかだ。先日、バディールが入らぬ潜入をしてくれたおかげで、警備がさらに厳しくなった。ことに、王太子妃の部屋ともなればルーラを初めとする精鋭たちが警護をしている。その眼を掻い潜って部屋に到達したとしても。うまく『妹』と入れ替わることが出来るかどうか。
サリカは、頑固だ。お人よしで、人の前に出ることを嫌う控えめな性格ではあるけれども。一度自分が決めたことは、頑として翻そうとはしない。ことに、片翼の――『クラウディア』の命がかかっていることであれば尚更。どうあっても、ジェリオの刃を受けて死ぬつもりだろう。
そうすることで、故国と片翼を守ろうとする。
健気と言えば健気だが、マリサにとっては、迷惑な話である。
(残されるほうの身にもなってよね)
自分の命か、他人の命か。二つにひとつを選ばなければならなかったとしても。そこであっさりと自身の命を差し出すような愚を、自分は犯さない。両方とも助けるのだ。助かるのだ。痛みわけだろうが、なんだろうが。可能性が僅かでもある限りそこに賭けなければならない。それが、人生というものだ。
そう言い放つ気性こそ、アヤルカスの皇帝に相応しい、と。バディールなどは絶賛する。それならばいっそ、ここで、このまま二人が入れ替わって。サリカを予定通りフィラティノアの后に、自分がアヤルカスの皇帝に――なればよいだけのことなのだが。
それが一番よい方法なのだが。
「どうした、皇女さん?」
ジェリオが、意味深長な笑みを向ける。
「あっちの皇女さんと、入れ替わるつもりか?」
「……」
見抜かれた。ジェリオに。彼も、伊達に片翼と日々を過ごしていたわけではないらしい。
「どっちでもいいぜ、俺は。高貴な生娘を抱けるんだったらな」
「あら? わたしは人妻よ?」
言い返すが。
「見りゃわかる。あんたは、処女妻だ」
あっさりと彼は言い放つ。遊び人は一瞥で処女と非処女の区別が出来るというが。彼はどうやらそれらしい。
「……」
マリサは眉をひそめ、そっぽを向いた。
「そういうところは、あっちの皇女さんと同じだな」
ほかは違う、というのだろう。その言葉も癇に障る。マリサはさらに表情を険しくし、彼を無視して脚を速めるべく。馬の脇腹を強く蹴った。
と。
ふいに目の前を影が過ぎる。馬は驚いて棹立ちになり、マリサは危うく振り落とされるところであった。手綱を引き、体勢を整えて、なんとか馬を宥めたあと。
「何者?」
彼女は闇の中に、鋭く誰何の声を上げた。
街道を囲む、暗き森。その中からこちらを窺う気配がある。殺気とも取れるその冷ややかなる視線に、マリサは自然、身構えた。
春とはいえ、ここはフィラティノア。いまだ森には雪が残り、吐く息は白い。その息の白ささえも覆い隠そうとするのは、木陰の闇――しかし、視線は隠せはしない。殺気を伴う、刃のごとき視線。それは、過たずマリサを狙っている。
アグネイヤを狙う、フィラティノアの刺客か。
それとも。クラウディアを仕留めんとする、アヤルカスの手のものか。
おそらくは、前者であろう。それは、ジェリオの反応で解かった。彼は鬱陶しげに前髪をかきあげると、吐き捨てるように呟く。
「また、あんたかよ」
また、ということは。ジェリオは以前『彼ら』と遭遇している。となれば、狙われているのはサリカだ。マリサは、自然手綱を握る手に力を込める。ここは突破するか。それとも、応戦するか。同行者であるジェリオの動きにそれはかかっているのだが。彼がどう動くか。
マリサが、傍らにちらりと視線を向けると同時に、深き闇の中からほっそりとした影が滑り出す。
「この間は、よくも恥をかかせてくれたわね、坊や」
艶かしい声がよく似合う、蠱惑的な女性であった。長い黒髪を、結いもせずに背にたらしているということは、未婚の娘か。それにしては、年齢が高いように思える。ルーラと同じ、もしくは彼女よりもひとつふたつ年上であろう。
言葉尻に南方の訛りを持つその女性は、朱唇を歪めるように笑った。その笑みが向けられているのは、ジェリオ。彼とは少なからぬ因縁があるようである。
「恥ずかしい思いして、誰かに助けてもらったか? ついでに誘ってやっちまったんじゃないのか? ドゥランディアの獣が」
ドゥランディアの獣――その言葉に、女性の眉が僅かに上がる。
(ミアルシァ?)
マリサは、乾いた唇を舐めた。
ドゥランディアの獣――エルディン・ロウとはまた異なる、南方の暗殺者の一族。それを手中に収めているのはミアルシァの王室である。彼らが放った刺客といえば、普通はフィラティノアに嫁いだマリサに向けられるはずであるが。どうやら、彼女の狙いはサリカらしい。
(どういうこと?)
やはり、アヤルカスの中ではサリカの廃嫡、もしくは暗殺が叫ばれているのだろうか。彼女を失脚させて、フィラティノアからマリサを秘密裏に呼び戻す。そんな愚かなことを考える大臣がいたとしても、おかしくはない。
政治というものは、必ずしも道理に則ったものではなく、寧ろ他者から見れば滑稽なほどお粗末なものなのだ。
「まだ、その娘にくっついているのね。よっぽど良かったのかしら?」
肉体的な意味を込めた皮肉を、ドゥランディアの女性が吐いた。彼女は値踏みするようにマリサを見上げ、それから、おや、といった風に首を傾げる。
「あなた」
不審そうに、彼女が眉を寄せたときだった。
「殺るのか?」
ぬっ、と。彼女の背後から巨漢が姿を現した。あの細いからだの背後に、こんな男が隠れていたのか、と驚いたのもつかの間。彼は太い腕をマリサの方に伸ばしてきた。殺気を感じた馬が、再び棹立ちになる。
「……っ」
それを利用して、マリサは馬首を巡らせた。馬は後肢を蹴り上げ、巨漢はそれを避けきれずに後方に吹っ飛ぶ。
「おやおや。乱暴な妃殿下だ」
ジェリオは茶化すように言い、口笛を吹く。その言葉を、ドゥランディアの女性は聞き逃さなかった。
「妃殿下?」
彼女は、馬上のマリサを再び見上げる。黒い瞳が星灯りの下煌いて、何かを探るように細められる。
「あなた、もしかして……?」
彼女が全てを口にする前に、巨漢が身を起こした。彼がかぶりを振りつつ立ち上がろうとするところを、マリサは一気に馬で飛び越す。――つもりだった。しかし。
「うっ!」
伸ばされた手が、彼女の足を掴んだ。均衡を失った身体は、宙に投げ出される。
「あっ」
空が、歪んだ。
マリサは受身をとることも出来ず、路上に放り出される。背中に激しい衝撃が走り。身体を庇った右腕が嫌な音を立てた。
「……くっ」
痛みに、全身の感覚が麻痺を起こす。
「皇女さん」
焦ったようなジェリオの声が、遠くの世界のもののように聞こえた。
「カイラ。おまえ、こいつはアグネイヤじゃねーぞ」
彼は女性に向かって怒鳴りつけている。カイラと呼ばれた女性も、そのことには気付いていたらしい。慌てて巨漢を止めに入るが、間に合わなかった。
「もーらい」
歌うように呟いて。巨漢はマリサの身体を踏みつける。ぐぎっと肩の関節が音を立てた。脱臼してしまったのか。左腕が、だらりと肩から垂れ下がる。それでも飽きたらぬのか、巨漢はマリサの首を締め上げて、玩具のように宙に投げ上げる。
「馬鹿! カイル、やめなさい!」
悲鳴に似た声が、はるか下方に響いていた。マリサは白濁しかけた意識の中で、彼らの入り乱れる声を聞いている。
「聞こえたでしょう、その子は、あたしらのエモノじゃないわ」
「エモノじゃない?」
カイルはきょとんとカイラを振り返る。その鼻先を掠めて、マリサは再び地面に叩きつけられる――ところであった。
「……?」
衝撃を予想して身を固くしていたマリサは、思いのほか軽い衝撃に眼を見開く。
「意外に重いな」
目の前に、皮肉げな笑みがあった。
ジェリオである。彼が寸でのところで受け止めてくれたのだ。
「あ、ありが……」
礼を言いたかったが、痛みで口が思うように動かない。おそらく、口の中も切ったのだろう。血の味が口内にじんわりと広がっている。マリサは激しく咳き込み、血の混じった唾を吐き出した。
「大丈夫か?」
切迫した声が聞こえる。マリサは頷こうとするが、これも叶わない。
「馬鹿野郎が。玄人が狙う獲物間違えるんじゃねぇ」
そういう自分も、先程まで間違えていたくせに。
心の中で悪態をつきながら、マリサは必死に意識を呼び覚ましていた。ここで時間を無為に過ごすわけにはいかない。早く、離宮に戻らなければ。それだけが、彼女の気力の支えとなっていた。マリサはジェリオの肩につかまり、自身の足で立とうとするが。
動けない。
力はことごとく、身体からすり抜けていってしまう。
「早く」
離宮に、と。唇の動きでジェリオに訴える。彼はこくりと頷き、マリサを馬上に乗せた。その後から自身も馬に飛び乗り、彼女の身体を支えるように手綱を持つ。
「エルディン・ロウ!」
カイラが叫んだ。
「説明しなさい。これは、一体」
「商売敵に何も言う必要は、ねーな」
不敵な笑みを残し、彼は馬の脇腹を蹴る。走れ、の指示を受けた馬は、再び闇に延びる街道を走り始めた。
振動が、傷に響く。マリサは顔を歪め、ジェリオにもたれかかった。
「しっかりしろよ。皇女さん」
耳元にささやきが聞こえる。クラウディアは小さく頷いた。
死ねない。このようなところでは、死ねない。『妹』に、アグネイヤに、逢うまでは。彼女に翻意をさせるまでは。絶対に。
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