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第二章 輝ける乙女
陰謀5
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「オルトルートの工房には、人の気配はありません」
密偵の報告に、サリカは小さく頷いた。
「何者かに連れ去られたか、もしくは、自身で危機を察知して逃亡したのか」
前者である確率が高いのであるが、できれば後者であって欲しいとサリカは願う。
――オルトルートの工房がある神殿の近く、雑踏に埋もれるようにして露店を出している密偵の元を訪れたサリカは、布の上に並べられた装飾品を選ぶ振りをしながら、彼の語る言葉に耳を傾ける。ともすれば、人の気配にかき消されてしまう細い声。呼び売りの甲高い声が、会話をさえぎりがちであるが、
「こちらの耳飾など、若様にはお似合いかと思いますよ」
商人の愛想を振りまく密偵は、紫水晶の細工物をサリカの耳に合わせるよう装いつつ、その耳朶に要件のみを伝える。簡潔に、素早く。
「内部には争った形跡があります。彼女も抵抗したのでしょう。盗賊の仕業に見せかけるためか、作りかけのものから完成品まですべて、細工物が消えております」
「そうか」
挙句、内部に火がかけられたという。これは、サリカに対する宣戦布告以外のなにものでもないだろう。彼らが知る、サリカの唯一の手がかりは、オルトルートだ。彼女を襲えば、サリカが何らかの反応を見せる、そう予想したまでは正しかったが。
「陛下は、行動を慎まれますように。我らからの報告をお待ちください」
さすがに彼らも目的の人物が、神聖皇帝その人だとは思わなかっただろう。良くて帝室に縁のある大貴族の姫君――公爵家あたりのじゃじゃ馬姫が、ルクレツィア皇后を気取って男装をしている、くらいにしか考えていない模様である。
「くれぐれも、工房に近づくことなどなさいませんよう。どのような罠が仕掛けられているとも限りません」
厳しい表情で告げる密偵は、父の代より帝室に仕える古参である。双子の性格も熟知している彼だからこそ、リナレスよりの報告を受けたサリカが、迷わずオルトルートの工房にやってくると確信していたのだろう。何食わぬ顔でその近くの市に店を出し、下馬して通りかかるサリカを
――もし、そこの若様。
さりげなく呼び止めたのである。彼がそこにいたことに驚いたサリカは、一瞬表情を凍りつかせたが。苦笑を浮かべ、彼の元に歩み寄った。彼は、以前にサリカがオルトルートの工房近くで揉め事に巻き込まれたことを耳にしていたのだ。
「あの折の男たちが、陛下を狙っているのは確かです。あの後も幾度か、金髪の青年がオルトルートの工房を訪れていたとの報告もございますれば」
「細工物がほしかったからではないのか?」
「我らを甘く見ないでいただきたいですな、陛下」
密偵は意味深長に眉を動かす。
「我らは演繹法では動きませんぞ?」
そうだった、とサリカは頷いた。彼らは、仮定から始めて証拠を集めるようなことはしない。すべて事実だけを集めた結果、答えを導くのだ。
密偵からの報告によれば、やはり件の二人組はカルノリアの士官――それも名門出身の軍人とのことだった。ひとりは、第一将軍の側近の子息、いまひとりも、将軍の配下に当たる。
「第一将軍」
嫌な予感がした。ジェルファの花嫁候補として訪れたカルノリアの姫君は、第一将軍の息女ではなかったか。しかも、イリアは彼女と面識がある。サリカが、ルカンド伯爵の暗殺現場を目撃したまさにその夜、シェルマリヤはセグにいたことになるのだ。
「シェルマリヤ姫も、皇帝直属の密偵をされていたと聞き及んでいます。此度の件にも、少なからず関わっていらっしゃると考えても宜しいかと存じます」
「あの姫君が、か」
イリアはシェルマリヤを愛称で呼ぶほど信頼している。感が鋭い巫女姫すらも欺く人物なのか、それとも真に二心がないのか。サリカには、解りかねた。しかも、彼女はシェルマリヤの肖像画しか眼にしてはいない。実際に対面して、どのような人物か見極める必要がある――そう考えて、サリカは宮殿に戻る決意をした。
「調査は、任せた。また何かあればすぐに連絡を頼む」
「御意」
深くこうべを垂れた密偵は、満足げに微笑む。
「陛下。随分と成長されましたな」
かつてはマリサほどではないが、かなりの無鉄砲であったはずなのに。と。彼の眼は言っている。その声無き声を察して、サリカは静かに頷いた。
皇帝は、軽はずみなことはしてはならない。
即位後、エルハルトに嫌と言うほど聞かされた言葉が蘇る。
ここで、サリカがカルノリアの軍人の手に落ちて、落命することになれば。名ばかりの復活を遂げた神聖帝国は、再び崩壊するであろう。いな、名目上は崩壊せず、ジェルファが巫女姫を擁して国の存続を図るかもしれない。けれども、そうなった場合、フィラティノアとの同盟は、マリサの立場は。危ういものになってしまう。
サリカは、ミアルシァともカルノリアとも均衡を保ちつつ、神聖帝国の基礎を築かねばならぬのだ。
(密偵と覚悟の上で、ジェルファの花嫁にシェルマリヤ殿を推すか)
そしてサリカは、ミアルシァの要望通りルクレツィアを現世の后である皇后として迎えるべきなのか。
現在、自身のおかれている状況を考えれば、それが最善の選択かもしれない。
「お気をつけて」
商談不成立を装い、その場から離れるサリカに、密偵は作り物めいた笑顔を向ける。
傍から見れば、まさに商人と客との会話としか思えなかったであろう。サリカは馬を引きながら、再び大通りを抜け、紫芳宮への近道となる裏路地へと足を踏み入れた。表通りの喧騒は遠く、小ぢんまりとした居酒屋や娼館、安宿が並んでいる通りである。昼はさほど人影もなく、距離短縮にはちょうど良い。サリカは愛馬を引きながら、久しぶりに眼にする裏町の風情を楽しんでいたが――
「……っ?」
不意に袖を掴まれ、咄嗟に身構えた。帯に挟んでいた短剣を抜き放ち、『賊』の喉元を掻き切らんとすると。
「若様、わたしですわたし」
潜めた声で必至に訴えるのは、誰あろう、エーディトそのひとである。
「エッダ?」
無事でよかった、と呟きかけたサリカだが。彼の姿にかける言葉を失った。こともあろうに彼は女装していたのだ。裏町の踊り子のごとき派手な衣裳を身に着け、元の顔がわからぬほど濃く化粧を塗り、おさげにした亜麻色の髪に色鮮やかな造花を幾本か差している。自称乙女のエーディトにしては、少し趣味が悪い『変装』ではないかと、サリカが眉を顰めたとき。
「その物騒なものは、しまっていただけませんか?」
彼は、サリカの短剣を指でつついた。サリカがそれを鞘に収めるのを見計らって、エーディトは軽く咳払いをする。
「良かったですよ、若様にお会いできて。どうしようかと思いましたから」
芝居がかった口調で切り出そうとする彼を押しとどめ、サリカは肝心なことを尋ねた。
「ティルデは? ティルデも一緒なのか?」
彼女の剣幕に、エーディトはこくりと頷く。彼の話によれば、先日不意に訪れた客が、
――ここにいては危険です。早く身を隠すように。
そういって、ティルデとエーディトを神殿より連れ出したそうだ。二人はその人物の手配した宿に身を潜めているが、さすがに外に出なければ食料の調達もままならぬということで、
「わたしがほれ、このように。目立たぬ姿に身を変えて、師匠の食事を手に入れに来たところです」
エーディトは胸を張る。
「目立たぬ、ね」
サリカは、呆れて息をついた。本人がそう思っているのなら、特に言及はしないが。どう見てもこれは、場末の踊り子か娼婦か、悪く行けば男娼にしか見えない。そういう人々狙いの輩に行きあってしまったらどうするのか。――無論、彼のことである。上手い言い訳をして逃亡するのであろうが。
「あとで、迎えのものをよこす。お前たちは、暫く離宮に身を潜めていろ。そこなら安全……」
「いやですよ、若様。我らは権力に屈しない孤高の芸術家ですよ? いままで、どんなお貴族様の庇護もお断りしてきました。ここで若様のご厚意を受けるわけには行きません。師匠もそう思うはずですきっと」
「そうじゃなくて」
サリカは、とん、とエーディトの肩を掴む。
「いいか、お前たちは命を狙われている。これは、解っているな?」
「もちろん。どこかの親切な人も、そう仰っていましたよ。我らは有名ですからね。逆恨みをかうことも一つや二つじゃないでしょう。ええ、確かに工房が身代わりになってくれて、わたくしどもは助かりましたけどね」
「逆恨みじゃない。原因は、僕にある」
「陛下――若様に?」
エーディトはきょとんと眼を丸くした。オルトルートが、帝室の庇護を受けているのであればともかく、表立って彼らとサリカ個人との繋がりを知るものはいない。それなのになぜ、サリカが原因でティルデとエーディトの命が脅かされるのか。彼には理解不能だったらしい。
「詳しい話は後でする。ともかく、僕のせいでお前たちを危険な目に合わせたくない」
まだ、腑に落ちぬといった表情のエーディトに馬を渡し、
「この子を貸す。ティルデと先に紫芳宮に行け」
「若様?」
「ティルデがごねたら、引き摺ってでも連れて行け。いいな。ここにいたら危ない。早く、逃げろ。いいな?」
「そんな、なんで……」
言いかけた、エーディトの眼が大きく見開かれた。彼は今にも叫びだしそうに口も大きく開けて、後退する。彼はサリカを指差し、幾度かぱくぱくと口を動かした。
「エッダ?」
同時に、サリカも気配に気づき、剣に手をかけた。勢いで振り返れば、そこには。
「やはり、来たか」
冷ややかな笑みを浮かべる青年の姿があった。レンシスの同僚と思しき、黒髪の青年。カルノリア第一将軍の部下であるところの――ルカンド伯爵を暗殺した本人。
「あの細工師とは、かなり懇意だったようだな、小娘」
彼は、威圧的にサリカに近づいてくる。胸高に組んだ腕を解こうともしない――そこに嫌味なまでの余裕を感じ取り、サリカは口元をゆがめた。余裕なのではない。この狭い路地の中では、長剣が不利だからだ。みたところ、彼は剣のほかに武器は携帯していないようである。サリカは、エーディトに手綱を押し付けると、彼を庇うようにその前に躍り出た。
「早く行け!」
「へ……若様」
エーディトは、泣きそうな声を上げる。上げながらも、彼は無様な仕草で騎乗した。彼の乗馬技術はサリカから見れば最低だが、人の足に追いつかれるほどではないだろう。それに、彼女の愛馬は宮殿までの道を知っている。ただつかまっていれば、愛馬はエーディトを宮殿に運んでくれるはずだ。
エーディトが馬を走らせたのを見計らい、サリカはゆっくりと短剣を抜き放つ。陽光を受けて輝くその切っ先を青年に向けると、彼は静かに嘲笑した。
「小者に助けを呼びに行かせたか。甘いな、小娘」
「なんとでも言えばいい。――オルトルートを襲ったのは、お前だな」
工房を襲い、装飾品を略奪し、火を放った。そこに、オルトルートがいたらと思うとぞっとする。彼らは、目当ての人物がいないことに気づき、腹いせに工房を荒らしたのだろう。
「そうだ」
あっさりと青年は頷く。やはり、と唇を噛み締めたサリカだったが、次に彼が発した言葉に、思わず耳を疑った。
「なかなか強情なおんなだ。お前とのかかわりを、どれほどせめても言わなかった」
責めた? オルトルートを?
――親切な人が、宿を手配してくれたんですよ。
――いま、そこに師匠と隠れています。
――師匠と隠れています。
エーディトは、そう言っていなかったか。オルトルートは――ティルデは、彼と一緒にいるはずである。ならば、青年の言葉はおかしい。つじつまが合わない。
(どういうことだ?)
考えて、ふと、密偵の言葉を思い出す。
――工房には、争った形跡があります。
エーディトの話が正しければ、この青年が踏み込んだときには工房はもぬけのからのはずである。けれども、密偵は争った痕があるといった。ならば、オルトルートたちの代わりに、誰かが工房でこの青年を待ち受けていたことになる。
――親切な人が……。
(いったい、誰が?)
エーディトの語った、親切な人――青年の襲来を告げた人物が身代わりになった、そうとしか考えられない。けれども、それが誰なのか。サリカには、見当がつかなかった。
◆
青年は、冷笑を浮かべたままサリカを見下ろしている。酷薄なる双眸には、緊迫した面持ちのサリカが映りこんでいた。彼女の持つ短剣の先が、日差しを受けて鈍く輝いている――そちらに僅かに眼を向けると。
「お嬢さんの剣術、ではないな」
護身用の剣とは思えない、そう彼は呟いた。
「お前の身元を知りたい。名前は? 家は、どこだ?」
「答える必要は無い」
サリカも、負けじと相手を睨み返す。この青年の目的が、何であるのか。おそらく、サリカの命であろうが――それにしては、一向に行動を起こさない処に疑問がある。
「あの細工師が、どうなってもよいというのか?」
切り札のつもりだろう。青年は、残忍な笑みを口元に刻む。けれども、ティルデ師弟が無事であることを知ってしまっているサリカには、その言葉は脅しでもなんでもない。ただ、不可解な疑問が残るだけである。
「彼女は関係ない。どこにいる? 生きているのなら、すぐに解放しろ」
なるべくその心情を悟られぬよう、固い口調で告げる。青年は、餌に食いついたとほくそえんでいるのか。勿体ぶった様子で、なかなか答えようとはしない。
「彼女の身柄を盾にしても、僕は何も答えない。お前に答える必要は無い。何をしても、無駄なことだ」
「減らず口を叩く娘だ」
「ルカンド伯爵暗殺の件は、誰にも言うつもりはない。おまえが、カルノリアの士官であろうと無かろうと。僕には関係の無いことだ」
「――ほう?」
青年の目が光った。
カルノリアの士官、という単語に興味を惹かれたのか。それとも、改めて問われたルカンド伯爵暗殺の件、そちらに何かを感じたのか。どちらにせよ、彼のまとう雰囲気が変わったことは確かであった。
「なぜ、僕を追う? 僕はおまえたちの素性も知らないのに。誰に告発すると言うんだ?」
無意味なことはするな、と。サリカは、付け加えた。
彼らの目的が、神聖皇帝暗殺であれば、サリカはその対象である。けれども、ルカンド伯爵暗殺現場の目撃者としてのサリカを付け狙うのであれば、その行為には意味が無い。サリカがあの晩、ルカンド伯爵の別邸にいたことも偶然であるし、その彼女が神聖皇帝――当時はアヤルカス皇女であるが――であったのも偶然である。サリカは特にルカンド伯爵を殺害した人物を特定する気もなく、その事件を表沙汰にする気もない。
けれども、カルノリア士官は違うようだ。
ルカンド伯爵殺害の罪をサリカに着せ、自身はその彼女の行方を追っていた。
「古代紫の瞳」
青年が呟き、サリカは身を固くする。
「ミアルシァの封印王族の瞳か。かの国は、薄汚れた仕事は、穢れし瞳を持つものにさせるという。貴様も封印王族なれば、ミアルシァの犬として、あれこれかぎまわっているのではないか?」
「違う」
自分はミアルシァの者ではない。そう言い掛けて、サリカは口をつぐんだ。こうして消去法で、彼はサリカの身元を割り出すつもりなのだ。
「僕は、お前たちに関わるつもりは無い。だから、お前たちも」
「関わるな、というのか」
それは出来ない相談だ、と。彼は言い、更に一歩サリカに近づいた。彼女は咄嗟に身を引いたが、背に当たる壁の感触に肩を揺らした。追い詰められた―― 一気に血の気が引いて行く。目の前の青年は、組んでいた腕を解き、サリカの頭の脇に、とんと両手をついた。
「……」
彼の腕に囲われる形となり、サリカは息を呑んだ。かつて、ジェリオにも同じように追い詰められた記憶がある。そのときも恐怖は覚えたが。この青年から感じるものは、また、違っていた。カルノリア士官は緑色の目を細め、ゆっくりとサリカの顔を覗き込む。
「殺すには、惜しい美貌だ」
彼の息が、睫毛にかかる。サリカは思わず顔を背けた。と、頬から首筋へ、彼女を甚振るように彼は息を吹きかける。徐々に鳥肌が立って行く肌に、そっと唇が触れたとき。
「――っ!」
サリカは、低く悲鳴を上げた。
「何をする」
反射的に振り上げた短剣を、彼の脇腹に叩き込む。いな、叩き込んだつもりであった。けれども、動揺していたせいか、その力は弱く。彼の服を引き裂いた時点で、手首を捉えられた。そのまま、青年はサリカの手を捻じり上げ、威圧的に顔を近づける。拒絶の声は強引な口付けによって奪い取られ、サリカは、彼の腕の中にすっぽりと抱きしめられていた。
「……っ、……っ!」
もがけどももがけども、彼が力を緩める気配はない。ジェリオよりも支配的で、ジェリオよりも乱暴な愛撫が、容赦なく全身を攻め立てる。ジェリオのときのような、甘い快楽は生まれなかった。そこにあるのは、恐怖。自身の内部を侵される、恐怖だけであった。
「優しくされるほうが、好みなのか?」
耳元で、青年があざ笑う。言葉通り、濃厚ではあるが丁寧な愛撫がサリカの背に施された。背骨に沿って撫で上げる掌――それに従う指先が、サリカの弱い部分を求めて肌を刺激する。
「寝台の上でなら、話す気になるか?」
囁きながら、彼はサリカの唇を啄むように吸った。
嫌だと叫ぶ拒絶の声も、弱々しい抵抗もすべて封じられ、サリカは、彼の成すがままに身を委ねていた。青年の目的――それは、サリカの口を封じることではなかった。サリカを弄び、玩具のように嬲り殺すことが目的だったのだろう。この青年にとっては、人の命も異性の心も、物の数ではないのだ。彼に流れているのは、冷たい血。人を害するものが持つ、暗黒の血なのだ。
(ジェリオ)
彼の唇は温かかった。彼の愛撫は、心地よかった。同じ、闇に生きるものであるはずなのに。この青年はジェリオとは違う。
「――!」
幾度めかの口付けの折、サリカは差し込まれた舌に歯を立てた。噛み千切らんばかりの勢いで、それを引きずり出すと、青年は驚いたように彼女を押しのける。その隙を突き、サリカは青年の腕に切りつけ、一歩退いた。彼の愛撫を受け続けた体が、そのおぞましさに悲鳴を上げている。
「きさま」
青年は、恨みの篭った瞳でサリカを睨み付けた。緑の双眸の奥に、暗い炎が揺らめいている。彼が、再びサリカに掴みかかろうとした、そのとき。
「そこで、何をしている!」
軍靴の足音と共に、城下の警備兵が数名、路地に走りこんできた。彼らの姿を見た刹那、青年は踵を返そうとしたが。
「逃がすか」
サリカは、彼に向けて短剣を投げつけた。それは過たず青年の服を貫き、彼を壁に固定する。青年の憎しみを宿した目が、サリカを射抜いた。ぞくり、と言い知れぬ悪寒を覚えたサリカだが。一歩彼から離れると、警備兵に道を譲る。
「へ――若様、ご無事でしたか?」
あいも変わらず間抜けた女装姿のエーディトが、その後ろから駆けつけてきた。
思うより早く、彼は紫芳宮に到着したのだ――そう思うと、力が抜けて。サリカは、その場にずるりとくず折れた。
「わわっ、若様しっかり。リナレス殿、若様がっ」
彼はサリカを支えると、更に背後を振り返る。そこには、剣の柄に手をかけた、いつに無く厳しい表情のリナレスの姿があった。
「リナレス」
遅いぞ、といおうとしたが、口が回らなかった。青年に蹂躙された唇は、ところどころ切れて血が滲んでいて。上手く言葉を発することが出来なかった。その様子を察したのか、リナレスは硬い面持ちのまま懐から手布を取り出す。それをサリカに押し当てて、きつく異国の士官を睨み付けた。
「彼奴の身柄を、確保しろ」
警備兵に命じ、その捕縛作業が終了するのを見届けると。
「陛下。ご無礼を」
隠しから小瓶を取り出し、中身を指に絡めた。その指が、そっとサリカの唇に触れ、静かに気遣うように唇に沿って動かした。
「巫女姫のお薬です。あとは、帰られてから、姫の手当てを受けてください」
「あ、ありがとう」
「いいえ。お役目ですから」
リナレスはサリカとは視線を合わせようともせずに、彼女に背を向けた。
「リナレス?」
声をかけても、答えは無い。
「エーディト、陛下を頼む」
ぽん、と女装の細工師の肩を叩いて。リナレスは警備兵の後を追った。残されたエーディトは、きょとんと眼を丸くして彼の後姿を見送った。
「――なんなんですかねえ、リナレス殿?」
「ああ」
頷きながら、サリカは、そっと自身の唇に触れる。あのとき、リナレスの指先が震えていたように思えたのは、気のせいなのか。彼女は不可解な思いを抱いたまま、そっと眼を伏せた。
◆
「表が騒がしかったようね」
音も無く扉を開けて入室してきた女は、無造作に髪をかきあげ、寝台の端に腰を下ろした。肌から漂うのは、甘い香り。南国の、媚薬だろうか。そのようなものを使用せずとも、彼女の魅力だけで篭絡できる異性はたくさんいるだろうに。なぜか、彼女は好んでこの香を使うのだ。
「客だったんじゃないのか?」
寝台に半裸で寝そべる青年は、窓を閉め、こちらに向き直った。若干長めの前髪の下から覗く褐色の双眸が、探るように彼女を見る。そう、客が来たと先程女は階下に降りていった。彼らがこの街に――この宿に逗留し始めたのは、昨日からである。それが、早速『客』ときた。
彼女や自身の職業を考えれば、その『客』がどのようなものか。大体想像はつく。
「仕事か?」
尋ねれば、女性は「そうね」と頷いた。
「やる気なさそうだな。つまらない仕事か?」
眼を細める青年の、広い胸に寄りかかりながら、女は気の無い答えを返す。
「まあ、そんなところかしら? 媚薬を飲ませて、小娘を一人狂わせて欲しいみたい」
彼らの本来の仕事とは、かけ離れた依頼である。そのようなことを頼んでくるのは、我侭な貴族の坊ちゃんくらいだろう。言いなりにならぬ歌姫や、舞姫。他人の妻や婚約者を、薬でものにしてしまおう、という軟弱な考えを持つ輩は。
「その娘の警護をしているものは、残らず始末して言いといってたわ。あなたの出番ね」
「手を汚すのは、俺の役目か?」
「そう、拗ねるものじゃないわ。ジェリオ」
くすり、と女は笑う。名を呼ばれた刹那、青年――ジェリオは、何か痛みを覚えたように眉を寄せた。しかし、すぐに表情を消し去り、女の髪を指で弄び始める。
「ねえ、外で何があったの? 役人が、誰かを捕縛していたみたいよ?」
あなたは見ていたんでしょう、そこから? と。女は彼に身を任せながら甘く耳元に囁いた。
「つまらねぇ捕り物だ。小僧相手に発情した士官が、役人にとっ捕まっただけらしい」
「あら、そうなの」
「それだけだ」
言って、ジェリオは女を押しのけ、寝台に横たわった。先程、窓の真下で繰り広げられていた光景――まだ若い騎士が、異国の軍人らしき男に因縁をつけられ、乱暴されかけていた。昼日中から情事に耽っていた自分が、あれこれ言う立場ではないが、それでもどこか苦さの残る光景であった。
向かいの建物の壁に押し付けられた、少年。迫る男の愛撫から、口付けから逃れようともがくその姿は、どこか見覚えがあった――いな、遠目ではっきりとは見て取れなかったが、少年の面差しになにか惹かれるものがある。
彼とは、どこかで会ったような。
(あ――)
思い出せそうで、思い出せない。
過去を振り返ろうとすると、頭の奥が、ずきずきと痛み出す。
「今夜は、帰れそうに無いわ。――寂しかったら、娼婦を呼んでちょうだいね、ジェリオ」
頬に口付けが落とされる。ジェリオは義務のように彼女を抱き寄せ、その唇を奪った。柔らかく肉感的な唇の感触は、けれどもジェリオを満足させてはくれない。
もっと。もっと甘美な口付けを、自分は知っている。
カイラ、と名乗るこの女ではない。この女とはまた別の。違う娘と――。
「でも、この宿から出ては駄目よ。城に近づいても駄目。いいこと? 私に逆らったら、あなたは」
含み笑いを残して、カイラは去る。ジェリオは彼女に背を向けたまま、遠ざかる気配を背中で感じていた。
密偵の報告に、サリカは小さく頷いた。
「何者かに連れ去られたか、もしくは、自身で危機を察知して逃亡したのか」
前者である確率が高いのであるが、できれば後者であって欲しいとサリカは願う。
――オルトルートの工房がある神殿の近く、雑踏に埋もれるようにして露店を出している密偵の元を訪れたサリカは、布の上に並べられた装飾品を選ぶ振りをしながら、彼の語る言葉に耳を傾ける。ともすれば、人の気配にかき消されてしまう細い声。呼び売りの甲高い声が、会話をさえぎりがちであるが、
「こちらの耳飾など、若様にはお似合いかと思いますよ」
商人の愛想を振りまく密偵は、紫水晶の細工物をサリカの耳に合わせるよう装いつつ、その耳朶に要件のみを伝える。簡潔に、素早く。
「内部には争った形跡があります。彼女も抵抗したのでしょう。盗賊の仕業に見せかけるためか、作りかけのものから完成品まですべて、細工物が消えております」
「そうか」
挙句、内部に火がかけられたという。これは、サリカに対する宣戦布告以外のなにものでもないだろう。彼らが知る、サリカの唯一の手がかりは、オルトルートだ。彼女を襲えば、サリカが何らかの反応を見せる、そう予想したまでは正しかったが。
「陛下は、行動を慎まれますように。我らからの報告をお待ちください」
さすがに彼らも目的の人物が、神聖皇帝その人だとは思わなかっただろう。良くて帝室に縁のある大貴族の姫君――公爵家あたりのじゃじゃ馬姫が、ルクレツィア皇后を気取って男装をしている、くらいにしか考えていない模様である。
「くれぐれも、工房に近づくことなどなさいませんよう。どのような罠が仕掛けられているとも限りません」
厳しい表情で告げる密偵は、父の代より帝室に仕える古参である。双子の性格も熟知している彼だからこそ、リナレスよりの報告を受けたサリカが、迷わずオルトルートの工房にやってくると確信していたのだろう。何食わぬ顔でその近くの市に店を出し、下馬して通りかかるサリカを
――もし、そこの若様。
さりげなく呼び止めたのである。彼がそこにいたことに驚いたサリカは、一瞬表情を凍りつかせたが。苦笑を浮かべ、彼の元に歩み寄った。彼は、以前にサリカがオルトルートの工房近くで揉め事に巻き込まれたことを耳にしていたのだ。
「あの折の男たちが、陛下を狙っているのは確かです。あの後も幾度か、金髪の青年がオルトルートの工房を訪れていたとの報告もございますれば」
「細工物がほしかったからではないのか?」
「我らを甘く見ないでいただきたいですな、陛下」
密偵は意味深長に眉を動かす。
「我らは演繹法では動きませんぞ?」
そうだった、とサリカは頷いた。彼らは、仮定から始めて証拠を集めるようなことはしない。すべて事実だけを集めた結果、答えを導くのだ。
密偵からの報告によれば、やはり件の二人組はカルノリアの士官――それも名門出身の軍人とのことだった。ひとりは、第一将軍の側近の子息、いまひとりも、将軍の配下に当たる。
「第一将軍」
嫌な予感がした。ジェルファの花嫁候補として訪れたカルノリアの姫君は、第一将軍の息女ではなかったか。しかも、イリアは彼女と面識がある。サリカが、ルカンド伯爵の暗殺現場を目撃したまさにその夜、シェルマリヤはセグにいたことになるのだ。
「シェルマリヤ姫も、皇帝直属の密偵をされていたと聞き及んでいます。此度の件にも、少なからず関わっていらっしゃると考えても宜しいかと存じます」
「あの姫君が、か」
イリアはシェルマリヤを愛称で呼ぶほど信頼している。感が鋭い巫女姫すらも欺く人物なのか、それとも真に二心がないのか。サリカには、解りかねた。しかも、彼女はシェルマリヤの肖像画しか眼にしてはいない。実際に対面して、どのような人物か見極める必要がある――そう考えて、サリカは宮殿に戻る決意をした。
「調査は、任せた。また何かあればすぐに連絡を頼む」
「御意」
深くこうべを垂れた密偵は、満足げに微笑む。
「陛下。随分と成長されましたな」
かつてはマリサほどではないが、かなりの無鉄砲であったはずなのに。と。彼の眼は言っている。その声無き声を察して、サリカは静かに頷いた。
皇帝は、軽はずみなことはしてはならない。
即位後、エルハルトに嫌と言うほど聞かされた言葉が蘇る。
ここで、サリカがカルノリアの軍人の手に落ちて、落命することになれば。名ばかりの復活を遂げた神聖帝国は、再び崩壊するであろう。いな、名目上は崩壊せず、ジェルファが巫女姫を擁して国の存続を図るかもしれない。けれども、そうなった場合、フィラティノアとの同盟は、マリサの立場は。危ういものになってしまう。
サリカは、ミアルシァともカルノリアとも均衡を保ちつつ、神聖帝国の基礎を築かねばならぬのだ。
(密偵と覚悟の上で、ジェルファの花嫁にシェルマリヤ殿を推すか)
そしてサリカは、ミアルシァの要望通りルクレツィアを現世の后である皇后として迎えるべきなのか。
現在、自身のおかれている状況を考えれば、それが最善の選択かもしれない。
「お気をつけて」
商談不成立を装い、その場から離れるサリカに、密偵は作り物めいた笑顔を向ける。
傍から見れば、まさに商人と客との会話としか思えなかったであろう。サリカは馬を引きながら、再び大通りを抜け、紫芳宮への近道となる裏路地へと足を踏み入れた。表通りの喧騒は遠く、小ぢんまりとした居酒屋や娼館、安宿が並んでいる通りである。昼はさほど人影もなく、距離短縮にはちょうど良い。サリカは愛馬を引きながら、久しぶりに眼にする裏町の風情を楽しんでいたが――
「……っ?」
不意に袖を掴まれ、咄嗟に身構えた。帯に挟んでいた短剣を抜き放ち、『賊』の喉元を掻き切らんとすると。
「若様、わたしですわたし」
潜めた声で必至に訴えるのは、誰あろう、エーディトそのひとである。
「エッダ?」
無事でよかった、と呟きかけたサリカだが。彼の姿にかける言葉を失った。こともあろうに彼は女装していたのだ。裏町の踊り子のごとき派手な衣裳を身に着け、元の顔がわからぬほど濃く化粧を塗り、おさげにした亜麻色の髪に色鮮やかな造花を幾本か差している。自称乙女のエーディトにしては、少し趣味が悪い『変装』ではないかと、サリカが眉を顰めたとき。
「その物騒なものは、しまっていただけませんか?」
彼は、サリカの短剣を指でつついた。サリカがそれを鞘に収めるのを見計らって、エーディトは軽く咳払いをする。
「良かったですよ、若様にお会いできて。どうしようかと思いましたから」
芝居がかった口調で切り出そうとする彼を押しとどめ、サリカは肝心なことを尋ねた。
「ティルデは? ティルデも一緒なのか?」
彼女の剣幕に、エーディトはこくりと頷く。彼の話によれば、先日不意に訪れた客が、
――ここにいては危険です。早く身を隠すように。
そういって、ティルデとエーディトを神殿より連れ出したそうだ。二人はその人物の手配した宿に身を潜めているが、さすがに外に出なければ食料の調達もままならぬということで、
「わたしがほれ、このように。目立たぬ姿に身を変えて、師匠の食事を手に入れに来たところです」
エーディトは胸を張る。
「目立たぬ、ね」
サリカは、呆れて息をついた。本人がそう思っているのなら、特に言及はしないが。どう見てもこれは、場末の踊り子か娼婦か、悪く行けば男娼にしか見えない。そういう人々狙いの輩に行きあってしまったらどうするのか。――無論、彼のことである。上手い言い訳をして逃亡するのであろうが。
「あとで、迎えのものをよこす。お前たちは、暫く離宮に身を潜めていろ。そこなら安全……」
「いやですよ、若様。我らは権力に屈しない孤高の芸術家ですよ? いままで、どんなお貴族様の庇護もお断りしてきました。ここで若様のご厚意を受けるわけには行きません。師匠もそう思うはずですきっと」
「そうじゃなくて」
サリカは、とん、とエーディトの肩を掴む。
「いいか、お前たちは命を狙われている。これは、解っているな?」
「もちろん。どこかの親切な人も、そう仰っていましたよ。我らは有名ですからね。逆恨みをかうことも一つや二つじゃないでしょう。ええ、確かに工房が身代わりになってくれて、わたくしどもは助かりましたけどね」
「逆恨みじゃない。原因は、僕にある」
「陛下――若様に?」
エーディトはきょとんと眼を丸くした。オルトルートが、帝室の庇護を受けているのであればともかく、表立って彼らとサリカ個人との繋がりを知るものはいない。それなのになぜ、サリカが原因でティルデとエーディトの命が脅かされるのか。彼には理解不能だったらしい。
「詳しい話は後でする。ともかく、僕のせいでお前たちを危険な目に合わせたくない」
まだ、腑に落ちぬといった表情のエーディトに馬を渡し、
「この子を貸す。ティルデと先に紫芳宮に行け」
「若様?」
「ティルデがごねたら、引き摺ってでも連れて行け。いいな。ここにいたら危ない。早く、逃げろ。いいな?」
「そんな、なんで……」
言いかけた、エーディトの眼が大きく見開かれた。彼は今にも叫びだしそうに口も大きく開けて、後退する。彼はサリカを指差し、幾度かぱくぱくと口を動かした。
「エッダ?」
同時に、サリカも気配に気づき、剣に手をかけた。勢いで振り返れば、そこには。
「やはり、来たか」
冷ややかな笑みを浮かべる青年の姿があった。レンシスの同僚と思しき、黒髪の青年。カルノリア第一将軍の部下であるところの――ルカンド伯爵を暗殺した本人。
「あの細工師とは、かなり懇意だったようだな、小娘」
彼は、威圧的にサリカに近づいてくる。胸高に組んだ腕を解こうともしない――そこに嫌味なまでの余裕を感じ取り、サリカは口元をゆがめた。余裕なのではない。この狭い路地の中では、長剣が不利だからだ。みたところ、彼は剣のほかに武器は携帯していないようである。サリカは、エーディトに手綱を押し付けると、彼を庇うようにその前に躍り出た。
「早く行け!」
「へ……若様」
エーディトは、泣きそうな声を上げる。上げながらも、彼は無様な仕草で騎乗した。彼の乗馬技術はサリカから見れば最低だが、人の足に追いつかれるほどではないだろう。それに、彼女の愛馬は宮殿までの道を知っている。ただつかまっていれば、愛馬はエーディトを宮殿に運んでくれるはずだ。
エーディトが馬を走らせたのを見計らい、サリカはゆっくりと短剣を抜き放つ。陽光を受けて輝くその切っ先を青年に向けると、彼は静かに嘲笑した。
「小者に助けを呼びに行かせたか。甘いな、小娘」
「なんとでも言えばいい。――オルトルートを襲ったのは、お前だな」
工房を襲い、装飾品を略奪し、火を放った。そこに、オルトルートがいたらと思うとぞっとする。彼らは、目当ての人物がいないことに気づき、腹いせに工房を荒らしたのだろう。
「そうだ」
あっさりと青年は頷く。やはり、と唇を噛み締めたサリカだったが、次に彼が発した言葉に、思わず耳を疑った。
「なかなか強情なおんなだ。お前とのかかわりを、どれほどせめても言わなかった」
責めた? オルトルートを?
――親切な人が、宿を手配してくれたんですよ。
――いま、そこに師匠と隠れています。
――師匠と隠れています。
エーディトは、そう言っていなかったか。オルトルートは――ティルデは、彼と一緒にいるはずである。ならば、青年の言葉はおかしい。つじつまが合わない。
(どういうことだ?)
考えて、ふと、密偵の言葉を思い出す。
――工房には、争った形跡があります。
エーディトの話が正しければ、この青年が踏み込んだときには工房はもぬけのからのはずである。けれども、密偵は争った痕があるといった。ならば、オルトルートたちの代わりに、誰かが工房でこの青年を待ち受けていたことになる。
――親切な人が……。
(いったい、誰が?)
エーディトの語った、親切な人――青年の襲来を告げた人物が身代わりになった、そうとしか考えられない。けれども、それが誰なのか。サリカには、見当がつかなかった。
◆
青年は、冷笑を浮かべたままサリカを見下ろしている。酷薄なる双眸には、緊迫した面持ちのサリカが映りこんでいた。彼女の持つ短剣の先が、日差しを受けて鈍く輝いている――そちらに僅かに眼を向けると。
「お嬢さんの剣術、ではないな」
護身用の剣とは思えない、そう彼は呟いた。
「お前の身元を知りたい。名前は? 家は、どこだ?」
「答える必要は無い」
サリカも、負けじと相手を睨み返す。この青年の目的が、何であるのか。おそらく、サリカの命であろうが――それにしては、一向に行動を起こさない処に疑問がある。
「あの細工師が、どうなってもよいというのか?」
切り札のつもりだろう。青年は、残忍な笑みを口元に刻む。けれども、ティルデ師弟が無事であることを知ってしまっているサリカには、その言葉は脅しでもなんでもない。ただ、不可解な疑問が残るだけである。
「彼女は関係ない。どこにいる? 生きているのなら、すぐに解放しろ」
なるべくその心情を悟られぬよう、固い口調で告げる。青年は、餌に食いついたとほくそえんでいるのか。勿体ぶった様子で、なかなか答えようとはしない。
「彼女の身柄を盾にしても、僕は何も答えない。お前に答える必要は無い。何をしても、無駄なことだ」
「減らず口を叩く娘だ」
「ルカンド伯爵暗殺の件は、誰にも言うつもりはない。おまえが、カルノリアの士官であろうと無かろうと。僕には関係の無いことだ」
「――ほう?」
青年の目が光った。
カルノリアの士官、という単語に興味を惹かれたのか。それとも、改めて問われたルカンド伯爵暗殺の件、そちらに何かを感じたのか。どちらにせよ、彼のまとう雰囲気が変わったことは確かであった。
「なぜ、僕を追う? 僕はおまえたちの素性も知らないのに。誰に告発すると言うんだ?」
無意味なことはするな、と。サリカは、付け加えた。
彼らの目的が、神聖皇帝暗殺であれば、サリカはその対象である。けれども、ルカンド伯爵暗殺現場の目撃者としてのサリカを付け狙うのであれば、その行為には意味が無い。サリカがあの晩、ルカンド伯爵の別邸にいたことも偶然であるし、その彼女が神聖皇帝――当時はアヤルカス皇女であるが――であったのも偶然である。サリカは特にルカンド伯爵を殺害した人物を特定する気もなく、その事件を表沙汰にする気もない。
けれども、カルノリア士官は違うようだ。
ルカンド伯爵殺害の罪をサリカに着せ、自身はその彼女の行方を追っていた。
「古代紫の瞳」
青年が呟き、サリカは身を固くする。
「ミアルシァの封印王族の瞳か。かの国は、薄汚れた仕事は、穢れし瞳を持つものにさせるという。貴様も封印王族なれば、ミアルシァの犬として、あれこれかぎまわっているのではないか?」
「違う」
自分はミアルシァの者ではない。そう言い掛けて、サリカは口をつぐんだ。こうして消去法で、彼はサリカの身元を割り出すつもりなのだ。
「僕は、お前たちに関わるつもりは無い。だから、お前たちも」
「関わるな、というのか」
それは出来ない相談だ、と。彼は言い、更に一歩サリカに近づいた。彼女は咄嗟に身を引いたが、背に当たる壁の感触に肩を揺らした。追い詰められた―― 一気に血の気が引いて行く。目の前の青年は、組んでいた腕を解き、サリカの頭の脇に、とんと両手をついた。
「……」
彼の腕に囲われる形となり、サリカは息を呑んだ。かつて、ジェリオにも同じように追い詰められた記憶がある。そのときも恐怖は覚えたが。この青年から感じるものは、また、違っていた。カルノリア士官は緑色の目を細め、ゆっくりとサリカの顔を覗き込む。
「殺すには、惜しい美貌だ」
彼の息が、睫毛にかかる。サリカは思わず顔を背けた。と、頬から首筋へ、彼女を甚振るように彼は息を吹きかける。徐々に鳥肌が立って行く肌に、そっと唇が触れたとき。
「――っ!」
サリカは、低く悲鳴を上げた。
「何をする」
反射的に振り上げた短剣を、彼の脇腹に叩き込む。いな、叩き込んだつもりであった。けれども、動揺していたせいか、その力は弱く。彼の服を引き裂いた時点で、手首を捉えられた。そのまま、青年はサリカの手を捻じり上げ、威圧的に顔を近づける。拒絶の声は強引な口付けによって奪い取られ、サリカは、彼の腕の中にすっぽりと抱きしめられていた。
「……っ、……っ!」
もがけどももがけども、彼が力を緩める気配はない。ジェリオよりも支配的で、ジェリオよりも乱暴な愛撫が、容赦なく全身を攻め立てる。ジェリオのときのような、甘い快楽は生まれなかった。そこにあるのは、恐怖。自身の内部を侵される、恐怖だけであった。
「優しくされるほうが、好みなのか?」
耳元で、青年があざ笑う。言葉通り、濃厚ではあるが丁寧な愛撫がサリカの背に施された。背骨に沿って撫で上げる掌――それに従う指先が、サリカの弱い部分を求めて肌を刺激する。
「寝台の上でなら、話す気になるか?」
囁きながら、彼はサリカの唇を啄むように吸った。
嫌だと叫ぶ拒絶の声も、弱々しい抵抗もすべて封じられ、サリカは、彼の成すがままに身を委ねていた。青年の目的――それは、サリカの口を封じることではなかった。サリカを弄び、玩具のように嬲り殺すことが目的だったのだろう。この青年にとっては、人の命も異性の心も、物の数ではないのだ。彼に流れているのは、冷たい血。人を害するものが持つ、暗黒の血なのだ。
(ジェリオ)
彼の唇は温かかった。彼の愛撫は、心地よかった。同じ、闇に生きるものであるはずなのに。この青年はジェリオとは違う。
「――!」
幾度めかの口付けの折、サリカは差し込まれた舌に歯を立てた。噛み千切らんばかりの勢いで、それを引きずり出すと、青年は驚いたように彼女を押しのける。その隙を突き、サリカは青年の腕に切りつけ、一歩退いた。彼の愛撫を受け続けた体が、そのおぞましさに悲鳴を上げている。
「きさま」
青年は、恨みの篭った瞳でサリカを睨み付けた。緑の双眸の奥に、暗い炎が揺らめいている。彼が、再びサリカに掴みかかろうとした、そのとき。
「そこで、何をしている!」
軍靴の足音と共に、城下の警備兵が数名、路地に走りこんできた。彼らの姿を見た刹那、青年は踵を返そうとしたが。
「逃がすか」
サリカは、彼に向けて短剣を投げつけた。それは過たず青年の服を貫き、彼を壁に固定する。青年の憎しみを宿した目が、サリカを射抜いた。ぞくり、と言い知れぬ悪寒を覚えたサリカだが。一歩彼から離れると、警備兵に道を譲る。
「へ――若様、ご無事でしたか?」
あいも変わらず間抜けた女装姿のエーディトが、その後ろから駆けつけてきた。
思うより早く、彼は紫芳宮に到着したのだ――そう思うと、力が抜けて。サリカは、その場にずるりとくず折れた。
「わわっ、若様しっかり。リナレス殿、若様がっ」
彼はサリカを支えると、更に背後を振り返る。そこには、剣の柄に手をかけた、いつに無く厳しい表情のリナレスの姿があった。
「リナレス」
遅いぞ、といおうとしたが、口が回らなかった。青年に蹂躙された唇は、ところどころ切れて血が滲んでいて。上手く言葉を発することが出来なかった。その様子を察したのか、リナレスは硬い面持ちのまま懐から手布を取り出す。それをサリカに押し当てて、きつく異国の士官を睨み付けた。
「彼奴の身柄を、確保しろ」
警備兵に命じ、その捕縛作業が終了するのを見届けると。
「陛下。ご無礼を」
隠しから小瓶を取り出し、中身を指に絡めた。その指が、そっとサリカの唇に触れ、静かに気遣うように唇に沿って動かした。
「巫女姫のお薬です。あとは、帰られてから、姫の手当てを受けてください」
「あ、ありがとう」
「いいえ。お役目ですから」
リナレスはサリカとは視線を合わせようともせずに、彼女に背を向けた。
「リナレス?」
声をかけても、答えは無い。
「エーディト、陛下を頼む」
ぽん、と女装の細工師の肩を叩いて。リナレスは警備兵の後を追った。残されたエーディトは、きょとんと眼を丸くして彼の後姿を見送った。
「――なんなんですかねえ、リナレス殿?」
「ああ」
頷きながら、サリカは、そっと自身の唇に触れる。あのとき、リナレスの指先が震えていたように思えたのは、気のせいなのか。彼女は不可解な思いを抱いたまま、そっと眼を伏せた。
◆
「表が騒がしかったようね」
音も無く扉を開けて入室してきた女は、無造作に髪をかきあげ、寝台の端に腰を下ろした。肌から漂うのは、甘い香り。南国の、媚薬だろうか。そのようなものを使用せずとも、彼女の魅力だけで篭絡できる異性はたくさんいるだろうに。なぜか、彼女は好んでこの香を使うのだ。
「客だったんじゃないのか?」
寝台に半裸で寝そべる青年は、窓を閉め、こちらに向き直った。若干長めの前髪の下から覗く褐色の双眸が、探るように彼女を見る。そう、客が来たと先程女は階下に降りていった。彼らがこの街に――この宿に逗留し始めたのは、昨日からである。それが、早速『客』ときた。
彼女や自身の職業を考えれば、その『客』がどのようなものか。大体想像はつく。
「仕事か?」
尋ねれば、女性は「そうね」と頷いた。
「やる気なさそうだな。つまらない仕事か?」
眼を細める青年の、広い胸に寄りかかりながら、女は気の無い答えを返す。
「まあ、そんなところかしら? 媚薬を飲ませて、小娘を一人狂わせて欲しいみたい」
彼らの本来の仕事とは、かけ離れた依頼である。そのようなことを頼んでくるのは、我侭な貴族の坊ちゃんくらいだろう。言いなりにならぬ歌姫や、舞姫。他人の妻や婚約者を、薬でものにしてしまおう、という軟弱な考えを持つ輩は。
「その娘の警護をしているものは、残らず始末して言いといってたわ。あなたの出番ね」
「手を汚すのは、俺の役目か?」
「そう、拗ねるものじゃないわ。ジェリオ」
くすり、と女は笑う。名を呼ばれた刹那、青年――ジェリオは、何か痛みを覚えたように眉を寄せた。しかし、すぐに表情を消し去り、女の髪を指で弄び始める。
「ねえ、外で何があったの? 役人が、誰かを捕縛していたみたいよ?」
あなたは見ていたんでしょう、そこから? と。女は彼に身を任せながら甘く耳元に囁いた。
「つまらねぇ捕り物だ。小僧相手に発情した士官が、役人にとっ捕まっただけらしい」
「あら、そうなの」
「それだけだ」
言って、ジェリオは女を押しのけ、寝台に横たわった。先程、窓の真下で繰り広げられていた光景――まだ若い騎士が、異国の軍人らしき男に因縁をつけられ、乱暴されかけていた。昼日中から情事に耽っていた自分が、あれこれ言う立場ではないが、それでもどこか苦さの残る光景であった。
向かいの建物の壁に押し付けられた、少年。迫る男の愛撫から、口付けから逃れようともがくその姿は、どこか見覚えがあった――いな、遠目ではっきりとは見て取れなかったが、少年の面差しになにか惹かれるものがある。
彼とは、どこかで会ったような。
(あ――)
思い出せそうで、思い出せない。
過去を振り返ろうとすると、頭の奥が、ずきずきと痛み出す。
「今夜は、帰れそうに無いわ。――寂しかったら、娼婦を呼んでちょうだいね、ジェリオ」
頬に口付けが落とされる。ジェリオは義務のように彼女を抱き寄せ、その唇を奪った。柔らかく肉感的な唇の感触は、けれどもジェリオを満足させてはくれない。
もっと。もっと甘美な口付けを、自分は知っている。
カイラ、と名乗るこの女ではない。この女とはまた別の。違う娘と――。
「でも、この宿から出ては駄目よ。城に近づいても駄目。いいこと? 私に逆らったら、あなたは」
含み笑いを残して、カイラは去る。ジェリオは彼女に背を向けたまま、遠ざかる気配を背中で感じていた。
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