アグネイヤIV世

東沢さゆる

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第二章 輝ける乙女

陰謀4

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 夜が静かに更けていく。
 夜警の兵士たち以外は寝静まってしまったのではないかと、そう思われるほどの静寂が、紫芳宮に舞い降りる。常ならば、冴え冴えとした月明かりに照らし出されるはずの壮麗なる皇宮は、今宵は闇の中にその姿を隠してしまっていた。
 今宵は、新月。滑らかなる乙女の黒髪を思わせる夜空にあるのは、星ばかり。
 ひと時の眠りに着いた月の精霊を起こすべく、輝ける乙女が神殿に篭りその目覚めを祈る晩である。イリアは巫女たちと共に、敷地の外れに設けられた神殿へと出向いていった。

 ――また、明日。

 快活な笑みを浮かべて手を振る正室を見送って、サリカも侍女と共に自室へと戻る。

 ――明日の宴に備えて、今夜は早くお休みください。
 
 侍女は言い置いて、早々に次の間へと下がる。ひとり寝室に残されたサリカは、唐突に放り出されたような気がして、しばしその場に立ち尽くしていた。普段であれば、イリアと他愛のない話をしながら夜半までを過ごすのだが。一人寝となると、巨大な寝台が妙に寒々しく感じられる。マリサが嫁いでから、孤独には慣れているつもりだった。だが、イリアと共に過ごすようになって、彼女の存在がこれほど大きくなっていたとは思いもしなかった。形式だけの、『ままごと』夫婦だといわれる二人であるが、おそらく心の絆は世の夫婦と変わらぬだろう。ただ、肉体的な交わりがないだけである。

 ――女性同士でも、やろうと思えば出来ますけどね。

 リナレスは意味深長に笑っていたけれども、そのような気はまるで起こらない。起こらぬほうが、寧ろ普通である。かつてジェリオがサリカにしたように、服を脱がせ、乳房を愛撫し、肌に唇を這わせるようなことを、イリアに対してやれというのか。
 快楽を得るためだけに、イリアを――巫女を、穢すことは出来ない。
(リナレスの奴)
 乳兄弟に心の中で悪態をついて、サリカは寝台に身を投げ出した。
 闇の中、異様に眼だけが冴えていく。
 城を離れた一月の間、闇は恐ろしいものだった。闇の中にあれば、必ず魔手が伸びてくる。サリカの命を摘み取らんと、狂気の刃が襲い掛かる。
 刺客の攻撃も、紫芳宮に戻ってからというもの皆無に等しい。サリカの居室までたどり着く前に、衛兵に始末されているのだが、報告に上がる数も極端に少なかった。イリアに心配させまいと、その件に関しては他言は無用と緘口令を敷いてはいるが。おそらく、イリアは感づいているのではないだろうか。
 巻き込みたくない。彼女だけは。
 汚らわしい権力闘争の渦の中に、イリアを引きずり込むなど考えたくもない。
「……」
 サリカが、静かに敷布を握り締めたそのとき。遠慮がちに寝室の扉が叩かれる。
「誰だ?」
 誰何の声を上げれば、即座に答えが返ってきた。部屋付の侍女である。彼女は無礼を詫びてから、密かに要件を告げた。
「リナレス様より、ご伝言がございます」
 前置きの後に述べられた言葉に、サリカは思わず跳ね起きる。
「いま、なんと言った?」
 思わず聞き返せば、侍女はもう一度同じ言葉を繰り返す。
 即ち、

 ――オルトルートが、何者かに襲われた。

 と。
 稀代の細工師は、その気まぐれや、仕事に対する徹底振りで、少なからず恨みを買っている部分がある。同業者は勿論、彼女に袖にされた王侯貴族・商人。信奉者が多ければ多いほど、反発するものも同じ数だけ生まれるのが、かの世界である。
 もしや、彼女の存在を疎ましく思う輩が、その命を狙ったというのではないか。
 そう考えて、サリカは、ふとあることに思い至る。
(あの男)
 オルトルートの工房で出会った、カルノリアの士官。彼と同行していた青年は、ルカンド伯爵殺害の実行犯ではなかったか。彼が、目撃者であるサリカを探し出そうとして、少しでも縁のありそうなオルトルート――ティルデを狙ったとしたら。
 ありえない話ではない。
 サリカの顔から、血の気が引いた。あの冷酷な男は、彼女の口を割らせるためには拷問も厭わぬだろう。
「ティルデ」
 おそらくは、彼女の弟子であるエーディドも無事では済むまい。
 サリカは、傍らに立てかけた剣を手元に引き寄せると、乱暴に夜着を脱ぎ捨てた。
「陛下?」
 怪訝に尋ねる侍女の声に、
「リナレスに『後は頼む』と。そう伝えてくれ」
 言葉少なに応えると、サリカは寝台の下に隠し置いた下級士官の普段着を取り出す。またですか、とリナレスは渋い顔をするであろうが、仕方がない。サリカにオルトルートの危機を伝える決意をしたときから、リナレスはこうなることを予想していただろう。そうに違いない。
「――カルノリアか」
 明日の宴に招かれた花嫁候補の中に、カルノリアの貴族の娘も含まれているという。彼女が何か手がかりを持っているといいのだが――考えて、サリカはかぶりを振った。あのしたたかなるカルノリア大公の末裔である。簡単に尻尾を出すようなタマではないだろう。
 しかも、かの姫君――シェルマリヤの姉は、ルカンド伯爵の長男に嫁いでいるというではないか。
 あの暗殺事件は、思わぬところで根深くつながっている――
 サリカは、大国の闇を垣間見たような気がして。思わず身を震わせた。



 花嫁選びという名の茶番は、夜の宴からだとばかり思っていた。だが、実際はそれよりも早く、夕方の茶会より静かな闘争が開始されていたのである。
 ジェルファの母・アイリアナが主催する、非公式の茶会。そこに招かれたのは、三人の花嫁候補とルクレツィア――神聖皇帝の妃候補の姫君である。

「馬鹿馬鹿しい」

 口には出さぬ迄も、不満の色を露にして、シェラはあからさまに渋面を作る。その行為を下品ととったか、居並ぶ花嫁候補の姫君は、揃って眉を潜める。ただ、皇帝の妃に、といわれているルクレツィアは違った。艶やかな唇に淡い笑みを上らせ、珍しい玩具を見付けた子供の如く目を輝かせる。サリカと似て非なる紫の瞳。皇帝のそれが暁ならば、姫の瞳は、ほのぐらい黄昏。もしくは、最果の白夜の空を思わせる。
 公爵の母が主催する茶会等、出なくとも良かったのだ。本当は。ただ、皇帝アグネイヤ四世が顔を見せるというから好奇心から参加したのに。肝心のアグネイヤは、急用が出来たとかで不参加となった。名代として現れたのが、イリアである。彼女は上座より一同を見下ろしていたが、そこにシェラを見付けると、屈託ない笑いを浮かべ手を振って来た。さすがに手をふりかえす訳にも行かず、シェラは武官の黙礼を返したのみである。
 そんな二人のやりとりを、やはりルクレツィアは見つめていた。古王国の姫は、北の血筋を嫌うのか……ルクレツィアの視線は、冷ややかというより棘がある。
「何だか値踏みされてるみたいで、気分悪いでしょ?」
 適度に会話が弾み、姫君達も互いにそれなりに打ち解けて来た頃。席を下りたイリアが、シェラの元にやって来た。幼い巫女は退屈の色を隠しもせず、やや声高に言う。
 シェラは軽く肩をすくめたのみで、特に返答はしなかったが。ふと思い出して彼女に問いかける。
「お前の婿殿はどうした?」
 と。その質問は、イリアにとっては禁句であったらしい。見る間に彼女の表情が曇り、瑠璃の瞳に不安の影が濃く過ぎる。正室である彼女も、詳細を知らぬのかと思ったが、実はそうでもないらしい。
 イリアはルクレツィアの様子を伺うようにちらりと彼女を振り返ってから、そっとシェラに耳打ちした。
「城下に出ているの」
「城下に?」
 それはまた、酔狂な。というか、この時期に何を考えているのだ神聖皇帝は。政務からの逃避なれば、わからなくもないが。
「他の人には内緒。公爵閣下にも、伯母上にも、勿論他の姫君にも」
「それはどうかな」
「シェラ」
「私を誰だと思っている? お前が最も信用してはいけない相手だぞ?」
 ことさら厳しい口調で言い放つが、イリアには効かぬらしい。幼い巫女姫はくすくすと笑いながら、立てた人差し指でシェラの頬を軽くつついた。
「悪人ぶってもだめ。シェラが悪い人じゃないのは、解っているから」
 そんな甘いことを言っていると、とシェラが更に苦言を呈そうとしたとき。甘い香りが鼻をくすぐった。南国の花を思わせる、濃厚な香り。むせ返るようなそれに僅かに眉を顰めれば。
「随分と、仲が宜しいようですね。巫女姫と、カルノリアのシェルマリヤ様?」
 音も気配もなく、彼女らの傍らにルクレツィアが佇んでいた。
 あやしの気配を湛える青紫の瞳が、探るように二人を見比べる。イリアは心持ちその視線を避けるように、シェラの背後に身を引いた。
「巫女姫の心は、皇帝陛下よりもカルノリア大公に移られた、ということでしょうか」
 ころころとルクレツィアが笑い出す。笑うとあの妖婦めいた不気味さが消え、歳相応の少女の顔に戻る。けれども、その表情にだまされてはいけない――シェラの頭の中で、警鐘が鳴った。
「そうであってくれると、嬉しいのですけどね。古王国の姫君」
 片膝を付き、騎士の礼を取ると、ルクレツィアは「あら」と首を傾ける。
「むやみに膝を屈するものではなくてよ、シェルマリヤ様。あなたも、れっきとした姫君でしょうに」
 扇で口元を隠し、ルクレツィアは眼を細める。言葉とは裏腹に、悪い気はしていないらしい。が、シェラの態度は当然と受け取っているのだろう。ルクレツィアは大陸最古の歴史を持つミアルシァの王族。他国はすべて蛮族扱いである。ことに、カルノリアはもとは神聖帝国の傍系にあたる国だ。彼女にとっては、臣下以下の存在に見えるのかも知れぬ。
「皇帝の血に連なるといえど、私は臣籍にあります。他の姫君とは格が違いますから」
 シェラもチクリと皮肉を混ぜる。ルクレツィアは言葉の意味を察したようだが、ことさら不快感を表さなかった。彼女もミアルシァ先代国王の異母弟の娘に当たる。正当な血を持つ姫君とは言いがたい存在だ。加えて、ルクレツィアは紫の瞳を持つ『封印王族』。母国でも、肩身の狭い思いをして来たに違いない。
「――格が違う、と仰るの。だから、閣下の前にはいらっしゃらない、と?」
 ルクレツィアの視線が動いた。その先には、ジェルファと語らう二人の姫君の姿がある。美貌の誉れ高きリーゼロッテ王女と、大国ヒルデブラントのマリエフレド公女。ふたりは次期大公の寵を争おうというのか、彼を左右から捉えるように座り込んでいる。女同士の暗い火花が、密かに交わされているのを見て、シェラは大仰に肩をすくめた。イリアも同様に感じたか、眼を丸くしている。
「私の目的は、遊学です。はなから、花嫁になるつもりはない。今夜の宴が終われば、早々に国に引き上げますよ」
 言い捨てると、イリアが弾かれたように顔を上げた。ルクレツィアも意外に思ったのか、目を見開く。
「帰るの? もう少し、ゆっくりしていけば良いのに」
 腕に縋りつくイリアに苦笑を向けて、シェラは小さくかぶりを振った。
「花嫁になる気がない以上、長居は無用だ。――解るだろう、『巫女姫』」
 彼女の言わんとしていることに気づいたイリアは、僅かに顔色を帰る。そうだ、シェラがここに滞在している限り、カルノリアの手のものも公然と国内に居座ることが出来る。そのものたちが、皇帝の暗殺、および巫女姫の略奪を計画しているとなれば。シェラが一刻も早く国に戻ることが神聖帝国の、ひいては皇帝夫妻のためとなる。
「そうですの。残念ですこと。もう少し、お話してみたかったのに」
 ルクレツィアはシェラの前に右手を差し出した。口付けを求めているのである。シェラは別段怒ることもなく、彼女の前に片膝をつきその手をとった。ひんやりと柔らかい、雪を思わせる手をとり、滑らかな甲に唇を寄せる。
「……」
 温かなシェラの口付けを受けたせつな、ルクレツィアの口元が綻んだ。彼女はそっと手を引くと、シェラの感触が残る部分にそっと自らの唇を押し付ける。
「姫」
 じかに唇に触れられたような。軽い痺れが全身を駆け抜けた。シェラは困惑の表情で異国の公女を見上げるが、ルクレツィアは一向に気にする節はない。
「素敵な方ね、シェルマリヤ様。おなまえ、覚えておきますわ」
「……」
「では、また。宵の宴の席で」
 ごきげんよう、とルクレツィアは膝を折り、会釈をする。部屋付の侍女が、そそくさと彼女に近寄ると、
「疲れたわ。部屋に戻ります」
 幾分投げやりな声でそう告げて、先に退室してしまう。その姿を見送ったシェラとイリアは、彼女の気配がすべて消えた頃、互いに顔を見つめあった。
「――なんだか」
「変わった姫君だな」
 それが、ミアルシァの濃すぎる血の成せるものなのか――今ひとつ解らなかったが。アヤルカス創始の皇后の名を持つ公女は、どこかしら薄ら寒い影を二人の心に落としたのである。
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