アグネイヤIV世

東沢さゆる

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第二章 輝ける乙女

美獣3

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 廃屋を舐めるが如く這い回る焔を見て、レンシスは息を呑んだ。これでよいのか、とエルシスに尋ねるが、彼は小さく頷くのみである。
「あのような下賎の輩。共に始末したほうが、レンシス殿のため、更には皇帝陛下のためです」
 それでも、生きながら焼き殺すのはいかがなものか、とレンシスが言葉を繋げば。
「平民の男女です。構うことはありません」
 エルシスは冷ややかに笑った。
「それよりも、早く宮殿に上がられたほうが宜しいのではないでしょうか、レンシス殿。シェルマリヤ様が不審に思われますぞ。あなた様が、神聖帝国に入国していることは先般ご存知のことですから」
「シェラ、か」
 焔に沈む廃屋を後に、レンシスは苦い顔をした。彼の上司の娘であるシェルマリヤ。そのひとは、今宵の宴にアヤルカス公爵の花嫁候補として出席している。臣籍ではあるが、彼女はれっきとした皇帝の姪、しかも彼女の母は皇帝の実妹である。血筋の尊さから言えば、アレクシア皇女、セレネイド公女に次ぐ存在であり、神聖帝国としても北方の守りを磐石とするためには、ぜひとも手にしたい姫であるに違いない。
「彼女が、そう簡単に花嫁になどなるものか」
 レンシスは吐き捨てる。
 幼い頃から知る彼女は、決して女性らしくはなかった。父である第一将軍の意向で、男性として育てられたせいもあるだろうが。結婚をするとしても、ゆくゆくは婿を取り、家を守る跡取りであろう、その婿は自身が有力候補であると考えていた自分が甘かったのか。まさか、この期に及んでシェルマリヤが異国に嫁ぐやも知れぬとは。
「わたしは、遠慮する。かわりにおまえかイーヴァインが護衛として出席してくれ」
「レンシス殿」
 エルシスは顔を顰める。なにを子供じみたことを、と、その視線が告げていた。レンシスがシェルマリヤに懸想していることは、将軍の側近であれば誰もが知っている。けれども、そんな個人的な感情で任務を疎かにするなど、武官の風上にも置けぬとエルシスは遠まわしにレンシスを詰った。
「クラウスはどうした? おまえが嫌というなら、クラウスに行かせればいい」
 同期であり、将軍の信頼厚い彼ならば、シェルマリヤの護衛として申し分ないだろう。
「それが」
 エルシスが更に眉を顰める。
「まだ、戻っていないのです。どちらかに探りに出向いたことは確かですが」
「彼が?」
 クラウスは、任務にかたい男である。今宵の宴に護衛として出るやも知れぬ、と薄々感づいていればこそ、もう宿に戻ってきても良いものだが。先程帳場に尋ねても

 ――さあ? まだ、戻られてはいませんが。

 そう返答があった、とエルシスは言う。
 彼が真実のオルトルートであるところの赤毛の女性を探して、街に出たまでは知っている。そこから先の消息がつかめない。しかも、あの赤毛の女性のもとに彼が向かった形跡もないということは。
「もしや」
「どうされました、レンシス殿」
「――いや。目的の、『令嬢』と接触したのかと思ったのだ」
 赤毛の女にその居場所を問い詰めようとした、古代紫の瞳を持つ男装の令嬢。彼女は、ルカンド伯爵暗殺の現場に居合わせ、こともあろうにクラウスは顔を見られてしまったという。レンシスは幸い姿を見られることはなかったと思うが――
 ルカンド伯爵殺害犯は、カルノリアの士官。それも、第一将軍直属の部下である、と世に知られればどのようなことになるか。クラウスは、あの令嬢がミアルシァの密偵――封印王族の一人であると確信しているようであるが、まさか彼女がアヤルカスにまで足を伸ばしていようとは。

 ――それが、密偵だ。奴らは、どこにでも現れる。シェラのようにな。

 引き合いに上官の娘を出すのは、どうかと思うが。そう言われれば、レンシスも否定をすることは出来ぬ。クラウスの頭には、シェルマリヤの存在があったがために、『男装の娘』と『密偵』とが符号として結び付けられたのだろう。しかも、あの令嬢の瞳は、古代紫。北方では聖なる瞳とあがめられるが、南方では覇王の瞳、不吉なる証として忌み嫌われている。ゆえに、ミアルシァでは僅かでも赤みの混ざった瞳を持つものは、王族としての権利を剥奪され、地に落とされるという。それが、『不浄の輩』――『封印王族』である。彼らの中には、未婚王族の欲望のはけくちとなるもの、遠方からの賓客をもてなす『貢物』となるものが多いが、ときに密偵まがいの仕事をするものもあると聞く。
 なれば、あの娘も、そのひとりなのか。
 レンシスは、じっと己の手を見つめた。まだそこに、彼女の頬を殴ったときの感触が残っている。
(本来であれば、豪奢な衣裳ドレスを纏い、何も知らずに宮殿の奥で笑っていられたものを)
 あの娘が、哀れだと思う。思うからこそ、悔やまれる。彼女が女性であることに気づかなかった、自身の愚かさが。
「ミアルシァの、姫か」
 ぽつりと呟く。紫の瞳を持たなければ、彼女は今頃、紫芳宮の花嫁選びの宴に侍っていたのだろうか。
「レンシス殿」
 呼びかけに、彼は「ああ」とだけ答える。エルシスは業を煮やしたのか、彼を引き摺るようにして足早に表通りを駆け抜けた。
「いつまでもごねていらっしゃらず。早々に宮殿へいらしてください。クラウスの行方は我らが捜しますゆえ」
「しかし」
「忘れてはいけませぬぞ。我らの本来の目的は、その赤毛の女や令嬢を探し出すことでも、シェルマリヤ様の護衛でもないのですから」
 再度説得されて、レンシスは渋々頷く。軍服を脱ぎ捨て、衣裳を纏ったシェルマリヤが、アヤルカス公爵のもとで楽しげに談笑する姿を思い浮かべると、心臓が締め付けられる思いがしたが――仕方がない。これも役目と自身を無理やり納得させつつ、彼は紫芳宮へ上がる決心をした。



「意識があるのか?」
 自身の腕を掴む娘に、ジェリオは尋ねた。しかし、彼女の行為は無意識のものだったのだろう。うっすらと開かれた黒い瞳は、何も映さず虚空に視線を彷徨わせるだけであった。震える喉が、何かを訴えるように言葉を紡ぎだそうとして、彼女はか弱く咳き込む。その咳にすら力がなく、喉に血が絡まっているのかかすれた嫌な音が辺りに響いた。
 しっかりしろ、ということは出来ない。
 それが、気休めだということは、ジェリオにも、当の娘にもわかりきっていることであるから。どれほど驚異的な回復力を持っていたとしても、彼女がこの廃屋から脱出することは出来ない。両手足の腱を切られ、指をすべて潰されていたのでは、無理だ。
「……」
 それでも、彼女は何かを訴えるように、ジェリオを見上げる。助けてくれ、と言っているのではない。別の何かを彼に伝えようとしている。
「ああ、これか」
 自害をせぬよう、口の中に押し込められた布。それを外してやると、ふうっと彼女の目がやらわかな光を帯びた。微笑むように口元が動き、彼女はゆっくりと手を動かす。握り拳に近い、肉片と化した手である方向を指し示す。ジェリオがそちらに目を向けると同時に、
「……っ」
 肉を断つ、不気味な音がした。
 振り返るジェリオの傍らで、娘は口元を血に染めながらがくりとくずおれる。舌を、噛み切ったのだ。この身体のどこにそのような力が残されていたと言うのか。ジェリオは息を呑み、彼女の横顔を見つめる。
 事切れた娘の身体を床に横たわらせ、簡易な祈りを捧げたジェリオは、先程彼女が指し示した方向に再び目を向けた。何のことはない、ただの壁である。意識が朦朧とした彼女が、苦しさに任せてもがいた結果だと言ってしまえばそれまでであるが。覚悟の自決を遂げるような、気概ある娘である。なにか意味があるのだろう。
 ジェリオは、その場所に向かった。壁の前に膝をつき、その辺りを丹念に調べると。
「?」
 風が吹き込んできた。夜の気配を帯びた、外気である。
 彼女は、それをジェリオに教えたのだ。
「すまない」
 自身にとどめを刺そうという相手に、逃亡経路を示すとは。
 ジェリオにそれ以上の言葉はなかった。もともと、その経路は彼女がここに監禁された時点で見つけていたのだろう。そして、いずれそこから脱出するつもりだったに違いない。それを考えると、かの娘がたまらなく哀れに思えたが、これも運命と諦めねばならぬのだろうか。
 貴族に嬲り殺されて、非業の最期を遂げた娘。
(貴族に)
 ジェリオは奥歯を噛み締める。貴族に弄ばれた、そう思うだけで暗い怒りがこみ上げてくる。この娘の仇をとるほど正義感を持ち合わせているわけではないが、件の貴族には一矢報いたい気分であった。
 カルノリア訛りの貴族、それだけで彼らがカルノリアの縁者だと断定は出来ぬが、それでもなんらかの手がかりにはなるだろう。セルニダには溢れているが、南方には珍しい金髪。そこに手がかりがあるのではないか。
 闇に閉ざされた抜け道を這いながら、ジェリオは彼らの面影を今一度心に思い浮かべた。



「支度は整われましたか?」
 侍女に声をかけられ、サリカは頷いた。着替えを手伝っていた三人の小間使いは、さっと身を引き、サリカ前に鏡を差し出す。そこに映るのは、目元涼しい美少年――面影の中に若干女性らしさは残るものの、凛々しき風貌の若者だった。化粧の施し方も、女性とはまるで違う。異性の心を奪う扇情的なものではなく、寧ろ性別を不明にさせる細工がされているようだ。
 やはり、支度が整った、というイリアの部屋に、彼女を迎えにいくと
「あら」
 こちらは巫女装束ではあるが、少女らしい可愛らしい化粧を施されたイリアが、驚いたようにサリカを見つめた。
「どちらの殿方かと思いましたわ」
 貴婦人めいた口調で、イリアはくすりと笑う。
「でも、素敵。凄く、素敵」
 差し伸べられた彼女の手をとり、サリカは先触れの侍女に導かれるまま、宴の会場へと足を運ぶ。皇帝とその正室たる巫女姫の道行きに、廊下を行く侍女、兵士、小間使いたちは一斉に頭を下げた。揺れる燭台の向こう、広間の扉が開いて。楽師の奏でる妙なる調べが、皇帝夫妻を包み込んだ。

 長い夜が、始まる。
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