1 / 2
01
しおりを挟む
「お別れに、参りました」
静かに帳を掲げて入室してきたのは、巫女の装束に身を包んだ幼い少女であった。彼女の名は、フィオレーン。アンディルエの最高神職たる神官長にして、皇帝の正室。占術を用いて神の言葉を探り、国を導く通称巫女姫である。
「神殿に、火を放ちました」
淡々と語る彼女には、歳不相応の落ち着きがあった。瑠璃の瞳に宿るは、恐怖ではなく決意。神殿に火を放ったということは、彼女は自決する覚悟であろう。そのまえに、ここに。皇后であり現在は皇帝を名乗るクラウディアの前に、現れたのだ。
◆
前皇帝エルメイヤ三世が暗殺されて、三ヶ月。妃や愛妾は数あれど、世継ぎを持たぬ皇帝の後を継いだのは、異国からの花嫁、皇妃・クラウディアであった。女帝を認めぬ神聖帝国にありながら、彼女はクラウディア一世と名乗り、帝冠を戴いたのである。これに反対した大臣、貴族たちは全て処刑もしくは幽閉された。恐怖政治、とひとはいうが。時世の流れに対応するには、この方法しかなかったのだ。四百年続いた神聖帝国、その礎は崩れ去り、国は滅びようとしている。そのようなときに、慣例だの前例だのと見苦しく騒ぐほうがどうかしていると。クラウディアは会議の席で一喝した。
エルメイヤの存命中から、国は傾き始めていた。いな、そのまえから。滅びの足音は徐々に近づいていたのやもしれぬ。クラウディアは、沈み行く船に乗せられるようなもの――そういわれて、この国に嫁いで来た。財政豊かなクラウディアの故国。その経済力を神聖帝国は必要としたのだ。けれども、時は既に遅かった。気付いたときには、波は甲板をも洗っていたのである。
分離しつつある、諸侯の反乱。
公国として独立を果たしたカルノリアは、皇帝の実妹を大公妃としていながら、帝国が崩壊する様を傍観していた。傍観であればまだよいが、他国と示し合わせるかのように、次々と挙兵する諸侯に物資を融通していたのだ。
「女帝を立てるのであれば、カルノリア大公妃程相応しい方はいない」
諸侯にそう言わしめ、帝国の主導権を握らんとするカルノリアを、クラウディアは嫌った。
国が荒れるのに任せ、何もしようとしなかった人物を、元首とすることは出来ないと。
「皇帝陛下のお世継ぎが誕生するまでは、私が皇帝です」
毅然と言い放つ皇妃の姿に、打たれる者もまた、少なくは無かった。
実際、身篭っていた愛妾はいたのだ。
巫女の警護をしていた女性近衛団――エルシュアードと呼ばれる騎士の中に、皇帝の想いびとはいた。彼女はかつての将軍の娘で、才色兼備の誉れ高き女性であり、武官の義務と生み月近くまで公務に就いていたのである。彼女の出産した子を次期皇帝とする、クラウディアが宣言した矢先であった。さらなる反乱が起こったのは。
それは、かつて無い大規模な反乱であった。濁流のごときうねりは、瞬く間に帝国全土に広がり。ついには帝都にまで暴徒が押し寄せる結果となった。それが呼び水となり、かねてから神聖帝国の存在を快く思っていないミアルシァがついに行動を起こしたのである。
帝都は炎に包まれ、街には反乱軍とミアルシァの兵が溢れた。
その中に、クラウディアの故国の兵が存在したことは、当然なのだろうか。かの国は財政豊かといえど規模的には小国で、ミアルシァか神聖帝国、大樹に縋らねば生きてはいけない弱き存在であった。
◆
窓から見る景色は、常とまるで様相を変えていた。これがこの世の終わりというものか、と眼を覆いたくなるほどの惨劇に、若き女帝は言葉を失う。
「あなたはお逃げなさい、フィラ。アンディルエの血を絶やしてはいけません」
しかし、巫女姫はかぶりを振った。
ミアルシァは、自分を逃がすことは無いだろうと。ミアルシァが忌み嫌う覇王の瞳、古代紫の瞳と並んで嫌悪するもの。それが、巫女の瞳といわれる、瑠璃の双眸である。これがある限り、自分は逃れられないと。まだ、ようやく十四歳になったばかりの巫女姫は諦めに似た微笑を浮かべる。
「陛下は、アルメニアのお方。アルメニアのものが参れば、救われましょう」
だから、ここでお別れです。フィオレーンは一礼して去ろうとするが。
「彼女を止めなさい!」
クラウディアの言葉に、巫女姫に付き従っていたエルシュアードのひとりが反応した。彼女は風のごとき速さで巫女に接近すると、声を出させる間もなくその腹に当身を食らわせた。ぐらりとかしぐ華奢な身体を支えて、女性近衛騎士は静かな微笑を浮かべる。
「無体な真似をして、すまなかった」
女帝は巫女姫の傍らに膝を付く。姫の柔らかな黒髪を一房つかんで口づけてから、エルシュアードに更なる命令を下す。
「彼女に、侍女の服装をさせなさい」
私の侍女と偽って、共に城を出る。クラウディアの言葉に、エルシュアードは頷いた。
「それから」
こんな日に生まれる命もあるのね、と。ふと、次の間にずる扉を見やる。その向こう、隔離された空間にいるものこそ、エルメイヤ三世の想いびと。エルシュアードのひとり、シェルダ・ルダであった。彼女の腹からは、今まさに子が生まれんとしている。神聖帝国唯一の正統なる後継者が。生まれた子は、肉体的性別がどうであれ、男子として育てられる。女子であった場合は、生涯その性別は明かされない。ならば、男子であるようにと。女子の身で、この動乱の時代、国を率いるには荷が重過ぎる――辛すぎる。自身の立場を思い、クラウディアは生まれてくる子供が男子であることを願った。自身の子ではなく、愛妾の子である。けれども、そんなことなどどうでもよかった。神聖帝国の名を継ぐことが出来るものがこの世に生まれる。カルノリア大公になど、この国の帝冠を渡すものかとクラウディアは心に誓った。
大公――太子と称されながらも、国を統べる器も無く。ただ、皇帝の名のみを欲する哀れなる甥に、従弟に、国を任せることは出来ない。
「和子 が、誕生されました」
静かに扉が開き、年配侍女が顔を覗かせる。部屋の奥からは元気の良い産声が聞こえてきた。クラウディアは安堵の息とともに側室に労いの言葉を下賜する。
「アグネイヤ四世の、誕生ですね」
生まれた子には、初代の名をつけることを決めていた。子供じみた呪いと笑われるかも知れぬが、その名をつければ、再び帝国の威厳を取り戻せるような気がしていたのだ。
時は既に遅く。帝国は、輝ける乙女は、断末魔の叫びを上げているというのに。
「シーラの意識はしっかりしておりますか?」
侍女に尋ねると、彼女は「はい」と頷いた。皇帝の寵姫、シェルダ・ルダ。彼女は次期エルシュアード隊長の呼び声も高い女丈夫であった。出産直後といえど、ぐったり眠りにつくほどか弱くは出来ていないらしい。それは、幸いであった。
「直ちに、彼女を守り城を抜けるように。無事であれば、セルニダにて逢いましょう」
「陛下」
侍女は驚いたように目を見開く。
「あらかじめ、彼女にはそう言い置いています。和子さえ側にいなければ、彼女が陛下の寵姫であったことなど誰もわからない。和子は、私が連れて行きます」
他の数名の子供たちとともに、侍女の子として脱出させる。クラウディアはこの日がくるであろうことを予想したそのときから、計画を立てていた。幸いなことに、シェルダ・ルダの容姿をミアルシァは知らない。神聖帝国は、北方にありながら黒髪の人々が多い国である。無論、ミアルシァやアルメニアの如く、黒檀の髪漆黒の髪といわれるような深さはない。シェルダ・ルダも例に漏れず黒髪の娘であった。が、クラウディアの策略で、皇帝エルメイヤ三世の寵姫は金髪であると噂を流していたのである。
「陛下」
産屋の奥から、はっきりとした声が聞こえた。クラウディアは、それに応えて中へと踏み入れる。そこには産婆に抱かれ、元気に声を上げる子供の姿があった。産湯を使ったばかりのその姿、赤裸の身体を見れば性別は一目瞭然である。
「よく、耐えましたね」
我が子を見守るシェルダ・ルダに労いの言葉をかける。彼女は小さく頷いた。大役を果たし終えたばかりの彼女の顔は、誇らしさよりも疲労の色のほうが濃く出ている。この状況下である。落ち着いて子を生める状態ではなかったであろう。安産であったのが、せめてもの救いであった。
「あなたは、予定通り先に城を出なさい。降伏の前に、アルメニアに使者を出します。国からつれてきた私の侍女は、すべてアルメニアに連れ帰るように申し渡していますから」
「陛下。私は、神聖帝国の、第一将軍の娘です」
シェルダ・ルダは笑みを浮かべた。常には見ることのない、穏やかな笑みである。
「身元を偽ってまで、敵の情けに縋りたくはないのです、陛下」
はっきりと言い切るその姿は、母のそれではない。騎士の表情であった。
「私を、敵と申すのですか」
クラウディアの口調がきつくなる。
「いいえ。陛下は、我らが皇帝陛下です。けれども、自身がアルメニアの情けに縋って生きることは耐えられません。わたしは」
「自害をする、とでも申すのか?」
「いいえ」
「では」
「和子を連れて、ひとりで城を抜けます」
彼女はきっぱりと言い切った。たとえひと時といえども、我が子と離れることは耐え難いのであろうが。産後間もなくの身で、子を連れての脱出は難しい。いかに彼女が剣の名手武術の達人だとしても、自身と子を守るのは不可能である。かといって、それなりの供をつければ怪しまれる。
「和子は、私がこの手で立派に育てます。いつか、神聖帝国を再興する日まで。その血を絶やさぬよう守り育てます」
「シーラ」
愛称を呼ぶと、シェルダ・ルダの目が優しく細められた。
「城下に落ちれば、子を連れた女子は多くいます。こんな日に生まれるのは、この和子だけではないでしょう。大丈夫です。わたくしのことは、お気遣いなさいますな」
陛下こそ、御身大切に。
シーラは床から起き上がり、床に膝を付いた。エルシュアードの礼をとり、若き女帝を祝福する。
「神聖帝国皇帝クラウディア一世陛下」
厳かに響き渡る声に、クラウディアも姿勢を正す。
「和子に、大公の位を。お願いいたします」
それは、簡素な立太子の式であった。巫女姫の立会いもなく、祝福もない。ただ、皇帝より次期皇帝たる和子に、大公となるよう口頭で申し伝えられただけの、寂しい儀式であった。
「先帝エルメイヤ三世、及び寵姫シェルダ・ルダの第一子を、皇帝クラウディア一世の名において大公に任ずる。また、その名をアグネイヤと命名する」
「陛下」
シーラは思わず顔を上げた。彼女は乳母の手の中で盛んに鳴き声をあげる我が子を見つめ
「アグネイヤ――四世陛下」
小さく呟いた。
◆
クラウディアが、『甥』を見送ったのは、それから一刻ほど後のことである。商家の奥方に姿を変えたシェルダ・ルダは、和子と僅かな荷物だけを持って城を出た。供は、彼女の後輩に当たるエルシュアードの女性が一人。大公とその母との道行きだというのに、それはあまりにも簡素で惨めであった。敗れた国の、滅んだ国の妃や皇子は、このような屈辱を味わわねばならぬのかと。人知れず城下に繋がる通路の前に、佇むクラウディア一世は嘆息した。
「陛下もそろそろお逃げあそばしたほうが、宜しいのではないでしょうか?」
エルシュアードの一人が、切迫した表情でクラウディアに声をかける。アルメニア軍に遭遇する前に、カルノリアの兵士と行き合わせてしまっては、元も子もない。クラウディアは反逆者として処刑され、巫女姫は政治の道具としてカルノリア大公に利用されることとなるであろう。そして、ミアルシァに遭遇すれば、巫女姫は確実に殺害される。かの国は、巫女の瞳――黄昏の瞳を、魔女の瞳として忌み嫌う。暁の、覇王の瞳と同じ強さの憎悪を持って。
「アルメニアの先鋒は、どこまで来ていますか?」
クラウディアが尋ねれば、エルシュアードの女性は
「密偵から得た情報では」
と、子細を語りだす。
現在、最も城下に迫っているのは、カルノリア公国の兵。次いで、ミアルシァの先鋒となっているアルメニアの兵である。現状では、カルノリアの兵のほうが先にこちら――皇帝の居城に近づく可能性が高い。
「密偵がアルメニアに接触しましたら、先に彼らを導くことになっています」
先程巫女姫に当身を食らわせた女性士官は、要件だけを伝えると、一礼して去ろうとする。クラウディアは思わずその後姿に声をかけた。
「あなたは? 巫女姫の侍従武官ですか?」
神殿で、幾度か見かけたことのある顔であった。巫女姫やシェルダ・ルダと同じく黒い髪。瞳も限りなく黒に近い青であった。濃紺の瞳とでも言うべきか。巫女の瞳が瑠璃で、黄昏の色ならば。彼女の瞳は暁を待つ朝未来の瞳であった。
「シェルダ=リ・アーサと申します。巫女姫就任のときよりお仕えしております」
シェルダと名乗った彼女は、クラウディアの前に膝を付く。年の頃は、十六か、七か。二十歳は越えてはいないであろう。まだ若い娘であるが、受け答えはしっかりとしている。神聖帝国の女性武官は、皆立派な教育を受けているのだとこの期に及んで感心せざるを得ない。 聞けば、シェルダはエルメイヤの寵姫・シェルダ・ルダの縁者であるという。シェルダ自身、武官の家の生まれであり、シェルダ・ルダの父の勧めもあって神殿警護の役についたそうである。
「巫女姫を、頼みます」
自身より、十は年下の娘にクラウディアは頭を下げた。シェルダは驚くが、それはクラウディアの素直な気持ちでもあったのだ。神聖帝国は、巫女姫があってこその帝国。皇帝など、政治を行なう駒に過ぎない。いざ、国が落ちるときに守らなければならないのは、皇帝ではなく巫女姫のほうである。それは、エルシュアードも承知はしているはずであるが。
「カルノリアが先にこちらにやってきたとしましたら。陛下の盾となる所存です」
シェルダは剣を抜いて誓う。
カルノリアは、巫女姫を殺さない。彼女は大切な『帝国の遺産』である。新たに神聖帝国皇帝を名乗るのだとしたら、巫女姫の、フィオレーンの存在は欠かせない。
「わたしは」
クラウディアは苦笑を浮かべた。
「命など惜しくはないのです。フィラを逃がすことが出来れば、それでよい。いつか、アグネイヤ四世とまみえる日まで、命を永らえてくれるのであれば」
それは本心である。
クラウディアの命と引き換えに、他の人々の命が救われるのであれば。彼女は喜んで自身の命を差し出すつもりである。だが、巫女姫がカルノリアの手に落ちることだけは避けたかった。彼女がアルメニア軍に保護されるまで。無事にこの国を出るところを見届けるまでは、せめて生きていたいと思う。
シェルダは複雑な表情でクラウディアを見上げている。
と、そこへ。
「陛下」
侍女の一人がやってきた。
「巫女姫が、お目覚めです」
静かに帳を掲げて入室してきたのは、巫女の装束に身を包んだ幼い少女であった。彼女の名は、フィオレーン。アンディルエの最高神職たる神官長にして、皇帝の正室。占術を用いて神の言葉を探り、国を導く通称巫女姫である。
「神殿に、火を放ちました」
淡々と語る彼女には、歳不相応の落ち着きがあった。瑠璃の瞳に宿るは、恐怖ではなく決意。神殿に火を放ったということは、彼女は自決する覚悟であろう。そのまえに、ここに。皇后であり現在は皇帝を名乗るクラウディアの前に、現れたのだ。
◆
前皇帝エルメイヤ三世が暗殺されて、三ヶ月。妃や愛妾は数あれど、世継ぎを持たぬ皇帝の後を継いだのは、異国からの花嫁、皇妃・クラウディアであった。女帝を認めぬ神聖帝国にありながら、彼女はクラウディア一世と名乗り、帝冠を戴いたのである。これに反対した大臣、貴族たちは全て処刑もしくは幽閉された。恐怖政治、とひとはいうが。時世の流れに対応するには、この方法しかなかったのだ。四百年続いた神聖帝国、その礎は崩れ去り、国は滅びようとしている。そのようなときに、慣例だの前例だのと見苦しく騒ぐほうがどうかしていると。クラウディアは会議の席で一喝した。
エルメイヤの存命中から、国は傾き始めていた。いな、そのまえから。滅びの足音は徐々に近づいていたのやもしれぬ。クラウディアは、沈み行く船に乗せられるようなもの――そういわれて、この国に嫁いで来た。財政豊かなクラウディアの故国。その経済力を神聖帝国は必要としたのだ。けれども、時は既に遅かった。気付いたときには、波は甲板をも洗っていたのである。
分離しつつある、諸侯の反乱。
公国として独立を果たしたカルノリアは、皇帝の実妹を大公妃としていながら、帝国が崩壊する様を傍観していた。傍観であればまだよいが、他国と示し合わせるかのように、次々と挙兵する諸侯に物資を融通していたのだ。
「女帝を立てるのであれば、カルノリア大公妃程相応しい方はいない」
諸侯にそう言わしめ、帝国の主導権を握らんとするカルノリアを、クラウディアは嫌った。
国が荒れるのに任せ、何もしようとしなかった人物を、元首とすることは出来ないと。
「皇帝陛下のお世継ぎが誕生するまでは、私が皇帝です」
毅然と言い放つ皇妃の姿に、打たれる者もまた、少なくは無かった。
実際、身篭っていた愛妾はいたのだ。
巫女の警護をしていた女性近衛団――エルシュアードと呼ばれる騎士の中に、皇帝の想いびとはいた。彼女はかつての将軍の娘で、才色兼備の誉れ高き女性であり、武官の義務と生み月近くまで公務に就いていたのである。彼女の出産した子を次期皇帝とする、クラウディアが宣言した矢先であった。さらなる反乱が起こったのは。
それは、かつて無い大規模な反乱であった。濁流のごときうねりは、瞬く間に帝国全土に広がり。ついには帝都にまで暴徒が押し寄せる結果となった。それが呼び水となり、かねてから神聖帝国の存在を快く思っていないミアルシァがついに行動を起こしたのである。
帝都は炎に包まれ、街には反乱軍とミアルシァの兵が溢れた。
その中に、クラウディアの故国の兵が存在したことは、当然なのだろうか。かの国は財政豊かといえど規模的には小国で、ミアルシァか神聖帝国、大樹に縋らねば生きてはいけない弱き存在であった。
◆
窓から見る景色は、常とまるで様相を変えていた。これがこの世の終わりというものか、と眼を覆いたくなるほどの惨劇に、若き女帝は言葉を失う。
「あなたはお逃げなさい、フィラ。アンディルエの血を絶やしてはいけません」
しかし、巫女姫はかぶりを振った。
ミアルシァは、自分を逃がすことは無いだろうと。ミアルシァが忌み嫌う覇王の瞳、古代紫の瞳と並んで嫌悪するもの。それが、巫女の瞳といわれる、瑠璃の双眸である。これがある限り、自分は逃れられないと。まだ、ようやく十四歳になったばかりの巫女姫は諦めに似た微笑を浮かべる。
「陛下は、アルメニアのお方。アルメニアのものが参れば、救われましょう」
だから、ここでお別れです。フィオレーンは一礼して去ろうとするが。
「彼女を止めなさい!」
クラウディアの言葉に、巫女姫に付き従っていたエルシュアードのひとりが反応した。彼女は風のごとき速さで巫女に接近すると、声を出させる間もなくその腹に当身を食らわせた。ぐらりとかしぐ華奢な身体を支えて、女性近衛騎士は静かな微笑を浮かべる。
「無体な真似をして、すまなかった」
女帝は巫女姫の傍らに膝を付く。姫の柔らかな黒髪を一房つかんで口づけてから、エルシュアードに更なる命令を下す。
「彼女に、侍女の服装をさせなさい」
私の侍女と偽って、共に城を出る。クラウディアの言葉に、エルシュアードは頷いた。
「それから」
こんな日に生まれる命もあるのね、と。ふと、次の間にずる扉を見やる。その向こう、隔離された空間にいるものこそ、エルメイヤ三世の想いびと。エルシュアードのひとり、シェルダ・ルダであった。彼女の腹からは、今まさに子が生まれんとしている。神聖帝国唯一の正統なる後継者が。生まれた子は、肉体的性別がどうであれ、男子として育てられる。女子であった場合は、生涯その性別は明かされない。ならば、男子であるようにと。女子の身で、この動乱の時代、国を率いるには荷が重過ぎる――辛すぎる。自身の立場を思い、クラウディアは生まれてくる子供が男子であることを願った。自身の子ではなく、愛妾の子である。けれども、そんなことなどどうでもよかった。神聖帝国の名を継ぐことが出来るものがこの世に生まれる。カルノリア大公になど、この国の帝冠を渡すものかとクラウディアは心に誓った。
大公――太子と称されながらも、国を統べる器も無く。ただ、皇帝の名のみを欲する哀れなる甥に、従弟に、国を任せることは出来ない。
「和子 が、誕生されました」
静かに扉が開き、年配侍女が顔を覗かせる。部屋の奥からは元気の良い産声が聞こえてきた。クラウディアは安堵の息とともに側室に労いの言葉を下賜する。
「アグネイヤ四世の、誕生ですね」
生まれた子には、初代の名をつけることを決めていた。子供じみた呪いと笑われるかも知れぬが、その名をつければ、再び帝国の威厳を取り戻せるような気がしていたのだ。
時は既に遅く。帝国は、輝ける乙女は、断末魔の叫びを上げているというのに。
「シーラの意識はしっかりしておりますか?」
侍女に尋ねると、彼女は「はい」と頷いた。皇帝の寵姫、シェルダ・ルダ。彼女は次期エルシュアード隊長の呼び声も高い女丈夫であった。出産直後といえど、ぐったり眠りにつくほどか弱くは出来ていないらしい。それは、幸いであった。
「直ちに、彼女を守り城を抜けるように。無事であれば、セルニダにて逢いましょう」
「陛下」
侍女は驚いたように目を見開く。
「あらかじめ、彼女にはそう言い置いています。和子さえ側にいなければ、彼女が陛下の寵姫であったことなど誰もわからない。和子は、私が連れて行きます」
他の数名の子供たちとともに、侍女の子として脱出させる。クラウディアはこの日がくるであろうことを予想したそのときから、計画を立てていた。幸いなことに、シェルダ・ルダの容姿をミアルシァは知らない。神聖帝国は、北方にありながら黒髪の人々が多い国である。無論、ミアルシァやアルメニアの如く、黒檀の髪漆黒の髪といわれるような深さはない。シェルダ・ルダも例に漏れず黒髪の娘であった。が、クラウディアの策略で、皇帝エルメイヤ三世の寵姫は金髪であると噂を流していたのである。
「陛下」
産屋の奥から、はっきりとした声が聞こえた。クラウディアは、それに応えて中へと踏み入れる。そこには産婆に抱かれ、元気に声を上げる子供の姿があった。産湯を使ったばかりのその姿、赤裸の身体を見れば性別は一目瞭然である。
「よく、耐えましたね」
我が子を見守るシェルダ・ルダに労いの言葉をかける。彼女は小さく頷いた。大役を果たし終えたばかりの彼女の顔は、誇らしさよりも疲労の色のほうが濃く出ている。この状況下である。落ち着いて子を生める状態ではなかったであろう。安産であったのが、せめてもの救いであった。
「あなたは、予定通り先に城を出なさい。降伏の前に、アルメニアに使者を出します。国からつれてきた私の侍女は、すべてアルメニアに連れ帰るように申し渡していますから」
「陛下。私は、神聖帝国の、第一将軍の娘です」
シェルダ・ルダは笑みを浮かべた。常には見ることのない、穏やかな笑みである。
「身元を偽ってまで、敵の情けに縋りたくはないのです、陛下」
はっきりと言い切るその姿は、母のそれではない。騎士の表情であった。
「私を、敵と申すのですか」
クラウディアの口調がきつくなる。
「いいえ。陛下は、我らが皇帝陛下です。けれども、自身がアルメニアの情けに縋って生きることは耐えられません。わたしは」
「自害をする、とでも申すのか?」
「いいえ」
「では」
「和子を連れて、ひとりで城を抜けます」
彼女はきっぱりと言い切った。たとえひと時といえども、我が子と離れることは耐え難いのであろうが。産後間もなくの身で、子を連れての脱出は難しい。いかに彼女が剣の名手武術の達人だとしても、自身と子を守るのは不可能である。かといって、それなりの供をつければ怪しまれる。
「和子は、私がこの手で立派に育てます。いつか、神聖帝国を再興する日まで。その血を絶やさぬよう守り育てます」
「シーラ」
愛称を呼ぶと、シェルダ・ルダの目が優しく細められた。
「城下に落ちれば、子を連れた女子は多くいます。こんな日に生まれるのは、この和子だけではないでしょう。大丈夫です。わたくしのことは、お気遣いなさいますな」
陛下こそ、御身大切に。
シーラは床から起き上がり、床に膝を付いた。エルシュアードの礼をとり、若き女帝を祝福する。
「神聖帝国皇帝クラウディア一世陛下」
厳かに響き渡る声に、クラウディアも姿勢を正す。
「和子に、大公の位を。お願いいたします」
それは、簡素な立太子の式であった。巫女姫の立会いもなく、祝福もない。ただ、皇帝より次期皇帝たる和子に、大公となるよう口頭で申し伝えられただけの、寂しい儀式であった。
「先帝エルメイヤ三世、及び寵姫シェルダ・ルダの第一子を、皇帝クラウディア一世の名において大公に任ずる。また、その名をアグネイヤと命名する」
「陛下」
シーラは思わず顔を上げた。彼女は乳母の手の中で盛んに鳴き声をあげる我が子を見つめ
「アグネイヤ――四世陛下」
小さく呟いた。
◆
クラウディアが、『甥』を見送ったのは、それから一刻ほど後のことである。商家の奥方に姿を変えたシェルダ・ルダは、和子と僅かな荷物だけを持って城を出た。供は、彼女の後輩に当たるエルシュアードの女性が一人。大公とその母との道行きだというのに、それはあまりにも簡素で惨めであった。敗れた国の、滅んだ国の妃や皇子は、このような屈辱を味わわねばならぬのかと。人知れず城下に繋がる通路の前に、佇むクラウディア一世は嘆息した。
「陛下もそろそろお逃げあそばしたほうが、宜しいのではないでしょうか?」
エルシュアードの一人が、切迫した表情でクラウディアに声をかける。アルメニア軍に遭遇する前に、カルノリアの兵士と行き合わせてしまっては、元も子もない。クラウディアは反逆者として処刑され、巫女姫は政治の道具としてカルノリア大公に利用されることとなるであろう。そして、ミアルシァに遭遇すれば、巫女姫は確実に殺害される。かの国は、巫女の瞳――黄昏の瞳を、魔女の瞳として忌み嫌う。暁の、覇王の瞳と同じ強さの憎悪を持って。
「アルメニアの先鋒は、どこまで来ていますか?」
クラウディアが尋ねれば、エルシュアードの女性は
「密偵から得た情報では」
と、子細を語りだす。
現在、最も城下に迫っているのは、カルノリア公国の兵。次いで、ミアルシァの先鋒となっているアルメニアの兵である。現状では、カルノリアの兵のほうが先にこちら――皇帝の居城に近づく可能性が高い。
「密偵がアルメニアに接触しましたら、先に彼らを導くことになっています」
先程巫女姫に当身を食らわせた女性士官は、要件だけを伝えると、一礼して去ろうとする。クラウディアは思わずその後姿に声をかけた。
「あなたは? 巫女姫の侍従武官ですか?」
神殿で、幾度か見かけたことのある顔であった。巫女姫やシェルダ・ルダと同じく黒い髪。瞳も限りなく黒に近い青であった。濃紺の瞳とでも言うべきか。巫女の瞳が瑠璃で、黄昏の色ならば。彼女の瞳は暁を待つ朝未来の瞳であった。
「シェルダ=リ・アーサと申します。巫女姫就任のときよりお仕えしております」
シェルダと名乗った彼女は、クラウディアの前に膝を付く。年の頃は、十六か、七か。二十歳は越えてはいないであろう。まだ若い娘であるが、受け答えはしっかりとしている。神聖帝国の女性武官は、皆立派な教育を受けているのだとこの期に及んで感心せざるを得ない。 聞けば、シェルダはエルメイヤの寵姫・シェルダ・ルダの縁者であるという。シェルダ自身、武官の家の生まれであり、シェルダ・ルダの父の勧めもあって神殿警護の役についたそうである。
「巫女姫を、頼みます」
自身より、十は年下の娘にクラウディアは頭を下げた。シェルダは驚くが、それはクラウディアの素直な気持ちでもあったのだ。神聖帝国は、巫女姫があってこその帝国。皇帝など、政治を行なう駒に過ぎない。いざ、国が落ちるときに守らなければならないのは、皇帝ではなく巫女姫のほうである。それは、エルシュアードも承知はしているはずであるが。
「カルノリアが先にこちらにやってきたとしましたら。陛下の盾となる所存です」
シェルダは剣を抜いて誓う。
カルノリアは、巫女姫を殺さない。彼女は大切な『帝国の遺産』である。新たに神聖帝国皇帝を名乗るのだとしたら、巫女姫の、フィオレーンの存在は欠かせない。
「わたしは」
クラウディアは苦笑を浮かべた。
「命など惜しくはないのです。フィラを逃がすことが出来れば、それでよい。いつか、アグネイヤ四世とまみえる日まで、命を永らえてくれるのであれば」
それは本心である。
クラウディアの命と引き換えに、他の人々の命が救われるのであれば。彼女は喜んで自身の命を差し出すつもりである。だが、巫女姫がカルノリアの手に落ちることだけは避けたかった。彼女がアルメニア軍に保護されるまで。無事にこの国を出るところを見届けるまでは、せめて生きていたいと思う。
シェルダは複雑な表情でクラウディアを見上げている。
と、そこへ。
「陛下」
侍女の一人がやってきた。
「巫女姫が、お目覚めです」
0
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
包帯妻の素顔は。
サイコちゃん
恋愛
顔を包帯でぐるぐる巻きにした妻アデラインは夫ベイジルから離縁を突きつける手紙を受け取る。手柄を立てた夫は戦地で出会った聖女見習いのミアと結婚したいらしく、妻の悪評をでっち上げて離縁を突きつけたのだ。一方、アデラインは離縁を受け入れて、包帯を取って見せた。
義弟の婚約者が私の婚約者の番でした
五珠 izumi
ファンタジー
「ー…姉さん…ごめん…」
金の髪に碧瞳の美しい私の義弟が、一筋の涙を流しながら言った。
自分も辛いだろうに、この優しい義弟は、こんな時にも私を気遣ってくれているのだ。
視界の先には
私の婚約者と義弟の婚約者が見つめ合っている姿があった。
冷遇妃マリアベルの監視報告書
Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。
第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。
そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。
王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。
(小説家になろう様にも投稿しています)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる