『たった6文字のHOPE ~神谷探偵事務所はぐれ事件簿~』

水由岐水礼

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FILE・#4 涼介の心傷・前髪の理由

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 なだらかというには少しばかり傾斜のある坂道が、城跡の方まで続いている。
 もともと「閑静な」という接頭語が付く、山の手の高級住宅地区は、夜の帳に包まれてさらにその静けさを強調していた。
 スニーカー、パンプス、ショートブーツ。自分たちの踏み鳴らす足音の三重奏だけが、無愛想なリズムを耳に届ける。
 涼介たちは、ゆっくりとした足取りで暗い坂道を上っていた。
 涼介の隣には玲奈が、さらにその横には多恵子が並び、三人は玲奈を挟む形で歩いていた。
 結局、玲奈の依頼内容は二つにまとまった。
 自分に嫌がらせをしている犯人の調査と特定。つまり、簡単に言えば犯人探し。
 それとは別にもう一つ、玲奈のボディガード。こちらの方は「調査も大事ですが、依頼人の安全が第一」と、玲奈ではなく慎也の方から申し出たものだった。
 役割分担としては、調査の方は慎也が担当し、身辺警護は涼介が担当することになった。
 で、早速、警護役として、涼介は玲奈を自宅まで送っていくことになったのである。
 多恵子が一緒なのは、玲奈のことを心配した彼女が、「今日は玲奈のところに泊まる」と言い出したからだ。
 まだ午後7時半過ぎだというのに、辺りはひどく寂しげだった。
 あまりにも静かすぎて、道の両側に立ち並ぶ豪邸が人の住まない幽霊屋敷のように思えてくる。
 今夜はお疲れなのか、風が悪戯をして回る音もしない。空気が動かないせいか、梅雨時の嫌な湿気が露骨に身体に纏わりついていた。特に、顔に垂れた前髪がじっとりとして気持ちが悪い。
「ねえ、天野くん」
 玲奈の向こう側から、多恵子が涼介に呼びかけてきた。
「なんですか、松井さん?」
 涼介は足を止めた。
 合わせて、他の二人も立ち止まる。
 そこはちょうど街灯の真下だった。
 小さな明かりが、三人の姿を照らし出す。
「一つ訊きたいんだけど、訊いてもいい?」
 良く言えば巧い、悪く言えば卑怯なやり方だ。
 ここでイエスと答えれば、どんな質問が多恵子の口から飛び出すか。なんとなく察しはつく。
 彼女はおそらく、涼介にとってはあまり訊いてほしくない、歓迎できない質問をしてくることだろう。
 けれど、ここで前置きの問いに「否」とは言い難い。否という理由がなかった。
「ええ、いいですよ。何ですか?」
「さっきからずっと訊きたかったんだけど、その前髪さあ……鬱陶しくないの? どうして、そんな風に伸ばしてるわけ? 顔にひどい傷とか痣でもあるの?」
 案の定だ、質問内容は予想通りのものだった。
「違います、そんなんじゃないですよ」
 涼介は答えた。
 多恵子はミステリーファンだという。
 なら、もう一つ飛んできそうな質問がある。
 それにも、先回りして答える。
「それから、松井さん。もしかしたら、いま某ミステリー作品を頭に思い浮かべていたりするかもしれませんが、それも違いますよ。この髪は、あの小説の主人公の真似をしているわけじゃありませんから」
 どうやら図星だったらしい。多恵子はそれを考えていたようだ。
 まだ訊いてもいないことを否定した涼介に、彼女は苦笑する。
「あんな本格派な作品は、やっと九九を覚えたばかりの子供に読める本じゃないですよ」
「へぇー……ってことは、もう十年近くも前からそんな風なんだ?」
「ええ、簾歴は結構長いんですよ、オレ」
 涼介の答えに、多恵子はおかしそうに笑った。彼女だけでなく、玲奈もくすっと短く声を漏らす。
「ふーん……違ったんだ。でも、だとしたら、その前髪ってなんなの?」
 笑いを収めると、改めて多恵子は訊いてきた。
「ねえ、教えてよ」
 よほど気になるらしい。きちんと答えを聞くまで、退いてくれそうにはなさそうだ。
 多恵子の瞳が輝いているように見えるのは、街灯の明かりを反射してのことではないだろう。人の好奇心というものは、面倒で厄介なものである。
 さて、どうしたものか。涼介は迷った。
 思案げな彼の様子に、
「涼介さん。話したくないのなら、無理をして仰らなくてもいいんですよ。そうでしょう、多恵子さん?」
 玲奈が助け船を出してくれた。
「ええ……まあ、そんなに言い難いことなら別に答えてもらわなくても……。誰にだって、人に聞かれたくない事の一つや二つ、絶対にあるものだと思うし……」
 と言いつつも、多恵子の口調は渋々といったところで。
 明らかに未練たらたら、言葉とは裏腹の意思がしっかりと見えている。その眼差しが伝えてくる感情も、ちっとも隠すことなく、涼介からの回答を期待しいていた。
 謎解き好きのミステリー好きというよりも、多恵子はただ単に詮索好きなのかもしれない。
 多恵子に退く気がないことは、玲奈にも感じ取れたのだろう。
「家はあともう少しですから。さあ行きましょう」
 この話はもうこれで終わりとばかりにそう言って、玲奈は涼介を促す。
 けれど、涼介はその気遣いを無にする。動こうとしなかった。
 皮肉にも、玲奈の気遣いが却って、涼介に譲歩の気持ちを起こさせてしまったのだ。
「……わかりました。お話しますよ」
 涼介はそっと肩の力を抜いた。
 中学時代の痛ましく哀しい思い出、それを玲奈は事務所で語った。できるなら話したくはなかっただろうに、彼女は曝け出したのだ。
 なのに、自分はその人に庇ってもらっている。その大半は慎也が代弁したとはいえ、いろんなものを堪え、玲奈は自ら語っていた……。
 それを思うと、涼介はこのまま完全に黙秘するのは申し訳なくなってしまった。
 ほんの少しだけど、譲歩の気持ちが起きる。
 でも、だからといって、全てを話すつもりはない。まあ、たとえ話したところで、内容を信じてはもらえないだろうけれど……。
「この前髪の理由はチョコですよ」
 涼介の言葉に、多恵子はぽかんとする。玲奈も同様の顔をしていた。
「…………」
「…………」
 数秒間、完全な沈黙が辺りに流れた。
 マンガやアニメ風に例えるなら、二人の頭の中では今、いくつもの?マークが明滅していることだろう。
「……チョコって、カカオが材料のチョコレートのこと?」
 多恵子が確かめるように訊いた。
「はい、そうです。それです」
「…………それって、どういうこと? まさか、ふざけているんじゃないでしょうね?」
「いいえ、違います。お二人を、からかうつもりなんてありまんよ。つまり、オレは2月14日に、たくさんのチョコレートが欲しくないんですよ。簡単に言えばそういうことです」
 涼介は言った。
 再び、多恵子は沈黙する。
 伝えたことに嘘はなかった。ただ、真実の核はまだまだもっと深いところにある。
 いくらなんでも、そこまでは明かすつもりはない。そこに譲歩の余地はない。
 それにおそらく、多恵子の一番の興味は前髪を伸ばしている理由などではないだろうから。
 聞きたいのではない。彼女は見たいのだろう、簾髪の下に隠れた部分を……。
「あっははははは!」
 多恵子が大声で笑い出す。
「ちょ、ちょっと、多恵子さん……」
 玲奈が声をかけるけれど。多恵子の笑いは止まらない。
 まあ、当然の反応だろう。
 2月14日、誰もが知ってるバレンタインデー。その日に、〈妖怪のお兄ちゃん〉の涼介が女の子たちからチョコを貰えるだなんて、誰も思わないだろう。
 実際、美咲と優子の二人以外から、涼介はそんなものを貰ったことはない。
 しかも、二年前からは、優子からのチョコも無くなってしまった。理由はもちろん、優子に悠馬という彼氏ができたからである。
 三十秒は経っただろうか、多恵子はまだ腹を抱えていた。
 あまり気は進まなかったが、涼介は黒い簾を右手でかき上げた。
 多恵子の笑い声がぴたっと止む。
 玲奈が息を飲む音が聞こえた。
 涼介の素顔のことは、彼女も恋人の秋彦から聞かされていなかったらしい。
 眼前に現われた予想外のものに、二人は顔全体で驚愕を表現していた。
 街灯の明かりの下、秀麗な顔が照らし出されている。
 妖怪のお兄ちゃんは、顔だけ貴公子に変身していた。
 秋彦のようなスポーツマンタイプのイケメン系ではなく、慎也のような爽やか系でもない。悠馬のように中性的とも少し違ったが、彼と同様、涼介の素顔はとても美しい顔立ちだった。
(もう、そろそろいいか……)
 涼介は、前髪を押さえていた手を額から退けた。するりと前髪が落ち、涼介の素顔は再び黒い簾の下に隠れた。
 と同時に、魔法が解けたかのように、多恵子がはしゃいだ声を上げる。
「うわぁーー、すっごい美形! むちゃくちゃ綺麗な顔してるじゃない! でも、なんで? どうして隠すの? 勿体ないじゃない、顔を隠さなかったら女の子に凄くモテるでしょうに。そんなに綺麗な顔をしてるのに、本当に勿体ないよ、天野くん!」
 興奮した様子で、多恵子は一気に捲くし立てた。
「あの……松井さん。だから言ったじゃないですか、オレはチョコなんて十個も二十個もいらないんです」
 叔父の慎也とは違い、涼介は自分の容姿についてしっかりと自覚している。
 自分が前髪を切り、きちんとした形(なり)をすれば、チョコなんて十や二十どころかもっと貰えるかもしれない。
 けれど、そんなもの欲しいとは思わない。
 そう、涼介は……。
「オレは一つ貰えれば十分なんです。たった一個のチョコでいいんですよ」
 たった一個のチョコの意味。それは言うまでもないだろう。
「…………。へぇー、凄いね、君。よく、そんなに平然として言えるもんね。あたしなら恥ずかしくて言えないわ、そんなセリフ。美咲さんも幸せ者だ」
 驚きつつも、多恵子は感心しているようだった。
 涼介は苦笑する。
 実は、前髪の下は照れ臭さで一杯だったりするのだけれど。多恵子は気づいていないようだった。
「でも、やっぱり勿体ないよ。本当に、全然その簾髪を切る気はないの?」
「ええ、全くありません。それに切りたいと言っても……」
 わざと涼介は言葉を切った。
 多恵子を誘う。
 くすり、彼女が小さく笑った。きっと、さっきの事務所での騒動を思い出したのだろう。
「そうね……美咲さんが猛反対しそうね。君が前髪を切ったりしたら、たくさんのライバルが現われちゃうのは目に見えてるものね。彼女って、ひどく独占欲が強いみたいだし……君も大変だね」
 期待通りの言葉だった。
 誘導作戦は成功。多恵子は勝手に適当なところで納得してくれたようだ。
「ええ、まあ……」
 と、涼介は曖昧に答える。
 本当は、独占欲やライバルなんて関係がなかった。
 美咲が反対するとしても、そんな理由では決してあり得ない。
 理由はもっと別のところにある。
 それどころか、中途半端ではなく、涼介が心の底から前髪を切りたいと言えば、美咲は少しも反対などしないだろう。逆に喜びさえするはずだ。
 なぜなら、彼が前髪を切って素顔を曝け出すことを一番願っているのは……他の誰でもない、きっと美咲だろうから……。
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