『また君に会える時を』

水由岐水礼

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『また君に会える時を』

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    【1】

 ……光が溢れ、闇が消滅した。
 空には雲一つなく、ただ太陽だけが穏やかに輝いている。
 絶好の洗濯日和、これ以上ないくらいの最高の晴天だ。
 まだ寝呆け気味のぼんやりとした頭で、そんなことを思う。
 風に揺られた草が、頬にチクチクと悪戯を仕掛けてくる。
 緑の爽やかな香りが、鼻孔をくすぐる。
 目に映るものは、空の青と草原の緑ばかり。
 目覚めると、僕はそんな緑あふれた風景の中に埋もれていた。
 やわらかな陽射しが身体に降り注ぐ。
 ぽかぽかとして暖かかった。
 あまりの心地好さに、起きる気がしない。
「ふわあぁぁーー……」
 目覚めたばかりだというのに、大きな欠伸が零れる。
 まあ、いいか……。
 このまま、この気持ち良さを享受しよう。
 もう一度、眠ってしまう。
 心地好い睡魔の誘惑に心を委ねる。
 午睡の世界へ向けて、再び瞼が閉じていく。
 けれど……。
 …………僕は気づいた。

 ────僕は……誰だ?

  【2】

 ……どこまでも続く、大草原。
 ──僕は誰だ?
 その自問を繰り返しながら、僕はただひたすら前へと進む。
 どういうわけなのか、僕は何も覚えていなかった。……僕は記憶を失っていた。
 いったい、ここはどこなのか?
 僕はいったい誰なんだ?
 いくら歩いても果ての見えないこの草原と同じように、僕の記憶世界にもただ無限の闇が広がっていた。
 そこには、何もない。
 僕は誰なのか。何度心の中で自問してみても、答えは見つからない。
 一条の光さえも射す気配はない。
 時ばかりが無為に過ぎてゆく……。
 ……まったく何も思い出せなかった。
 自分の名前さえ分からないまま、僕は広大な世界を彷徨い歩く。
 ……たった独り。
 誰とも会うことがない。
 もう十日も歩いているというのに、草原の終わりは姿を現わさない。
 見渡すかぎり、まるで大海原のような緑が果てしなく続いている。
 ささやかな小屋どころか、灌木の一本さえも見かけることはない。
 ここは完全に草だけの、文字どおりの草原だった。
 ……本当に何もない。何にもないところだった。
 こんな場所に……僕はどうやって迷い込んだのだろう。
 どうやって、僕はこの緑の大海原にやって来たんだろう。
 ……不思議でたまらなかった。
 けれど。もちろん、それも考えるだけ無駄なことだった。
 どうせ、僕は、何も覚えていないのだから……。


 ……なにも思い出せない。
 ただひたすら……彷徨い歩く。
 いま僕にできることは、それしかなかった。
 だけど。未だ目に映る風景に変化は訪れない。
 緑、緑、緑、みどり、みどり…………。
 そろそろ僕は限界を感じ始めていた。
 ……ひどく疲れていた。
 僕は、もう……疲れ切っていた。

    【3】

 暗闇が僕を包み込んでいる。
 ……ひどく喉が渇いていた。
 どれくらいの日数が過ぎたのか、もう知らない。とっくに数えるのは止めてしまった。
 目を開けるのが億劫だった。
 どうせ……また同じに決まっている。
 空──。それも雲一つない青い空が見えるだけだ。
 完璧な青空。この草原の空はいつも晴れていた。空だけでなく、大地にも何の変化も訪れはしない。
 ……何も変わらない世界。
 きっと、この世界は変化することを望んでいないのだろう。
 僕は勝手にそう思い込んでいた。

 ………………だれ、だ?

 けれど、違ったらしい。
 目を開けた時、僕の瞳に映ったものは青空ではなかった。
「あ。起きた……」
 小さな唇が、ぽつりと言葉を紡ぐ。
 目の前に、女の子の顔。
 好奇心旺盛そうな、大きな二つの水色の瞳が僕を見つめている。
 長い金色の髪が、陽射しを受けてきらきらと輝いていた。
 七、八歳くらいだろうか。薄黄色のワンピースに空色のベスト。頭には、ベストと同じ色の大きなリボンをつけている。
 僕を見下ろす少女の姿。自分のすぐ傍らに人がいる……ただそれだけのことに、僕はひどく困惑していた。
 僕の瞳に映る少女の背景は、青一色で。頭と視線を左右に振ってみても、見えるものは、これまでと同じく青と緑ばかりだった。
 この娘は、いったい何だ……?
 何もない、果ての見えない大草原に、どこからともなく現われた少女。
 その存在は、ずっと雲一つなく晴れ渡り続けている青空以上に普通じゃない。
 もしかして……。
「天使、様……?」
 けれど。くすり……笑うと、
「違うよ。そんなこと言っちゃ、天使さまに失礼だよ」
 少女は否定した。
「それより、おじさん。こんなところでお昼寝なんかしていたら、風邪引いちゃうよ」
「…………」
 …………おじさん。それって、僕のことか?
 それは違うだろ。
「おじさんじゃなくて、お兄さん」
 思わず、訂正してしまった。
 記憶がないのだから、自分が何歳かなんて分からない。でも、分からないけれど、僕はまだ「おじさん」なんて呼ばれるような歳ではないはずだ。……たぶん。
「それに、お昼寝じゃないよ」
「じゃあ、何をしているの?」
 小首を傾げ、少女が訊いてくる。
「あ、いや……その……」
 口ごもり、言葉に詰まる。
 僕は困ってしまった。
 本当のことを言うのは……なんだか情けなかった。……格好が悪い。
「別にわざわざ言うことのほどじゃ……」
 僕は曖昧にして躱そうとした。
「お昼寝じゃなかったら、なに?」
 しかし、少女の方は退いてくれそうになかった。
「それは……」
「それは?」
 少女がしゃがみ込む。
 僕と少女の間の距離が、あっという間に縮まった。間近で見つめ合う。
「ねえ、なあに?」
 少女は、子供らしいしつこさで迫ってくる。
「…………」
 …………仕方ないか。
 この状況じゃ、いまさら恥も見栄もない……。
「……行き倒れ」
 ぼそり。僕は答えた。
 だけど、声が小さすぎたようだ。
「え……?」
 少女が聞き返してきた。
 ああっ、もう自棄だ!
「だから行き倒れ!」
 僕は大きな声を上げた。
「お昼寝なんかじゃなくて、ただ動けないだけなんだよ!」

    【4】

 少女はきょとんとしていた。
 無言で僕の顔を見つめている。
 ただ、無言でも、その表情はしっかりと「びっくりした!」と言っている。
 無理もない。いきなり行き倒れだなんて言われれば、誰だって驚くだろう。
 当然の反応だと思う。
 が、しかし……。
「うわあぁぁーーー、すごいお声だね! なんだかアヒルさんの声みたい!」
 どうやら、少女の驚きの重点は、僕の思っていたポイントとは違うところにあったようだった。
「そりゃあ、喉がガラガラに渇いているからね」
 唾だってもう、ほとんど出ないくらいなのだ。叫べば、声だって変になるだろう。
「ふーん……そうなんだ」
 ──ちょっと待ってね。
 言うと、少女は立ち上がり、何もない宙に向けて何やらブツブツ言い始めた。
 声が小さくて、何を言っているのかは聞き取れない。時々、頷いたりもしている。
 ……なんだ?
 突然どうしたんだ、この娘は?
 いったい……何を待てというのだろう?
 わけが分からない。
 困惑する僕を余所に、少女はまだ一人話し続けている。
「いったい何をしているんだい?」
 思い切って訊ねてみると、
「精霊さんとお話しているんだよ。雨を降らせてくれるように頼んでるの」
 ちらりとこちらを見て、少女は事もなげにそう答えた。
 ……精霊さん? 雨を降らせてくれるように、頼む……?
 ……って!
 なっ──なな、なんだって!?
 こ、この娘は精霊使いなのか!

 ──精霊使い。この世界には、ごく稀にそう呼ばれる人間が生まれ落ちる。彼らは自然を司る精霊たちと交信する能力を持ち、精霊の協力のもとに様々な力を操ることができるのだという。
 中には、精霊たちを通し、動物と話すことができる人間もいるらしい。
 そんな彼らのことを、教会では〈精霊の御子〉とも呼び、聖者として尊んでいる。それくらい、彼ら精霊使いと呼ばれる人間は稀有な存在なのだ。
 その幻の精霊使いが、僕のすぐ目の前にいる……。

「ありがとう、精霊さん」
 少女の正体を知り驚く僕の耳に、幼い声が飛び込んでくる。
「いいよ、って。雨を降らせてくれるって、お兄さん」
 少女がさらりと言う。
「じゃあ、お願いね」
 宙に向けて、少女が微笑む。
 すると、たちまち青かった空に、灰色の雲が渦を巻き始めた。
 渦がどんどんと大きくなっていく。
 空から太陽が消える。
 緑の大地が暗く陰る。
 やがて、低く垂れこめた雨雲が、空全体を覆い尽くしてしまった。
 ずっと青い空ばかり見ていたせいか。
 目の前に広がる鈍色(にびいろ)の空が、ひどく神秘的なもののように思えた。
 ぽつぽつと雨粒が落ちてくる。
「さあ、お兄さん。お口を開けて」
「あ、ああ……」
 少女の言うとおりにする。
 僕は口を大きく開けた。
 雨足が強まってくる。
 思わず、目を瞑ってしまう。
 乱暴な雨だった。容赦なく打ちつけてくる雨に、顔が少しばかり痛かった。
 次々と雨粒が口の中に飛び込んでくる。
 ……あたたかい雨だった。
 口の中に雨水をため込んでは、飲み込む。
 水が喉を通る感覚が心地好かった。
 ……満たされてゆく。
 なのに。……なぜだろう。
 満たされながらも、どこか淋しい。
 雨を飲めば飲むほどに。
 なぜか……僕は哀しさを覚えた。

 ……精霊の心遣いなのか。
 篠突く雨は、なかなか降り止まなかった。

  【5】

 空は青さを取り戻していた。
 元通り、見慣れた晴天がそこにはあった。
 ゆっくりと半身を起こす。
 大地はすっかり濡れていた。陽射しを受けて、緑の草原は光り輝いている。
 精霊たちに護られていたんだろう。しかし、少女はまったく濡れていなかった。
 ワンピースのポケットを探り、
「はい、これ」
 と、少女は僕に何かを差し出す。
 その掌の上には、飴玉らしきものが一つ載っていた。いくつかの色が交じり合い、それが不思議な光彩を放っていた。
「僕に、くれるのかい?」
「うん、そうだよ」
 少女は頷く。
「虹の飴(レインボードロップ)っていうんだよ。精霊さんお手製の飴だから、食べたら元気が出るよ」
 ……雨の後に、虹の飴か。
 なんだか、おかしみを覚えた。
「ありがとう」
 礼を言って、飴を受け取る。
 それを口に入れようとして、気づく。
 ……髭だ。
 顎に当たった指が、異物に触れた。
 不精髭。そう呼ぶには、それは伸びすぎている感触だった。
 顔を触ってみると、口髭や頬髭もかなり伸びているようだった。
 だから……おじさんだったのか。
 きっと、この伸びすぎた髭のために、少女の目には僕が老けて映ったんだろう。
 一人納得し、僕は飴を口に放り込んだ。
 ……甘くない。何の味もしなかった。
 けれど。あたたかい飴だった。
 舌の上で溶けていく飴が、静かに熱を放っていく。
 ……やさしい熱さだった。
 その熱が身体中に伝わっていく。疲れ切っていた肉体が癒されてゆく。
 身体だけでなく、心にも何か温かいものが流れ込んでくる。
 静かに、穏やかに。精霊のお手製だという飴は、僕を元気づけてくれる。
 ふと見ると、少女が微笑んでいた。
 思わず。微笑を返してしまう。
 そういえば……まだ、この娘の名前を聞いていなかったっけ。
 今更ながら気づき、それを訊くと、
「何だと思う? 当ててみて」
 少女は悪戯っぽい表情(かお)をした。
 ……当ててみて、って。
 そんなの、当たるわけないじゃないか。
 素直に教えてくれれば良いものを。面倒なことを言うものだ。
 だけど、まあ……恩人殿の申し出だ。とりあえず、考えてみようか……。

 少女のどこか期待に満ちた瞳が、僕を見ている。
 僕の解答を待つ間、ワンピースの裾をひらひらさせて踊ったり、口笛交じりにハミングしたり、少女はとても楽しそうだった。
 そんな彼女の様子を眺めているうちに、ようやく、閃き浮かんでくるものがあった。
「マリー……」
 と、思い浮かべたそれを、試しに口に出してみる。
 ……悪くないな。
 音にしてみると、その響きは、目の前の少女によく似合っているように思えた。なんとなく、そんな気がした。
「……マリー、マリー」
 僕の口にした名前を、少女は繰り返した。
「マリーか……うん、可愛くて素敵な名前だね。いいね、マリー! とっても気に入っちゃった!」
「…………」
「うん、決まり! それにするね! お兄さん、私の名前はマリーにするから」
「えっ……。ちょ、ちょっと……」
 マリーにするからって……。
 なんで、そうなるんだよ。
 ……何を言ってるんだ、この娘は?
 戸惑う僕に対し、少女はあくまでもマイペースだった。
「名前も決まったことだし。さあ行こう、お兄さん」
「行くって……どこに?」
「もちろん、お家にだよ」
 そう言ってにっこり微笑むと、少女は僕の右手を取った。

    【6】

 でたらめだけど陽気な歌声が、僕の心を楽しませてくれている。
 足取りも軽く、精霊使いの少女がすぐ目の前を歩いている。
 どこからやって来たのか。少女のワンピースと同じ色の蝶が、彼女の肩に大人しく止まっている。
 結局、少女の名前は「マリー」に決まってしまった。
 僕が何度、本当の名前を訊ねても、
〝マリーがいいんだもん! マリーにするんだもん!〟
 少女はそう頑固に主張するばかりで、名前を教えてくれなかった。
 そして、そのまま、彼女は自分の主張を譲らなかった。
 で、結果……。
「なあ、マリー」
 ということになってしまった。
「なあに? お兄さん」
 マリーが振り返る。
 その顔はニコニコと嬉しそうだ。
「君のいうお家はどこにあるの? まだ遠いの?」
 ……相変わらず、風景に変化はない。
 ただ緑の大草原が広がっているだけだ。
 僕には、どうしても、この草原に家があるなんて信じられなかった。
 人差し指を唇に当てて、ちょっと考える風にしてから、マリーは答えた。
「さあ? それはお兄さん次第かな?」
「へっ……」
 また何を……。本当に変ったことばかり言う娘だな。
「それって、どういう……僕次第って、どういうことなんだい?」
「言葉どおりの意味だよ」
「だから、その意味を訊いて……」
 けれど。無視された。マリーはまた歌い始めた。
 どうやら、教えてくれる気はないらしい。
 つまり、自分で考えろ、ということなんだろう。
 ……僕は大きくため息を吐いた。
 その息吹に驚いたのか、マリーの肩から蝶が飛び立った。
「えっ?」
 その瞬間……いや、たぶん気のせいだろう。
 そうじゃなければ、きっと目の錯覚に違いない。
 そんなこと、あるわけがない……。
 僕は目を瞬かせ、頭を軽く左右に振った。
 そんな僕を見て、マリーが不思議そうに小首を傾げる。
「どうしたの、お兄さん?」
「…………」
 長い金色の髪、水色の瞳。黄色のワンピースに、頭の大きなリボン……。
 確かに、マリーはそこにいた。
 彼女は、僕の前にしっかりと立っている。
 何も、おかしなところはない。
 やっぱり……気のせいだったようだ。
「ううん、なんでもないよ」
 今度は、安堵のため息が零れた。

    【7】

 ……だけど。気のせいなんかじゃなかった。
 目の錯覚でもなかった。
「………………うそ、だろ?」
 ……透けている。儚く、淡く……。
 少しずつ、マリーの身体が透けていく。
 その存在を薄れさせてゆく。
「……マリー。君……」
「とうとう来ちゃったみたい……」
 出会ってから、五日が過ぎていた。
「そろそろ限界みたいだね、わたし」
 マリーが哀しげに僕を見つめる。
「来たって……いったい何が? 限界って何なんだよ!」
「見てのとおり、消えちゃうんだよ。わたしが消えちゃうってことだよ」
「……消える。消えるって、ちょっと待てよ! おい、マリー……」
 頭の中で混乱が起きる。
 ……マリーが消える。
 なんで? どうして?
 いったい、どういうことなんだ?
 ──どうしてだ?
 …………あっ。混乱の中で見つける。
 一つだけ、思い当たることがあった。
「もしかして、あれか……虹の飴……」
 ……あの飴には、不思議な癒しの力があった。
 精霊のお手製だという虹の飴。ひょっとして、あれは精霊使いにとっては生命同然のものだったんじゃ……。
「それを僕にくれたから……。だから、そのせいで君は……」
「違うよ、それは違う。あれは、もともとお兄さんのための物だもの。わたしのじゃない。だから、そのせいじゃないよ。でも……」
「……でも?」
 マリーは、ひどく淋しげに笑った。
「やっぱり……お兄さんのせいかな」


「お兄さんが、早く思い出してくれないから……」
 少し拗ねたように、マリーが言う。
〝──早く思い出してくれないから〟
 その言葉に僕は驚く。
 ……知っていたのか。
「マリー。君は、僕が記憶を失っていることを知ってたのかい?」
「うん」
 とだけ、マリーは頷く。
「だけど、どうして? どうして、そのことを君は知って……」
 いいや。今はそんなことは後回しだ。
 それよりも……。
「僕の記憶喪失、それが君が消えてしまう原因なんだね?」
「うん、そうだよ」
「じゃあ、僕が記憶を取り戻せば、君は消えてしまわなくても済む?」
「たぶん、まだ間に合うと思う」
「でも、どうして……」
 …………そうか、記憶喪失。
 失くしてしまった記憶。
 きっと、その中に、僕が忘れてしまった物の中に……マリーのことも。それが理由なんだろう。
 僕が、彼女のことを忘れてしまったから……。だから……。
「……君は消えてしまいそうなんだね」
 けれど。
「残念だけど、違うよ。そうじゃないよ」
 マリーは首を横に振った。
「わたしが消えちゃうのは、そんな理由じゃないよ。お兄さんが、マリーのことを忘れちゃったからじゃない」
 僕の考えは、あっさりと否定されてしまった。
「なら、どういうことなんだ? どうして、何が原因で……」
 それが分からないことには、助けようがない。……僕は何を思い出せばいいんだ?
 こうやって話をしている間にも、マリーの姿は頼りなくなっているのに。
「教えてくれ、マリー。そうじゃないと、君が……」
「それは、思い出せば分かるよ。記憶を取り戻せば分かることだよ」
 この期に及んでも、マリーは語ろうとしなかった。
 自分の存在が、消えてしまうかもしれないのに。それでも……。
「マリー……」
 僕は、そのあとに続けて彼女に掛ける言葉を見つけられなかった。


「……お家」
 不意に、マリーがぽつりと呟く。
「えっ……」
「お兄さん。お家はすぐそこにあるんだよ。ただ、お兄さんが思い出せないだけで」
 そう言うマリーの姿はほとんど消えかかっていた。儚げで、幻のように……。
 ……助けないと。助けたい!
 このまま、この娘を消してしまっていいはずがない。僕なんかのせいで。ダメだ。
「そんなの絶対にダメだ!」
 思わず、そう叫んだ瞬間。
 ……お家。
 突然、それが目の前に現われた。
 丸太で組まれた小さな家。
 屋根には四角い煙突と、風見鶏。
 大草原の真ん中に現われた家は、ログハウスだった。
 ……何の飾り気もない、素朴な木の扉。
 その扉が僕を誘う。
 何かの術にでも掛ってしまったかのように、自然と足が目の前の家へと向かう。
 ふらふらと、ゆっくり歩みを進める。
 扉の前に立つと、僕は迷うことなくそれを開いた。
 開かれた扉の先、そこには一人の女性が立っていた。
 僕を見て、その女性が微笑む。
 ……知っている。
 その笑顔を見るのは、初めてじゃない。
 僕は、この女性を……彼女の微笑みをよく知っている……。

 ……そうか、思い出した。ここは……。
 そして、彼女は……。

 そうだ……ここが、僕の還るべき場所だった。
 僕はやっと、自分の大切なものを思い出した……。

    【8】

 ゆっくりと瞼を開ける。
 射し込んでくる光が少し眩しかった。
 目覚めた時、僕は草原ではなく、ベッドの上に横たわっていた。
 そこは、見慣れた家だった。
 金色の髪。マリーと同じ水色の双眸が、僕をじっと見ている。
 その二つの瞳から、涙が溢れ出す。
「……リアナ」
 僕は、静かに恋人の名前を呼んだ。
「バート……。よかった……」
 リアナが僕に抱きついてきた。
 彼女の身体は震えていた。
「よかった……ホントに良かった……」
 そればかり、涙声で繰り返す。
 彼女の流した涙のひと雫が、僕の唇に落ちる。
 それは……あたたかい涙だった。
 リアナの体温が僕に伝わってくる。
 彼女の鼓動が伝わってくる。
 優しくて安心できる響きだった。
 ……穏やかな愛しさを感じる。
 また、リアナの涙が僕の唇へと滑り落ちる。
 ……おんなじだ。僕は気づいた。
 この涙……あの時の……精霊が降らせてくれた、あの雨と同じ……。
 ……そうか、そうだったのか。
 あの雨は、リアナの涙だったんだ。
 そして、あの温かさ……。
 あれもリアナの想いだったんだ。
 いつも側で感じていた、彼女の優しさと温かさ。今も僕の心が感じているものと同じ。
 ……虹の飴。あの飴は、僕の大切な人の愛情……その純粋な想いの結晶だったんだろう。
 だから、マリーは言ったんだ。虹の飴は、僕のための物だと。
 リアナはまだ泣いている。
 こんなに大切に思っているのに。
 どうして、僕は忘れてしまったんだろう。
 僕はなんて薄情な奴なんだ。
 自分自身に怒りを覚えた。
「うっ……」
 身体に鋭い痛みが走った。
 顔をしかめた僕に、リアナが慌てたように離れる。
 それで、僕は初めて、自分の身体があちこち包帯だらけなのに気づいた。
 額に触れると、そこにも布の感触があった。
「良かったな、リアナさん」
 やや嗄れた声が聞こえた。
 リアナのいる反対側のベッド脇に、白髪の老人が立っていた。
「……ロイド先生」
 その老人は、村でただ一人の医者で、僕も子供の頃から何度もお世話になっている人だった。
 ここにロイド先生がいて、僕は怪我を……。
 ああ……思い出した。僕は……森で足を滑らせて……激流に飲み込まれて……。
「バートくん、気分はどうだい?」
 ロイド先生が訊く。
「悪くないみたいです」
 僕は答えた。
「そうか、それは幸いなことだ」
 ──幸いなことだ。それは、この先生の口癖の一つだった。
「しかし」
 と、先生が僕を睨む。
「あまり周りに心配を掛けるもんじゃないよ。特に、リアナさんは大事な時期だというのに。呑気に、ひと月近くも眠り続けておってからに……」
 ……大事な時期?
 先生の言葉に、僕はリアナの方を見た。
 お腹に手を当てて、彼女は微笑む。
「……赤ちゃん。あなたとわたしの赤ちゃんが、ここにいるの」
「そういうことだよ、バートくん。おめでとう」
 しかめ面を解き、先生も穏やかに笑った。
「……僕らの子供」
 リアナが頷いた。
 ああ、そうか……。
 あの娘は……マリーは……。
 だから、消えかかっていたのか。
 ……僕が思い出せば、分かる。
 なるほど、そういうことだったのか。
 川に落ちた時、僕は激流の中で諦めた。
 到底助かるはずがないと、絶望し、希望を捨てた……。
 ……諦めや弱気な心。
 あの見渡す限りの草原は、そんな僕自身の心が生み出したものだったのかもしれない。
 自分自身の心が創りだした草原で、僕は独りで勝手に彷徨って、倒れ……。
 求めるものは、僕のすぐ側に……僕自身の中にあったというのに。
 そこへ、助けに来てくれたんだ。
 なのに……巻き添えにしてしまうところだった。
 僕がリアナに心配をかけ過ぎて。芽生えたばかりの生命(いのち)を……。
 ……馬鹿だ。僕は馬鹿者だ。
 でも……良かった。
 あの娘は助かったんだ。
 ……本当に良かった。
「マリー……」
 僕はその名を呟いた。
「なあ、リアナ。その子が生まれたら、マリーって名前にしないか?」
「えっ……。でも、まだ女の子かどうかも分からないのに」
「大丈夫。生まれてくるのは女の子だよ。君によく似た可愛い……」
 僕は微笑んで、リアナのお腹にそっと手をやった。
「きっと、元気な女の子が生まれてくるよ」


〝ありがとう、マリー〟
 リアナのお腹に手を当てたまま、心の中で僕は言った。
〝それから楽しみに待っているよ、また君に会える時を〟

〝うん! またね、お父さん!〟

 そう、マリーからの声が聞こえたような気がした。
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みんなの感想(2件)

Kabochan
2021.03.31 Kabochan

個人的に
私も児童書・童話で「亀太郎」っていうお話を書いたんですけど……。
読んでいただいたら幸いです。

解除
Kabochan
2021.03.31 Kabochan

嗚呼、言い出したら止まらない
このお話への思い
児童書で子供っぽいお話かなと思えば
違う大人でも教訓になる

解除

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