1 / 1
『また君に会える時を』
しおりを挟む【1】
……光が溢れ、闇が消滅した。
空には雲一つなく、ただ太陽だけが穏やかに輝いている。
絶好の洗濯日和、これ以上ないくらいの最高の晴天だ。
まだ寝呆け気味のぼんやりとした頭で、そんなことを思う。
風に揺られた草が、頬にチクチクと悪戯を仕掛けてくる。
緑の爽やかな香りが、鼻孔をくすぐる。
目に映るものは、空の青と草原の緑ばかり。
目覚めると、僕はそんな緑あふれた風景の中に埋もれていた。
やわらかな陽射しが身体に降り注ぐ。
ぽかぽかとして暖かかった。
あまりの心地好さに、起きる気がしない。
「ふわあぁぁーー……」
目覚めたばかりだというのに、大きな欠伸が零れる。
まあ、いいか……。
このまま、この気持ち良さを享受しよう。
もう一度、眠ってしまう。
心地好い睡魔の誘惑に心を委ねる。
午睡の世界へ向けて、再び瞼が閉じていく。
けれど……。
…………僕は気づいた。
────僕は……誰だ?
【2】
……どこまでも続く、大草原。
──僕は誰だ?
その自問を繰り返しながら、僕はただひたすら前へと進む。
どういうわけなのか、僕は何も覚えていなかった。……僕は記憶を失っていた。
いったい、ここはどこなのか?
僕はいったい誰なんだ?
いくら歩いても果ての見えないこの草原と同じように、僕の記憶世界にもただ無限の闇が広がっていた。
そこには、何もない。
僕は誰なのか。何度心の中で自問してみても、答えは見つからない。
一条の光さえも射す気配はない。
時ばかりが無為に過ぎてゆく……。
……まったく何も思い出せなかった。
自分の名前さえ分からないまま、僕は広大な世界を彷徨い歩く。
……たった独り。
誰とも会うことがない。
もう十日も歩いているというのに、草原の終わりは姿を現わさない。
見渡すかぎり、まるで大海原のような緑が果てしなく続いている。
ささやかな小屋どころか、灌木の一本さえも見かけることはない。
ここは完全に草だけの、文字どおりの草原だった。
……本当に何もない。何にもないところだった。
こんな場所に……僕はどうやって迷い込んだのだろう。
どうやって、僕はこの緑の大海原にやって来たんだろう。
……不思議でたまらなかった。
けれど。もちろん、それも考えるだけ無駄なことだった。
どうせ、僕は、何も覚えていないのだから……。
……なにも思い出せない。
ただひたすら……彷徨い歩く。
いま僕にできることは、それしかなかった。
だけど。未だ目に映る風景に変化は訪れない。
緑、緑、緑、みどり、みどり…………。
そろそろ僕は限界を感じ始めていた。
……ひどく疲れていた。
僕は、もう……疲れ切っていた。
【3】
暗闇が僕を包み込んでいる。
……ひどく喉が渇いていた。
どれくらいの日数が過ぎたのか、もう知らない。とっくに数えるのは止めてしまった。
目を開けるのが億劫だった。
どうせ……また同じに決まっている。
空──。それも雲一つない青い空が見えるだけだ。
完璧な青空。この草原の空はいつも晴れていた。空だけでなく、大地にも何の変化も訪れはしない。
……何も変わらない世界。
きっと、この世界は変化することを望んでいないのだろう。
僕は勝手にそう思い込んでいた。
………………だれ、だ?
けれど、違ったらしい。
目を開けた時、僕の瞳に映ったものは青空ではなかった。
「あ。起きた……」
小さな唇が、ぽつりと言葉を紡ぐ。
目の前に、女の子の顔。
好奇心旺盛そうな、大きな二つの水色の瞳が僕を見つめている。
長い金色の髪が、陽射しを受けてきらきらと輝いていた。
七、八歳くらいだろうか。薄黄色のワンピースに空色のベスト。頭には、ベストと同じ色の大きなリボンをつけている。
僕を見下ろす少女の姿。自分のすぐ傍らに人がいる……ただそれだけのことに、僕はひどく困惑していた。
僕の瞳に映る少女の背景は、青一色で。頭と視線を左右に振ってみても、見えるものは、これまでと同じく青と緑ばかりだった。
この娘は、いったい何だ……?
何もない、果ての見えない大草原に、どこからともなく現われた少女。
その存在は、ずっと雲一つなく晴れ渡り続けている青空以上に普通じゃない。
もしかして……。
「天使、様……?」
けれど。くすり……笑うと、
「違うよ。そんなこと言っちゃ、天使さまに失礼だよ」
少女は否定した。
「それより、おじさん。こんなところでお昼寝なんかしていたら、風邪引いちゃうよ」
「…………」
…………おじさん。それって、僕のことか?
それは違うだろ。
「おじさんじゃなくて、お兄さん」
思わず、訂正してしまった。
記憶がないのだから、自分が何歳かなんて分からない。でも、分からないけれど、僕はまだ「おじさん」なんて呼ばれるような歳ではないはずだ。……たぶん。
「それに、お昼寝じゃないよ」
「じゃあ、何をしているの?」
小首を傾げ、少女が訊いてくる。
「あ、いや……その……」
口ごもり、言葉に詰まる。
僕は困ってしまった。
本当のことを言うのは……なんだか情けなかった。……格好が悪い。
「別にわざわざ言うことのほどじゃ……」
僕は曖昧にして躱そうとした。
「お昼寝じゃなかったら、なに?」
しかし、少女の方は退いてくれそうになかった。
「それは……」
「それは?」
少女がしゃがみ込む。
僕と少女の間の距離が、あっという間に縮まった。間近で見つめ合う。
「ねえ、なあに?」
少女は、子供らしいしつこさで迫ってくる。
「…………」
…………仕方ないか。
この状況じゃ、いまさら恥も見栄もない……。
「……行き倒れ」
ぼそり。僕は答えた。
だけど、声が小さすぎたようだ。
「え……?」
少女が聞き返してきた。
ああっ、もう自棄だ!
「だから行き倒れ!」
僕は大きな声を上げた。
「お昼寝なんかじゃなくて、ただ動けないだけなんだよ!」
【4】
少女はきょとんとしていた。
無言で僕の顔を見つめている。
ただ、無言でも、その表情はしっかりと「びっくりした!」と言っている。
無理もない。いきなり行き倒れだなんて言われれば、誰だって驚くだろう。
当然の反応だと思う。
が、しかし……。
「うわあぁぁーーー、すごいお声だね! なんだかアヒルさんの声みたい!」
どうやら、少女の驚きの重点は、僕の思っていたポイントとは違うところにあったようだった。
「そりゃあ、喉がガラガラに渇いているからね」
唾だってもう、ほとんど出ないくらいなのだ。叫べば、声だって変になるだろう。
「ふーん……そうなんだ」
──ちょっと待ってね。
言うと、少女は立ち上がり、何もない宙に向けて何やらブツブツ言い始めた。
声が小さくて、何を言っているのかは聞き取れない。時々、頷いたりもしている。
……なんだ?
突然どうしたんだ、この娘は?
いったい……何を待てというのだろう?
わけが分からない。
困惑する僕を余所に、少女はまだ一人話し続けている。
「いったい何をしているんだい?」
思い切って訊ねてみると、
「精霊さんとお話しているんだよ。雨を降らせてくれるように頼んでるの」
ちらりとこちらを見て、少女は事もなげにそう答えた。
……精霊さん? 雨を降らせてくれるように、頼む……?
……って!
なっ──なな、なんだって!?
こ、この娘は精霊使いなのか!
──精霊使い。この世界には、ごく稀にそう呼ばれる人間が生まれ落ちる。彼らは自然を司る精霊たちと交信する能力を持ち、精霊の協力のもとに様々な力を操ることができるのだという。
中には、精霊たちを通し、動物と話すことができる人間もいるらしい。
そんな彼らのことを、教会では〈精霊の御子〉とも呼び、聖者として尊んでいる。それくらい、彼ら精霊使いと呼ばれる人間は稀有な存在なのだ。
その幻の精霊使いが、僕のすぐ目の前にいる……。
「ありがとう、精霊さん」
少女の正体を知り驚く僕の耳に、幼い声が飛び込んでくる。
「いいよ、って。雨を降らせてくれるって、お兄さん」
少女がさらりと言う。
「じゃあ、お願いね」
宙に向けて、少女が微笑む。
すると、たちまち青かった空に、灰色の雲が渦を巻き始めた。
渦がどんどんと大きくなっていく。
空から太陽が消える。
緑の大地が暗く陰る。
やがて、低く垂れこめた雨雲が、空全体を覆い尽くしてしまった。
ずっと青い空ばかり見ていたせいか。
目の前に広がる鈍色(にびいろ)の空が、ひどく神秘的なもののように思えた。
ぽつぽつと雨粒が落ちてくる。
「さあ、お兄さん。お口を開けて」
「あ、ああ……」
少女の言うとおりにする。
僕は口を大きく開けた。
雨足が強まってくる。
思わず、目を瞑ってしまう。
乱暴な雨だった。容赦なく打ちつけてくる雨に、顔が少しばかり痛かった。
次々と雨粒が口の中に飛び込んでくる。
……あたたかい雨だった。
口の中に雨水をため込んでは、飲み込む。
水が喉を通る感覚が心地好かった。
……満たされてゆく。
なのに。……なぜだろう。
満たされながらも、どこか淋しい。
雨を飲めば飲むほどに。
なぜか……僕は哀しさを覚えた。
……精霊の心遣いなのか。
篠突く雨は、なかなか降り止まなかった。
【5】
空は青さを取り戻していた。
元通り、見慣れた晴天がそこにはあった。
ゆっくりと半身を起こす。
大地はすっかり濡れていた。陽射しを受けて、緑の草原は光り輝いている。
精霊たちに護られていたんだろう。しかし、少女はまったく濡れていなかった。
ワンピースのポケットを探り、
「はい、これ」
と、少女は僕に何かを差し出す。
その掌の上には、飴玉らしきものが一つ載っていた。いくつかの色が交じり合い、それが不思議な光彩を放っていた。
「僕に、くれるのかい?」
「うん、そうだよ」
少女は頷く。
「虹の飴(レインボードロップ)っていうんだよ。精霊さんお手製の飴だから、食べたら元気が出るよ」
……雨の後に、虹の飴か。
なんだか、おかしみを覚えた。
「ありがとう」
礼を言って、飴を受け取る。
それを口に入れようとして、気づく。
……髭だ。
顎に当たった指が、異物に触れた。
不精髭。そう呼ぶには、それは伸びすぎている感触だった。
顔を触ってみると、口髭や頬髭もかなり伸びているようだった。
だから……おじさんだったのか。
きっと、この伸びすぎた髭のために、少女の目には僕が老けて映ったんだろう。
一人納得し、僕は飴を口に放り込んだ。
……甘くない。何の味もしなかった。
けれど。あたたかい飴だった。
舌の上で溶けていく飴が、静かに熱を放っていく。
……やさしい熱さだった。
その熱が身体中に伝わっていく。疲れ切っていた肉体が癒されてゆく。
身体だけでなく、心にも何か温かいものが流れ込んでくる。
静かに、穏やかに。精霊のお手製だという飴は、僕を元気づけてくれる。
ふと見ると、少女が微笑んでいた。
思わず。微笑を返してしまう。
そういえば……まだ、この娘の名前を聞いていなかったっけ。
今更ながら気づき、それを訊くと、
「何だと思う? 当ててみて」
少女は悪戯っぽい表情(かお)をした。
……当ててみて、って。
そんなの、当たるわけないじゃないか。
素直に教えてくれれば良いものを。面倒なことを言うものだ。
だけど、まあ……恩人殿の申し出だ。とりあえず、考えてみようか……。
少女のどこか期待に満ちた瞳が、僕を見ている。
僕の解答を待つ間、ワンピースの裾をひらひらさせて踊ったり、口笛交じりにハミングしたり、少女はとても楽しそうだった。
そんな彼女の様子を眺めているうちに、ようやく、閃き浮かんでくるものがあった。
「マリー……」
と、思い浮かべたそれを、試しに口に出してみる。
……悪くないな。
音にしてみると、その響きは、目の前の少女によく似合っているように思えた。なんとなく、そんな気がした。
「……マリー、マリー」
僕の口にした名前を、少女は繰り返した。
「マリーか……うん、可愛くて素敵な名前だね。いいね、マリー! とっても気に入っちゃった!」
「…………」
「うん、決まり! それにするね! お兄さん、私の名前はマリーにするから」
「えっ……。ちょ、ちょっと……」
マリーにするからって……。
なんで、そうなるんだよ。
……何を言ってるんだ、この娘は?
戸惑う僕に対し、少女はあくまでもマイペースだった。
「名前も決まったことだし。さあ行こう、お兄さん」
「行くって……どこに?」
「もちろん、お家にだよ」
そう言ってにっこり微笑むと、少女は僕の右手を取った。
【6】
でたらめだけど陽気な歌声が、僕の心を楽しませてくれている。
足取りも軽く、精霊使いの少女がすぐ目の前を歩いている。
どこからやって来たのか。少女のワンピースと同じ色の蝶が、彼女の肩に大人しく止まっている。
結局、少女の名前は「マリー」に決まってしまった。
僕が何度、本当の名前を訊ねても、
〝マリーがいいんだもん! マリーにするんだもん!〟
少女はそう頑固に主張するばかりで、名前を教えてくれなかった。
そして、そのまま、彼女は自分の主張を譲らなかった。
で、結果……。
「なあ、マリー」
ということになってしまった。
「なあに? お兄さん」
マリーが振り返る。
その顔はニコニコと嬉しそうだ。
「君のいうお家はどこにあるの? まだ遠いの?」
……相変わらず、風景に変化はない。
ただ緑の大草原が広がっているだけだ。
僕には、どうしても、この草原に家があるなんて信じられなかった。
人差し指を唇に当てて、ちょっと考える風にしてから、マリーは答えた。
「さあ? それはお兄さん次第かな?」
「へっ……」
また何を……。本当に変ったことばかり言う娘だな。
「それって、どういう……僕次第って、どういうことなんだい?」
「言葉どおりの意味だよ」
「だから、その意味を訊いて……」
けれど。無視された。マリーはまた歌い始めた。
どうやら、教えてくれる気はないらしい。
つまり、自分で考えろ、ということなんだろう。
……僕は大きくため息を吐いた。
その息吹に驚いたのか、マリーの肩から蝶が飛び立った。
「えっ?」
その瞬間……いや、たぶん気のせいだろう。
そうじゃなければ、きっと目の錯覚に違いない。
そんなこと、あるわけがない……。
僕は目を瞬かせ、頭を軽く左右に振った。
そんな僕を見て、マリーが不思議そうに小首を傾げる。
「どうしたの、お兄さん?」
「…………」
長い金色の髪、水色の瞳。黄色のワンピースに、頭の大きなリボン……。
確かに、マリーはそこにいた。
彼女は、僕の前にしっかりと立っている。
何も、おかしなところはない。
やっぱり……気のせいだったようだ。
「ううん、なんでもないよ」
今度は、安堵のため息が零れた。
【7】
……だけど。気のせいなんかじゃなかった。
目の錯覚でもなかった。
「………………うそ、だろ?」
……透けている。儚く、淡く……。
少しずつ、マリーの身体が透けていく。
その存在を薄れさせてゆく。
「……マリー。君……」
「とうとう来ちゃったみたい……」
出会ってから、五日が過ぎていた。
「そろそろ限界みたいだね、わたし」
マリーが哀しげに僕を見つめる。
「来たって……いったい何が? 限界って何なんだよ!」
「見てのとおり、消えちゃうんだよ。わたしが消えちゃうってことだよ」
「……消える。消えるって、ちょっと待てよ! おい、マリー……」
頭の中で混乱が起きる。
……マリーが消える。
なんで? どうして?
いったい、どういうことなんだ?
──どうしてだ?
…………あっ。混乱の中で見つける。
一つだけ、思い当たることがあった。
「もしかして、あれか……虹の飴……」
……あの飴には、不思議な癒しの力があった。
精霊のお手製だという虹の飴。ひょっとして、あれは精霊使いにとっては生命同然のものだったんじゃ……。
「それを僕にくれたから……。だから、そのせいで君は……」
「違うよ、それは違う。あれは、もともとお兄さんのための物だもの。わたしのじゃない。だから、そのせいじゃないよ。でも……」
「……でも?」
マリーは、ひどく淋しげに笑った。
「やっぱり……お兄さんのせいかな」
「お兄さんが、早く思い出してくれないから……」
少し拗ねたように、マリーが言う。
〝──早く思い出してくれないから〟
その言葉に僕は驚く。
……知っていたのか。
「マリー。君は、僕が記憶を失っていることを知ってたのかい?」
「うん」
とだけ、マリーは頷く。
「だけど、どうして? どうして、そのことを君は知って……」
いいや。今はそんなことは後回しだ。
それよりも……。
「僕の記憶喪失、それが君が消えてしまう原因なんだね?」
「うん、そうだよ」
「じゃあ、僕が記憶を取り戻せば、君は消えてしまわなくても済む?」
「たぶん、まだ間に合うと思う」
「でも、どうして……」
…………そうか、記憶喪失。
失くしてしまった記憶。
きっと、その中に、僕が忘れてしまった物の中に……マリーのことも。それが理由なんだろう。
僕が、彼女のことを忘れてしまったから……。だから……。
「……君は消えてしまいそうなんだね」
けれど。
「残念だけど、違うよ。そうじゃないよ」
マリーは首を横に振った。
「わたしが消えちゃうのは、そんな理由じゃないよ。お兄さんが、マリーのことを忘れちゃったからじゃない」
僕の考えは、あっさりと否定されてしまった。
「なら、どういうことなんだ? どうして、何が原因で……」
それが分からないことには、助けようがない。……僕は何を思い出せばいいんだ?
こうやって話をしている間にも、マリーの姿は頼りなくなっているのに。
「教えてくれ、マリー。そうじゃないと、君が……」
「それは、思い出せば分かるよ。記憶を取り戻せば分かることだよ」
この期に及んでも、マリーは語ろうとしなかった。
自分の存在が、消えてしまうかもしれないのに。それでも……。
「マリー……」
僕は、そのあとに続けて彼女に掛ける言葉を見つけられなかった。
「……お家」
不意に、マリーがぽつりと呟く。
「えっ……」
「お兄さん。お家はすぐそこにあるんだよ。ただ、お兄さんが思い出せないだけで」
そう言うマリーの姿はほとんど消えかかっていた。儚げで、幻のように……。
……助けないと。助けたい!
このまま、この娘を消してしまっていいはずがない。僕なんかのせいで。ダメだ。
「そんなの絶対にダメだ!」
思わず、そう叫んだ瞬間。
……お家。
突然、それが目の前に現われた。
丸太で組まれた小さな家。
屋根には四角い煙突と、風見鶏。
大草原の真ん中に現われた家は、ログハウスだった。
……何の飾り気もない、素朴な木の扉。
その扉が僕を誘う。
何かの術にでも掛ってしまったかのように、自然と足が目の前の家へと向かう。
ふらふらと、ゆっくり歩みを進める。
扉の前に立つと、僕は迷うことなくそれを開いた。
開かれた扉の先、そこには一人の女性が立っていた。
僕を見て、その女性が微笑む。
……知っている。
その笑顔を見るのは、初めてじゃない。
僕は、この女性を……彼女の微笑みをよく知っている……。
……そうか、思い出した。ここは……。
そして、彼女は……。
そうだ……ここが、僕の還るべき場所だった。
僕はやっと、自分の大切なものを思い出した……。
【8】
ゆっくりと瞼を開ける。
射し込んでくる光が少し眩しかった。
目覚めた時、僕は草原ではなく、ベッドの上に横たわっていた。
そこは、見慣れた家だった。
金色の髪。マリーと同じ水色の双眸が、僕をじっと見ている。
その二つの瞳から、涙が溢れ出す。
「……リアナ」
僕は、静かに恋人の名前を呼んだ。
「バート……。よかった……」
リアナが僕に抱きついてきた。
彼女の身体は震えていた。
「よかった……ホントに良かった……」
そればかり、涙声で繰り返す。
彼女の流した涙のひと雫が、僕の唇に落ちる。
それは……あたたかい涙だった。
リアナの体温が僕に伝わってくる。
彼女の鼓動が伝わってくる。
優しくて安心できる響きだった。
……穏やかな愛しさを感じる。
また、リアナの涙が僕の唇へと滑り落ちる。
……おんなじだ。僕は気づいた。
この涙……あの時の……精霊が降らせてくれた、あの雨と同じ……。
……そうか、そうだったのか。
あの雨は、リアナの涙だったんだ。
そして、あの温かさ……。
あれもリアナの想いだったんだ。
いつも側で感じていた、彼女の優しさと温かさ。今も僕の心が感じているものと同じ。
……虹の飴。あの飴は、僕の大切な人の愛情……その純粋な想いの結晶だったんだろう。
だから、マリーは言ったんだ。虹の飴は、僕のための物だと。
リアナはまだ泣いている。
こんなに大切に思っているのに。
どうして、僕は忘れてしまったんだろう。
僕はなんて薄情な奴なんだ。
自分自身に怒りを覚えた。
「うっ……」
身体に鋭い痛みが走った。
顔をしかめた僕に、リアナが慌てたように離れる。
それで、僕は初めて、自分の身体があちこち包帯だらけなのに気づいた。
額に触れると、そこにも布の感触があった。
「良かったな、リアナさん」
やや嗄れた声が聞こえた。
リアナのいる反対側のベッド脇に、白髪の老人が立っていた。
「……ロイド先生」
その老人は、村でただ一人の医者で、僕も子供の頃から何度もお世話になっている人だった。
ここにロイド先生がいて、僕は怪我を……。
ああ……思い出した。僕は……森で足を滑らせて……激流に飲み込まれて……。
「バートくん、気分はどうだい?」
ロイド先生が訊く。
「悪くないみたいです」
僕は答えた。
「そうか、それは幸いなことだ」
──幸いなことだ。それは、この先生の口癖の一つだった。
「しかし」
と、先生が僕を睨む。
「あまり周りに心配を掛けるもんじゃないよ。特に、リアナさんは大事な時期だというのに。呑気に、ひと月近くも眠り続けておってからに……」
……大事な時期?
先生の言葉に、僕はリアナの方を見た。
お腹に手を当てて、彼女は微笑む。
「……赤ちゃん。あなたとわたしの赤ちゃんが、ここにいるの」
「そういうことだよ、バートくん。おめでとう」
しかめ面を解き、先生も穏やかに笑った。
「……僕らの子供」
リアナが頷いた。
ああ、そうか……。
あの娘は……マリーは……。
だから、消えかかっていたのか。
……僕が思い出せば、分かる。
なるほど、そういうことだったのか。
川に落ちた時、僕は激流の中で諦めた。
到底助かるはずがないと、絶望し、希望を捨てた……。
……諦めや弱気な心。
あの見渡す限りの草原は、そんな僕自身の心が生み出したものだったのかもしれない。
自分自身の心が創りだした草原で、僕は独りで勝手に彷徨って、倒れ……。
求めるものは、僕のすぐ側に……僕自身の中にあったというのに。
そこへ、助けに来てくれたんだ。
なのに……巻き添えにしてしまうところだった。
僕がリアナに心配をかけ過ぎて。芽生えたばかりの生命(いのち)を……。
……馬鹿だ。僕は馬鹿者だ。
でも……良かった。
あの娘は助かったんだ。
……本当に良かった。
「マリー……」
僕はその名を呟いた。
「なあ、リアナ。その子が生まれたら、マリーって名前にしないか?」
「えっ……。でも、まだ女の子かどうかも分からないのに」
「大丈夫。生まれてくるのは女の子だよ。君によく似た可愛い……」
僕は微笑んで、リアナのお腹にそっと手をやった。
「きっと、元気な女の子が生まれてくるよ」
〝ありがとう、マリー〟
リアナのお腹に手を当てたまま、心の中で僕は言った。
〝それから楽しみに待っているよ、また君に会える時を〟
〝うん! またね、お父さん!〟
そう、マリーからの声が聞こえたような気がした。
0
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(2件)
あなたにおすすめの小説
【完結】夫に穢された純愛が兄に止めを刺されるまで
猫都299
児童書・童話
タイムリープしたかもしれない。中学生に戻っている? 夫に愛されなかった惨めな人生をやり直せそうだ。彼を振り向かせたい。しかしタイムリープ前の夫には多くの愛人がいた。純愛信者で奥手で恋愛経験もほぼない喪女にはハードルが高過ぎる。まずは同じ土俵で向き合えるように修行しよう。この際、己の理想もかなぐり捨てる。逆ハーレムを作ってメンバーが集まったら告白する! 兄(血は繋がっていない)にも色々教えてもらおう。…………メンバーが夫しか集まらなかった。
※小説家になろう、カクヨム、アルファポリス、Nolaノベル、Tales、ツギクルの6サイトに投稿しています。
※ノベルアップ+にて不定期に進捗状況を報告しています。
※文字数を調整した【応募版】は2026年1月3日より、Nolaノベル、ツギクル、ベリーズカフェ、野いちごに投稿中です。
※2026.1.5に完結しました! 修正中です。
ノビの大活躍――いくら丼の奇跡【トランザニヤ物語SS】
楓 隆寿
絵本
*カクヨムさんでも掲載中です。
異世界冒険譚【トランザニヤ物語】のSS
絵本にしてみました。
いくら(丼)をフィーチャーした作品です。
この世に、神の涙と呼ばれる食材がある。その正体は、東の国「ヤマト」の古文書に記された「いくら丼」だった!
氷に覆われた王国を救うため、若き料理人ノビは、氷の姫リュミナと共に大冒険へ旅立つ。
魔導鍋を武器に海竜の守護を突破し、氷の大地で幻の穀物を収穫。そして、火山の麓で魂を込めた器を創り上げる。
はたしてノビは、すべての難題を乗り越え、絶望に閉ざされた王国に奇跡を起こせるのか?
料理の力と、小さな勇気が紡ぐ、心温まるファンタジー冒険譚。
#AIイラスト
青色のマグカップ
紅夢
児童書・童話
毎月の第一日曜日に開かれる蚤の市――“カーブーツセール”を練り歩くのが趣味の『私』は毎月必ずマグカップだけを見て歩く老人と知り合う。
彼はある思い出のマグカップを探していると話すが……
薄れていく“思い出”という宝物のお話。
25匹の魚と猫と
ねこ沢ふたよ
児童書・童話
コメディです。
短編です。
暴虐無人の猫に一泡吹かせようと、水槽のメダカとグッピーが考えます。
何も考えずに笑って下さい
※クラムボンは笑いません
25周年おめでとうございます。
Copyright©︎
「いっすん坊」てなんなんだ
こいちろう
児童書・童話
ヨシキは中学一年生。毎年お盆は瀬戸内海の小さな島に帰省する。去年は帰れなかったから二年ぶりだ。石段を上った崖の上にお寺があって、書院の裏は狭い瀬戸を見下ろす絶壁だ。その崖にあった小さなセミ穴にいとこのユキちゃんと一緒に吸い込まれた。長い長い穴の底。そこにいたのがいっすん坊だ。ずっとこの島の歴史と、生きてきた全ての人の過去を記録しているという。ユキちゃんは神様だと信じているが、どうもうさんくさいやつだ。するといっすん坊が、「それなら、おまえの振り返りたい過去を三つだけ、再現してみせてやろう」という。
自分の過去の振り返りから、両親への愛を再認識するヨシキ・・・
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
個人的に
私も児童書・童話で「亀太郎」っていうお話を書いたんですけど……。
読んでいただいたら幸いです。
嗚呼、言い出したら止まらない
このお話への思い
児童書で子供っぽいお話かなと思えば
違う大人でも教訓になる