二十五席目の君 ― Cafe Twenty-Five

チャチャ

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第2話「二十五日目の約束」

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 スマホのアラームを「8:25」に設定しておいたのに、起きたのは八時二十九分だった。四分の遅刻。仕事なら青ざめるところだけど、今日の相手はミルフィーユだ。私は顔を洗って、髪をひとつにまとめ、ベージュのコートのボタンを二つだけ留めた。電車の座席表示が「25A」とかだったら完全勝利なんだけど、当然そんなことはない。

 九時四十五分。店の角を曲がると、ガラス越しに湊の背中が見えた。開店準備の動きは、きびきびしていて、どこかおだやかだ。ドアの札は「CLOSED」。私は息を整え、指先でそっとガラスを二回だけ叩いた。

 湊が顔を上げ、軽く会釈する。指で「10」と「00」を作って見せた。開店時刻のジェスチャー。私は親指を立てて、店先のベンチに腰を下ろした。十月の風は乾いていて、手帳のページを気持ちよくめくっていく。

 九時五十八分。秒針が「25」を通過する。どうでもいいのに、胸がひとつ跳ねる。鈴が鳴って、札が「OPEN」に返った。

「おはようございます」

「おはようございます。――二十五日、ようこそ」

 言葉の温度が、コーヒーみたいにちょうどよかった。私は迷わず窓際の25番席に向かう。今日の光はやわらかい。雲の膜を通して、席の上に薄い角砂糖みたいな明るさが落ちている。

「限定を、ひとつ。あと、ブレンドを」

「かしこまりました。焼き上がりは今ちょうど」

 カウンターの向こうで、パイの層がナイフに従って静かに音を立てる。二十五皿のうち、最初のひと皿。皿の上に粉砂糖が雪のように降り、イチゴがふたつ、よくばらない位置に置かれた。

「お待たせしました」

 香りが、席の上の空気をまるごと甘くする。フォークの先で最初の角を拾い上げると、層がふわりとずれる。サク、ふわ、とろ。カスタードが舌の温度でほどけ、バターの塩気がすぐ後ろから追いかけてくる。

「……わあ」

 言葉が出ない。私の「わあ」は、感嘆というより安堵に近い。世界の粗さが、いっとき丸くなる。

「お口に合えば」

「合いすぎます」

 湊は少しだけ、目尻で笑った。

「二十五日に来てくださるなら、ひとつ提案が」

「提案?」

「“二十五分だけ同席”ルール。焼き上がりの香りが落ち着くまでの二十五分、もし嫌でなければ、ここで一緒に」

 脳内で条件反射的に“就業規則”という単語が顔を出す。私は慌てて押し戻した。ここは会社じゃない。

「嫌じゃないです。むしろ、ありがたいです」

「では、十時五分から十分まで、仕上げをして、それから」

「了解です。タイマー要ります?」

「あります。二十五分のやつ」

 どこにでも“25”を忍ばせる男だ。私は笑いを噛み殺した。

 ブレンドが届く。今日の配合も、たぶん二種類が二十五パーセントずつ。説明を求めれば早口が始まるのはわかっている。それを聞くのも、悪くない。

「この前のスタンプ、ひとつ押していただきましたけど」

「ええ」

「二十五日には二重押し、とか」

「しません」

「ですよね」

「ただ、二十五番席で食べ始められた方には、端っこをもう一枚」

「それは最強のルールです」

 ミルフィーユの端は、層の密度が高い。端をふたつ知ってしまうと、真ん中が少しだけ恋しくなる。恋と同じだ、と言いかけて、危ない比喩だと飲み込んだ。

 十時二十五分。タイマーが静かに鳴る。湊がトレーを持ってきて、私の向かいに座った。距離はテーブル一枚ぶん。十分に近く、十分に遠い。

「改めまして。二十五分だけ、よろしくお願いします」

「こちらこそ」

 最初は、仕事の話を少し。総務のあれこれ、プリンタの紙づまり、会議室Cの定員が二十五名で、椅子を増やすと怒られること。

「定員って、守った方が結局みんな楽なんですけどね」

「ですね。ルールって、守られて初めてやさしくなるので」

「やさしくなる?」

「はい。誰かだけ得をするんじゃなくて、誰にとっても納得があるなら、ルールはやさしい」

 彼の言葉は、少し考えてからじわっと効くタイプだ。私はカップを口元に運び、湊は水を一口飲む。沈黙は、怖くない。

「湊さんは、どうして“二十五”にこだわるんですか」

「最初のきっかけは、単純でした。二十五歳になった日に、この店の賃貸募集を見つけて。内見が二十五日で、席を並べてみたら、ちょうど二十五脚入った」

「偶然の支配力、強い」

「それからは、もう、遊びです。覚えてもらいやすいし、自分でも楽しい」

「楽しい、がいいですね」

 私はうなずきながら、スタンプカードを財布から出す。丸はひとつだけ埋まっている。今日で二つ目。

「そういえば、埋まったら何が起きるか、決めました?」

「まだです。二十五個が埋まったときに、二人で決めませんか」

「二人で?」

「はい。その方が、記憶が残る気がするので」

 心臓がふいに、テーブルの下でつまずいた。私はごまかすように、フォークで皿の端をとん、と叩いた。

「じゃあ、二十五個目までに、私も何か考えておきます」

「楽しみにしています」

 タイマーが残り五分を切る頃、話題は季節のことや、近所のパン屋の食パンの端が競争率高いという噂へ移った。二十五分という枠は、ちょうどいい。もっと話したいのに、少し足りない。足りなさが、次への橋になる。

 タイマーが鳴った。湊はそっと立ち上がる。

「二十五分、ありがとうございました」

「こちらこそ。次は、来月の二十五日で」

「はい。十時に」

 会計のトレーに、レシートと、クラフト紙の小片が置かれていた。ペンでごく短い文字。

《次は、二十五文字で。》

 私は思わず口角が上がるのを抑えきれなかった。二十五文字。数える指が、もう落ち着かない。

「了解です。宿題ですね」

「ええ。文字数に厳しい先生です」

「先生、宿題の採点も厳しいですか」

「採点は、甘めです」

 店を出ると、空が少しだけ明るくなっていた。カレンダーアプリに“二十五文字”と書き足す。エレベーターの中で、通知が一件。総務部からの一斉連絡。「来週、本社二十五階にて安全衛生委員会」。思わずため息がこぼれる。数字は私を追いかけてくる。

 でも、今日は逃げないでいられる。二十五分、テーブルを挟んで座っただけなのに、背中に入っていた固い板が一枚、抜けた気がした。

 席に戻ると、葵がスープジャーを振っていた。

「どうだった、例の店」

「最高。ミルフィーユは二十五層あるって言い張っても信じる」

「数えた?」

「途中で数えるのをやめた。幸せが崩れるから」

「詩的かよ」

「うるさい」

 私は机の引き出しから、白い付箋を取り出した。ボールペンを握って、一度深呼吸する。頭の中に、二十五という枠ができて、言葉がそこに収まっていく感覚。書いては消し、また書き、数を数える指が何度も戻る。

《二十五分、ありがとう。また来月、窓際で。》

 二十五文字、ぴったり。私は自分で自分に小さく拍手して、付箋を財布に挟んだ。次に渡すタイミングを想像すると、胸が軽くなる。

 夕方、仕事の山に埋もれていると、ふと視界の端に、砂糖の白がよぎった気がした。端っこ一口の、あの救われ方。人間は、毎日ほんの少しだけ甘いものに助けられている。たぶんそれで、明日を選べる。

 今度の二十五日は、少しだけオシャレをして行こう。髪を下ろすか、イヤリングを変えるか。そうやって考える自分が、少し照れくさくて、でも嫌いじゃない。

――――

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