二十五席目の君 ― Cafe Twenty-Five

チャチャ

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第4話「Room 205」

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 朝から雨。天気アプリの降水確率は二十五%どころではなく、確定演出。ベランダに吊るした小さな洗濯ばさみが、風にあおられて鳴っている。私は出がけに傘を開いてみて、取っ手の付け根がぐらぐらなのに気づいた。ねじ穴が、ぽっかり空いている。こういうのは、だいたい気づいた日に限って土砂降りだ。

 昼休み。ガラスの鈴が、雨音に紛れながら鳴る。Twenty-Fiveの空気は、粉砂糖のかわりに湿度をまとっていた。窓際の二十五番席に、雨の輪郭が揺れている。

「いらっしゃいませ」

「こんにちは。今日は、あったかいのがいいです」

「では、ブレンドを少し濃いめに。スープもあります。根菜二十五分煮」

「執念」

「数字の背中を借りました」

 湊はタオルを差し出し、私の傘をちらりと見る。柄の付け根、問題の部分に目が止まった。

「固定のねじ、外れてますね」

「やっぱり。朝、気づいたんです。今日は“相合い傘未満”で帰るしかないかと」

「“未満”が便利そうです」

「便利です。なんでもやわらげます」

「あとで見ます。もし合うのがあれば、店の道具箱に二十五ミリが入っているので」

「二十五ミリ?」

「ただ言ってみただけです。でも、そうだと気持ちがいい」

 ブレンドは、雨の日のための味になっていた。少し濃い。湯気の温度が、体の内側まで届く。スープはやさしく、根菜の角がほどける。数字の力は、胃にも効くらしい。

「今日も、二十五分」

「もちろん」

 タイマーが、静かにスタートする。外では、歩道の水たまりが広がっては縮み、バスが通るたびにガラスが細かく震えた。

「侑里さんの家、遠いですか」

「電車で二駅。駅から歩いて五分。二〇五号室」

「二〇五」

「“二十五”に似てるから、ちょっと気に入ってます」

「いい番号です」

「今朝、とうとう表札をちゃんと書いたんです。ご近所への誠意」

「総務の鑑ですね」

「住民にも総務にも、番号はやさしい」

 会話はとりとめもないのに、雨音がリズムをくれる。タイマーが半分を過ぎたころ、湊がさりげなく傘を手に取った。

「見てもいいですか」

「お願いします」

 カウンターの端で、湊は道具箱を開いた。小さな引き出しに、短いねじがいくつか並んでいる。刻印のあるものを指で弾いて、一本持ち上げた。

「二十五ミリ。合えば、嬉しい」

 彼はねじを差し込み、ゆっくりとドライバーを回した。金属のきしむ音が、雨音の奥で控えめに鳴る。私は息を止める。

「――入りました」

 短い言葉に、胸のどこかが明るくなる。湊は取っ手を軽くひねり、がたつきを確かめた。

「ぴったり、です」

「ほんとに二十五ミリ?」

「たぶん、二十四か二十六かもしれません」

「正直」

「でも、二十五と言いたい気持ちは本物です」

「私もそれが好きです」

 彼はネジ頭の上に透明のトップコートを一滴落とし、乾くまでのあいだ傘を開いて、窓際で雨粒を受けさせた。濡れた布から、しずくが落ちて、木の床に点を作る。

「乾かしている間、少しお待ちください」

「はい。あの、直してもらったお礼に、何か」

「では、今日の二十五分は、僕の方から話題を一つ」

「話題の請求制」

「“未満”より便利です」

「で、お題は?」

「“雨の日の好きな匂い、二十五文字以内”」

「急に国語のテスト」

 私は指を折り始め、湊はエプロンのポケットからクラフト紙を出した。二人でしばらく黙り込む。沈黙は、店のコーヒーみたいにあたたかい。

「できました」

「どうぞ」

《新しい傘布のにおいと、濡れた木の床》

「数えました?」

「二十五、たぶん、ぴったり」

「先生としては、満点です」

「甘い先生」

「雨の日だけ甘いです」

 湊は自分のメモを見せた。

《粉砂糖が湿って、やさしくなる感じ》

 読んだ瞬間、口の中に甘さが広がった。雨の日の光景だ。言葉で味が変わる。

「――ところで」

「はい」

「契約の件、大家さんと話す日が決まりました。来月の二十五日」

「二十五日」

「背中を押してほしい日に、数字を呼びます」

「呼ばれた数字は、ちゃんと来ます」

「来てくれるといい」

 タイマーが鳴る。二十五分がすっと閉じる。雨は、少し弱くなっていた。

「傘、乾きました。持ち手も固定されています」

「ありがとうございます」

「もし帰り道で緩んだら、すぐ言ってください。二十五メートル以内なら飛んで行きます」

「店の前から一歩も動けない距離」

「現実は厳しい」

「でも気持ちは受け取りました」

 会計のトレーには、レシートと短い紙片。

《二〇五号室の玄関、濡れて滑りやすいので注意。》

「どこ情報」

「以前、近所を歩いたときに見た覚えが」

「観察力が過剰」

「総務の鑑に言われたくない」

 私は笑い、傘を開いた。取っ手は、もうぐらつかない。ひとつ、世界がまっすぐになった気がする。

 店を出ると、バス停に人が列を作っていた。時刻表の右端、数字が雨ににじむ。二十五系統は、今日は運休らしい。私は駅まで歩くことにした。角を曲がると、湊が店の前でこちらに向けて小さく手を上げた。私は傘の先を少しだけ上下に揺らして返す。

 駅に着く頃、雨はすっかり上がった。雲の切れ目から、薄い陽が街に降りる。ホームに入ってきた電車のドア位置表示は「2-05」。くだらない偶然が、背中を軽く叩く。私は笑い、スマホのカレンダーに“契約の面談 25日”と書き足した。

 夕方。エレベーターで自宅の二階へ。廊下は雨で湿って、ほんの少し滑る。玄関の前で足を止め、表札の紙に指先で触れる。「205 白石」。今朝書いたばかりのインクが、乾いてさらさらだ。私は傘を丁寧に畳み、靴箱の横に立てかけた。少しだけ誇らしい。
 ポケットで通知が震えた。葵からだ。

『205の湿気どう? 窓、締めきるとカビるよ』

『今のところ平和。傘は直った。店主が二十五ミリで』

『店主! 固有名詞の破壊力。相合い傘は?』

『未満。距離はテーブル一枚ぶん』

『健全でよろしい。そういうのが一番長持ちするよ』

 私は笑って、スマホを伏せた。部屋の静けさが、雨上がりの道みたいに清潔だ。

 疲れの抜けない夜。ポストから取り出したチラシの束に、小さな手書きのカードが混じっていた。近所の八百屋から、「雨の日サービス 二十五円引き」。誰かの字で書かれた「また来てね」が、妙に胸に残る。数字は、町内会レベルでも働く。
 その下に、社内メールの未読。件名の末尾に「(本社25階 応援確定)」の文字。開く前から、胃がひやりとする。本文には、来月の二十五日、午前の会議招集。十時。画面の数字が、私のカレンダーとぶつかる音がした。

 十時。焼き上がりの一段目。数字は味方のはずなのに、時々いたずらをする。

 湯をわかし、カップにティーバッグを落とす。蒸気で曇る窓の向こうに、電線の水滴が等間隔に並ぶ。私はキッチンの壁にマグネットで小さな紙を貼った。今日の宿題を、明日の私に回さないために。

《次の二十五分、雨が降っても、晴れても。》

 文字の粒を数える指が、もう迷わない。二十五という枠の中で、私はちょっとだけ正直になれる。

 寝る前に、傘の取っ手をもう一度ひねってみた。びくともしない。二十五ミリかどうかはもう、どうでもいい。ぴったり、があれば充分だ。

 電気を消す。部屋の数字たち――205、二個のスリッパ、二十五センチの観葉植物――は、暗闇のなかで静かに並ぶ。明日の朝、アラームの最初の一回で起きられたら、自分に小さくスタンプを押そう。二十五個目がいつか埋まるみたいに。

――――

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