75 / 79
第76話「満ちそうで止める」
しおりを挟む
朝いちの店は、正直いつもより静かだった。静かっていうより、呼吸が浅い感じ。昨日の後ろがまだ残ってる。いい意味でも、こわい意味でも。
入口マットを二十五秒払う。粉と夜の湿気を下に落として、床を今日用にリセットする。
黒板右下の25ptの丸は今日もふちだけ。塗らない丸は、生きてる証拠。
壁の「二十五文字」は**24/25(+…)**のままだけど、“+透明”って書いていた場所には、もう透明じゃない細い字がある。あの人が置いていった、あの呼び名。そのまま残ってる。
《寄り道は二十五歩まで。》
これは変えない。むしろ最後まで変えたくないやつ。
足元灯25ルクス、青ドット六つ(25ミリ間隔)、矢印25枚ズレなし。
レジ横の25円のビンは残高:234からスタート。■は一本だけ塗らない——満ちそうで止める。
今日は、そのビンの話をちゃんと決める日になる、って湊は昨夜言っていた。
「250になったら、そこで止めませんか」って。
「記念とかじゃなく区切りとして」って。
あの言い方は、“終わり”って言葉をこっちに押しつけてこないで、でもちゃんと出口を示す言い方で、ずるいと思った。
彼がビンを指して「満ちそうで止めるって、人間にも必要なやつですよね」って言ったとき、あーやっぱこの子はずるいわ、っていう感想だったのは秘密にしておく。
◇
一回目の“見てる時間”。
白線25センチの内側、女の子がまぶたを閉じて二十五秒呼吸する。父親は今日も湯たんぽ。父親のほうもわかってきてて、もう「どうした?」とか聞かない。ただその二十五秒の間は、子の呼吸のリズムにそろえるだけ。それで十分なんだよな、ほんとは。
その儀式が終わるちょっと前に、ドアが鳴った。
葵。
スーツのジャケットは羽織ってるのに、上のボタンは留めてない。目はぱんぱんじゃないけど、寝てません顔。肩の落ち方が「戦時」って感じ。
「早いね」
「今日は始業前じゃないと動けないから」
葵はカウンターにかばんを置き、深いため息をひとつ。息というより、「あーもうこれ吐き出さないと仕事に出せない」っていう音量での排気。
私はコーヒーじゃなく白湯を出す。葵はもう何も言わずにそれを持つ。
湊は、距離カードを出そうとして、一瞬止まる。葵の顔を見て、別のカードをそっと差し出した。
《長文許可ノート “朝ください”指定》
葵は、笑った。いや笑うっていうより、口角が一瞬だけ上がった。あの人の「助かった」のサインってそれ。
「昨夜、会社でひとり倒れてさ」
「倒れたっていうのは?」
「身体。救急呼んだ。でも、その子がストレッチャーに乗せられる前に言った言葉があって。」
葵はノートを開く。ペン先が迷いなく動く。力のかけ方は強いけど、文字は乱れていない。つまりギリギリじゃない。ギリギリ手前の冷静さを、ぎゅっと握ってる状態。
《「やめます」は言えても
「助けてください」は言わせてもらえなかったね って
笑いながら言われた
あれめっちゃ悔しかった
わたしたちまだそこなんだって思って
総務として悔しかった》
そこまで書いて、葵はペンを止めた。
目は赤くない。泣いてない。けど、噛んでる。奥歯で踏ん張ってる。
「これ、“返事ほしい”にしていい?」
「もちろん。」
「“朝ください”っていうルール、うちの会社にも持って帰っていい?」
「持ってって。」
葵はこくんとうなずき、書き足す。
《“助けてください”って声を
会社の公式の言葉にしたい
会社の書式にしたい
それってわがままかな》
わがままなもんかよ、って喉まで出かかったけど、私は言わない。それはあとで返すべき言葉だから。
湊はノートを受け取り、封筒に入れる。
スタンプを押す。《承認》《長文許可》《明朝返礼》《記録保管(社内相談あり)》《呼び戻し禁止》。
“社内相談あり”のスタンプは今日の新作。葵のために、昨夜つくったやつだ。
「今日中に返事を書きます」
湊が静かに言う。
「“総務のあなたはわがままじゃないです”っていう返事と、“あなたはもうひとりで持たなくていいです”っていう返事の二本立てを予定しています。」
葵のまぶたが少し震えた。
「あーやばい、泣く」
「泣いていいよ」
「メイク」
「メイクは二十五分で治る」
「はいはい。」
「はいはい言ったね今」
「言いました。」
葵は白湯を飲みきり、ビンに25円。残高:235。
壁に二十五文字を置いていく。
《「助けてください」を会社の正式な書類にしたい》
正直、これだけで救われる社員いっぱいいる。まだこの世はそこまで行けてないけど、行かせたいよなって思った。
◇
午前。
“長文許可ノート”はひと息落ち着いて、かわりに“安全待機中”札が動いた。
ドアが小さく開いて、常連の男の子が顔だけ出す。高校生くらい。目の下ちょっと紫。まだ制服のシャツ。
彼は入ってくるなり、声を出さずに札を指さした。
“安全待機中”。
湊は、言葉を使わないで応じる。
クロス(“二十五分だけ帰らないで”用のやつ)を、店の隅の席にそっと広げる。
砂時計(二十五分)をそばに置く。
“安全待機中”の札を、席のうえに立てる。
男の子はそこに座って、机に額をつけた。うつぶせ。泣いてはない。泣けない日ってある。代わりに“動けない”で訴える日。
そのあいだ、店は静かなまま回る。
誰も「テスト?」とも「何があった?」とも聞かない。
湊も私も、コーヒー豆を挽く音をわざと少しだけ大きくする。いい意味の雑音。守りのノイズ。
二十五分経つ。
男の子は顔を上げないまま、手だけ上に出して、親指を立てた。 “大丈夫”の合図。
湊が同じサインを返す。
それで終わり。延長はきかない。引き止めない。
男の子は起き上がって、何も言わずにビンに25円。残高:236。
そのあと、壁に二十五文字を置いた。
《いま死なないで済んだので 今日は学校行けます》
はい、それ十分。十分です。
もうそれだけで今日の店の役目は果たしすぎてる。
◇
昼すぎ。
例の彼女――昨日“透明”の席に名前を置いた人――が、また来た。
正直、私はちょっと意外だった。昨日のあの感じなら、数日は間を空けると思ってたから。
「ただいま、って言ってもいい?」
店に入るなり、彼女が言った。
私は、笑ってうなずいた。
「それ、すごい正しい言い方。」
湊が小さく手を振る。「おかえりなさい」とは言わない。“ただいま”に“おかえり”を返すのって、相手を抱えにいくことになるときがある。だから湊は、手を振る。それでじゅうぶん届く。
彼女は、黒板の“二十五文字”エリアを見上げてから、ふふっと笑った。
「まだ、消されてないんだね。」
「消したい?」と私は聞く。
彼女は首を横に振る。
「消したくない。」
ちょっと迷いもあったけど、それでもしっかり言った。
「消したくないって気持ちが自分にあることが、いまは嬉しいから。」
その言葉は、かなりまっすぐ刺さってきた。
「わたしの存在が邪魔じゃなかった」って、ちゃんと確認とれてる音だったから。
彼女は、カウンターに指をそろえて置いた。
その指先はもう、震えてない。
「今日はね、“二十五分だけ帰らないで”じゃないの。」
「今日は、なに?」
「“五分だけでいいから、あなたここにいてくれる?”っていう日。」
私はちょっと笑ってしまう。
「五分?」
「五分。」
「二十五じゃないの?」
「二十五分は重いときがあるの。いまは、五分でいいの。」
「なるほど、いいじゃん。」
そうなんだよね。
“二十五分だけ帰らないで”が必要な夜もあるけど、あれはけっこうエネルギーを使う。クロスをかけて砂時計をひっくり返して、はい避難、ってやるだけでも、けっこう「避難モード」って意識が立つから。
その手前。「あ、いま崩れる前だな」って瞬間は、五分で足りることもある。
私はカウンターから、小さな砂時計を出した。
二十五秒のやつ。
それを、ちょうど五回分まわせば“約二分ちょい”。正確には五回で125秒、つまり2分ちょっと。そこからさらにもう五回で、ざっくり五分になる。
この店は、そういうふうにして時間をちいさく切れるようにしてある。
「五分、“ここにいますカード”でいい?」
私は聞いた。
彼女はうなずいた。
「返事いりません、にしたい。」
「わかった。」
私は“ここにいますカード(返事いりません/呼び戻し禁止)”を、彼女の隣にそっと置いた。
彼女はそれを見て、ほっと息を吐いた。
それだけで、ちょっと表情が落ち着いた。肩がふっと下がった。
五分間、会話はほぼなかった。
ただそこに一緒に立って、砂時計をくるくる回す。
私がやるのは、倒れない程度の距離で寄りそって、しゃべらないこと。
彼女がやるのは、崩れずに五分守ることだけ。
最後、彼女は笑って言った。
「すごいね。これだけで立て直るんだ。」
「それはあなたが強いから。」
「それは否定してもいい?」
「いいけど、わたしはそう思ってるよ。」
このくらいの押し返し方が、たぶん今の彼女にはちょうどいい。
彼女は、ビンに25円入れた。残高:237。
壁に二十五文字を書いていく。
《五分だけ一緒にいて って頼めるのすごい生きやすい》
そう、それ。
何時間も抱きしめて、じゃなくて。
「五分だけいて」って言葉を持てた瞬間に、人間って急に夜を越えられるようになるんだよ。たぶん。
◇
午後。
地域紙の記者が来る。
今日はメモも録音も出さず、ただビンを見てから私に言った。
「あと何枚、入る予定ですか。」
“あと何枚”って表現が面白いと思った。
“あと何人救えますか”とか“あと何日続きますか”じゃなくて、“あと何枚入る?”って。
このビンを“満ち”として見てるってことは、もう記者もこの店のルールわかってる。
「250で止めるつもり。」
私が言うと、記者は少し目を丸くした。
「閉めるんですか。」
「閉めない。」
「じゃあ?」
「“一区切り”って言葉をちゃんと置いときたいだけ。」
私は肩をすくめる。
「このビンずっと増え続けたら、“この店がなきゃ生きられない”って意味になっちゃうでしょ。それは違う。
ここは“ここで息をしてから、外で息を続ける場所”なんだよって、ちゃんと明文化したい。」
記者はゆっくり、ふかく頷いた。
「つまり、“満ちそうで止める”は逃げじゃない。」
「そう、そういうこと。」
「生き続けるには、あふれさせない勇気がいるって話ですね。」
「まとめるの早い。」
「仕事なんで。」
「はいはい。」
記者はビンに25円。残高:238。
壁に二十五文字を残す。
《満ちる前に止めるのは ちゃんと生き延びる準備なんだね》
母が聞いたら絶対「そう。はい正解」って言うやつだなと思った。
◇
15:25
“25番席”。
今日のセッティングは、ちょっといつもと違う。
クロス(“二十五分だけ帰らないで”用)、砂時計(二十五分)、“安全待機中”札、“呼び戻し禁止”タグ、“長文許可ノート”、距離カード。これはいつもどおり。
違うのは、ビンだ。
レジ横の25円のビンを一度カウンターから外して、“25番席”の上に置いた。
ふだんは動かさないやつ。でも、今日はあえて真ん中。
湊は、ビンの横に、手書きの小さな札をそっと立てる。
角は丸み+0.25ミリ。フォントは25%太字。行間6ミリ。
《250になったら ビンはいったん封をします
あふれさせません
あなたの「いた」はもうここに残りました
これから先の「いた」は
それぞれの場所で増やしてください
ここはずっと 予備の席でいます》
私はその札を見て、胸の真ん中があったかくなるのを感じた。
それってつまり、うちらは「ここにいないと生きられない人専用の店」になるつもりはないってことだ。
それぞれが自分の場所に“二十五席目”を持っていく準備を、もうここから始めるってこと。
「いい?」と湊が聞く。
「いい。」
「母承認ももらってます。」
「母、仕事早いな。」
「母は仕事が早いです。」
湊は、母から届いた紙片をそのビンの横に添えた。
今日の母は、ほぼ宣言だった。
《満ちる前に止めるのは
弱さじゃなく 手放す勇気です
あなたが生きる場所は
ここだけじゃないからね。——母》
私は正直、ちょっと笑った。
「ねえ、母ってほんとずるいよね」
「はい。」
「わたしたちが一晩考えて言えないことを一行で置いてくるの、反則じゃない?」
「はい。」
「肯定が早い。」
「事実なので。」
で、これを聞いたあとに湊がこちらを見る目が、いつもより近い。
あ、と思った。この視線、なんか決めに来てるやつだ。
「侑里さん。」
「ん。」
「ビン、250になったら、いちど鍵かけましょう。」
「うん。」
「で、そのあと、また開ける日を、わたしとあなたで決めましょう。」
「ふふ。」
「笑わないでください。」
「いや、かわいいなと思って。」
「かわいくないです。」
「かわいいよ。」
「やめてください。」
「やめないよ。」
その会話、正直ちょっと甘い。
でもこの甘さは、札にしない種類のやつ。ビンに貼らないやつ。
この人とやっていくんだろうなっていう予感が、手触りのところまで降りてきた気がした。
◇
閉店前。
今日の「二十五文字」のエリアは、24/25+ひとつの名前になったまま。
もう、あのスペースのことを“透明”って呼び戻すつもりはない。そこはもう、“二十五席目”って呼ぶ。
青ドット六つを二十五歩で掃く。
足元灯は25ルクスに落とす。
矢印25枚の角をそっとならす。
“安全待機中”札、“長文許可ノート”、“呼び戻し禁止”タグ、“二十五年目の約束”、“在籍証明”の封筒。それぞれを“貼らずに置く”棚に戻す。
ビンは残高:238で今日は終了。
250までは、あと12。
あと12枚ぶんの「いた」。
「Room 205(玄関)、満ちそうで止める運用の議事録を。」
「承認」
私は玄関のドアに、今日からの一文を貼らずに置いた。
《この店は あなたがずっといなきゃいけない場所じゃありません
あなたが「いた」と残して
また出ていく場所です
九時二十五分、二回で開きます
十五時二十五分に返します》
湊はその紙を見て、静かにうなずく。
「……好きです。」
「店のこと?」
「はい。」
「それと?」
「それは“呼び戻し禁止”のタグ領域外です。」
「うわ、この人うまいこと言った。」
鈴が鳴る。
今日の音は、昨日よりちょっと長い。
でも、やさしいほうじゃなく、まっすぐなほうの長さ。歩調を決める鐘の音みたいな。
私は黒板に、今日の最後の一文をチョークで置いた。
《あなたが生きてた証拠は もうここにあるから大丈夫》
これは約束というより通知。
“もう回収済みだから、もう置きっぱなしにしていっていい”っていう合図。
そしてこの通知をしたってことは、たぶん私たちはもう、ゴールテープがどこにあるかも知ってるんだと思う。
入口マットを二十五秒払う。粉と夜の湿気を下に落として、床を今日用にリセットする。
黒板右下の25ptの丸は今日もふちだけ。塗らない丸は、生きてる証拠。
壁の「二十五文字」は**24/25(+…)**のままだけど、“+透明”って書いていた場所には、もう透明じゃない細い字がある。あの人が置いていった、あの呼び名。そのまま残ってる。
《寄り道は二十五歩まで。》
これは変えない。むしろ最後まで変えたくないやつ。
足元灯25ルクス、青ドット六つ(25ミリ間隔)、矢印25枚ズレなし。
レジ横の25円のビンは残高:234からスタート。■は一本だけ塗らない——満ちそうで止める。
今日は、そのビンの話をちゃんと決める日になる、って湊は昨夜言っていた。
「250になったら、そこで止めませんか」って。
「記念とかじゃなく区切りとして」って。
あの言い方は、“終わり”って言葉をこっちに押しつけてこないで、でもちゃんと出口を示す言い方で、ずるいと思った。
彼がビンを指して「満ちそうで止めるって、人間にも必要なやつですよね」って言ったとき、あーやっぱこの子はずるいわ、っていう感想だったのは秘密にしておく。
◇
一回目の“見てる時間”。
白線25センチの内側、女の子がまぶたを閉じて二十五秒呼吸する。父親は今日も湯たんぽ。父親のほうもわかってきてて、もう「どうした?」とか聞かない。ただその二十五秒の間は、子の呼吸のリズムにそろえるだけ。それで十分なんだよな、ほんとは。
その儀式が終わるちょっと前に、ドアが鳴った。
葵。
スーツのジャケットは羽織ってるのに、上のボタンは留めてない。目はぱんぱんじゃないけど、寝てません顔。肩の落ち方が「戦時」って感じ。
「早いね」
「今日は始業前じゃないと動けないから」
葵はカウンターにかばんを置き、深いため息をひとつ。息というより、「あーもうこれ吐き出さないと仕事に出せない」っていう音量での排気。
私はコーヒーじゃなく白湯を出す。葵はもう何も言わずにそれを持つ。
湊は、距離カードを出そうとして、一瞬止まる。葵の顔を見て、別のカードをそっと差し出した。
《長文許可ノート “朝ください”指定》
葵は、笑った。いや笑うっていうより、口角が一瞬だけ上がった。あの人の「助かった」のサインってそれ。
「昨夜、会社でひとり倒れてさ」
「倒れたっていうのは?」
「身体。救急呼んだ。でも、その子がストレッチャーに乗せられる前に言った言葉があって。」
葵はノートを開く。ペン先が迷いなく動く。力のかけ方は強いけど、文字は乱れていない。つまりギリギリじゃない。ギリギリ手前の冷静さを、ぎゅっと握ってる状態。
《「やめます」は言えても
「助けてください」は言わせてもらえなかったね って
笑いながら言われた
あれめっちゃ悔しかった
わたしたちまだそこなんだって思って
総務として悔しかった》
そこまで書いて、葵はペンを止めた。
目は赤くない。泣いてない。けど、噛んでる。奥歯で踏ん張ってる。
「これ、“返事ほしい”にしていい?」
「もちろん。」
「“朝ください”っていうルール、うちの会社にも持って帰っていい?」
「持ってって。」
葵はこくんとうなずき、書き足す。
《“助けてください”って声を
会社の公式の言葉にしたい
会社の書式にしたい
それってわがままかな》
わがままなもんかよ、って喉まで出かかったけど、私は言わない。それはあとで返すべき言葉だから。
湊はノートを受け取り、封筒に入れる。
スタンプを押す。《承認》《長文許可》《明朝返礼》《記録保管(社内相談あり)》《呼び戻し禁止》。
“社内相談あり”のスタンプは今日の新作。葵のために、昨夜つくったやつだ。
「今日中に返事を書きます」
湊が静かに言う。
「“総務のあなたはわがままじゃないです”っていう返事と、“あなたはもうひとりで持たなくていいです”っていう返事の二本立てを予定しています。」
葵のまぶたが少し震えた。
「あーやばい、泣く」
「泣いていいよ」
「メイク」
「メイクは二十五分で治る」
「はいはい。」
「はいはい言ったね今」
「言いました。」
葵は白湯を飲みきり、ビンに25円。残高:235。
壁に二十五文字を置いていく。
《「助けてください」を会社の正式な書類にしたい》
正直、これだけで救われる社員いっぱいいる。まだこの世はそこまで行けてないけど、行かせたいよなって思った。
◇
午前。
“長文許可ノート”はひと息落ち着いて、かわりに“安全待機中”札が動いた。
ドアが小さく開いて、常連の男の子が顔だけ出す。高校生くらい。目の下ちょっと紫。まだ制服のシャツ。
彼は入ってくるなり、声を出さずに札を指さした。
“安全待機中”。
湊は、言葉を使わないで応じる。
クロス(“二十五分だけ帰らないで”用のやつ)を、店の隅の席にそっと広げる。
砂時計(二十五分)をそばに置く。
“安全待機中”の札を、席のうえに立てる。
男の子はそこに座って、机に額をつけた。うつぶせ。泣いてはない。泣けない日ってある。代わりに“動けない”で訴える日。
そのあいだ、店は静かなまま回る。
誰も「テスト?」とも「何があった?」とも聞かない。
湊も私も、コーヒー豆を挽く音をわざと少しだけ大きくする。いい意味の雑音。守りのノイズ。
二十五分経つ。
男の子は顔を上げないまま、手だけ上に出して、親指を立てた。 “大丈夫”の合図。
湊が同じサインを返す。
それで終わり。延長はきかない。引き止めない。
男の子は起き上がって、何も言わずにビンに25円。残高:236。
そのあと、壁に二十五文字を置いた。
《いま死なないで済んだので 今日は学校行けます》
はい、それ十分。十分です。
もうそれだけで今日の店の役目は果たしすぎてる。
◇
昼すぎ。
例の彼女――昨日“透明”の席に名前を置いた人――が、また来た。
正直、私はちょっと意外だった。昨日のあの感じなら、数日は間を空けると思ってたから。
「ただいま、って言ってもいい?」
店に入るなり、彼女が言った。
私は、笑ってうなずいた。
「それ、すごい正しい言い方。」
湊が小さく手を振る。「おかえりなさい」とは言わない。“ただいま”に“おかえり”を返すのって、相手を抱えにいくことになるときがある。だから湊は、手を振る。それでじゅうぶん届く。
彼女は、黒板の“二十五文字”エリアを見上げてから、ふふっと笑った。
「まだ、消されてないんだね。」
「消したい?」と私は聞く。
彼女は首を横に振る。
「消したくない。」
ちょっと迷いもあったけど、それでもしっかり言った。
「消したくないって気持ちが自分にあることが、いまは嬉しいから。」
その言葉は、かなりまっすぐ刺さってきた。
「わたしの存在が邪魔じゃなかった」って、ちゃんと確認とれてる音だったから。
彼女は、カウンターに指をそろえて置いた。
その指先はもう、震えてない。
「今日はね、“二十五分だけ帰らないで”じゃないの。」
「今日は、なに?」
「“五分だけでいいから、あなたここにいてくれる?”っていう日。」
私はちょっと笑ってしまう。
「五分?」
「五分。」
「二十五じゃないの?」
「二十五分は重いときがあるの。いまは、五分でいいの。」
「なるほど、いいじゃん。」
そうなんだよね。
“二十五分だけ帰らないで”が必要な夜もあるけど、あれはけっこうエネルギーを使う。クロスをかけて砂時計をひっくり返して、はい避難、ってやるだけでも、けっこう「避難モード」って意識が立つから。
その手前。「あ、いま崩れる前だな」って瞬間は、五分で足りることもある。
私はカウンターから、小さな砂時計を出した。
二十五秒のやつ。
それを、ちょうど五回分まわせば“約二分ちょい”。正確には五回で125秒、つまり2分ちょっと。そこからさらにもう五回で、ざっくり五分になる。
この店は、そういうふうにして時間をちいさく切れるようにしてある。
「五分、“ここにいますカード”でいい?」
私は聞いた。
彼女はうなずいた。
「返事いりません、にしたい。」
「わかった。」
私は“ここにいますカード(返事いりません/呼び戻し禁止)”を、彼女の隣にそっと置いた。
彼女はそれを見て、ほっと息を吐いた。
それだけで、ちょっと表情が落ち着いた。肩がふっと下がった。
五分間、会話はほぼなかった。
ただそこに一緒に立って、砂時計をくるくる回す。
私がやるのは、倒れない程度の距離で寄りそって、しゃべらないこと。
彼女がやるのは、崩れずに五分守ることだけ。
最後、彼女は笑って言った。
「すごいね。これだけで立て直るんだ。」
「それはあなたが強いから。」
「それは否定してもいい?」
「いいけど、わたしはそう思ってるよ。」
このくらいの押し返し方が、たぶん今の彼女にはちょうどいい。
彼女は、ビンに25円入れた。残高:237。
壁に二十五文字を書いていく。
《五分だけ一緒にいて って頼めるのすごい生きやすい》
そう、それ。
何時間も抱きしめて、じゃなくて。
「五分だけいて」って言葉を持てた瞬間に、人間って急に夜を越えられるようになるんだよ。たぶん。
◇
午後。
地域紙の記者が来る。
今日はメモも録音も出さず、ただビンを見てから私に言った。
「あと何枚、入る予定ですか。」
“あと何枚”って表現が面白いと思った。
“あと何人救えますか”とか“あと何日続きますか”じゃなくて、“あと何枚入る?”って。
このビンを“満ち”として見てるってことは、もう記者もこの店のルールわかってる。
「250で止めるつもり。」
私が言うと、記者は少し目を丸くした。
「閉めるんですか。」
「閉めない。」
「じゃあ?」
「“一区切り”って言葉をちゃんと置いときたいだけ。」
私は肩をすくめる。
「このビンずっと増え続けたら、“この店がなきゃ生きられない”って意味になっちゃうでしょ。それは違う。
ここは“ここで息をしてから、外で息を続ける場所”なんだよって、ちゃんと明文化したい。」
記者はゆっくり、ふかく頷いた。
「つまり、“満ちそうで止める”は逃げじゃない。」
「そう、そういうこと。」
「生き続けるには、あふれさせない勇気がいるって話ですね。」
「まとめるの早い。」
「仕事なんで。」
「はいはい。」
記者はビンに25円。残高:238。
壁に二十五文字を残す。
《満ちる前に止めるのは ちゃんと生き延びる準備なんだね》
母が聞いたら絶対「そう。はい正解」って言うやつだなと思った。
◇
15:25
“25番席”。
今日のセッティングは、ちょっといつもと違う。
クロス(“二十五分だけ帰らないで”用)、砂時計(二十五分)、“安全待機中”札、“呼び戻し禁止”タグ、“長文許可ノート”、距離カード。これはいつもどおり。
違うのは、ビンだ。
レジ横の25円のビンを一度カウンターから外して、“25番席”の上に置いた。
ふだんは動かさないやつ。でも、今日はあえて真ん中。
湊は、ビンの横に、手書きの小さな札をそっと立てる。
角は丸み+0.25ミリ。フォントは25%太字。行間6ミリ。
《250になったら ビンはいったん封をします
あふれさせません
あなたの「いた」はもうここに残りました
これから先の「いた」は
それぞれの場所で増やしてください
ここはずっと 予備の席でいます》
私はその札を見て、胸の真ん中があったかくなるのを感じた。
それってつまり、うちらは「ここにいないと生きられない人専用の店」になるつもりはないってことだ。
それぞれが自分の場所に“二十五席目”を持っていく準備を、もうここから始めるってこと。
「いい?」と湊が聞く。
「いい。」
「母承認ももらってます。」
「母、仕事早いな。」
「母は仕事が早いです。」
湊は、母から届いた紙片をそのビンの横に添えた。
今日の母は、ほぼ宣言だった。
《満ちる前に止めるのは
弱さじゃなく 手放す勇気です
あなたが生きる場所は
ここだけじゃないからね。——母》
私は正直、ちょっと笑った。
「ねえ、母ってほんとずるいよね」
「はい。」
「わたしたちが一晩考えて言えないことを一行で置いてくるの、反則じゃない?」
「はい。」
「肯定が早い。」
「事実なので。」
で、これを聞いたあとに湊がこちらを見る目が、いつもより近い。
あ、と思った。この視線、なんか決めに来てるやつだ。
「侑里さん。」
「ん。」
「ビン、250になったら、いちど鍵かけましょう。」
「うん。」
「で、そのあと、また開ける日を、わたしとあなたで決めましょう。」
「ふふ。」
「笑わないでください。」
「いや、かわいいなと思って。」
「かわいくないです。」
「かわいいよ。」
「やめてください。」
「やめないよ。」
その会話、正直ちょっと甘い。
でもこの甘さは、札にしない種類のやつ。ビンに貼らないやつ。
この人とやっていくんだろうなっていう予感が、手触りのところまで降りてきた気がした。
◇
閉店前。
今日の「二十五文字」のエリアは、24/25+ひとつの名前になったまま。
もう、あのスペースのことを“透明”って呼び戻すつもりはない。そこはもう、“二十五席目”って呼ぶ。
青ドット六つを二十五歩で掃く。
足元灯は25ルクスに落とす。
矢印25枚の角をそっとならす。
“安全待機中”札、“長文許可ノート”、“呼び戻し禁止”タグ、“二十五年目の約束”、“在籍証明”の封筒。それぞれを“貼らずに置く”棚に戻す。
ビンは残高:238で今日は終了。
250までは、あと12。
あと12枚ぶんの「いた」。
「Room 205(玄関)、満ちそうで止める運用の議事録を。」
「承認」
私は玄関のドアに、今日からの一文を貼らずに置いた。
《この店は あなたがずっといなきゃいけない場所じゃありません
あなたが「いた」と残して
また出ていく場所です
九時二十五分、二回で開きます
十五時二十五分に返します》
湊はその紙を見て、静かにうなずく。
「……好きです。」
「店のこと?」
「はい。」
「それと?」
「それは“呼び戻し禁止”のタグ領域外です。」
「うわ、この人うまいこと言った。」
鈴が鳴る。
今日の音は、昨日よりちょっと長い。
でも、やさしいほうじゃなく、まっすぐなほうの長さ。歩調を決める鐘の音みたいな。
私は黒板に、今日の最後の一文をチョークで置いた。
《あなたが生きてた証拠は もうここにあるから大丈夫》
これは約束というより通知。
“もう回収済みだから、もう置きっぱなしにしていっていい”っていう合図。
そしてこの通知をしたってことは、たぶん私たちはもう、ゴールテープがどこにあるかも知ってるんだと思う。
20
あなたにおすすめの小説
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
工場夜景
藤谷 郁
恋愛
結婚相談所で出会った彼は、港の製鉄所で働く年下の青年。年齢も年収も関係なく、顔立ちだけで選んだ相手だった――仕事一筋の堅物女、松平未樹。彼女は32歳の冬、初めての恋を経験する。
一億円の花嫁
藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。
父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。
もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。
「きっと、素晴らしい旅になる」
ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが……
幸か不幸か!?
思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。
※エブリスタさまにも掲載
雪の日に
藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。
親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。
大学卒業を控えた冬。
私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ――
※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。
先生
藤谷 郁
恋愛
薫は28歳の会社員。
町の絵画教室で、穏やかで優しい先生と出会い、恋をした。
ひとまわりも年上の島先生。独身で、恋人もいないと噂されている。
だけど薫は恋愛初心者。
どうすればいいのかわからなくて……
※他サイトに掲載した過去作品を転載(全年齢向けに改稿)
ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています
紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、
ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。
「もう君は、僕の管理下だよ」
退院と同時に退職手続きは完了。
住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。
外出制限、健康管理、過保護な独占欲。
甘くて危険な“保護生活”の中で、
私は少しずつ彼に心を奪われていく――。
元社畜OL×執着気味の溺愛社長
囲い込み同棲ラブストーリー。
還暦妻と若い彼 継承される情熱
MisakiNonagase
恋愛
61歳の睦美と、20歳の悠人。ライブ会場で出会った二人の「推し活」は、いつしか世代を超えた秘め事へと変わっていった。合鍵を使い、悠人の部屋で彼を待つ睦美の幸福。
しかし、その幸せの裏側で、娘の愛美もまた、同じ男の体温に触れ始めていた。
母譲りの仕草を見せる娘に、母の面影を重ねる青年。
同じ男を共有しているとは知らぬまま、母娘は「女」としての業(さが)を露呈していく。甘いお土産が繋ぐ、美しくも醜い三角関係の幕が上がる。
【完結】元恋人と、今日から同僚です
紗和木 りん
恋愛
女性向けライフスタイル誌・編集部で働く結城真帆(29)。
仕事一筋で生きてきた彼女の前に、ある日突然、五年前に別れた元恋人が現れた。
「今日から、この部署に配属になった」
そう告げたのは、穏やかで理性的な朝倉。
かつて、将来や価値観のすれ違いから別れた相手だ。
仕事として割り切ろうと距離を取る真帆だったが、過去の別れが誤解と説明不足によるものだったことが少しずつ見えてくる。
恋愛から逃げてきた女と、想いを言葉にできなかった男。
仕事も感情も投げ出さず、逃げずに選び直した先にあるのは「やり直し」ではなく……。
元恋人と同僚になった二人。
仕事から始まる新しい恋の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる