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【第1話】Dahlia
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銀のシャンデリアが揺れる舞踏会の夜、胸に抱えた幸福は、皿に落ちたひとつの指輪の音と一緒に砕けた。
「君とは、価値が釣り合わない」
甘い声だった。粉砂糖をふりかけたケーキみたいに優しくて、それでいて、刃物より鋭かった。
エリアス。
わたしの婚約者。だった人。
笑顔を浮かべたまま、銀の指輪を皿の上に置いたその手には、少しもためらいがなかった。
周囲のざわめきが、音楽を飲み込んでいく。胸元の花飾りがついさっきまで揺れていたことが、なんだか遠い夢のようだった。
割れたのは指輪じゃない。わたしのほうだ。
花畑色のドレスの裾を掴む指が震える。視線が集まる。誰かが笑った。
でも、涙は出なかった。
わたしは、ただ小さく息を吸って、それから微笑んだ。
「…そうね……あなたには、もっとふさわしい人がいるわ」
そう言った声は、よく通った。震えてもいなかった。
誰よりも先に、一礼してその場をあとにした。背筋を伸ばして。誇りだけを握りしめて。
その夜、銀の封蝋に黒い花の紋章が刻まれた招待状が届いた。
「少女を殺した者だけが入れる」と噂される、ただひとつの魔法学園。
真意は誰にもわからない。ただ、“終わった恋”が魔法になる場所だと聞いた。
わたしの婚約破棄も、その条件としては十分だった。
だって、あの夜、夢見た未来を全部失った。
あの人に似合うように努力して、言葉を選び、ふさわしい花嫁になろうとした。
それでも届かなかった。
夢見る少女は、その瞬間、胸の中で壊れてしまったのだ。
わたしの手で、そっと、殺したのだから。
誰かに追われるようにして、わたしはそこへ向かった。
未来を望んだわけじゃない。ただ、終わらせたかっただけだ。
そしてできることなら、あの夜の記憶を瓶に詰めて、鍵をかけたかった。
……でも、ほんとはただ、
逃げ出したかっただけかもしれない。
◆ ◆ ◆
転入初日の朝。雨あがりの石畳が、ほんのすこしだけ靴音を濁らせる。
わたしは、濡れた校庭の向こうにそびえる旧校舎を眺めながら、息を吐いた。
教室の空気は、知らない名前の花の香りがした。緊張と好奇心、少しの噂話。
そして、窓際の一番奥。誰とも目を合わせず、俯いたまま座っていたのが
――彼だった。
転入者同士。けれど、どこかまるで質感の違う存在。
黒髪に、色素の薄い肌。制服の着こなしすら、どこかよそよそしい。
最初の講義が終わった休み時間、わたしが席を立ったときだった。
彼が、ぽつりと呟いた。
「……帰りたい」
誰に言うでもなく。けれど、確かにこの世界ではない何処かを見ていたような声だった。
その言葉が、わたしの胸に棘のように残った。
その瞬間、わたしは少しだけ後悔した。
もし、あの夜に言い返せていたなら。泣き崩れてでも、誰かに縋れていたなら。 でも、わたしは一言も言わなかった。ただ、席を立つ。
“帰りたい”
それは、かつてわたしも何度も繰り返した言葉。
けれど今のわたしは――なぜか、彼にそう言わせておきたくなかった。
◆ ◆ ◆
昼休み、温室裏のベンチに彼が座っていた。
足元に転がった小さな薬包紙、擦りむいた手の甲、泥のついた裾。
誰かとぶつかったのか、それとも転んだのか。
彼は、ただ静かにうずくまっていた。
わたしは声もなくそっと腰を下ろし、ハンカチを取り出して、彼の手を包んだ。
「ちょっとしみるけど、我慢してね」
彼はびくりと肩を震わせ、それから、こちらを見た。
「……ありがとう」
かすれた声だった。けれど、その一言が、なぜか胸に響いた。
わたしは笑ってみせた。
「いいよ。わたしも最初の一週間、毎日何かしら怪我してたから」
いじめられてた、って言ったらきっと驚くかな。
上級生の冷笑、机に挟まれた謎の手紙、誰かの靴とすり替えられたこともあった。
でも誰にも言わなかった。泣き言も、言い訳も。
だって、婚約破棄された“平民枠”の転入生に、誰も同情なんてしないもの。
「……そっか」
彼の手に包帯を巻きながら、小瓶が私のポケットから転げ落ちた。 瓶の中には、純白の花びらが一枚、そっと沈んでいる。 光に透けて、まるで祈りのかけらみたいに見えた。
「それ、なに?」
彼が聞く。わたしは瓶を拾い、そっと見せた。
「感情を保存する瓶。魔法の授業で作るの。未完成だけど……気持ちが沈殿して、魔法になることもあるんだそうよ。変な話でしょ?」
彼は首を横に振った。
「……なんか、きれいだと思った」
その一言で、瓶の中の白い花弁がふわりと揺れた気がした。
「君、名前は?」
彼が聞く。唐突に。でもその目は、初めて真っ直ぐに向けられていた。
「ダリア。 …いまは名字がないの」
「……ぼくは、まだ名前がないんだ……。でも、ダリアって名前、似合ってるね」
「ありがとう」
わたしは、小さく笑って答える。
“いまは名字がないの”――それは、
平民枠の転入生に与えられる最初の烙印だった。
婚約破棄と同時に姓は削除され、わたしはただの「ダリア」になった。
彼もまた「まだ名前がない」と言ったけれど、事情は違うはずなのに、似たような寂しさが重なった。
でも不思議と、彼に名前を呼ばれたとき、少しだけ救われた気がした。
そのとき、ふと足音が近づいた。
「……やっぱり、いたか。」
鋭い声とともに現れたのは、エリアスだった。かつての婚約者。
彼の瞳は冷たく濁り、わたしと彼の間を交互に睨みつける。
「こんな場所で何してる?まさか、もう次の相手か? ……おとなしくしていればいいものを、ほんとに見苦しいな」
わたしが何も返さなかったのが気に入らなかったのか、彼はわたしの腕を乱暴に掴もうとし、
「やめてください」
それを遮ったのは、彼――帰りたいと呟いた転校生の、はっきりとした声だった。
「彼女は、ただぼくに優しくしてくれただけです。」
私は添えるように静かに口を開いた。
「……あなたには、もう関係ない話でしょ!」
その言い方が、まるで彼を“もう過去の人”と断じたように響いたのかもしれない。
エリアスの表情が凍りつく。
「……何様のつもりだ。俺が“手放してやった”からって、忘れたつもりか?
まさか、すぐに他の男の隣にいるような女じゃないだろうな……ダリア」
「じゃあ、証明すればいいんですよね。隣りにいてもいいと……」
彼は静かに立ち上がった。
一瞬、空気が凍りついた。
けれど次の瞬間には、エリアスは笑っていた。嫌な笑いだった。
「……ほう。面白い。自分が場違いじゃないってこと、見せてみろよ」
彼は、わざとらしく肩をすくめて笑った。
「学園の公開魔法演習、出ろよ。ダリアを“守れるほどの力”があるって、見せてみろ」
そう言い捨てて、彼は背を向けた。靴音が濡れた石畳に響く。
わたしは何も言えず、彼は包帯を見つめて呟いく。
「帰りたい…」
その夜のことだった。
夏の夜だというのに、風は冷たかった。
肌を撫でる空気には、星の光をそのまま閉じ込めたようなひんやりとした感触があった
わたしが寮の部屋で魔導史の課題をこなしていると、窓辺に小さな影が揺れた。
その影は窓辺にそっと花を置こうと……あ。目が合ってしまった。
うわ、きまずい。
名前のない彼だった。たまたま通りかかっただけ。
窓越しにわたしが見えただけ。庭にあった花をもぎっただけ――彼は焦ったように言った。
「ストーカーとかそういうんじゃないから!」
そう言いながら、彼は明らかに動揺していた。 頬を少し赤くして、視線を泳がせながら、花を持ったままフリーズしている。
……かわいいかも、と思ってしまった自分がちょっと悔しい。
「……ストーカー?」
なんだろう、辺境に出る幽霊かなにかの魔物の一種?
よくわからないけれど、とりあえず頷いておいた。
彼は窓のすぐ横に立ち、石の欄干に肘をついて、外の景色に背を向けたまま夜空を見上げていた。
わたしは、寮の自室の窓から頬杖をつき、その背中越しに同じ星空を仰いだ。
言葉も交わさず、互いに視線を向けることもないまま、ただ静かに“同じ空”を見ていた。
夜空には、無数の星がこぼれ落ちそうに瞬いていた。細く白い星の帯が流れ、まるでこの世界の輪郭をなぞるように続いている。
窓ガラス越しに、わたしたちは言葉もなく、同じ星を見ていた。
ふたりのあいだには距離があったのに、なぜか、それがいちばん近くに感じられた。
「……こっちには、月がないんだね」
ぽつりと、彼が言った。
わたしは息を呑んだ。
「…月?」
「ダリア。ひとつだけ、変なこと言ってもいい?」
「うん」
彼はしばらく黙って、両手を見つめてから、言った。
「ぼくは……、ここに来る前のこと、全部覚えてるんだ」
その言葉にわたしは一瞬戸惑った。
「全部って……どういう意味?」
「元いた場所の空の色も、国の名前も。通ってた学校も。
……スマホの中の動画とか、友達の顔まで、ぜんぶ」
「……スマホ??」
「うん。しらないよね。…ぼくは、この世界の人間じゃない」
わたしは、一瞬息を止めた。
驚いた。けれど、すぐに胸の奥に妙な納得が広がった。
ああ、彼が「帰りたい」と言っていたのは、ここではない場所。
星の位置も、夜の色も、少しずつ違う世界。
知らないはずなのに、わたしはその感覚をよく知っていた。
未来を失くしたとき、人は“どこでもない場所”に行きたくなる。
自分が消えても、誰も困らない場所へ。
わたしも、そうだったから。
だから――彼の孤独は、わたしの孤独と重なって見えた。
彼の言葉は、壊れもののように震えていた。
「事故か何かで、気づいたらここにいた。理由もなくて、夢の続きみたいで。……」
「だから…帰りたい?」
彼は空を見上げて、言った。
「……うん、帰りたいよ…元の世界に」
彼はぽつりと呟いた。
「でも今は、……君と会えたことが嬉しいって思える」
言葉を選びながら、ゆっくりと続けるその声は、かすかに震えていた。
“君”じゃなくて、“ダリア”と呼ばれたら——きっとわたし、泣いてしまうかもしれない。
「だから、もうちょっとだけ……ここにいてもいいかなって」
その言葉が胸に触れたとき、わたしの中で何かが優しく音を立ててほどけていった。
寂しさと希望が、ゆっくり混ざっうな感じだった。
わたしはそっと窓枠に片手を置いた。
彼もまた、背を向けたまま、自分の肩越しに窓辺へ手を伸ばす。
ふたりの指先が、触れるか触れないかの距離で重なった。
外を向いたまま、どちらも目を合わせない。
それでも、指先から伝わるぬくもりが、まるで夜空に浮かぶ星の光のように、静かに心に降りてきた。
夜の空気はひやりと冷たく、どこまでも澄んでいて、まるでこの世界が何も与えないことの象徴みたいだった。 でもその中で、ほんの少しだけふれている指先から、確かな体温が伝わってくる。
けれど彼は、わたしのほうを見ずに、そっと言った。
「……ありがとう、ダリア」
その返事は、自然にこぼれた。わたしの声が、少しだけ震えていたのは、きっと夜のせいだ。
◆ ◆ ◆
翌日の魔法演習。
観覧席のざわめきの中、エリアスは完璧な装備に身を包み、鮮やかな光魔法で観客を魅了していた。
代々の騎士家に伝わる銀の甲冑は、彼の魔力に最適化されたエンチャントが施され、身体と魔力の動きに寸分のズレもなく応える。
手には家宝の杖と、輝く盾。そして背中には、家名の紋章が刺繍された仰々しいマントがはためいていた。
腰に下げられた剣は、騎士たる証。剣に宿る刻印は古より連なる血統と誓いの象徴だった。
魔法的にも物理的にも、そして歴史と技術の誇りをもまとった完全装備。まさに“家そのもの”を纏うような姿だった。
「おや、彼は来なかったか。ああ、やっぱり平民の“名無し”じゃ無理だったか」
そう言った瞬間、演習場の反対側に、制服のまま立つ彼の姿が見えた。
「来たか…逃げ出さなかったことだけは褒めてやろう…」
エリアスが目を細める。
彼は黙って一礼し、試合開始の鐘が鳴った。
エリアスの詠唱が終わった瞬間、演習場をまばゆい光が切り裂いた。
一閃。鋭い魔力の奔流が、一直線に彼を貫く――はずだった。
けれど、何も起きなかった。
光は、彼の目前でふっと霧のようにほどけた。
魔力の痕跡すら残さず、ただ空気がひんやりと震え、場には不自然なほどの静寂が広がる。
観客がざわめき、誰かが叫ぶ。
「魔術が……効かない?」
「違う…」
彼は淡々と、けれど確かに告げた。
「ぼくは、“魔法を壊す”力を持っている」
その言葉と同時に、次の詠唱が掻き消える。
エリアスの術式が宙に浮かんだまま崩れ、光の粒子となって空へ消えていく。
「な……っ」
何度も魔法を放とうとするエリアスの詠唱は、ことごとく無に還った。 彼の前では、どんな魔法も“存在を許されない”。
「そんなっ……バカなことが……っ!!!」
焦燥に駆られたエリアスは剣を抜く。
魔力を帯びた刀身が稲光のように輝く――騎士の誇り、その結晶だった。
「ごめん……壊れるよ」
彼は囁くように言い、滑るように距離を詰めた。
剣の根元に指先が触れた瞬間、刀身が光の糸のようにほどけ、空へと散る。
続いて、鎧に。盾に。 彼の指が静かになぞるたび、魔法の加護が剥がれ落ちていく。
剣も鎧も、すべてが“機能”を失い、ただの重たい鉄となる。 エリアスの膝が崩れ、地に沈む。
「おのれ……おのれ!! こんな平民ごときに……っ!!!」
ああ、そうか。
彼は名前が“ない”んじゃない。
名前を“つけられない”んだ。
名前とは、この国で“意味を与える”魔法。家名は、その願いを束ねた結晶であり、貴族たちは代々の祈りを名に刻んできた。
その呪いを、この世界の外から来た彼に、この国はまだ刻むことができない。
エリアスは、無様な亀のように手足をばたつかせ、床に這いつくばった。
剣も鎧も、もう輝きを失っていた。
崩れた威厳、剥がれ落ちた誇り。
それでも彼は、もがき、叫び、意味を失った肩書きにすがるしかなかった。
観客席の方から、戸惑いを含んだざわめきが広がる。
「……あれが、あのエリアス様?」
「鎧が……ただの鉄?」
「魔法が壊された?どういうこと……」
崇拝と恐れが入り混じっていた声が、しだいに呆然とした囁きに変わっていく。
その中で、彼の家名が誰の口にも上らなかったことだけが、妙に静かで、残酷だった。
やがて鐘の音が鳴り、勝敗が宣言された。
無音の勝利。
観客たちの視線が集まる中、わたしは迷いなく彼のもとへ駆け寄った。
彼の隣に立つには、ほんの少しの勇気が必要だったけれど。
わたしは、そっと身をかがめて、彼だけに届く声で囁いた。
「ねえ……今は、帰りたい?」
彼は少しだけ迷ってから、首を振った。
「ううん。今は……帰りたくない」
「ダリア… きみの隣にいる資格があるみたいだからね…」
彼ははにかんで笑った。
その言葉が、わたしの胸にそっと灯った。
瓶の中の花片が、またひとつ、やわらかく揺れた。
けれどその日の夜、彼は少し熱を出した。
魔法演習のあとは、体も心も冷えていたのかもしれない。
勝ったとはいえ、あの場に立つことが、どれほど怖くて、苦しかったか。
わたしはこっそり医務室から冷湿布をもらい、彼の額に当てた。
彼は寝言のように、ぼそりと呟いた。
「……もう壊れたくなかっただけ、なんだ」
たぶん、それは自分自身に言い聞かせているのだろう。
誰かを守るためじゃなく、自分を守るために戦った。
わたしはその言葉を、何も言わず瓶の中に閉じ込めた。
翌朝、彼は何事もなかったかのように制服の襟を整え、
少し照れくさそうに「ありがと」とだけ言った。
その姿を見て、わたしは思った。
彼は“壊さない力”として存在している。
そしてわたしもまた、彼にとっての“壊れなかった誰か”になりたいと思っている。
わたしは、小瓶の蓋を開けて、あの夜に貰った花びらをひとつ入れた。
そこにはたったひとことだけ。
『——咲くまで、そばにいる』
花びらはふわりと瓶の底に沈み、やがてほんのかすかに、花のような香りが広がった。
それが、わたしの最初の“恋の祈り”だった。
◆ ◆ ◆
「ふむ、これで終わりだね」
教授――黒檀の棚の影に溶け込む細身の男――が指を鳴らすと、
砕けていた水晶の花瓶がゆるやかに再生し、紅い保存液で満たされてぴたりと封が閉じた。
ステンドグラス越しの夕陽が標本室を淡い茜に染め、澱んだ甘い香りが胸をざわめかせる。
「助かったよ、ダリア。素敵な恋だったね。これを保存するんだね?」
耳もとに落ちる囁きは菓子の糖衣のように柔らかい。けれど、その後ろに潜む意味は冷たい。
こくり、と私は頷く。
「では、こちらの瓶は捨てよう」
教授が指を鳴らすと、もう一つの瓶に微かな光の揺らめきが走った。
一瞬だけ、封じられた花が瓶の中で揺れたかと思うと、 ぱきり、と乾いた音と共に首もとからひびが走る。
ガラスはまるで泣くように細かく震え、そして――静かに、音もなく砕けた。
紅い保存液は光の粒となって空中に舞い、最後の香りを残して消えていった。
ふわりと漂った香りは、わたしの鼻先をかすめ、甘く、どこか切なかった。
それはきっと、誰かが願いながらも報われなかった恋。
自分の瓶が“保存”されたばかりのこの瞬間に、他の誰かの恋が壊されたことが、胸に鈍くのしかかる。
私のせいで――ではないと分かっていても、どうしようもなく痛かった。
「いっただろう? どの恋を終わらせるか選んでおくれと」
背後でそう告げる声に、わたしは何も返さず、ただ一礼だけ残して標本室を後にした。
足元には、砕け散った花の香りがまだ残っていた。 視線を落とせば、床にきらめく小さな光の粒が、いくつもいくつも散らばっていた。
それは誰かの“もう戻らない恋”のかけらだった。
瓶は壊れた。でも、記憶は残る。
わたしはその中から、ひとひらだけ床にこぼれ落ちていた赤い花びらを拾い上げた。
指先に触れたそれは、もう魔力を持たないただの花の欠片。
それでも、消えかけの熱をかすかに宿していた。
わたしはそれをポケットにしまった。理由なんてなかった。ただ、どうしても捨てられなかったのだ。
そしてその重さを、わたしは背中にひとつ分、増やして歩き出す。
旧校舎の回廊は長く静かだ。赤金に染まる石床を靴音がぽつ、ぽつ、と渡っていく。
そのとき、向こうから小柄な影が現れた。
肩までの栗色の髪、制服のスカートをぎゅっと握りしめた少女――カラーだ。
彼女は伏し目がちに歩き、私に気づくと立ち止まって浅く頭を下げる。
「こんばんは、ダリア先輩……」
声は羽虫が震えるほどのか細さ。抱えたノートの縁が指先で白く潰れている。
私は微笑み返しながら、ふと背後を振り返った。夕
闇に沈みゆく回廊の突き当たりには、たった一つ――さきほどまでいた扉しかない。
(この先には標本室しかないのに……)
胸がひそかに鳴る。けれど私は何も言えず、すれ違いざまに「ごきげんよう」とだけ囁いた。
カシャン。
遠ざかる足音の後ろで、扉の鍵が掛かる乾いた音がした。
振り向く勇気はなかった。夕陽はすでに紫紺へ溶け、長い影が私の足元を絡め取る。
手の中で心臓がこぼれそうに跳ねる。
私は歩き続けた。けれど耳の奥には、割れるガラスの幻聴がいつまでも微かに残っていた。
――純白の花びらは、決して触れられないまま揺れている。
「君とは、価値が釣り合わない」
甘い声だった。粉砂糖をふりかけたケーキみたいに優しくて、それでいて、刃物より鋭かった。
エリアス。
わたしの婚約者。だった人。
笑顔を浮かべたまま、銀の指輪を皿の上に置いたその手には、少しもためらいがなかった。
周囲のざわめきが、音楽を飲み込んでいく。胸元の花飾りがついさっきまで揺れていたことが、なんだか遠い夢のようだった。
割れたのは指輪じゃない。わたしのほうだ。
花畑色のドレスの裾を掴む指が震える。視線が集まる。誰かが笑った。
でも、涙は出なかった。
わたしは、ただ小さく息を吸って、それから微笑んだ。
「…そうね……あなたには、もっとふさわしい人がいるわ」
そう言った声は、よく通った。震えてもいなかった。
誰よりも先に、一礼してその場をあとにした。背筋を伸ばして。誇りだけを握りしめて。
その夜、銀の封蝋に黒い花の紋章が刻まれた招待状が届いた。
「少女を殺した者だけが入れる」と噂される、ただひとつの魔法学園。
真意は誰にもわからない。ただ、“終わった恋”が魔法になる場所だと聞いた。
わたしの婚約破棄も、その条件としては十分だった。
だって、あの夜、夢見た未来を全部失った。
あの人に似合うように努力して、言葉を選び、ふさわしい花嫁になろうとした。
それでも届かなかった。
夢見る少女は、その瞬間、胸の中で壊れてしまったのだ。
わたしの手で、そっと、殺したのだから。
誰かに追われるようにして、わたしはそこへ向かった。
未来を望んだわけじゃない。ただ、終わらせたかっただけだ。
そしてできることなら、あの夜の記憶を瓶に詰めて、鍵をかけたかった。
……でも、ほんとはただ、
逃げ出したかっただけかもしれない。
◆ ◆ ◆
転入初日の朝。雨あがりの石畳が、ほんのすこしだけ靴音を濁らせる。
わたしは、濡れた校庭の向こうにそびえる旧校舎を眺めながら、息を吐いた。
教室の空気は、知らない名前の花の香りがした。緊張と好奇心、少しの噂話。
そして、窓際の一番奥。誰とも目を合わせず、俯いたまま座っていたのが
――彼だった。
転入者同士。けれど、どこかまるで質感の違う存在。
黒髪に、色素の薄い肌。制服の着こなしすら、どこかよそよそしい。
最初の講義が終わった休み時間、わたしが席を立ったときだった。
彼が、ぽつりと呟いた。
「……帰りたい」
誰に言うでもなく。けれど、確かにこの世界ではない何処かを見ていたような声だった。
その言葉が、わたしの胸に棘のように残った。
その瞬間、わたしは少しだけ後悔した。
もし、あの夜に言い返せていたなら。泣き崩れてでも、誰かに縋れていたなら。 でも、わたしは一言も言わなかった。ただ、席を立つ。
“帰りたい”
それは、かつてわたしも何度も繰り返した言葉。
けれど今のわたしは――なぜか、彼にそう言わせておきたくなかった。
◆ ◆ ◆
昼休み、温室裏のベンチに彼が座っていた。
足元に転がった小さな薬包紙、擦りむいた手の甲、泥のついた裾。
誰かとぶつかったのか、それとも転んだのか。
彼は、ただ静かにうずくまっていた。
わたしは声もなくそっと腰を下ろし、ハンカチを取り出して、彼の手を包んだ。
「ちょっとしみるけど、我慢してね」
彼はびくりと肩を震わせ、それから、こちらを見た。
「……ありがとう」
かすれた声だった。けれど、その一言が、なぜか胸に響いた。
わたしは笑ってみせた。
「いいよ。わたしも最初の一週間、毎日何かしら怪我してたから」
いじめられてた、って言ったらきっと驚くかな。
上級生の冷笑、机に挟まれた謎の手紙、誰かの靴とすり替えられたこともあった。
でも誰にも言わなかった。泣き言も、言い訳も。
だって、婚約破棄された“平民枠”の転入生に、誰も同情なんてしないもの。
「……そっか」
彼の手に包帯を巻きながら、小瓶が私のポケットから転げ落ちた。 瓶の中には、純白の花びらが一枚、そっと沈んでいる。 光に透けて、まるで祈りのかけらみたいに見えた。
「それ、なに?」
彼が聞く。わたしは瓶を拾い、そっと見せた。
「感情を保存する瓶。魔法の授業で作るの。未完成だけど……気持ちが沈殿して、魔法になることもあるんだそうよ。変な話でしょ?」
彼は首を横に振った。
「……なんか、きれいだと思った」
その一言で、瓶の中の白い花弁がふわりと揺れた気がした。
「君、名前は?」
彼が聞く。唐突に。でもその目は、初めて真っ直ぐに向けられていた。
「ダリア。 …いまは名字がないの」
「……ぼくは、まだ名前がないんだ……。でも、ダリアって名前、似合ってるね」
「ありがとう」
わたしは、小さく笑って答える。
“いまは名字がないの”――それは、
平民枠の転入生に与えられる最初の烙印だった。
婚約破棄と同時に姓は削除され、わたしはただの「ダリア」になった。
彼もまた「まだ名前がない」と言ったけれど、事情は違うはずなのに、似たような寂しさが重なった。
でも不思議と、彼に名前を呼ばれたとき、少しだけ救われた気がした。
そのとき、ふと足音が近づいた。
「……やっぱり、いたか。」
鋭い声とともに現れたのは、エリアスだった。かつての婚約者。
彼の瞳は冷たく濁り、わたしと彼の間を交互に睨みつける。
「こんな場所で何してる?まさか、もう次の相手か? ……おとなしくしていればいいものを、ほんとに見苦しいな」
わたしが何も返さなかったのが気に入らなかったのか、彼はわたしの腕を乱暴に掴もうとし、
「やめてください」
それを遮ったのは、彼――帰りたいと呟いた転校生の、はっきりとした声だった。
「彼女は、ただぼくに優しくしてくれただけです。」
私は添えるように静かに口を開いた。
「……あなたには、もう関係ない話でしょ!」
その言い方が、まるで彼を“もう過去の人”と断じたように響いたのかもしれない。
エリアスの表情が凍りつく。
「……何様のつもりだ。俺が“手放してやった”からって、忘れたつもりか?
まさか、すぐに他の男の隣にいるような女じゃないだろうな……ダリア」
「じゃあ、証明すればいいんですよね。隣りにいてもいいと……」
彼は静かに立ち上がった。
一瞬、空気が凍りついた。
けれど次の瞬間には、エリアスは笑っていた。嫌な笑いだった。
「……ほう。面白い。自分が場違いじゃないってこと、見せてみろよ」
彼は、わざとらしく肩をすくめて笑った。
「学園の公開魔法演習、出ろよ。ダリアを“守れるほどの力”があるって、見せてみろ」
そう言い捨てて、彼は背を向けた。靴音が濡れた石畳に響く。
わたしは何も言えず、彼は包帯を見つめて呟いく。
「帰りたい…」
その夜のことだった。
夏の夜だというのに、風は冷たかった。
肌を撫でる空気には、星の光をそのまま閉じ込めたようなひんやりとした感触があった
わたしが寮の部屋で魔導史の課題をこなしていると、窓辺に小さな影が揺れた。
その影は窓辺にそっと花を置こうと……あ。目が合ってしまった。
うわ、きまずい。
名前のない彼だった。たまたま通りかかっただけ。
窓越しにわたしが見えただけ。庭にあった花をもぎっただけ――彼は焦ったように言った。
「ストーカーとかそういうんじゃないから!」
そう言いながら、彼は明らかに動揺していた。 頬を少し赤くして、視線を泳がせながら、花を持ったままフリーズしている。
……かわいいかも、と思ってしまった自分がちょっと悔しい。
「……ストーカー?」
なんだろう、辺境に出る幽霊かなにかの魔物の一種?
よくわからないけれど、とりあえず頷いておいた。
彼は窓のすぐ横に立ち、石の欄干に肘をついて、外の景色に背を向けたまま夜空を見上げていた。
わたしは、寮の自室の窓から頬杖をつき、その背中越しに同じ星空を仰いだ。
言葉も交わさず、互いに視線を向けることもないまま、ただ静かに“同じ空”を見ていた。
夜空には、無数の星がこぼれ落ちそうに瞬いていた。細く白い星の帯が流れ、まるでこの世界の輪郭をなぞるように続いている。
窓ガラス越しに、わたしたちは言葉もなく、同じ星を見ていた。
ふたりのあいだには距離があったのに、なぜか、それがいちばん近くに感じられた。
「……こっちには、月がないんだね」
ぽつりと、彼が言った。
わたしは息を呑んだ。
「…月?」
「ダリア。ひとつだけ、変なこと言ってもいい?」
「うん」
彼はしばらく黙って、両手を見つめてから、言った。
「ぼくは……、ここに来る前のこと、全部覚えてるんだ」
その言葉にわたしは一瞬戸惑った。
「全部って……どういう意味?」
「元いた場所の空の色も、国の名前も。通ってた学校も。
……スマホの中の動画とか、友達の顔まで、ぜんぶ」
「……スマホ??」
「うん。しらないよね。…ぼくは、この世界の人間じゃない」
わたしは、一瞬息を止めた。
驚いた。けれど、すぐに胸の奥に妙な納得が広がった。
ああ、彼が「帰りたい」と言っていたのは、ここではない場所。
星の位置も、夜の色も、少しずつ違う世界。
知らないはずなのに、わたしはその感覚をよく知っていた。
未来を失くしたとき、人は“どこでもない場所”に行きたくなる。
自分が消えても、誰も困らない場所へ。
わたしも、そうだったから。
だから――彼の孤独は、わたしの孤独と重なって見えた。
彼の言葉は、壊れもののように震えていた。
「事故か何かで、気づいたらここにいた。理由もなくて、夢の続きみたいで。……」
「だから…帰りたい?」
彼は空を見上げて、言った。
「……うん、帰りたいよ…元の世界に」
彼はぽつりと呟いた。
「でも今は、……君と会えたことが嬉しいって思える」
言葉を選びながら、ゆっくりと続けるその声は、かすかに震えていた。
“君”じゃなくて、“ダリア”と呼ばれたら——きっとわたし、泣いてしまうかもしれない。
「だから、もうちょっとだけ……ここにいてもいいかなって」
その言葉が胸に触れたとき、わたしの中で何かが優しく音を立ててほどけていった。
寂しさと希望が、ゆっくり混ざっうな感じだった。
わたしはそっと窓枠に片手を置いた。
彼もまた、背を向けたまま、自分の肩越しに窓辺へ手を伸ばす。
ふたりの指先が、触れるか触れないかの距離で重なった。
外を向いたまま、どちらも目を合わせない。
それでも、指先から伝わるぬくもりが、まるで夜空に浮かぶ星の光のように、静かに心に降りてきた。
夜の空気はひやりと冷たく、どこまでも澄んでいて、まるでこの世界が何も与えないことの象徴みたいだった。 でもその中で、ほんの少しだけふれている指先から、確かな体温が伝わってくる。
けれど彼は、わたしのほうを見ずに、そっと言った。
「……ありがとう、ダリア」
その返事は、自然にこぼれた。わたしの声が、少しだけ震えていたのは、きっと夜のせいだ。
◆ ◆ ◆
翌日の魔法演習。
観覧席のざわめきの中、エリアスは完璧な装備に身を包み、鮮やかな光魔法で観客を魅了していた。
代々の騎士家に伝わる銀の甲冑は、彼の魔力に最適化されたエンチャントが施され、身体と魔力の動きに寸分のズレもなく応える。
手には家宝の杖と、輝く盾。そして背中には、家名の紋章が刺繍された仰々しいマントがはためいていた。
腰に下げられた剣は、騎士たる証。剣に宿る刻印は古より連なる血統と誓いの象徴だった。
魔法的にも物理的にも、そして歴史と技術の誇りをもまとった完全装備。まさに“家そのもの”を纏うような姿だった。
「おや、彼は来なかったか。ああ、やっぱり平民の“名無し”じゃ無理だったか」
そう言った瞬間、演習場の反対側に、制服のまま立つ彼の姿が見えた。
「来たか…逃げ出さなかったことだけは褒めてやろう…」
エリアスが目を細める。
彼は黙って一礼し、試合開始の鐘が鳴った。
エリアスの詠唱が終わった瞬間、演習場をまばゆい光が切り裂いた。
一閃。鋭い魔力の奔流が、一直線に彼を貫く――はずだった。
けれど、何も起きなかった。
光は、彼の目前でふっと霧のようにほどけた。
魔力の痕跡すら残さず、ただ空気がひんやりと震え、場には不自然なほどの静寂が広がる。
観客がざわめき、誰かが叫ぶ。
「魔術が……効かない?」
「違う…」
彼は淡々と、けれど確かに告げた。
「ぼくは、“魔法を壊す”力を持っている」
その言葉と同時に、次の詠唱が掻き消える。
エリアスの術式が宙に浮かんだまま崩れ、光の粒子となって空へ消えていく。
「な……っ」
何度も魔法を放とうとするエリアスの詠唱は、ことごとく無に還った。 彼の前では、どんな魔法も“存在を許されない”。
「そんなっ……バカなことが……っ!!!」
焦燥に駆られたエリアスは剣を抜く。
魔力を帯びた刀身が稲光のように輝く――騎士の誇り、その結晶だった。
「ごめん……壊れるよ」
彼は囁くように言い、滑るように距離を詰めた。
剣の根元に指先が触れた瞬間、刀身が光の糸のようにほどけ、空へと散る。
続いて、鎧に。盾に。 彼の指が静かになぞるたび、魔法の加護が剥がれ落ちていく。
剣も鎧も、すべてが“機能”を失い、ただの重たい鉄となる。 エリアスの膝が崩れ、地に沈む。
「おのれ……おのれ!! こんな平民ごときに……っ!!!」
ああ、そうか。
彼は名前が“ない”んじゃない。
名前を“つけられない”んだ。
名前とは、この国で“意味を与える”魔法。家名は、その願いを束ねた結晶であり、貴族たちは代々の祈りを名に刻んできた。
その呪いを、この世界の外から来た彼に、この国はまだ刻むことができない。
エリアスは、無様な亀のように手足をばたつかせ、床に這いつくばった。
剣も鎧も、もう輝きを失っていた。
崩れた威厳、剥がれ落ちた誇り。
それでも彼は、もがき、叫び、意味を失った肩書きにすがるしかなかった。
観客席の方から、戸惑いを含んだざわめきが広がる。
「……あれが、あのエリアス様?」
「鎧が……ただの鉄?」
「魔法が壊された?どういうこと……」
崇拝と恐れが入り混じっていた声が、しだいに呆然とした囁きに変わっていく。
その中で、彼の家名が誰の口にも上らなかったことだけが、妙に静かで、残酷だった。
やがて鐘の音が鳴り、勝敗が宣言された。
無音の勝利。
観客たちの視線が集まる中、わたしは迷いなく彼のもとへ駆け寄った。
彼の隣に立つには、ほんの少しの勇気が必要だったけれど。
わたしは、そっと身をかがめて、彼だけに届く声で囁いた。
「ねえ……今は、帰りたい?」
彼は少しだけ迷ってから、首を振った。
「ううん。今は……帰りたくない」
「ダリア… きみの隣にいる資格があるみたいだからね…」
彼ははにかんで笑った。
その言葉が、わたしの胸にそっと灯った。
瓶の中の花片が、またひとつ、やわらかく揺れた。
けれどその日の夜、彼は少し熱を出した。
魔法演習のあとは、体も心も冷えていたのかもしれない。
勝ったとはいえ、あの場に立つことが、どれほど怖くて、苦しかったか。
わたしはこっそり医務室から冷湿布をもらい、彼の額に当てた。
彼は寝言のように、ぼそりと呟いた。
「……もう壊れたくなかっただけ、なんだ」
たぶん、それは自分自身に言い聞かせているのだろう。
誰かを守るためじゃなく、自分を守るために戦った。
わたしはその言葉を、何も言わず瓶の中に閉じ込めた。
翌朝、彼は何事もなかったかのように制服の襟を整え、
少し照れくさそうに「ありがと」とだけ言った。
その姿を見て、わたしは思った。
彼は“壊さない力”として存在している。
そしてわたしもまた、彼にとっての“壊れなかった誰か”になりたいと思っている。
わたしは、小瓶の蓋を開けて、あの夜に貰った花びらをひとつ入れた。
そこにはたったひとことだけ。
『——咲くまで、そばにいる』
花びらはふわりと瓶の底に沈み、やがてほんのかすかに、花のような香りが広がった。
それが、わたしの最初の“恋の祈り”だった。
◆ ◆ ◆
「ふむ、これで終わりだね」
教授――黒檀の棚の影に溶け込む細身の男――が指を鳴らすと、
砕けていた水晶の花瓶がゆるやかに再生し、紅い保存液で満たされてぴたりと封が閉じた。
ステンドグラス越しの夕陽が標本室を淡い茜に染め、澱んだ甘い香りが胸をざわめかせる。
「助かったよ、ダリア。素敵な恋だったね。これを保存するんだね?」
耳もとに落ちる囁きは菓子の糖衣のように柔らかい。けれど、その後ろに潜む意味は冷たい。
こくり、と私は頷く。
「では、こちらの瓶は捨てよう」
教授が指を鳴らすと、もう一つの瓶に微かな光の揺らめきが走った。
一瞬だけ、封じられた花が瓶の中で揺れたかと思うと、 ぱきり、と乾いた音と共に首もとからひびが走る。
ガラスはまるで泣くように細かく震え、そして――静かに、音もなく砕けた。
紅い保存液は光の粒となって空中に舞い、最後の香りを残して消えていった。
ふわりと漂った香りは、わたしの鼻先をかすめ、甘く、どこか切なかった。
それはきっと、誰かが願いながらも報われなかった恋。
自分の瓶が“保存”されたばかりのこの瞬間に、他の誰かの恋が壊されたことが、胸に鈍くのしかかる。
私のせいで――ではないと分かっていても、どうしようもなく痛かった。
「いっただろう? どの恋を終わらせるか選んでおくれと」
背後でそう告げる声に、わたしは何も返さず、ただ一礼だけ残して標本室を後にした。
足元には、砕け散った花の香りがまだ残っていた。 視線を落とせば、床にきらめく小さな光の粒が、いくつもいくつも散らばっていた。
それは誰かの“もう戻らない恋”のかけらだった。
瓶は壊れた。でも、記憶は残る。
わたしはその中から、ひとひらだけ床にこぼれ落ちていた赤い花びらを拾い上げた。
指先に触れたそれは、もう魔力を持たないただの花の欠片。
それでも、消えかけの熱をかすかに宿していた。
わたしはそれをポケットにしまった。理由なんてなかった。ただ、どうしても捨てられなかったのだ。
そしてその重さを、わたしは背中にひとつ分、増やして歩き出す。
旧校舎の回廊は長く静かだ。赤金に染まる石床を靴音がぽつ、ぽつ、と渡っていく。
そのとき、向こうから小柄な影が現れた。
肩までの栗色の髪、制服のスカートをぎゅっと握りしめた少女――カラーだ。
彼女は伏し目がちに歩き、私に気づくと立ち止まって浅く頭を下げる。
「こんばんは、ダリア先輩……」
声は羽虫が震えるほどのか細さ。抱えたノートの縁が指先で白く潰れている。
私は微笑み返しながら、ふと背後を振り返った。夕
闇に沈みゆく回廊の突き当たりには、たった一つ――さきほどまでいた扉しかない。
(この先には標本室しかないのに……)
胸がひそかに鳴る。けれど私は何も言えず、すれ違いざまに「ごきげんよう」とだけ囁いた。
カシャン。
遠ざかる足音の後ろで、扉の鍵が掛かる乾いた音がした。
振り向く勇気はなかった。夕陽はすでに紫紺へ溶け、長い影が私の足元を絡め取る。
手の中で心臓がこぼれそうに跳ねる。
私は歩き続けた。けれど耳の奥には、割れるガラスの幻聴がいつまでも微かに残っていた。
――純白の花びらは、決して触れられないまま揺れている。
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