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僕はあの日の海に出かけた。夏が間近だが天気は悪く、雨が降っていて、海辺には誰もいない。
今の僕には何も無い。何かがあるとしたら、それはあそこか。
僕は入り江に向かったが、満ち潮でその岩穴には入れなかった。
サーと傘を打つ雨の音。あの日と違って暗い砂浜。海はどんよりと煙って、近くにある島さえも見えなかった。
重い気持ちを抱えたまま僕はその場を離れた。階段を上がって浜から道路に出ると、白っぽいワゴンが止まっている。
雨が降るのに車のウインドウを開けていて、そこから飛び出した逞しい日焼けした腕が雨に濡れていた。ワゴンを避けてすれ違おうとしたら声をかけられた。
「あんた宮原……」
語尾がボソボソッと口の中で消えた。僕はワゴンの中にいる男を見た。
どこかで会ったような。そして思い出した。
折田だった。目許と口元に昔の面影が残っている。
「折田? お前、何してるんだよ」
「仕事で……、あんた帰って来たのか」
「会社、辞めたんだ」
折田は茫洋とした表情で車の中から僕を見る。
ああ、こいつはいつもこんな顔をしていた。
そのまま行こうとすると、折田はワゴンのウインドウから手を伸ばして僕の腕を掴んだ。
「今、暇か……」
「暇に決まってる」
「乗れよ」
「いや……」
「いいから」
思いがけず強引に折田はワゴンを降りて僕の腕を取り引っ張った。僕は少しもがいて、それから折田のワゴンに納まった。
折田のワゴンに揺られながらぼんやりとウインドウの外を見ていると、いつの間にか雨は小止みになっていた。灰色の雲の切れ間から所々夏の日差しが射るように落ちてきて、僕はあの日のことを思い出していた。
◇◇
その日、僕は高校受験用の参考書を買いに街に出たんだ。
商店街にある本屋で本を買って店の外に出ると、青空に黒い雲が急速に覆いかぶさって、大きな雨粒がポツリポツリと落ちてきはじめた。僕はせっかく買った本が濡れてしまうのが嫌で、本屋の店先に立ち止まって空を見上げた。
その時アーケードの方から男が出てきた。見たことのある顔だと思っていたら、その後から女が追いかけて来て男に何かわめきながら突っかかってゆく。
「何よ! あんたが悪いんじゃないの」
そう言ってバッグを振り回した。
降り始めた雨の中、そんなカップルのやり取りを誰も見る者はなく、足早に二人を避けて通り過ぎる。
女は男の態度が変わらないのを見ると、もう一度バッグを男にぶつけて、プイッと身を翻しアーケードの方へ駆けて行った。
男は走り去った女の方を見送って、空を見上げ、それからまだそこでぼんやりと男の方を見ていた僕に顔を向けた。
逃げる間もあらばこそ、正面から男と目が合った。折田だった。
折田はその場に釘付けになったように動きを止めた。
「濡れるぞ」
間が悪いし、頭の中ではどうしようと慌てていたのに、言葉だけがするりと僕の唇から零れ落ちた。
折田は目を見開いて唇を少し歪めた。身じろぎすると僕のほうにゆっくりと歩いて来て隣に立った。折田の濡れた腕が僕の肩の辺りに当たる。
見上げると「すまん」と低くぼそっと呟くように言って、僕から少し離れた。
相変わらず俯いてぼそぼそと喋る奴で、僕は何でこいつがもてるのかなと、また隣をちらりと見る。
降り止まない雨を見上げる切れ長の瞳。憂鬱そうな表情。伸びた前髪。高い身長。
「さっきの彼女?」
「別に……」
「何だよ」
折田の返事が気に入らなくてチラと横目に見ると、
「めんどいから……」
ボソッとした返事が返ってきた。
「いいよな、面倒になるほど女が来て」
折田は不服そうに僕の顔を見たが、しばらくジロジロ見た挙句、俯いてボソッと何か言った。
「何だって?」
「勉強……、教えてくれねえ、宮原。あんた、頭いいだろ」
「マジ?」
折田はブンブンと首を縦に動かした。折田の思いつきのような提案の意図が分からず、しばらくその顔を見上げたが、彼はただ茫洋とした顔で僕を見ているだけだった。
「別にいいけど……」
それからは何も話さず、僕たちは本屋の店先でただ雨の落ちてくる空と、濡れて水たまりを作ってゆくアスファルトを見ていた。雨が上がって、今日と同じように雲間から陽が射すように降り注いでくるまで。
◇◇
雨はまだ上がっていなくて部屋の中は暗かった。ひと気のない雑然とした部屋は前と変わらない。
部屋に上がった途端、押し倒された。折田のワゴンに乗ったときから、こうなるような気がしていた。
いや期待していたのか、僕は──。
この部屋で何度も折田と交渉を重ねた。
「止めろっ!! い、痛い!」
同じ悲鳴を上げた。
今の僕には何も無い。何かがあるとしたら、それはあそこか。
僕は入り江に向かったが、満ち潮でその岩穴には入れなかった。
サーと傘を打つ雨の音。あの日と違って暗い砂浜。海はどんよりと煙って、近くにある島さえも見えなかった。
重い気持ちを抱えたまま僕はその場を離れた。階段を上がって浜から道路に出ると、白っぽいワゴンが止まっている。
雨が降るのに車のウインドウを開けていて、そこから飛び出した逞しい日焼けした腕が雨に濡れていた。ワゴンを避けてすれ違おうとしたら声をかけられた。
「あんた宮原……」
語尾がボソボソッと口の中で消えた。僕はワゴンの中にいる男を見た。
どこかで会ったような。そして思い出した。
折田だった。目許と口元に昔の面影が残っている。
「折田? お前、何してるんだよ」
「仕事で……、あんた帰って来たのか」
「会社、辞めたんだ」
折田は茫洋とした表情で車の中から僕を見る。
ああ、こいつはいつもこんな顔をしていた。
そのまま行こうとすると、折田はワゴンのウインドウから手を伸ばして僕の腕を掴んだ。
「今、暇か……」
「暇に決まってる」
「乗れよ」
「いや……」
「いいから」
思いがけず強引に折田はワゴンを降りて僕の腕を取り引っ張った。僕は少しもがいて、それから折田のワゴンに納まった。
折田のワゴンに揺られながらぼんやりとウインドウの外を見ていると、いつの間にか雨は小止みになっていた。灰色の雲の切れ間から所々夏の日差しが射るように落ちてきて、僕はあの日のことを思い出していた。
◇◇
その日、僕は高校受験用の参考書を買いに街に出たんだ。
商店街にある本屋で本を買って店の外に出ると、青空に黒い雲が急速に覆いかぶさって、大きな雨粒がポツリポツリと落ちてきはじめた。僕はせっかく買った本が濡れてしまうのが嫌で、本屋の店先に立ち止まって空を見上げた。
その時アーケードの方から男が出てきた。見たことのある顔だと思っていたら、その後から女が追いかけて来て男に何かわめきながら突っかかってゆく。
「何よ! あんたが悪いんじゃないの」
そう言ってバッグを振り回した。
降り始めた雨の中、そんなカップルのやり取りを誰も見る者はなく、足早に二人を避けて通り過ぎる。
女は男の態度が変わらないのを見ると、もう一度バッグを男にぶつけて、プイッと身を翻しアーケードの方へ駆けて行った。
男は走り去った女の方を見送って、空を見上げ、それからまだそこでぼんやりと男の方を見ていた僕に顔を向けた。
逃げる間もあらばこそ、正面から男と目が合った。折田だった。
折田はその場に釘付けになったように動きを止めた。
「濡れるぞ」
間が悪いし、頭の中ではどうしようと慌てていたのに、言葉だけがするりと僕の唇から零れ落ちた。
折田は目を見開いて唇を少し歪めた。身じろぎすると僕のほうにゆっくりと歩いて来て隣に立った。折田の濡れた腕が僕の肩の辺りに当たる。
見上げると「すまん」と低くぼそっと呟くように言って、僕から少し離れた。
相変わらず俯いてぼそぼそと喋る奴で、僕は何でこいつがもてるのかなと、また隣をちらりと見る。
降り止まない雨を見上げる切れ長の瞳。憂鬱そうな表情。伸びた前髪。高い身長。
「さっきの彼女?」
「別に……」
「何だよ」
折田の返事が気に入らなくてチラと横目に見ると、
「めんどいから……」
ボソッとした返事が返ってきた。
「いいよな、面倒になるほど女が来て」
折田は不服そうに僕の顔を見たが、しばらくジロジロ見た挙句、俯いてボソッと何か言った。
「何だって?」
「勉強……、教えてくれねえ、宮原。あんた、頭いいだろ」
「マジ?」
折田はブンブンと首を縦に動かした。折田の思いつきのような提案の意図が分からず、しばらくその顔を見上げたが、彼はただ茫洋とした顔で僕を見ているだけだった。
「別にいいけど……」
それからは何も話さず、僕たちは本屋の店先でただ雨の落ちてくる空と、濡れて水たまりを作ってゆくアスファルトを見ていた。雨が上がって、今日と同じように雲間から陽が射すように降り注いでくるまで。
◇◇
雨はまだ上がっていなくて部屋の中は暗かった。ひと気のない雑然とした部屋は前と変わらない。
部屋に上がった途端、押し倒された。折田のワゴンに乗ったときから、こうなるような気がしていた。
いや期待していたのか、僕は──。
この部屋で何度も折田と交渉を重ねた。
「止めろっ!! い、痛い!」
同じ悲鳴を上げた。
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