はにとらマリッジ

桔梗楓

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1巻

1-2

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 すると紗月さんが建物の入り口のドアを開けながら、心配そうに振り返った。

「どうしました。疲れましたか?」
「いっ、いいえ! 体力だけはありあまってるんで、大丈夫……じゃなくて! も、問題、ないですわ。……オホホ」

 口に手を当ててお嬢様っぽく笑ってみると、紗月さんがなぜか私をまじまじと見てから、「そうですか」と言った。
 やばいな。こんな調子で、私はやっていけるのか。お嬢様のフリをするのがこんなに難しいとは思わなかった。無意識のうちに、ちょっとした仕草での自分が出てしまう。
 でも、後戻りすることはできない。家族のため、工場こうばのため、私はなんとしても、この完璧美形の御曹司を籠絡ろうらくしなければならないのだ。
 ごごご……と気合いの炎を燃え上がらせ、紗月誠の背中をにらみつける。すると、彼がまたクルッと振り返った。私は慌てて笑みを浮かべる。ちょっと顔が引きつったかもしれない。

「まずはメンバーに紹介して、部署内を案内しますね。それから守秘義務についての誓約書を確認していただきます。その後は、さっそく仕事に入ってください」
「わかりました」
「それから北條さん。ひとつ質問してもよろしいでしょうか」
「はい、なんでしょう?」

 軽く首をかしげた。今のは、お嬢様らしい仕草だった気がする!

「失礼を承知でうかがいますが、あなたは、うちの株主である北條家の関係者なのでしょうか。あなたが契約社員として入社することになった経緯を調べたところ、どうも最近入社した他の社員の情報と紛れてしまったようで、素性調査が曖昧あいまいなんですよ」

『北條美沙』がどのようにして紗月重工に入社したのかは、専務によって隠蔽いんぺいされていると聞いた。彼や北條家が桂馬重工に手を貸したというのは、絶対にバレてはならない秘密なのだ。
 私は鷹野さんからもらった指示書の内容どおり、返事をする。

「はい、私は北條家の娘です。父の教育方針で、幼少の頃から海外で生活していました。最近日本に帰ってきたのですが、よいご縁があってこちらに入社させていただきました」
「ふぅん。……よい、ご縁、ね」

 紗月さんは私から視線を外し、意味ありげにつぶやく。「どうかしましたか?」と聞くと、「なんでもありません」と微笑まれた。

「ずっと海外で過ごされていたのですね。北條家とは何度か食事をご一緒したことがあったのですが、あなたにお会いした記憶がなかったもので、不思議だったのです」
「そ、そうなんですよ。びっくりされたでしょう。オホホ」
「ちなみに、どの国で暮らしていたんですか?」
「えっ」

 想定外の質問に、体が固まった。どの国……どの国だ? 指示書には『海外』とだけ書かれていて、国名の指定はなかった。ええと、どうしよう。どこにしたらいいんだろう!

「カ、カーボベルデです!」
「カーボベルデ」

 私の答えを繰り返す紗月さん。
 たらりと冷や汗が流れる。つい、先週テレビの旅番組で観た国の名を口走ってしまった。私がカーボベルデについて知っていることなんて、テレビで数十分流れた情報しかない。
 私が心の中で焦っていると、彼は「なるほど」とうなずく。

「アフリカ大陸の西側、大西洋に浮かぶ島国ですね。自然が豊かな国だと聞いています」
「そ、そうなんですよ。のんびりしたところで」
「確か公用語はポルトガル語ですが、実際にはその言語がクレオール化したカーボベルデ・クレオール語が広く使われているのですよね。うちは海外事業も展開していますので、カーボベルデと取り引きする機会があれば、是非、北條さんの知識を貸してください」
「は、はい。どんとお任せくださいませ。オホホ」

 どうしよう。ポルトガル語もカーボベルデナントカ語もまったくわからない。本当にかの国と取り引きするようなことになったら、私は全力で逃げるしかない。

「では、こちらが設計開発部になります。みなさん、集合してください」

 建物に入るなり、紗月さんが声を上げた。その声で、中にいた人たちが集まってくる。

「今日から、うちで働いてもらう北條美沙さんです。自己紹介は各自で適当に済ませてくださいね」
「は、はじめまして。北條美沙です。よろしくお願いいたします」

 挨拶あいさつをしてから周りを見る。設計開発部の人数は紗月さんを合わせて十人らしい。大企業のわりに少ないような気がする。機密情報の多い部署だから、少数精鋭って感じなのかな。

「部長~。北條さんって、北條さんですかあ?」

 妙にだらりとした声が飛んできた。声がしたほうを見ると、明るい茶髪で吊り目の男性が、ポケットに手をつっこんで立っている。

「そう、北條さんです。彼女は幼少から海外で暮らしていたようで、最近日本に戻られたそうですよ」
「ふぅん、北條さんにはもうひとり、娘がいたのね。初耳だわ」

 紗月さんの説明にボソッとつぶやいたのは、部署内で唯一の女性。彼女は私を興味深そうにまじまじと見てくる。私は居心地の悪さにうつむいた。
『もうひとり、娘がいた』ということは、北條家には本物の令嬢がいるのだろう。そんな話、資料にはまったく書いていなかった。驚くと共に、本物について尋ねられたらどうしようと身がすくむ。

「そんなわけですから、みなさん、くれぐれも『大人の対応』でよろしくお願いしますね」

 ニッコリと紗月さんが微笑み、全員が「は~い」と間延びした返事をした。
 ……なんだか、独特というか、大企業という感じのしない雰囲気だ。

「さて、北條さん。この建物の中を案内しますね。それから守秘義務の誓約書を書いていただき、仕事内容についてもう少し詳しく話をします」
「わかりました」

 私が返事をすると、紗月さんはさっそく歩き出した。部署のメンバーはそれぞれの仕事に戻っていく。
 ……どうやら、設計開発部は北條家と所縁ゆかりありそうだ。紗月さんの物言いも何かを含んだような感じがしたし、過去に何かあったのかもしれない。

「この建物は、一階に設計室と仮眠室、休憩室があり、二階に実験室、会議室があります。北條さんの仕事は、主に一階で事務仕事をしていただくことです」
「はい」

 説明しながら歩く紗月さんの後ろに続いて、二階への階段をのぼる。内装は白を基調としていて、清潔感があった。しかも、一階の半分くらいが吹き抜けの天井になっていて、天窓から日が差し込んでいる。
 私が天窓をジッと見ていたからか、紗月さんも同じように天井を見た。

「この設計開発部は去年に改装しましてね。吹き抜けの天井と天窓は、私の提案で取り入れてもらいました」

 私は「なるほど」とうなずく。

「これなら、日中は自然光が照明代わりになりますし、電気代が浮きそうですね。節電効果は出たのでしょうか?」

 そう聞くと、なぜか紗月さんは私をジッと見た。な、なんだろう、変なことを言ったかな。
 けれど、彼はすぐにニッコリと微笑む。

「はい、目に見えて効果がありましたよ。また、吹き抜けの天井は開放感もあるので、リラックスしやすいという利点がありましたね」
こんを詰めて仕事をしても、いい結果が出ないこともありますからね」
「ふふ、そうですね。でも、逆に閉塞感のある部屋でじっくり仕事がしたいという意見もあって、うちは個室も用意しているんですよ」
「気分に合わせて仕事ができるのはいいですね。自分を追い込みたいという気持ちもわかります」

 さすが大企業だ。社員目線で職場を作っている。社員がよりよい仕事ができるように、いろいろと工夫されているらしい。私が感心してうなずいていると、紗月さんはクスクスと笑い出した。

「わかるんですか? 自分を追い込んで仕事をしたい気持ちが」
「え?」

 笑われた理由がわからない。きょとんとした私に、彼は首を横に振る。

「いえ、なんでもありません。さて北條さん、こちらが二階の実験室です。企業秘密が多いもので、今は少しお見せする程度ですが」

 白いドアを開けて、部屋を見せてくれる。入り口の内側に、付着したちりほこりを除去するエアシャワーが設置されていた。その奥にはガラス張りの実験室があり、最先端の工作機械が並んでいる。
 すごい、さすが大企業だ。もっと近くで見てみたい。私が身を乗り出すと、紗月さんは再びクックッと笑い出した。さっきから、私の言動について笑われてる気がするんだけど、どうして? 
 私が不安になって彼を見上げると、「すみません」と謝られた。

「随分と機械がお好きなのですね。北條家の方は、機械に興味がないのだと思っていました」

 北條家の人間が機械に興味があったら、変なのだろうか。なんだか妙に意味深に言われ、私は慌ててしまう。

「えっ。……あっ、あー……そ、その、海外育ちなものですから! ドミニカ共和国で!」
「さっきカーボベルデっておっしゃっていませんでしたか?」

 間違いなく、話すたびにボロが出ている。

「あっ、えっと、て、転々としていまして、その」

 私がしどろもどろになりながら取りつくろうと、紗月さんはドアを閉めて「ドミニカ共和国に住んでいたなら、スペイン語も堪能なんですね」と言った。
 どうしよう、またドツボにはまった気がする。もちろんスペイン語なんてできない。
 ――施設の中を見たあとは、会議室で守秘義務についての説明を受け、誓約書にサインをした。かいつまんで言えば、この部署で見聞きしたことを外にらせば、相応の処罰を受けるという内容だ。
 私はサインをして『北條美沙』の社員証を手渡されながら、少しだけホッとした。私がスパイであることに違いはないけれど、言い渡された指令は、あくまで紗月さんをたらしこんで情報を聞き出すこと。この部署内でドロボウみたいなマネをする必要はないと思うと、肩の力が抜けた気がする。
 しかし、私はどうすれば紗月さんを口説くどき落とせるのだろう。
 苦悩しながら紗月さんの後ろを歩いていると、彼は一階に戻り、デスクが並ぶスペースに移動した。

「さっそくですが、今日は北條さんのスキルを確かめさせてください。なにせ、あなたに関する資料がまったくないものですから、何をお任せしたらいいのかわからないんですよ」
「はー? よくそんな契約社員をうちの部署に配属したね。いくらうちが人手不足だって言っても、人事部は何を考えてるの?」

 横から声が飛んできた。見れば、先ほど挨拶あいさつした時も話しかけてきた、茶髪の男性だった。

「こら、手島てじま。相手は北條家のご令嬢よ。さっき紗月部長から注意されたばかりでしょ」

 彼をたしなめたのは、部署唯一の女性社員。手島と呼ばれた男性は「すみませんねえ」と心にもなさそうな謝罪をし、パソコンに顔を向ける。

「申し訳ありません、うちの部署はちょっと独特な社員が揃っていまして。気分を悪くしていませんか?」

 心配そうに尋ねてくる紗月さんに、私は慌てて手を横に振った。

「いいえ! こちらこそ、いろいろ気を遣わせてしまってすみません。あの、私に何ができるかわかりませんが、できる限りのお手伝いをさせていただきます」

 そう言うと、なぜだか部署内がざわめいた。メンバー全員が目を丸くして私を見ている。
 な、なぜ、そんな反応をするんだ。変なことは言っていないよね!?
 すると、紗月さんは優しく微笑んだ。そして私の背中を押し、いた席に座るよううながしてくれる。ここが私のデスクらしい。

「北條家の方からそんな言葉を言ってもらえたのは、初めてですよ。嬉しいです」

 紗月さんの言葉に妙な引っ掛かりを感じる。彼はさっきも『北條家の方』に何か思うところがあるような言い方をしていた。
 けれどその意味を考えるもなく、彼は話を変えた。

「さて、時間もないので、はじめましょう。設計図面の模写はやったことがありますか?」
「はい」
「……え、やったことがあるんですか? やり方を教えなくてもできますか?」

 念を押すように紗月さんが尋ねる。彼は動揺しているみたいだけど、なぜかわからない。おかしなことを言っていないよねと考えつつ、私はうなずいた。

「で、できますけど、だめなんですか?」

 声が震える。北條家の令嬢は、図面を引けてはいけないのだろうか……
 その時、茶髪の男性――手島さんが、ぶはっと噴き出した。

「こら、手島!」
「ごめん、刈谷かりや。でも、限界で」

 手島さんが女性社員――刈谷さんに謝る。
 私はうかがうように紗月さんを見上げた。図面が引けるということで、私が北條家の令嬢でないとばれたのだろうか。初日で失敗するなんて、目も当てられない。
 紗月さんは嬉しそうに微笑むだけで、特に私を疑うような言葉は言わなかった。

「すみません。少し驚いてしまいましたが、即戦力になってもらえそうで、とてもありがたいです。では、スキルを測りますので、模写をしてください。出来上がったら、あちらの女性社員の刈谷に見せてくださいね」
「わかりました」

 私の席の斜め前に座る刈谷さんに頭を下げると、彼女は「よろしくね」と笑顔を向けてくれた。
 私はパソコンを立ち上げ、さっそく作業をはじめる。
 そして黙々と模写を進めつつ、考えこんでしまった。紗月さんと同じ部署に配属されたのはいいが、ここからどうやってアプローチをしたらいいのか、さっぱりわからない。とりあえずお昼に誘ってみるとか? それとも数日は様子見に徹するべき? そんなことを頭の端で考えながら、マウスを動かして図面を引き続ける。
 しばらく作業をして、図面の模写が終わった。

「ふぅー」

 長い息を吐き、りをほぐすように肩をむ。ちょっと難しい図面だったけど、普段は見ない形のものだったから面白かった。知らない部品の構造を見るのは楽しいな。

「よし。刈谷さ……あれ、二時!?」

 顔を上げると、壁にかけられた時計は二時を指していた。図面を引きはじめたのは、朝の九時半くらいだったから――四時間近く図面を引いていたの?
 あたりを見ると、私ひとりが立ち上がっていて、設計開発部のみんなに注目されていた。恥ずかしくなって「スミマセン……」と小さく謝り、椅子に座る。
 すると、斜め前からクスクスとしのび笑いが聞こえた。刈谷さんだ。

「ごめんね、北條さん。お昼に誘ったけど、返事がなかったからそのままにしちゃったの。すごい集中力で、感心しちゃった」
「私の悪いくせなんです。集中すると周りの音が全然聞こえなくなってしまって……。せっかく誘ってくださったのに、すみません」

 つい図面と考え事に夢中になっていた。私が謝ると、刈谷さんは「いいのよ」とニッコリ笑ってくれる。

「それだけ集中して取り組んでたのよね。謝らなくていいわ。これからは肩を叩いて誘うわね」

 彼女の言葉に私はホッとした。そして出来上がった図面をプリントアウトして、刈谷さんに見せる。彼女はパソコン用の眼鏡をはずすと、「どれどれ」と見てくれた。

「へぇ~うまいものね。文句なしの出来よ。明日から、図面の清書をお願いするわね」
「はい、わかりました」
「あと、ミーティングの議事録の作成とか、雑用をいくつか頼もうと思っているの。でも、その日にできる範囲でいいからね。基本的にウチは残業禁止よ」
「そうなんですか?」

 刈谷さんは「ええ」とうなずく。

「社長の方針なの。残業しなくてはいけないほど仕事があるのなら、残業をしなくて済むシステムを構築するよう、それぞれのチームで検討せよってね」
「なるほど。人手が足りなければ、私のように臨時で雇い入れたりするんですね」
「そういうこと。それじゃあ、少し遅くなったけど、北條さんはお昼ご飯にしたらどう?」
「はい。では、お言葉に甘えますね。お弁当を持ってきていまして、食事をしてもいいスペースはありますか?」

 バッグからお弁当箱を取り出すと、刈谷さんはマジマジとそれを見た。

「北條さん。それ、自分で作ったの?」
「はい」

 そこで、手島さんがなぜか「クック……」とこらえきれないという様子で笑い声を上げた。彼は私の行動をよく笑う。きっと彼は、私のお嬢様らしくないところを笑っているんだろう。
 つまり、彼が笑う時は、私が令嬢として間違えているということだ。そう考えると、私の振る舞いについて今後の参考になる気がした。今夜は反省会をして、しっかり改善と対策を考えよう。

「そこの休憩室で食べるといいわ。自販機はフリードリンクで、社員証をかざせば自由に飲めるわよ。あと、ビルのほうには五階に食堂があって、二階にはカフェもあるからね」

 刈谷さんが丁寧に教えてくれる。私は礼を言ってからしずしずと休憩室に移動し、遅いお昼休みを取るのだった。


 お昼休みの後、刈谷さんが指示してくれた細々とした仕事をやっていると、あっという間に終業時間になった。

「お疲れ様。終業時間になったら、残った仕事は次の日に回してね。スケジュール的にどうしても厳しいものがある場合は、その都度つど相談して。今日お願いしたものは急ぎじゃないから、続きは明日進めてね。今日はもう帰って大丈夫よ」

 刈谷さんの言葉にうなずいて、私は帰り支度をはじめる。周りを見れば、みんなも片付けをしていた。
 本当に残業のない会社なのだと驚く。工場こうばでは毎日のように残業をして、納期と格闘していたというのに。やっぱり大企業は余裕があるというか、悠々とした雰囲気があってうらやましい。
 そんなことを考えながらバッグを肩にかけたところで、「北條さん」と声をかけられた。声がしたほうを向くと、そこには紗月さんが立っている。

「もしお時間がありましたら、夕食をご一緒してくれませんか?」
「……え?」

 ぽかん、と紗月さんを見上げた。帰るところだった他の社員も、興味深そうにこちらを見ている。
 紗月さんは、ほれぼれするほど爽やかな笑みを浮かべて言葉を続けた。

「後日、設計開発部のみんなで正式な歓迎会を開こうと思っているのですが、今日のところは私に付き合ってもらえませんか? 上司として親睦しんぼくを深めておきたいんです」

 紗月さんのお誘いに、私は密かに感動した。お金持ちで、社長である親の仕事を継ぐような立場の人は、傲慢ごうまんな人が多いのだろうと、思い込んでいたからだ。
 けれど彼は大企業の社長の息子であるにもかかわらず、おごったところがまったくない。それに、言葉遣いが丁寧で態度も柔らかく、とても部下思いな人だ。人柄のよさが全体からにじみ出ている。
 私はこんなにいい人をだまして、たらしこんで、情報を聞き出そうとしているのか。
 そう気がつくと、自分という存在がとても汚く思えて、嫌悪感でいっぱいになる。こんなことはしたくない。そんな思いが心をよぎったけど、奥歯をんで踏みとどまる。
 私がここにいるのは、両親と工場こうばのため。私はみんなを守りたくて、この話を引き受けたのだ。
 それなら、後戻りしてはいけない。紗月さんの誘いを、チャンスだと思わなければ。

「わかりました。ご一緒させてください」

 そう返事をすると、紗月さんは嬉しそうに目を細めて「じゃあ、さっそく行きましょう」と私をうながした。彼は車通勤だと言うので、設計開発部の建物を出て、駐車場まで一緒に歩く。
 ……なんだろう。妙に視線を感じるのだけど……
 思わずあたりを見回すと、ビルから出てきた社員のほとんどが私たちを見ていた。中には私をにらみつける女性もいる。

「やはり、目立ってしまいますね」

 紗月さんは苦笑まじりにそう言った。少し困ったような表情だ。

「部長はいつも、社内で注目されているんですか?」
「そうですね。ですが、今日は北條さんのほうが見られていると思いますよ。なにせあなたは、紗月重工において社長の次に影響力があると言われる北條家のご令嬢ですからね」
「あ……、そ、そう、ですよね」

 私はうつむき、どぎまぎしながら相槌あいづちを打つ。忘れていたわけじゃないけど、私はこの会社において、紗月さんと同じくらい目立つ肩書きだといつわっているんだ。

「みんなが噂していますよ。あなたが私の婚約者で、社会見学のために入社したのではないかと」
「こ、婚約者って。それに、社会見学で入社って……ちょっと失礼な話ですね」
「ふふ。それなら、あなたはどんな気持ちでこの会社に入ったのでしょうか?」

 駐車場まであと少し。たくさんの視線を浴びているのに、紗月さんは悠々とした雰囲気で聞いてくる。彼にとっては、こんな視線は日常のことなんだろう。
 一方の私はどうしても慣れない。居心地悪く感じつつ、どう質問に答えようか考えた。
 私の本当の目的は、紗月さんにハニートラップを仕掛けること。でもそんなことは言えるはずがない。
 それなら、社会人としてはどうだろう。私は今の部署に入って、何を感じたか――

「私がこの会社に入ったのは、お給料という対価に見合う仕事をするためです。会社をひとつの完成品と考えるなら、私はその一部を支えるネジのようなものでしょう。それならネジとして、目の前にある仕事を果たしたい。だから、社会見学のつもりはありません」

 紗月さんがぴたりと立ち止まった。私も足を止め、不思議に思って見上げると、彼は口元を押さえてうつむき、肩を震わせている。……これは、笑いをこらえているのかな。

「な、なんですか。私、変なことを言いましたか?」

 今日は他人によく笑われる日だ。思わず眉をひそめると、彼は何かをごまかすように手を振り、再び歩きはじめた。私は慌ててその後を追う。

「い、いいえ。まったく変ではありません。むしろ素晴らしい。あなたは素敵な人だと思って、笑ってしまったんですよ」

 なんだそれは。まったく意味がわからない。どうして素敵だと思って笑うのか……ん、素敵?
 待って、素敵ってどういうことだろう。それって、私を好意的に見ているということ?

「あ、その、部長」
「はい? あ、着きましたよ。この車です。乗ってください」

 紗月さんの真意を聞き出そうとしたところで、彼は車の助手席のドアを開けてうながしてくれる。
 私がおとなしく車に乗り込むと、紗月さんは運転席に乗り込み、車を出した。
 上司が部下とふたりきりで食事をするというのは、よくあることなんだろうか。こうやって車に乗って出かけるのも、一般的なことなのかな。高校を卒業してすぐに実家の工場こうばに就職した私は、他の職場を知らない。妙に落ち着かないし、ドキドキしてしまう。
 車は国内メーカーの有名な高級車で、シートの座り心地が非常によく、エンジン音や振動もほとんどない。おまけに、品のいい香りがして、お洒落しゃれな気分になってきた。
 すごいなぁ、御曹司はこんな車に乗れるんだ。

「今から行く店は、北條家がよく使う店に比べたら大衆的かもしれませんが、味は保証しますよ。ところで、そんなにキョロキョロして、何か珍しいものでもありましたか?」
「いいえ! えっと、す、素敵な車だなぁって思ったんです」
「ありがとうございます。あなたのお父上の愛車に比べれば地味な車ですが、シンプルな内装が気に入っています。それに、この車には紗月重工が開発したエンジンが入っているんですよ」
「そうなのですか? すみません、勉強不足で……」

 私が紗月さんを見ると、彼は横目で視線を寄越し、静かに微笑む。

「謝らなくていいですよ。車種を見ただけで、そこまでのことは普通わかりませんしね。ちなみにすべてうちで開発したわけではなく、海外のメーカーと共同で研究したものなんです。従来のものより、排出ガスのクリーン化に成功したエンジンでして」
「へえ~! すごいですね。きっと様々な試行錯誤しこうさくごがあったんでしょうね」

 ついうっとりしてしまう。この車に搭載されたエンジンには、見たこともない技術や、アイディアが詰まっているんだろうな……

「北條さんは、こういう機械の話が好きなんですか?」
「……はい。好きですね。エンジン……バラしてみたいなぁ……」

 頭の中で夢のようなエンジンを想像しながら、ぼんやりと答える。すると紗月さんがくすりと小さく笑う。私はハッと我に返った。

「う、嘘です!」
「え、嘘なんですか?」
「はい。エンジンをバラしたいなんて、少しも思っていません! わ、私が好きなのは、お洒落しゃれな洋服とスイーツです!」

 昨日雑誌を見て必死に考えた『北條美沙』の設定を口にする。そう、私はお嬢様なんだ。北條家の令嬢はエンジンをバラしたいなんて思わないだろう。……たぶん。
 女性向けの雑誌をいくつか読んでいたら、ほとんどがお洒落しゃれな洋服の紹介と、季節のコーディネートで埋め尽くされていた。また、人気のスイーツが特集された雑誌もあったので、おそらく年頃の女性は、お洒落しゃれな洋服とコーディネート、スイーツに傾倒しているのだ。それならきっと北條家のお嬢様も好きなはず。
 私が必死になって言いつのると、紗月さんはクックッと肩を震わせた。

「そうですか。今から行くお店は、流行はやりのスイーツもあると思うので、よかったらどうぞ」
「は、はい。是非!」

 膝に乗せた手をギュッとにぎって答える。お嬢様のフリは、難しすぎる。本当に私は、紗月さんをだませているのだろうか……


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