極秘溺愛

桔梗楓

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1巻

1-3

 ラトもこれ以上ハシムを責めるつもりはないのか、何事もなかったかのように話を続ける。

「私はすぐに意識を取り戻したものの、やはり気持ちが落ち着かなくてね……。仕方なく、ハシムに見守りを頼んで、ホテルの外に出た。満開の桜の下、君を想いながら待ち続けて、ようやく君はホテルから出てきてくれた」

 聞くも涙、語るも涙、というように、ラトは人差し指でそっと目元を拭う。
 本当にどこまで本気なのだろう。実優は嘘泣きかなと思ったが、彼の目じりは光っていた。

「しかし、残念なことに、もうすっかり日は暮れていたんだ。夜道を歩く女性にいきなり初対面の男が声をかけたら、当然の話だけど警戒するだろう?」
「そ、それはまあ、そうですね」
「しかし、私はどうしても我慢できなかった! 君にコンタクトを取りたかった。次の再会でスムーズにお近づきになりたいという魂胆があったからね! だから、魔法をかけることにしたんだ」

 実優は呆気あっけにとられる。
 まさか、昨日スカーフを飛ばして『魔法』などと言い出したのは……

「魔法なんて言ったら絶対に不思議がるだろう? その時点で私は『怪しい男』ではなく『謎の男』になる。謎は、少なからず解きたくなるのが人情だ。つまり、私は実優に少しでも興味を持ってもらうために、魔法なんて言葉を使ったんだよ」
「な、なるほど。ようやく……理解しました……」

 思わず実優は脱力してしまって、がっくりとテーブルにひじをつく。話を聞いたら妙に疲れてしまった。ラトという男は予想以上に奇妙な男である。

「でも、どうして私なんかに興味を持ったんですか?」
「もちろん可愛いからに決まって――」
「そういうお世辞はいりません」

 キッパリ拒否すると、「ぶはっ」とハシムが噴き出す。
 まったく、可愛いだのなんだのと、調子のいいことを言われてもずかしいだけだ。実優は困った顔で咳払いをすると、水をひと口飲む。

「何か他に魂胆があるんじゃないですか? でなければ、私みたいな面白みのない人間に近づく理由がありません。見た目だって、自分で言うのもなんですが、魅力的とは言えませんし」
「それはない。絶対に違うと断言するよ」

 自分の言葉を真っ向から拒否されて、少しいじけた様子を見せていたラトは、唐突に真面目な顔をして、正面から実優を見つめる。

(ま、またあの瞳……。直視できないから、まっすぐ見ないでほしいのだけど……)

 自分はどうしてもラトの瞳に弱いようだ。昨日出会ったラムジの碧眼へきがんはまったく気にならなかったのに、不思議だと思う。

「実優、君は自分の魅力に気づいていないだけで、とても綺麗きれいなんだよ。それに、仕事をしている実優はさらに素敵で、私はますます好意を持ったんだ」
「え……? た、単に仕事をしていただけなのに、どういうことですか?」

 面食らった実優が尋ねると、ラトはくすっと笑って人差し指を唇に当てる。

「それは内緒だ。君の素敵なところは、私だけで独占したいからね」
「なっ!? あ、あう……」

 ぷしゅーと頭から湯気が出そう。
 今まで真面目に生活することだけが取り柄だった実優は、色恋沙汰とは縁遠い人生を歩んでいた。自然と、自分はそういう華やかな世界にはほど遠いのだと思い、恋をすることもなかった。
 だからこそ、混乱してしまう。こんな風に言われるのは、生まれて初めてだから。

「本当に実優は照れ屋だな。そういうところもたまらない。やはりこの出会いは運命なんだろう。いっそ君を捕まえて、誰も知らないところに連れ去りた――」
「オホン!」

 唐突に、ハシムが咳払いをする。
 いつの間にかラトにじりじりと迫られていた実優は、慌てて彼から距離を取った。

(あ、危なかった。なにがどう危険かわからないけど、ものすごい身の危険を感じたわ……)

 ぜいぜいと息を整える実優に、ラトが困ったような笑みを浮かべる。

「残念。ここにはハシムがいるんだった」

 実優は心からハシムに感謝した。ラトは気さくで人懐こくて話していても楽しい人だが、油断した途端、彼のペースに乗せられてしまいそうな空恐そらおそろしさがある。

「まあそういうわけで、もうしばらくは日本にいる予定だから、気が向いた時にでも私の誘いに乗ってほしいんだ。食事とか、デートとかね」
「そっ、そういうのは、絶対に気が向かないと思います!」
「大丈夫。私のあきらめの悪さはセルデア一だと言われているから。実優が頷くまで、私は星の数ほど誘ってみせよう。君のためなら、愛の奴隷と言われても本望だ」
「ア、アイのドレイって」

 どんな頭の構造になったら、そんな言葉が出てくるのだろう。

(やっぱり外国人の男の人って、気障きざ台詞せりふずかしくないのかしら。怖すぎる……)

 甘い言葉に免疫のない実優は、はいともいいえとも言えず、ハハハと乾いた笑いを零すのが精一杯だった。


   ◆ ◆ ◆


 今日の仕事もつつがなく終わって、実優はため息をつく。
 なんだか今日は、さっさと家に帰ってのんびり過ごしたい。
 ラトとの昼食は半分楽しかったが、もう半分はやけに疲労してしまった。
 相手が王子様みたいに素敵だからか、どうしても緊張してしまうし、彼は息を吐くように甘い言葉を実優にかける。

「あれは外国人特有なのか、セルデア人がそうなのか、もしくはラトの性格なのかな」

 帰り道、実優は苦悶くもんの表情でブツブツと呟く。
 昨日、ホテルで会ったラムジ王子の印象は最悪だったが、同じセルデア人であるラトは話しやすかったし、セクハラも女性蔑視べっしの傾向もまったくなかった。さりげなくエスコートしてくれるし、さらりと褒めるところはずかしいからやめてほしいが、親切で心優しい人だと思う。

(王子様と庶民の違いってやつかな。王子様が傲慢ごうまんなだけで、一般のセルデア人はまともな人が多いのかも)

 それにしても失敗したと、実優は頭を抱えた。

「まさかお昼をご馳走してもらうなんて……!」

 昼食を終えたあとに、ラトと一悶着ひともんちゃくあったのだ。カードでまとめて払いたいからお代はいらないと言うラトに、自分の分は払いますと実優はお金を用意しようとした。
 しかし、その手はラトに取られて、さらに手の甲にキスまでされてしまう。実優は悲鳴を上げて飛び退いた。

「それなら、代わりにディナーをご一緒してもらおう」
「さっ、早速誘うつもりですか!?」
「当然だ。これからの私はいつだって、実優をデートに誘う口実を探すつもりだからね」
「それなら余計に、ここでお金を払わせて頂きます!」

 実優は財布を開けて紙幣を取り出す。そしてパッと前を向くと、そこにラトはいなかった。……いや、街路樹の並ぶ歩道のずっと向こうにいて、実優に手を振っていた。

「じゃ、そういうわけで、約束だよ!」
「かっ、かっ、勝手に約束にしないでください!」

 ぎゅっと紙幣を握りしめて実優が非難の声を上げるも、彼は余裕の笑みで唇に人差し指を当てて、実優に向かって指を差し出す。いわゆる投げキッスだ。普通の男性がやったらドン引きの仕草だが、見た目が美しいラトがやると何ともサマになる。
 実優が顔を赤くして手をぷるぷる震わせていると、すぐ近くにハシムがいることに気がついた。
 彼はまるで実優に同情するかのような目でジッと見ていたが、やがて軽く会釈えしゃくして、ラトが去った方向に歩いて行った。
 呆然と立ち尽くす実優は、いつの間にかお昼をご馳走されて、しかもディナーの約束までするはめにおちいってしまったのだ。

「はあ……」

 昼のことを思い出した実優は、げんなりと肩を落とす。
 自分の人生は、海の波に例えるとなぎのようだと思っていた。波乱は起きず常に平坦で、それはつまらないかもしれないが安穏あんのんで、平凡な自分には上出来な人生だと。
 しかし、昨日からなんだかおかしい。人生という名の歯車が突然交換されたような違和感がある。自分は、ラトみたいな素敵な人に興味を持たれるような女ではないはずなのに。

「とにかく家に帰ったら、適当に料理して、録画したドラマでも見て……」

 そんなことを呟きながら歩いていると、ふと、自分のすぐうしろで靴音が聞こえた。

「えっ?」

 驚いて振り返る。だが、そこには誰もいない。

「気のせい……かな?」

 首を傾げる。実優はふたたびアパートに向かった。
 コツコツ、コツコツ……
 実優がローファーの靴音を鳴らして歩く。
 コツコツ、コツ、コツコツ、コツ。

「やっぱり誰かいる!?」

 勢いよく振り返った。しかし、実優の視線の先にあるのは、夜のとばりが下りた薄暗い夜道だけ。電柱の上に設置された防犯灯が、ぼんやりとアスファルトを照らしていた。

「なに、なんなの……?」

 えも言われぬ気味の悪さを感じた実優は、はじけたように走り出す。
 はっはっ、はっはっ。
 自分の吐息と速い靴音を聞きながら、必死に走り続ける。全速力でアパートに戻るとドアを開けて、勢いよく閉めた。カチリと施錠して、おそるおそるドアスコープから外をのぞき見る。

(……誰もいない。やっぱり気のせいだったのかな?)

 息を整えながら考える。靴音が二重に聞こえたのは、実優の靴音が近くのブロック塀に反響しただけかもしれない。

(そ、そうよね。びっくりした……。だいたい、私のあとをつける人なんているわけないじゃない)

 だんだん自分にあきれ、つい笑ってしまう。

「自意識過剰ってやつかな。うん。……まあ、物騒な世の中ではあるから、百パーセントありえない話ではないけれど、今回はそうだったのよ」

 自分の言葉に納得しつつ、防犯意識は大事だと思い直して、実優はドアチェーンをかけてリビングに入った。
 ――しかし、その奇妙な違和感は、翌日になっても、その次の日になっても続いた。
 最初こそ「気のせいだ」と思い込んでいても、あからさまに複数の靴音が聞こえたり、アパートの近くで不審な人影を見つけてしまっては無視できない。
 極めつけは、自分のアパートの玄関ドアだった。
 安普請やすぶしんではあるが、それなりに頑丈に作られたドアで、鍵はシリンダー錠になっている。
 その鍵穴が傷だらけになっていて、ぎょっとした。
 明らかに第三者が鍵穴をいじった跡。さすがに明確な恐怖を感じた。
 しかし、理由がわからない。実優はお金持ちではないし、目立つ風貌もしていない。

(いや、私をつけ狙っているのが強盗のたぐいなら、ターゲットは誰でもいいのかも)

 なんにせよ、無視できる状況ではない。さりとて、どうしたらいいのか。
 帰り道に違和感を覚え始めてから五日が過ぎて、実優は会社で見積書を作成しながら悩んでいた。
 その時、正午を知らせるチャイムが鳴る。お昼休みだ。
 実優は途中だった作業をきりの良いところまで進めてから、財布を持って会社の外に出た。今日は弁当を作っていないので、コンビニで昼食を調達するのだ。

「やあ、こんなところで会えるなんて奇遇だね」

 歩道に出た瞬間、声をかけられてぎょっとした。
 声がした方向を見ると、ラトが会社の柵にもたれて、ニコニコ笑顔で片手を上げている。ちなみに彼の隣には、ハシムが相変わらずの仏頂面ぶっちょうづらで立っていた。

「ラト! そういえば、しばらく顔を見ないと思っていましたが、まだ日本にいたんですか」
「ひどいな! しばらく日本にいると言ったじゃないか。でも、嬉しいよ。少しは私のことを考えてくれていたんだね。私も実優に会えない日は寂しくて、ごと空を見上げては、君の笑顔を思い出していたよ」

 流れるような仕草で、ラトは実優の頬に触れようとする。
 だが、実優はサッと体をそらしてその手を避けた。さすがに何度も不意打ちで触られていれば、防衛本能も学習するのだ。

「そういう歯の浮くような台詞せりふはやめてください。期待を裏切って申し訳ないですけど、実はラトのことはまったく考えていませんでした。それどころではありませんでしたので」
「ハッキリ否定されると、わりと深刻に傷つくな。ところで、それどころではなかったというのはどういうことだ? なにかトラブルでも?」

 傷ついたと口にしたわりには、ケロッと気を取り直して実優に尋ねる。
 単に切り替えが早いのか、それともからかっているだけなのか。
 実優は微妙な疲れを感じる。

「気のせいだと思いたいのですが、最近、私の周りで妙なことが起こっていまして」
「ふむ、立ち話で聞くような話ではないようだ。こちらにおいで。駅の近くに落ち着いた雰囲気のカフェを見つけたんだ。そこで話を聞こう」

 言うやいなや、ラトは駅に向かって歩き出す。実優は慌ててついていきながら、彼に言った。

「今日は、私が支払いますからね」
「ええー?」
「何を不満げな声を出しているんですか! だいたい前回だって、あなたは問答無用で支払いを済ませて、しかも一方的に私と約束して逃げたでしょう!?」
「だってそうでもしないと、君をディナーに誘うのは困難だと思ったんだ」

 困ったようにラトは頬を掻いて、苦笑いをする。

「恋を知った男の情けない悪足掻わるあがききだと思えば、ほら、許せそうな気がしないか?」
「しません。とにかく……もう、勝手にそういうことをするのはやめてください。ディナーのお約束は……その、守りますから」

 最後のほうは小声で、しかも早口で言った。しかしラトは耳聡みみざとく、バッと実優に顔を向けると嬉しそうに両手をつかんできた。

「本当かい!?」
「だ、だって仕方ないじゃないですか。実際、ご馳走されちゃったわけで、支払いの代わりにディナーにつきあうって話になっちゃったんですから……っ」

 実優がたじたじになって言うと、ラトはニコニコ上機嫌で手を繋いでくる。

「良かった、嬉しいよ。それなら今日のところは折半せっぱんということでどうかな?」
「そ、そうですね。そのほうが私の精神的負担も少なく済みます」

 面食らいながら頷いた。自分で言うのもなんだが、実優は決して美人ではないし、見た目は地味で、性格もそう魅力的とはいえない。それなのにどうしてこんなにもラトは喜ぶのだろう。こんな自分とディナーに行っても、きっと楽しくないと思うのだが。
 手を繋いだラトと実優、そして少し離れてハシムが最寄り駅近くにあるカフェに入店する。そこはラトが言ったように落ち着きのある喫茶店だった。
 流行のカフェチェーン店ではなく、昔からある喫茶店という感じだ。店内はゴシック風の装飾でまとめられ、広すぎず狭すぎもしない。客入りはまばらであったが、街の喧騒けんそうが嘘のように、静かな音調のクラシックが流れている。

「このあたりの店はいろいろ巡ってみたんだけど、ここが一番コーヒーが好みだったんだよ」
「ラトはコーヒーが好きなんですね」

 ソファ席に向かい合って座り、ハシムはラトの隣に腰掛ける。

「そうだね、朝は必ずコーヒーを飲むのが日課になっているよ。実優はコーヒーは好き?」
「はい。必ず飲むというほどではありませんが、気分転換したい時には飲みたくなりますね」

 そうか、とラトは笑って、店員にコーヒーを三つ注文した。

「そうだ、ランチが済んでいないのなら、ここで食べていくかい? 自家製ビーフカレーがなかなか美味だったよ」
「それは気になりますけど、元々コンビニでおにぎりを買う予定だったので大丈夫です」

 正直なところ、のんびり食事という気分になれなかった。
 実優がそう言うと、ラトは「わかった」と頷く。

「それで、どんなトラブルに巻き込まれているのかな?」
「トラブルってほどではないと思うんですけど」

 実優はここ最近、自分の身に起きていることを説明し始めた。話している途中でコーヒーがテーブルに置かれたので、実優はコーヒーカップを手に取る。
 ラトは腕を組み、形のよいあごに手を添えて、やけにシリアスな表情で話を聞いていた。

「――そんなわけで、やっぱり気のせいかもしれませんが、鍵についてはどうしても無視できなくて」
「そうだね。可能ならすぐにでも鍵を替えるべきだと思う。シリンダー錠はものにもよるけど、簡単に合鍵が作れる可能性が高い。こういう時、日本は警察に相談したら動いてくれるものなのか?」
「……まず動いてくれないと思います。ものを取られたとか、事件性がないと」
「そうだろうな。セルデアの警察も同じだ。となると……よし!」

 ラトは名案を思いついたようにニッコリと笑顔になった。

「私が実優のボディーガードになってあげよう」
「ブフッ」

 彼が提案を口にした途端、隣のハシムが飲んでいたコーヒーを軽く噴き出す。そしてグルッと横を向いたかと思えば、ラトのネクタイをつかんで引っ張った。

『お前、何を考えているんだ。自分の立場をわかっているのか!』

 ――英語だ。実優は目を丸くする。

(そうだった。ラムジ王子も英語を使っていたし、本当に英語はセルデア語よりも日常的に使われているんだわ)

 しかし、ハシムはやけに怒っている。実優はコーヒーを飲みながら様子をうかがう。

『問題ないよ。彼女の違和感は夜の帰り道だけなんだから』
『それは、そうだが』
『私の仕事に支障はない。君の負担は増えるかもしれないが?』

 ニヤ、とラトが意地悪げにハシムを横目で見上げると、ハシムがウグッと苦々しい顔をする。

「あ、あの、お話ししているところ申し訳ないのですが、私はボディーガードなんて結構ですよ」

 コーヒーをソーサーに戻してから、実優は静かな口調で断る。

「ラトがセルデアからわざわざ日本にいらしたのは仕事のためなんでしょう? 私にかまけている時間はないと思いますし、私としても、おふたりの負担になるのは困ります」

 相談はしたものの、別に彼らに守ってほしいと思ったわけではない。
 ラトが口にしたように、まずは鍵を替えるのが一番良い対処法だ。それから、いつもの帰り道のルートを変えてみるのもいいかもしれない。
 今のところ実害はないのだから、防犯意識を強めればなんとかなるだろう。
 実優がそう結論づけていると、ラトがさわやかな笑顔を見せて実優に話しかけた。

「負担だなんてつゆほども思っていないよ。どうか私に、君を守らせてほしい」
「で、でも」
「ハシムも困っているレディを放っておけるような冷血漢れいけつかんではないよ。そうだろう?」

 ジ、とラトが意味ありげにハシムを見ると、彼はウッと一瞬渋面じゅうめんを見せた。しかし、オホンと咳払いをして、ゆっくり頷く。

「ほらね、ハシムも実優が心配なんだよ」
「そ、そうなんですか? さすがにボディーガードなんて、大仰おおぎょうすぎるような気もするんですけど」
「そんなことはない。防犯において最も大切なのは、実優自身がきちんと危機感を持つことだ。鍵を替える、帰り道のルートを複数作る。守られているという自覚を持つ。とりあえず、今はこの三つを守ることに徹するといい」
「鍵や帰り道のルートは理解できますけど、最後の、守られている自覚というのは何ですか?」

 実優が首を傾げると、ラトはコーヒーカップを片手に持って、もう片方の人差し指を立てた。

「護衛というのはね、守る側が警戒するだけではだめなんだ。守られる側も、自分が守られていることを意識しなくては完璧な護衛にならない。こまめに連絡を取り合って、互いのスケジュールを把握はあくし、いざという時には遠慮してはいけない」

 その言葉にはやけに真実味があって、実優は思わず聞き入ってしまった。
 ラトはエメラルドの瞳をまっすぐに向けて、真剣な表情で言葉を続ける。

「守られる側は、自分の身を守ることに専念すること。それが、守る者に対する礼儀であり、義務なんだ」
「……ラト」

 こんなに真面目なラトは初めてだ。まるで彼も、誰かに護衛されたことがあるみたいに、その言葉には実感が篭もっていた。
 ラトになんと言葉を返せばいいかわからない。実優が戸惑っていると、彼はシリアスな雰囲気を一掃するように爽やかな笑みを浮かべた。

「なんてね。セルデアは日本に比べると安全とは言えないから、これはセルデア人みんなが持っている防犯意識みたいなものだ。まあ、日本と比べたらどの国も治安が悪いんだけどね」

 ラトがははっと笑うので、実優もつられたように笑う。

「そうですね。私は日本から出たことがないけれど、世界の中でもとりわけ安全な国だって聞いたことがあります。それでも最近は物騒になったかもって思いますけどね」
「二十四時間営業できる店があるというだけで充分安全だよ。それに、夜中でも女性が普通に街を歩き回ってるのもすごいね。初めて見た時は、びっくりしたよ」
「……考えてみると、日本はちょっと平和ボケしているのかもしれませんね」
「いいことじゃないか。平和に感謝することは大切だけど、平和を当然のように享受できるというのは、とんでもなく恵まれたことだと私は思うよ」

 そう言って、ラトは少しだけ寂しそうに目を伏せた。

「セルデアは今でこそ平和だけど、ほんの二十年前までは内戦の絶えない国だったんだ。セルデア王族がたくさんの派閥を作ってしまってね。外国の私設部隊を大量に雇い、さらにセルデアを乗っ取ろうとする大国も現れて、国は大混乱におちいっていた」

 実優は目を見開く。セルデアにそんな時代があったなんて知らなかった。
 二十年前といえば実優が四歳の頃だ。もしかすると、その頃はニュースや新聞でセルデアの内戦が報道されていたのかもしれない。

「でも、今の王が内戦を終結させたんだよ。国のあらゆる鉱脈はすべて王室が管理し、その利潤は国民にすべて分け与えるという法律を作った。争いの火種になった側室制度は廃止した。おかげで国民の生活水準は飛躍的に向上し、王位継承者もふたりだけに減ったんだ」
「側室……。確かにそんなのがあったら、王位継承者がいっぱいになってしまいますね」
「出生率の低かった大昔の制度がずっと続いていたみたいだね。二十年前の王位継承者は、今の王を含めて二十七人もいたんだよ」

 二十七人! 実優は驚愕してしまう。さすがにそんなに多かったらいさかいも起きやすいのかもしれない。
 ラトはテーブルにのせていた実優の手を握った。

「でもね、今は本当に平和なんだ。私は、セルデアの平和がずっと続けばいいと思うし、いつかは日本のように夜中でも出歩ける、まさしく平和ボケするような国になってほしいと願っているんだよ」
「う、はい。そうですね。そう言われたら、平和ボケも悪い言葉じゃないかもですね」

 実優は顔を赤くして頷く。頼むから、ことあるごとに手を握るのをやめてほしい。外国人はスキンシップが好きだと聞いたことがあるが、ラトもそうなのだろうか?


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