恋するカラダはあなたの心を待っている

桔梗楓

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9.真夜の日常

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 矢吹真夜の朝は早い。朝礼が始まるまでにやらなければならない仕事が沢山ある為、毎朝7時には会社へ出社する。
 秘書の仕事は就業時間があるようで無い。朝は勿論、夜だって時には呼び出されたりもする。まさに担当役員の手となり足となり、だ。
 そんな真夜が秘書として担当する重役は「代表取締役」。つまり、この会社の社長だ。
 自社ビルである本社は都内有数の規模があり、いわゆる上場企業の一つである。繊維資材や紙製品を主に取り扱った商社であり、自社が抱える研究所で新製品も開発している。
 海外事業も積極的に展開させており、各国でいくつもの取引を成功に納めてきた。就職倍率もそれなりに高く、学生にとって人気ある企業の一つである。
 そんな一流企業の社長秘書に、どうして真夜が担当しているのか……それにはいくつか理由があるのだが、一応彼女自身、秘書となるべきスキルは一通り揃えている。まぁ、顔は平凡そのもので秘書としてはやや華やかさに足りないのだが、むしろそれが最重要事項なのかもしれない。
 一階ロビー、総合エレベータ前に設置されたスキャナーに、真夜は社員証をスライドさせて警備室の脇を通った。社員証がなければエレベータに乗ることもできないので、社員にとって社員証は貴重品だ。もし紛失したら始末書提出の上に、カード再発行で二千円給与から引かれる。ビニール製のネームタッグに納められたそれを首にかけて、真夜はエレベータのボタンを押し、最上階へと昇った。
 職場である秘書室は社長室の隣。ドアを開けると毎朝必ず彼女よりも先に男が一人、出社していた。この朝の情景は真夜が就職して5年、決して変わらない日常風景の一つだ。

「おはようございます」

 どちらともなく交わされる挨拶。これも5年変わらない。
 男の名は神崎修司(かんざきしゅうじ)。人事部秘書課秘書室の室長であり、真夜の上司である。
 面立ちは常に無表情。彼が笑えば明日は大雨どころか未曾有の大嵐が来るんじゃないかと社内一部で噂されている程で、実際真夜も彼が笑った顔など一度も見たことがない。
 入社当初はものすごく怖い人だと思っていて、実際とても厳しい人だった。
 でも仕事を覚えて真面目に働いていれば、そうでもなかった。気さくとまでは言わないが、ちょっとした休憩時に缶コーヒーを奢ってくれたり、昼食をご馳走してくれたりする。
 しかし、実は優しい人じゃないかな、と思うのは真夜くらいなもので。……それくらい人に厳しく、自分に厳しい人なのである。
 真夜自身、両親の躾がかなり厳しかったという過去を持つので、厳格な人間に慣れているというのも、神崎に苦手意識を持たない要素なのだろう。

「矢吹さん。昨日お願いしておいた飛行機チケットの件ですが」
「はい。社長と副社長の二枚分、すでに手配済みです」
「すみません。もう一枚取れませんか?奥様がご同行するそうです」
「……わかりました。隣は難しいかもしれませんが、お取りしておきます」

 深く問わず、真夜は短く了承の返事をすると自分のデスクに行き、忘れないようメモを取る。そして給湯室に移動し、硬く搾った雑巾とはたきを手にして次は社長室へ向かった。
 仕事机や応接テーブルを拭き、はたきで革製のソファや椅子の埃を落としていく。
 軽い掃除を終えた後は少し散らかった仕事机を綺麗に整理し、社長が書きなぐったメモの束を回収してファイルに閉じる。
 そして花瓶の水を替え、社長が決裁した書類を箱から取り出し秘書室に戻った。
 まだ他の社員は出社していない。大体皆8時前くらいにわらわらとやってくるので、あと30分ほどはこの無表情の上司と二人きりだ。
 時折、この状況を冷やかす社員がいるが、実のところ真夜と神崎の間に甘い雰囲気は欠片もない。一度、早めに出社した先輩秘書が二人の朝の情景を見て「秘書室が職員室みたいだった」と、謎な感想を述べたくらいである。
 きっと真夜と神崎がど真面目な表情をして黙々と仕事している姿が職員室で顰め面をする教師のように見えたのだろう。
 神崎は、今日も全く変わらずデスクで仕事をしている。真夜も同じように席につき、先ほど社長室から回収してきたメモをファイルから取り出し、手早くパソコンで清書した。時折朝礼で話す事も書かれている為、必ず手書きメモは目を通さねばならない。
 ミミズののたくったような、どう見ても日本語と思えない汚い文字。今ではすっかり見慣れたものだが、時々英語が混じっているので油断できない。
 清書を終えて印刷している間に決裁済み書類を部署ごとにわけて担当秘書のトレーに配り、メールや手紙のチェックをする。
 暫くして、ばらばらと他社員も挨拶と共に秘書室に入ってきた。
 神崎含め、男性秘書が4人に、女性秘書が真夜含め7人で計11人。それからロビー受付担当の女性社員3人を加えて秘書課は構成されている。
 社長、副社長、専務に二人ずつ、一部部署の部長職に1人ずつ、という割り振りになっていて、ちなみに真夜の担当である社長には彼女の他に、神崎室長が担当している。
 朝礼の時間まで、それぞれが担当する重役のスケジュールやメールをチェックしていると、やがて始業のチャイムが鳴り響いた。
 社長と副社長が秘書室に入ってくる。全員が起立し、朝の挨拶をする。
 朝礼の内容は各人業務連絡、重役のスケジュール確認、副社長、そして社長の挨拶。

「おはようございます、皆さん。今日、帝東経済新聞にこのような社説が書いてありました――」

 色艶のあるハスキーボイスで朝礼の挨拶をする副社長は女性である。年の頃は50台前後。この会社の創設者の1人であり、社長の右腕とも言える。社長と力を合わせて会社を大きくさせたという自信が見た目にも大きく表れており、いかにもやり手のキャリアウーマンといった雰囲気を常に醸し出していた。高級ブランドのパンツスーツがとても似合っていて、実際に、副社長に憧れる女性社員は多い。
 有名な経済雑誌で『注目の美人キャリアウーマン』と銘打った表紙を飾った事もある。その名は、橘ほのか。
彼女は女性秘書をつかせることを好まず、担当秘書は二人とも男性である。
 橘副社長の挨拶が終わり、次に社長が挨拶をする。彼もまた、美人副社長の隣に立っていても全く見劣りのしない、美丈夫で眉目秀麗な壮年男性である。
 錦織総一郎。――社内でも人気の高い人物だ。何よりもその顔の良さが、特に女性社員の心を掴んでいる。
 若者には出せない決して出せない大人の魅力と成功者としての自信。天性にも近いカリスマ性が溢れており、彼も何度か雑誌社の表紙を飾ったことがある。
 顔の良さもさる事ながら、経営の手腕もすこぶる良い。天は二物を与えずなんて諺があるが、それを一蹴してしまいそうな程、彼は沢山のものを持っていた。
 短い朝礼が終わって、本日の業務が始まる。
 真夜はまず、先ほど神崎より頼まれた飛行機のチケットを手配した。だが、何とか空席を確保したものの、さすがに席まで選ぶことができなかった。
 飛行機の座席表にマルをつけ、神崎のデスクへ向かう。

「室長、飛行機の座席表です。先ほど追加でお取りしましたが、やはりお二人からは少し離れてしまうようです」
「はい、そこは奥様も理解していますから大丈夫ですよ。というより、離れた方に副社長を座らせるつもりでしょうね」
「そうですか。ところで、チケットは直接奥様に? それとも社長にお渡しすれば宜しいですか?」
「社長で結構です。今日の外出は私も社長に同行しますので、一緒に社長室へ行きましょう」

 トントン、と書類を整えた後ファイルに綴じ、神崎が鞄を持って立ち上がる。社長第一秘書が神崎で、第二が真夜だ。つまり社長に同行したり接待したりといった外向けの仕事は全て神崎、裏方が真夜である。
 二人は揃って秘書室を出て、社長室に向かった。ちなみに、どちらも無表情である。神崎も真夜も仕事時では滅多に感情を見せないので、周りには「似たもの秘書」と呼ばれていた。
 だが、神崎はともかく、真夜が無表情であるのには理由がある。
 神崎が社長室のドアを軽くノックして、ドアを開けた。
「失礼します――」
 その途端、女の金切り声が廊下に響き渡った。

「総一郎さんっ! どうして出張の度にこの女を連れていくの!? 知っているのよ、どうせ仕事もろくにせず、温泉だの何だのって小旅行を楽しむつもりなんでしょう。そうはさせないわよ!」
「奥様が何を仰っているのか全く理解できません。私はあくまで仕事の為に社長と同行するんです。大体あなた、部外者のくせにいつもいつも社内に、しかも社長室に来るなんて、図々しいにも程があるわよ。まったく常識を疑ってしまうわね」
「はぁ? 私は夫に連れて来てもらっているのよ。ええ、私は立派な関係者ですもの。あなたみたいな淫乱女をきちんと見張らなくてはね。50も過ぎてもしつこく総一郎さんにつきまとうなんて、年を考えたらどうなの。必死に若作りしても、目尻に小皺が浮いていてよ。巷で人気の美人キャリアウーマン様?」
「……っ! この! アンタなんか家に引きこもってぶくぶく太ればいいのよ! どうせ総一郎さんのお金を馬鹿みたいに使ってエステやらサロンやら行ってるんでしょ! この金食い虫! 寄生虫!」

 キーキーと怒鳴り合ういい年をした女達。
 もう、驚きもしない。見慣れた光景だ。
 真夜と神崎は、二人がギャアギャアと喧嘩している間で困ったような笑顔を浮かべている錦織に近づいた。

「社長。飛行機チケットを追加で一枚お取り致しました。座席表をご確認下さい」
「ああ、いやあすまないね。手間を取らせちゃって」
「いえ。それでは――」

 真夜は用事を済ませてさっさと秘書室に戻ろうとする。しかし橘ほのかが真夜にグリッと振り向き、怒り狂った声で話しかけた。

「ちょっと矢吹! 飛行機のチケットなんて、どうして追加で取ってるの!? 私は許可してないわよ!」
「そう言われましても、私の上司は神崎室長です。室長に頼まれたものを手配するのは、私の仕事です」
「どういうことよ。神崎、この女の言うことを聞いたってワケ? 部外者の味方をして、この私を気遣わないなんて、我が社の社員として恥ずかしいとは思わないの!?」
「副社長、チケットの追加は社長命令です。そして支払いは経費ではなく、社長の実費です」
「なんですって……総一郎さん!」

 神崎の言葉を聞いて、ぎょろっと鬼のような目をして睨む橘ほのか。しかし錦織はこんな修羅場でも、いつもと変わらぬ笑顔を浮かべて「だってさ~」とのんびり声で答えた。

「会議は半日程度で終わるって教えたらさぁ、どうしても桜が同行したいって言ってね。宿泊は温泉旅館だし、たまには夫婦でしっぽりするのも良いなーって思ったんだ」
「だからって、もう! あんなにもプライベートを仕事に持ち込まないでと言ってますのに!」
「フン、どの口が言うんだか。どうせ私がいない間にあれこれ総一郎さんに迫るつもりだったんでしょう。このドロボウ女!」
「どろっ……! 先に盗ったのはアンタでしょ!? しかも最低な方法で。この恥知らず!」

 修羅場が続く。しかし社長は暢気に笑っており、真夜と神崎はいつも通りの無表情。
 つまり、構図はとても単純なのである。
 もともと錦織総一郎と橘ほのかは恋人同士だった。しかし、当時社長秘書を務めていた現総一郎の妻、桜が社長を寝取った。しかも子を孕んだ。
 世間体もあったので総一郎は責任を取り、桜と入籍した。しかし、ほのかとの関係は解消しなかった。つまり今、ほのかと総一郎は公然と不倫関係にあるのだ。
 ほのかにとって桜は愛する人を寝取った憎い女で、桜にしてみれば総一郎を奪ったにも関わらず、しつこく夫と関係を持とうとするほのかが憎らしい。
 そして諸悪の根源、錦織総一郎は確かに仕事の上では有能だが、プライベートにおいては、倫理的な部分が欠けていると言ってもいい男だった。
 不倫を悪だと思わない。子が出来たなら責任を取るが、女は両方愛したら良いじゃないか。……そんな考え方をしているのである。
 真夜や神崎からしてみれば、この三人は別世界の人間である。全くと言っていいほど何もかも理解できない。ただ、自分達は仕事上彼らを補佐する立場である、それだけだ。
 ようは感情を封印して仕事しているのである。神崎は素かもしれないが、真夜の無表情は、このような経緯が原因だ。
 錦織が、喧々囂々と喧嘩を続ける女の間から出てきて、真夜の前に立った。確かに彼は50を過ぎているとは思えないほど顔が整っていて、体つきもしっかりとしている。目じりの皺さえ渋いダンディーな要素になるのだからある意味恐ろしい人だ。

(……でも、格好良さで言うなら、望月さんのほうがいいなぁ……)

 そんなことをふと思ってしまって、真夜は慌てて気持ちを打ち消した。

「矢吹ちゃん、机にあるメモ、清書してくれた?」
「はい。すでに社長と副社長、それから室長宛にメール済みです。印刷もしてありますが、お読みになりますか?」
「ううん大丈夫。矢吹ちゃんの翻訳は完璧だからね。読んでくれてわかったと思うけど、3日後に東條商事さんを夕食会にお誘いする予定なんだ。いいお店を準備しておいてくれる?」
「承知しました。手筈を整えておきます」

 真夜が返事をすると満足そうに錦織が頷き、「あ、そうだ」と、手に持っていた黒いビジネスバックを開けた。

「これ、あげるね。まだ店頭にも並んでない、ハツモノだよ~。感想聞かせてくれる?」
「はい、ありがとうございます。『社員を幸せにする百の魔法』。とても素敵なタイトルですね」
「でしょ~! 3日かけて考えたんだよね! 実は『もしも社長がエルヴェシウスの精神論を読んだら』っていうタイトルと悩んだんだけど、やっぱり判りやすくて手に取りやすいタイトルが人の心を掴めるんじゃないかって――」
「はい、仰るとおりです。社長、そろそろハイヤーが到着する時間です」
「……矢吹ちゃん? 最近なんだか、神崎に似てきたね……」

 話を途中で切られた錦織が拗ねた顔をするが、真夜は無表情を崩さない。
 総一郎は話が長いのだ。彼のスケジュールは分単位なのだし、組む側もあれこれと調整に苦労しているのだから、ちゃんと時間通りに動いて欲しい。
 神崎が錦織の身の回りをチェックし、忘れ物がないかを確認する。やがてチラリと腕時計を見ると「参りましょう、社長」と言って、彼を促した。
 すたすたと去っていく二人の男。今だ喧嘩を続ける二人の女。
 もう、放っておこう。そして仕事をしよう。心の中でそう思った真夜は、二人に軽く頭を下げた後、社長室を出ようとした――ところで、突然橘と桜が真夜に声をかけてきた。

「ちょっと矢吹」
「待ちなさい、矢吹さん」

(……来た……)

 真夜はげんなりしつつも表情には出さず、振り向く。二人の女性は申し合わせたように腕を組んで、真夜を睨んでいた。

「あなた、一応確認するけど。総一郎さんに手は出していないでしょうね」
「もし、出したら……わかっているわね? 地味顔で、特徴ひとつない平凡なあなたを秘書として採用した理由を、ちゃんと自覚するのよ。もし総一郎さんがなにか言ってきても真に受けて調子に乗らないこと。その首を繋げていたかったらね」

 地味な顔で、特徴ひとつない。――そのとおりだ。
 他の秘書の女性は、みんな相貌が整っていてスタイルもよく、男性社員からも人気が高い。しかし、なぜか真夜だけは平凡の域を超えない顔で、体型も均整が取れているとは言いがたい。
 それはなぜか。――当然と言えば当然の話だ。他の女性秘書は社長の面接で決まり、真夜の採用だけは副社長が決めたのだから。
 社長ははっきり言って、女癖が悪い。気に入った女は誰であれ、等しく声をかける。
 ほのかと桜以外にも愛人がいる錦織は、部下相手でさえ平気で関係を持つような男なのだ。
はっきりいって真夜は、彼の魅力がさっぱり判らない。もちろん、そんな事は口が裂けても言えないが。
つまり、橘が真夜を採用した決め手は、『錦織のタイプ外の見た目をしている』、その一点のみだったのだ。
その事実を充分にわかっている真夜は「はい」と返事し、二人に体を向けた。

「承知しております。私は錦織社長に対して一切、私的な感情は持っておりませんのでご安心下さい」

 そう言って、今度こそ去ろうとした。だが、二人は何が不満なのかまだ真夜に噛み付いてくる。

「ちょっと! 一切ってどういうことよ!どうせちょっとはいいな、とかお情けがもらえるかも、とか思ってるでしょ。嘘つかないで正直におっしゃい!」
「総一郎さんの魅力が判らないなんて、あなたって本当に女として足りないわね。むしろ人としての感性を疑ってしまうわ」

 では、何と言えばいいのだ。褒めたら褒めたで激怒するくせに。

(もうめんどくさい……この、女の腐ったような二人組は本当にめんどくさい……)

 興味があると言えば怒り狂うくせに、興味がないと言えばそれはそれで怒る。
 早く仕事に戻りたいなぁと思いつつ、真夜は無表情で二人の罵倒を聞き流した。
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