14 / 19
第十四話 君の無垢と僕の背徳が混ざる距離
しおりを挟む
翌朝、けたたましく鳴り響くアラームを乱暴に止め、悠真は重い瞼をこじ開けた。
頭に靄がかかったまま、退屈な講義を受け、無感情にコンビニのレジに立つ。何もかもが色褪せて見え、ただ時間だけが過ぎていく無気力な一日。今日もまた、その繰り返しが始まる。罪悪感と自己嫌悪で思考がうまくまとまらないまま、昨日と同じようにシャワーを浴び、昨日と代わり映えのしないTシャツとデニムを引っ張り出す。
鏡に映るのは、寝癖のついた黒髪と、寝不足で隈のできた、紛れもない「相沢悠真」の顔だった。この顔で昨日、千紗と同じキャンパスにいながら、一度も目を合わせることなく一日を終えたのだ。
「……行くか」
大学へ向かう道すがら、今日が火曜日だという事実が鉛のように重くのしかかる。手芸部の活動日だ。週末のお泊り会で、千紗にキスされて以来、彼女とどんな顔をして会えばいいのか分からない。結月としてなら、いつも通りに振る舞えるだろうか。いや、自信がない。あの夜の出来事を、どういう顔で受け止めればいい?
講義が始まってからも、教授の声は右から左へと通り抜けていくだけだった。悠真の意識は、数メートル前方に座る千紗の後ろ姿に釘付けになっていた。時折、彼女が友人とひそひそ話してくすくすと笑う。そのたびに、明け方の薄明りの中で触れた唇の柔らかさがフラッシュバックし、居ても立ってもいられない気持ちになる。
これは罰なのだろうか。女のふりをして彼女たちの聖域に踏み込んだ、その罰。
ただのクラスメイトとして、遠くから彼女を眺めていることしかできない。それが「相沢悠真」と「佐藤千紗」の正しい距離なのだ。そう頭では理解しているのに、一度知ってしまった彼女の体温と唇が、その境界線を曖昧に蝕んでいく。
講義が終わると、悠真は誰と話すでもなく、逃げるようにキャンパスを後にした。
自室に戻り、「相沢悠真」としてベッドに倒れ込む。鏡を見るのも嫌だった。そこに映る、無骨で、何の取り柄もない男の姿。結月として華やかな世界の中心にいた時間と、この殺風景な部屋で一人きりの今の自分との落差が、胸を抉る。
(なんで俺は、こんなことをしてるんだろうな……)
結月を演じ始めてから、確実に「相沢悠真」への自己嫌悪が深まっていることを、悠真は実感していた。結月なら千紗の隣で自然に笑えるのに。「相沢悠真」は、遠くから彼女を見つめて、目を逸らすことしかできない臆病者だ。
ふと、壁に貼ったコンビニのシフト表が目に入る。来週もぎっしりとシフトが入っていた。無機質な挨拶を繰り返し、ただ時間を切り売りするだけのあの空間が、今はひどく苦痛だった。以前は何も感じなかったはずなのに。
(……バイト、もう辞めようかな)
客の楽しそうな会話を聞くのも、幸せそうなカップルを見るのも、全部がしんどい。何もかもが、自分の惨めさを際立たせるだけだ。
「……今日は、もう無理だ」
ぽつりと呟き、悠真はスマートフォンを手に取った。部活には行かない。今日のところは、この嘘と罪悪感から逃げてしまいたい。それがどんなに弱い考えだと分かっていても、今の自分にはそれしか選べなかった。「体調が悪いから、今日の部活は休みます」。そうグループチャットに送ろうと、文字を打ち込み始めた、その時だった。
ピコン、と軽快な通知音が鳴り、画面上部にメッセージのプレビューが表示される。送り主は、千紗だった。
『結月ちゃん、この前の週末は本当に楽しかったね!なんだか、もっと結月ちゃんのこと知りたいし、もっと仲良くなりたいなって思って!今日の部活、すっごく楽しみにしてるんだ!』
その文面を見た瞬間、悠真の指は固まった。悪意の欠片もない、純粋な好意。お泊り会を経て、自分との距離を縮めようとしてくれている、その真っ直ぐな気持ち。キラキラした瞳でそう話す千紗の顔が、ありありと目に浮かぶ。これを読んでしまった後で、「体調が悪い」なんて嘘をつけるだろうか。
彼女をがっかりさせたくない。その一心で、打ちかけていた欠席の連絡を全て消去した。
罪悪感で胸が張り裂けそうだった。それでも、千紗の期待を裏切ることはできなかった。
「……はぁ……」
重く濁った溜息が漏れる。だが、その息を吐ききると、悠真はゆっくりと身体を起こした。覚悟を決めたようにクローゼットへ向かい、決して見慣れることのない「結月」の服を手に取る。
これからまた、嘘を重ねに行くのだ。千紗のあの太陽のような笑顔に会うために。その笑顔の裏にある好意が、自分という偽物に向けられていると知りながら。自己嫌悪の沼に沈みながらも、彼女の隣にいたいと願う歪んだ欲望には、もう逆らえそうになかった。
---
重い身体を引きずるようにして、悠真は手芸部の部室のドアの前に立っていた。中から漏れ聞こえてくる、楽しそうな笑い声。このドアを開ければ、そこには「結月」を待つ優しい世界が広がっている。そして、あの唇の持ち主がいる。数秒間、ドアノブを握ったまま動けずにいたが、やて意を決して、ゆっくりとドアを引いた。
「こんにちはー…」
ガラリ、と音を立てて開いたドアの先。温かい空気と、色とりどりの毛糸や布の匂い。そして、一番にこちらを向いた、太陽のような笑顔。
「結月ちゃん!来てくれたんだね、待ってたよ!」
鈴が鳴るような声で駆け寄ってきたのは、千紗だった。その屈託のない仕草を見た瞬間、悠真の心臓は嫌な音を立てて跳ねる。彼女は、週末の夜の出来事などまるで覚えていないかのように、いつも通りだった。その事実に安堵する一方で、ちくりと胸が痛んだ。
「ご、ごめん、遅くなって」
「ううん、全然!さ、こっち座ろ?」
千紗に腕を引かれ、いつもの席に促される。早川部長と田中さんも「結月ちゃん、こんにちは」「週末は楽しかったね!」と優しく微笑みかけてくれた。その温かい歓迎が、今はひどく胸に痛い。
今日の活動は、文化祭で展示する共同制作のタペストリー作りだった。大きな布を囲み、それぞれが担当の箇所に刺繍やアップリケを施していく。
「それにしても、お泊り会楽しかったよねー!夜中の恋愛トーク、最高だった!」
「ねー!結月ちゃんの男になったら土木作業したいって話、今思い出しても面白いんだけど!」
和やかな声が飛び交う中、悠真は黙々と針を進めていた。――だが隣から「うーん…まただ…」と小さなうめき声が漏れる。視線を向けると、千紗が針の小さな穴に糸を通そうと、必死に目を細めて悪戦苦闘していた。唇を尖らせ、眉を寄せるその仕草が、どうしようもなく幼く愛らしい。
「貸して、やってあげる」
自然と口が動いていた。
「え、ほんと?ありがとう結月ちゃん!」
千紗から針と糸を受け取り、慣れた手つきでスッと糸を通す。わずかな動作の中にも、女の子として見られる「結月」の役割を果たす満足感が滲む。それを返そうとした時だった――。
千紗の指が、針を受け取ろうとした悠真の手に、そっと重なった。柔らかく、少し温かい。爪先がかすかに手の甲を撫で、その何気ない感触に、悠真の呼吸がひゅっと浅くなる。
「わ、すごい!ありがとう!」
無邪気な笑顔と共に放たれたその一言は、部室の喧騒よりもはるかに大きく、胸の奥で反響した。
――瞬間、背筋に電流が走る。
彼女の指先のぬくもりが、皮膚から直接、脳の奥へ焼き付けられるように流れ込んでいく。思い出してしまう。あの夜明け前の、肌にまとわりつくミルクのような匂い。耳元に落ちてきた吐息の熱。唇に重なった、信じられないほど柔らかな感触。
「……っ」
慌てて手を引いたが、もう遅い。優しい温もりに触れているのが「男」である自分だという倒錯的な事実が、下腹部にじわじわと熱を広げていく。目の前で微笑む千紗は、何も気づいていない。無垢さと背徳感のコントラストが、悠真の神経をじわりと焼く。
刺繍枠に視線を落とすふりをしながら、指先に残る余韻を振り払おうと必死になる。だが、柔らかな指の重なりは幻のようにいつまでも消えず、胸の内側でじくじくと疼き続けていた。
「そういえば、来週公開の恋愛映画、もう予告見た?主演の俳優さん、めちゃくちゃかっこよくない?」
「わかるー!私、絶対初日に行くって決めてるんだ」
部員たちの華やいだ声が、やけに遠くに聞こえる。熱を帯びた身体を隠すように、悠真は必死で目の前の作業に集中しようと努めた。
「あ、赤い刺繍糸がなくなっちゃった。そこの棚から取ってくるね」
千紗が立ち上がる。その何気ない仕草に、悠真の胸が小さく波打った。
「……あ、私も…白い糸、取ってくる」
気づけば、言葉が口をついていた。――半ば無意識の行動。冷静になりたくて、けれど彼女から目を離せない。
二人は材料棚の前に並び立つ。他の部員たちから視線が届かない、わずかな死角。ざわめきが遠くに引いて、空気の密度が濃くなる。
千紗が赤い糸を探して指を伸ばし、ぱっと振り向いた。彼女の顔が思った以上に近い。
「この前のお泊り会、本当に楽しかった。またやりたいな」
ほんの囁き声。それなのに、悠真の耳には雷鳴のように響く。瞳が細められ、いたずらっぽく笑む。だが、その奥のまっすぐな輝きは逃げ場を与えてくれない。
(近い…、声も…目も……全部が僕に向いてる……)
結月として「もちろん!」と笑顔で答えるのは簡単だ。けれど、胸の奥では“相沢悠真”としての意識が抗い続ける。女として触れ合った記憶を抱きながら、男の自分が彼女に惹かれている――その倒錯した事実が、胸の奥で熱を孕ませる。
「……うん、私も……」
震える声。喉の奥がきゅっと締め付けられて、かろうじて搾り出した。
幸い、千紗は気づかない。小さく「やった!」とガッツポーズをして、赤い糸を手に席へ戻っていく。
残された悠真は、白い糸を手にしながら、足元がわずかに揺れるような錯覚に囚われていた。さっきの瞳の熱――あれは友情か、それとも…。心臓がまだ、部室のざわめきよりもずっと大きな音で跳ね続けていた。
あっという間に時間は過ぎ、活動終了の時刻になる。皆で机の上を片付け、ゴミをまとめながら、今日の成果を笑い合った。その輪の中に自分もいる。それが奇跡のようで、同時にひどく恐ろしかった。
「じゃあ、またね!結月ちゃん!」
帰り際、千紗がいつもと同じように、自然に手を振ってくれる。悠真は、引きつった笑顔で何とか手を振り返した。
その太陽のような笑顔に、胸が焼けるように熱くなる。
もう、ただのクラスメイトとしても、ただの手芸仲間としても、彼女を見ることはできない。あのキスを境に、自分はもう戻れない場所に来てしまったのだと、悠真は心の奥底で静かに悟っていた。
一人になった帰り道、罪悪感がどっと押し寄せてくる。こんな嘘、いつまで続けられる?いっそ、もう結月になるのをやめてしまえば、この苦しみから解放されるんじゃないか。そんな考えが、一瞬頭をよぎった。
だが、脳裏に浮かぶのは、屈託なく笑いかけてくれる千紗の顔。「またやりたいな」と囁いた時の、あの親密な空気。今日の、指先が触れ合った瞬間の熱。
あの優しい世界を、千紗の笑顔を、この手で捨てることなんて、できるはずがない。
そうだ、もうやめられないんだ。結月の姿にならないことも少しは考えた。でも、やめることなんてできっこない。この嘘がどんな結末を迎えようとも、俺はまたこの皮を被り、彼女の前に立つだろう。その笑顔が見られるなら、どんな罪でも背負ってやる。悠真は、夕暮れの空を見上げながら、固く唇を噛み締めた。
頭に靄がかかったまま、退屈な講義を受け、無感情にコンビニのレジに立つ。何もかもが色褪せて見え、ただ時間だけが過ぎていく無気力な一日。今日もまた、その繰り返しが始まる。罪悪感と自己嫌悪で思考がうまくまとまらないまま、昨日と同じようにシャワーを浴び、昨日と代わり映えのしないTシャツとデニムを引っ張り出す。
鏡に映るのは、寝癖のついた黒髪と、寝不足で隈のできた、紛れもない「相沢悠真」の顔だった。この顔で昨日、千紗と同じキャンパスにいながら、一度も目を合わせることなく一日を終えたのだ。
「……行くか」
大学へ向かう道すがら、今日が火曜日だという事実が鉛のように重くのしかかる。手芸部の活動日だ。週末のお泊り会で、千紗にキスされて以来、彼女とどんな顔をして会えばいいのか分からない。結月としてなら、いつも通りに振る舞えるだろうか。いや、自信がない。あの夜の出来事を、どういう顔で受け止めればいい?
講義が始まってからも、教授の声は右から左へと通り抜けていくだけだった。悠真の意識は、数メートル前方に座る千紗の後ろ姿に釘付けになっていた。時折、彼女が友人とひそひそ話してくすくすと笑う。そのたびに、明け方の薄明りの中で触れた唇の柔らかさがフラッシュバックし、居ても立ってもいられない気持ちになる。
これは罰なのだろうか。女のふりをして彼女たちの聖域に踏み込んだ、その罰。
ただのクラスメイトとして、遠くから彼女を眺めていることしかできない。それが「相沢悠真」と「佐藤千紗」の正しい距離なのだ。そう頭では理解しているのに、一度知ってしまった彼女の体温と唇が、その境界線を曖昧に蝕んでいく。
講義が終わると、悠真は誰と話すでもなく、逃げるようにキャンパスを後にした。
自室に戻り、「相沢悠真」としてベッドに倒れ込む。鏡を見るのも嫌だった。そこに映る、無骨で、何の取り柄もない男の姿。結月として華やかな世界の中心にいた時間と、この殺風景な部屋で一人きりの今の自分との落差が、胸を抉る。
(なんで俺は、こんなことをしてるんだろうな……)
結月を演じ始めてから、確実に「相沢悠真」への自己嫌悪が深まっていることを、悠真は実感していた。結月なら千紗の隣で自然に笑えるのに。「相沢悠真」は、遠くから彼女を見つめて、目を逸らすことしかできない臆病者だ。
ふと、壁に貼ったコンビニのシフト表が目に入る。来週もぎっしりとシフトが入っていた。無機質な挨拶を繰り返し、ただ時間を切り売りするだけのあの空間が、今はひどく苦痛だった。以前は何も感じなかったはずなのに。
(……バイト、もう辞めようかな)
客の楽しそうな会話を聞くのも、幸せそうなカップルを見るのも、全部がしんどい。何もかもが、自分の惨めさを際立たせるだけだ。
「……今日は、もう無理だ」
ぽつりと呟き、悠真はスマートフォンを手に取った。部活には行かない。今日のところは、この嘘と罪悪感から逃げてしまいたい。それがどんなに弱い考えだと分かっていても、今の自分にはそれしか選べなかった。「体調が悪いから、今日の部活は休みます」。そうグループチャットに送ろうと、文字を打ち込み始めた、その時だった。
ピコン、と軽快な通知音が鳴り、画面上部にメッセージのプレビューが表示される。送り主は、千紗だった。
『結月ちゃん、この前の週末は本当に楽しかったね!なんだか、もっと結月ちゃんのこと知りたいし、もっと仲良くなりたいなって思って!今日の部活、すっごく楽しみにしてるんだ!』
その文面を見た瞬間、悠真の指は固まった。悪意の欠片もない、純粋な好意。お泊り会を経て、自分との距離を縮めようとしてくれている、その真っ直ぐな気持ち。キラキラした瞳でそう話す千紗の顔が、ありありと目に浮かぶ。これを読んでしまった後で、「体調が悪い」なんて嘘をつけるだろうか。
彼女をがっかりさせたくない。その一心で、打ちかけていた欠席の連絡を全て消去した。
罪悪感で胸が張り裂けそうだった。それでも、千紗の期待を裏切ることはできなかった。
「……はぁ……」
重く濁った溜息が漏れる。だが、その息を吐ききると、悠真はゆっくりと身体を起こした。覚悟を決めたようにクローゼットへ向かい、決して見慣れることのない「結月」の服を手に取る。
これからまた、嘘を重ねに行くのだ。千紗のあの太陽のような笑顔に会うために。その笑顔の裏にある好意が、自分という偽物に向けられていると知りながら。自己嫌悪の沼に沈みながらも、彼女の隣にいたいと願う歪んだ欲望には、もう逆らえそうになかった。
---
重い身体を引きずるようにして、悠真は手芸部の部室のドアの前に立っていた。中から漏れ聞こえてくる、楽しそうな笑い声。このドアを開ければ、そこには「結月」を待つ優しい世界が広がっている。そして、あの唇の持ち主がいる。数秒間、ドアノブを握ったまま動けずにいたが、やて意を決して、ゆっくりとドアを引いた。
「こんにちはー…」
ガラリ、と音を立てて開いたドアの先。温かい空気と、色とりどりの毛糸や布の匂い。そして、一番にこちらを向いた、太陽のような笑顔。
「結月ちゃん!来てくれたんだね、待ってたよ!」
鈴が鳴るような声で駆け寄ってきたのは、千紗だった。その屈託のない仕草を見た瞬間、悠真の心臓は嫌な音を立てて跳ねる。彼女は、週末の夜の出来事などまるで覚えていないかのように、いつも通りだった。その事実に安堵する一方で、ちくりと胸が痛んだ。
「ご、ごめん、遅くなって」
「ううん、全然!さ、こっち座ろ?」
千紗に腕を引かれ、いつもの席に促される。早川部長と田中さんも「結月ちゃん、こんにちは」「週末は楽しかったね!」と優しく微笑みかけてくれた。その温かい歓迎が、今はひどく胸に痛い。
今日の活動は、文化祭で展示する共同制作のタペストリー作りだった。大きな布を囲み、それぞれが担当の箇所に刺繍やアップリケを施していく。
「それにしても、お泊り会楽しかったよねー!夜中の恋愛トーク、最高だった!」
「ねー!結月ちゃんの男になったら土木作業したいって話、今思い出しても面白いんだけど!」
和やかな声が飛び交う中、悠真は黙々と針を進めていた。――だが隣から「うーん…まただ…」と小さなうめき声が漏れる。視線を向けると、千紗が針の小さな穴に糸を通そうと、必死に目を細めて悪戦苦闘していた。唇を尖らせ、眉を寄せるその仕草が、どうしようもなく幼く愛らしい。
「貸して、やってあげる」
自然と口が動いていた。
「え、ほんと?ありがとう結月ちゃん!」
千紗から針と糸を受け取り、慣れた手つきでスッと糸を通す。わずかな動作の中にも、女の子として見られる「結月」の役割を果たす満足感が滲む。それを返そうとした時だった――。
千紗の指が、針を受け取ろうとした悠真の手に、そっと重なった。柔らかく、少し温かい。爪先がかすかに手の甲を撫で、その何気ない感触に、悠真の呼吸がひゅっと浅くなる。
「わ、すごい!ありがとう!」
無邪気な笑顔と共に放たれたその一言は、部室の喧騒よりもはるかに大きく、胸の奥で反響した。
――瞬間、背筋に電流が走る。
彼女の指先のぬくもりが、皮膚から直接、脳の奥へ焼き付けられるように流れ込んでいく。思い出してしまう。あの夜明け前の、肌にまとわりつくミルクのような匂い。耳元に落ちてきた吐息の熱。唇に重なった、信じられないほど柔らかな感触。
「……っ」
慌てて手を引いたが、もう遅い。優しい温もりに触れているのが「男」である自分だという倒錯的な事実が、下腹部にじわじわと熱を広げていく。目の前で微笑む千紗は、何も気づいていない。無垢さと背徳感のコントラストが、悠真の神経をじわりと焼く。
刺繍枠に視線を落とすふりをしながら、指先に残る余韻を振り払おうと必死になる。だが、柔らかな指の重なりは幻のようにいつまでも消えず、胸の内側でじくじくと疼き続けていた。
「そういえば、来週公開の恋愛映画、もう予告見た?主演の俳優さん、めちゃくちゃかっこよくない?」
「わかるー!私、絶対初日に行くって決めてるんだ」
部員たちの華やいだ声が、やけに遠くに聞こえる。熱を帯びた身体を隠すように、悠真は必死で目の前の作業に集中しようと努めた。
「あ、赤い刺繍糸がなくなっちゃった。そこの棚から取ってくるね」
千紗が立ち上がる。その何気ない仕草に、悠真の胸が小さく波打った。
「……あ、私も…白い糸、取ってくる」
気づけば、言葉が口をついていた。――半ば無意識の行動。冷静になりたくて、けれど彼女から目を離せない。
二人は材料棚の前に並び立つ。他の部員たちから視線が届かない、わずかな死角。ざわめきが遠くに引いて、空気の密度が濃くなる。
千紗が赤い糸を探して指を伸ばし、ぱっと振り向いた。彼女の顔が思った以上に近い。
「この前のお泊り会、本当に楽しかった。またやりたいな」
ほんの囁き声。それなのに、悠真の耳には雷鳴のように響く。瞳が細められ、いたずらっぽく笑む。だが、その奥のまっすぐな輝きは逃げ場を与えてくれない。
(近い…、声も…目も……全部が僕に向いてる……)
結月として「もちろん!」と笑顔で答えるのは簡単だ。けれど、胸の奥では“相沢悠真”としての意識が抗い続ける。女として触れ合った記憶を抱きながら、男の自分が彼女に惹かれている――その倒錯した事実が、胸の奥で熱を孕ませる。
「……うん、私も……」
震える声。喉の奥がきゅっと締め付けられて、かろうじて搾り出した。
幸い、千紗は気づかない。小さく「やった!」とガッツポーズをして、赤い糸を手に席へ戻っていく。
残された悠真は、白い糸を手にしながら、足元がわずかに揺れるような錯覚に囚われていた。さっきの瞳の熱――あれは友情か、それとも…。心臓がまだ、部室のざわめきよりもずっと大きな音で跳ね続けていた。
あっという間に時間は過ぎ、活動終了の時刻になる。皆で机の上を片付け、ゴミをまとめながら、今日の成果を笑い合った。その輪の中に自分もいる。それが奇跡のようで、同時にひどく恐ろしかった。
「じゃあ、またね!結月ちゃん!」
帰り際、千紗がいつもと同じように、自然に手を振ってくれる。悠真は、引きつった笑顔で何とか手を振り返した。
その太陽のような笑顔に、胸が焼けるように熱くなる。
もう、ただのクラスメイトとしても、ただの手芸仲間としても、彼女を見ることはできない。あのキスを境に、自分はもう戻れない場所に来てしまったのだと、悠真は心の奥底で静かに悟っていた。
一人になった帰り道、罪悪感がどっと押し寄せてくる。こんな嘘、いつまで続けられる?いっそ、もう結月になるのをやめてしまえば、この苦しみから解放されるんじゃないか。そんな考えが、一瞬頭をよぎった。
だが、脳裏に浮かぶのは、屈託なく笑いかけてくれる千紗の顔。「またやりたいな」と囁いた時の、あの親密な空気。今日の、指先が触れ合った瞬間の熱。
あの優しい世界を、千紗の笑顔を、この手で捨てることなんて、できるはずがない。
そうだ、もうやめられないんだ。結月の姿にならないことも少しは考えた。でも、やめることなんてできっこない。この嘘がどんな結末を迎えようとも、俺はまたこの皮を被り、彼女の前に立つだろう。その笑顔が見られるなら、どんな罪でも背負ってやる。悠真は、夕暮れの空を見上げながら、固く唇を噛み締めた。
10
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
白雪様とふたりぐらし
南條 綾
恋愛
高校1年生の紫微綾は、生きることに疲れ、雪の山で自らの命を終えようとしたその瞬間――
美しい御小女郎姿の少女・白雪が現れ、優しく彼女を救う。
白雪は実は古の仏神・ダキニ天の化身。暇つぶしに人間界に降りた彼女は、綾に「一緒に暮らそう」と提案し……?
銀髪の少女と神様の、甘く温かなふたりぐらしが始まる。
【注意事項】
本作はフィクションです。
実在の人物・団体・宗教・儀礼・場所・出来事とは一切関係ありません。 作中で登場する神仏や信仰に関する表現は、物語の雰囲気づくりを目的とした創作によるものであり、特定の宗教や思想を推進・否定する意図は一切ございません。
純粋なエンターテイメントとしてお楽しみいただければ幸いです。
幼馴染みのメッセージに打ち間違い返信したらとんでもないことに
家紋武範
恋愛
となりに住む、幼馴染みの夕夏のことが好きだが、その思いを伝えられずにいた。
ある日、夕夏のメッセージに返信しようとしたら、間違ってとんでもない言葉を送ってしまったのだった。
俺をフッた女子に拉致されて、逃げ場のない同棲生活が始まりました
ちくわ食べます
恋愛
大学のサークル飲み会。
意を決して想いを告げた相手は、学内でも有名な人気女子・一ノ瀬さくら。
しかし返ってきたのは――
「今はちょっと……」という、曖昧な言葉だった。
完全にフラれたと思い込んで落ち込む俺。
その3日後――なぜか自分のアパートに入れなくなっていた。
至れり尽くせり!僕専用メイドの全員が溺愛してくる件
こうたろ
青春
普通の大学生・佐藤健太は目覚めると、自宅が豪華な洋館に変わり10人の美人メイドたちに「お目覚めですか、ご主人様?」と一斉に迎えられる。いつの間にか彼らの“専属主人”になっていた健太は戸惑う間もなく、朝から晩までメイドたちの超至れり尽くせりな奉仕を受け始める。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる


