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第十六話 結月の休日
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あの甘美で倒錯した夜から数日、僕の心は重い靄がかかったように晴れなかった。千紗への想いと罪悪感が交互に押し寄せ、思考はすっかり袋小路にはまり込んでいる。
(…ダメだ、このままじゃ)
このぐちゃぐちゃになった頭を、一度リセットしたい。
ふと、クローゼットにかかった結月の服が目に入った。そうだ。今日は一人でゆっくり過ごそう。せっかくだから、結月で街に出てみようか。
誰かと会うためじゃない。ただ、普通の女の子が休日にするように、自分のためだけにお洒落をして、好きなものを見て、美味しいものを食べる。そんな一日を過ごしてみたかった。
鏡の前で、休日用にと買っておいたベージュのスカートを手に取る。「普通の女の子が休日に出かけるみたいに」。そう思うだけで、沈んでいた心が少しだけ弾むのを感じた。
休日のショッピングモールは、きらびやかな活気に満ちていた。楽しそうに行き交うカップルや家族連れ。以前なら気圧されていただろうその人波に、「結月」としてなら、ごく自然に溶け込める。ガラス張りのショーウィンドウに映る自分の姿をちらりと盗み見る。長い髪、華奢なスタイル。うん、ちゃんと「女の子」に見えている。その事実が、僕に小さな自信と爽快な開放感を与えてくれた。
僕は吸い寄せられるように、可愛いアクセサリーショップに足を踏み入れた。キラキラしたピアスや繊細なデザインのブレスレットを眺めているだけで、心が躍る。
「このデザイン、千紗が好きそうだな…。今度、手芸の参考になるかも」
自然と彼女の顔が浮かぶが、今日は僕一人の時間だ。その思考をそっとしまい込み、自分のためのアクセサリーを真剣に選び始める。
隣のブティックでは、マネキンが着ていたワンピースに目が留まった。普段の結月なら選ばないような、少しだけ大人びたデザイン。店員さんに勧められるがままに試着室に入り、カーテンを開けて鏡の前に立つと、そこに映る姿に思わず息を呑んだ。
「…こういうのも、似合うんだ」
そこには、僕の知らない「桜井結月」がいた。新しい自分を発見したような感覚に、胸が高鳴った。
いくつかの買い物袋を抱え、僕はふと立ち寄った屋上庭園のベンチに腰を下ろした。冷たいレモネードを片手に、夕暮れに染まり始めた空を眺める。子どもたちの楽しそうな笑い声や、カップルの囁きが遠くに聞こえる中、心地よい風が火照った頬を撫でていった。
「こうして、結月で一人で過ごすのも悪くないな」
心地よい静けさの中、僕は結月になってからの自分をぼんやりと振り返っていた。
ネットで見つけた、いかにも怪しげな通販サイト。「第二の人生を」なんて謳い文句に、ほんの出来心で手を出したあの「皮」。ただの精巧なコスプレ道具だと思っていた。あの日、鏡の前で本当に女の身体に変わってしまった自分を見た時の衝撃は、今でも忘れられない。最初は、ただ自室の鏡の前で自分の変貌した姿を見ては、その背徳感と未知の感覚に性的興奮を覚えているだけだった。
その興奮だけでは飽き足らず、初めて勇気を出して近所のカフェへ足を運んだ日。満席で、店員さんに案内された先で相席になったのが、小野寺陽翔だった。住む世界が違うと思っていた学内の王子様。彼が僕(結月)を見るなり息を呑み、「あの、すごく綺麗ですね」と、連絡先を交換してくれた時の、頭が真っ白になるような感覚。
そして、もっと大胆になって大学にまで行くようになり、手芸部という温かい居場所を見つけ、千紗という太陽みたいな女の子と出会った。
「相沢悠真」のままだったら、絶対にあり得なかった奇跡の連続。冴えない男だった僕が、陽翔のような王子様に見初められ、千紗のようなかけがえのない親友ができるなんて。ネットの片隅で偶然見つけたあの「皮」は、僕の灰色だった人生を劇的に塗り替えてくれた、まさしく魔法だったんだ。
その奇跡を一つ一つ噛みしめていると、胸の奥がじんわりと温かくなる。感傷的な気持ちと、目の前の夕焼けの美しさが混じり合って、ふと、今日の自分を記録に残したくなった。
僕は少し恥じらいながらも、スマートフォンを取り出してインカメラを起動する。画面に映る、少しだけ寂しげに微笑む結月。角度を調整し、今日買ったブレスレットがさりげなく映るように手首を傾ける。背景の夕焼けが、髪をキラキラと照らしていた。
カシャ、という小さなシャッター音。撮れた写真を確認すると、そこには僕が演じているとは思えないほど、自然な「女の子の休日」のワンシーンが切り取られていた。「悪くないかも」。そう呟き、僕はその写真を誰に見せるでもなく、そっと保存した。
小腹が空いてきたので、フードコートに立ち寄る。ショーケースに並んだ、色とりどりのフルーツが乗ったクレープ。
「こういうの、悠真のままじゃ絶対に頼まなかったな」
思わず笑みがこぼれる。生クリームとチョコレートソースがたっぷりかかった甘いクレープを頬張る。周囲の女の子たちと同じことをしている。ただそれだけなのに、「普通の女の子の休日」を完璧に演じられているような気がして、胸がいっぱいになった。
フードコートを出て、エスカレーターに向かって歩いている時だった。
僕のスカートの裾を、小さな女の子がちょん、と引っ張った。振り返ると、くりくりとした瞳で僕を見上げている。
「お姉ちゃん、お洋服かわいい!」
その純粋な言葉に、僕の心臓はドキッと大きく跳ねた。そして、じわじわと嬉しさが込み上げてくる。
「あ…ありがとう」
何とかそう返すと、女の子は満足そうに笑って、母親の元へ駆け戻っていった。ただそれだけの、ささやかな出来事。でも、それは僕が今日一日演じてきた「桜井結月」が、ちゃんと誰かの目に「可愛い女の子」として映ったという、何よりの証明だった。
夕暮れの光が差し込む大きな吹き抜けのベンチに座り、僕は今日買った戦利品を袋から出して、そっと眺めた。新しいワンピース、キラキラしたブレスレット。
「結月で過ごすこういう日も、本当に、悪くないな」
心からそう思えた。
自室に戻り、「皮」を脱いで、見慣れた「相沢悠真」の姿に戻る。いつもなら、ここで深い虚しさに襲われるはずだった。だが、今日の僕の心には、虚しさよりもずっと温かい、心地よい疲労感と満足感が残っていた。
今日の出来事は、僕だけの秘密の宝物だ。この宝物を胸に抱けば、明日からの退屈な日常も、もう少しだけ、乗り越えていける気がした。
(…ダメだ、このままじゃ)
このぐちゃぐちゃになった頭を、一度リセットしたい。
ふと、クローゼットにかかった結月の服が目に入った。そうだ。今日は一人でゆっくり過ごそう。せっかくだから、結月で街に出てみようか。
誰かと会うためじゃない。ただ、普通の女の子が休日にするように、自分のためだけにお洒落をして、好きなものを見て、美味しいものを食べる。そんな一日を過ごしてみたかった。
鏡の前で、休日用にと買っておいたベージュのスカートを手に取る。「普通の女の子が休日に出かけるみたいに」。そう思うだけで、沈んでいた心が少しだけ弾むのを感じた。
休日のショッピングモールは、きらびやかな活気に満ちていた。楽しそうに行き交うカップルや家族連れ。以前なら気圧されていただろうその人波に、「結月」としてなら、ごく自然に溶け込める。ガラス張りのショーウィンドウに映る自分の姿をちらりと盗み見る。長い髪、華奢なスタイル。うん、ちゃんと「女の子」に見えている。その事実が、僕に小さな自信と爽快な開放感を与えてくれた。
僕は吸い寄せられるように、可愛いアクセサリーショップに足を踏み入れた。キラキラしたピアスや繊細なデザインのブレスレットを眺めているだけで、心が躍る。
「このデザイン、千紗が好きそうだな…。今度、手芸の参考になるかも」
自然と彼女の顔が浮かぶが、今日は僕一人の時間だ。その思考をそっとしまい込み、自分のためのアクセサリーを真剣に選び始める。
隣のブティックでは、マネキンが着ていたワンピースに目が留まった。普段の結月なら選ばないような、少しだけ大人びたデザイン。店員さんに勧められるがままに試着室に入り、カーテンを開けて鏡の前に立つと、そこに映る姿に思わず息を呑んだ。
「…こういうのも、似合うんだ」
そこには、僕の知らない「桜井結月」がいた。新しい自分を発見したような感覚に、胸が高鳴った。
いくつかの買い物袋を抱え、僕はふと立ち寄った屋上庭園のベンチに腰を下ろした。冷たいレモネードを片手に、夕暮れに染まり始めた空を眺める。子どもたちの楽しそうな笑い声や、カップルの囁きが遠くに聞こえる中、心地よい風が火照った頬を撫でていった。
「こうして、結月で一人で過ごすのも悪くないな」
心地よい静けさの中、僕は結月になってからの自分をぼんやりと振り返っていた。
ネットで見つけた、いかにも怪しげな通販サイト。「第二の人生を」なんて謳い文句に、ほんの出来心で手を出したあの「皮」。ただの精巧なコスプレ道具だと思っていた。あの日、鏡の前で本当に女の身体に変わってしまった自分を見た時の衝撃は、今でも忘れられない。最初は、ただ自室の鏡の前で自分の変貌した姿を見ては、その背徳感と未知の感覚に性的興奮を覚えているだけだった。
その興奮だけでは飽き足らず、初めて勇気を出して近所のカフェへ足を運んだ日。満席で、店員さんに案内された先で相席になったのが、小野寺陽翔だった。住む世界が違うと思っていた学内の王子様。彼が僕(結月)を見るなり息を呑み、「あの、すごく綺麗ですね」と、連絡先を交換してくれた時の、頭が真っ白になるような感覚。
そして、もっと大胆になって大学にまで行くようになり、手芸部という温かい居場所を見つけ、千紗という太陽みたいな女の子と出会った。
「相沢悠真」のままだったら、絶対にあり得なかった奇跡の連続。冴えない男だった僕が、陽翔のような王子様に見初められ、千紗のようなかけがえのない親友ができるなんて。ネットの片隅で偶然見つけたあの「皮」は、僕の灰色だった人生を劇的に塗り替えてくれた、まさしく魔法だったんだ。
その奇跡を一つ一つ噛みしめていると、胸の奥がじんわりと温かくなる。感傷的な気持ちと、目の前の夕焼けの美しさが混じり合って、ふと、今日の自分を記録に残したくなった。
僕は少し恥じらいながらも、スマートフォンを取り出してインカメラを起動する。画面に映る、少しだけ寂しげに微笑む結月。角度を調整し、今日買ったブレスレットがさりげなく映るように手首を傾ける。背景の夕焼けが、髪をキラキラと照らしていた。
カシャ、という小さなシャッター音。撮れた写真を確認すると、そこには僕が演じているとは思えないほど、自然な「女の子の休日」のワンシーンが切り取られていた。「悪くないかも」。そう呟き、僕はその写真を誰に見せるでもなく、そっと保存した。
小腹が空いてきたので、フードコートに立ち寄る。ショーケースに並んだ、色とりどりのフルーツが乗ったクレープ。
「こういうの、悠真のままじゃ絶対に頼まなかったな」
思わず笑みがこぼれる。生クリームとチョコレートソースがたっぷりかかった甘いクレープを頬張る。周囲の女の子たちと同じことをしている。ただそれだけなのに、「普通の女の子の休日」を完璧に演じられているような気がして、胸がいっぱいになった。
フードコートを出て、エスカレーターに向かって歩いている時だった。
僕のスカートの裾を、小さな女の子がちょん、と引っ張った。振り返ると、くりくりとした瞳で僕を見上げている。
「お姉ちゃん、お洋服かわいい!」
その純粋な言葉に、僕の心臓はドキッと大きく跳ねた。そして、じわじわと嬉しさが込み上げてくる。
「あ…ありがとう」
何とかそう返すと、女の子は満足そうに笑って、母親の元へ駆け戻っていった。ただそれだけの、ささやかな出来事。でも、それは僕が今日一日演じてきた「桜井結月」が、ちゃんと誰かの目に「可愛い女の子」として映ったという、何よりの証明だった。
夕暮れの光が差し込む大きな吹き抜けのベンチに座り、僕は今日買った戦利品を袋から出して、そっと眺めた。新しいワンピース、キラキラしたブレスレット。
「結月で過ごすこういう日も、本当に、悪くないな」
心からそう思えた。
自室に戻り、「皮」を脱いで、見慣れた「相沢悠真」の姿に戻る。いつもなら、ここで深い虚しさに襲われるはずだった。だが、今日の僕の心には、虚しさよりもずっと温かい、心地よい疲労感と満足感が残っていた。
今日の出来事は、僕だけの秘密の宝物だ。この宝物を胸に抱けば、明日からの退屈な日常も、もう少しだけ、乗り越えていける気がした。
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