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第四話 世間の承認と初めてのトキメキ
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あの初めての買い物から、一週間が過ぎた。
灰色だったはずの平日は、週末への期待感で鮮やかに色づいて見えた。「相沢悠真」として過ごす退屈な講義も、無味乾燥な通学路も、全ては週末に「結月」になるための助走に過ぎない。そして、待ち焦がれた土曜の朝が、ようやくやってきた。
僕は逸る心を抑えながら、鏡の前で完璧な「結月」へと姿を変える。鏡に映る少女は、僕が作り出した最高傑作だ。
しかし、この美しさは、この閉ざされた部屋の中では僕一人の自己満足でしかない。この存在が、客観的にどれほどの価値を持つのか。僕ではない誰かに、この価値を認めてもらいたい。社会という巨大な鏡は、この『結月』をどう映し出すのだろうか。
その欲望に突き動かされるように、僕はスマートフォンを手に取った。現実の世界に飛び出す勇気はまだない。だが、匿名の仮面を被れるSNSの世界なら、その第一歩を踏み出せるかもしれない。震える指でアプリを開き、新しいアカウントを作る。名前は、もちろん『yuzuki』。
僕は水色のワンピースに着替えた。パールのカチューシャで髪を留め、鏡の前に立つ。
僕はリングライトを点け、何十枚も写真を撮った。光の角度、わずかな表情の違い。その中から奇跡の一枚を選び抜き、深く息を吸ってから、投稿ボタンを押した。僕の分身が、デジタルの奔流へと解き放たれた瞬間だった。
スマホを置いた数分後、控えめな通知音が鳴る。
開いてみると、そこには赤いハートのマークが一つ。たった一つの「いいね」が、乾いた心に染み渡る水滴のように、じわりと僕の胸を温めた。
しかし、それは始まりに過ぎなかった。
通知はすぐに一つ、また一つと増え、やがて途切れることのない奔流となった。フォロワー数が、面白いように増えていく。10、50、100……。僕が「相沢悠真」として生きてきた21年間で、これほど多くの人間から一度に注目されたことなど、ただの一度もなかった。
コメント欄には、結月の非現実的な美しさを賞賛する言葉が、熱狂的な賛辞となって溢れかえっていた。
『天使ですか?』
『AIグラビアかと思った……実在するの?』
『この世のものとは思えない。フォローしました。更新楽しみにしてます!』
画面の向こうの見知らぬ誰かが、僕の創り出した『結月』に熱狂している。その事実が、僕の心を今まで感じたことのない種類の快感で満たしていく。
これは麻薬だ。一つ一つの「いいね」が、一つ一つのコメントが、僕の存在そのものを肯定する証のように思えた。
満たされていくはずなのに、心の奥底では新たな渇望が生まれていた。『AIグラビアかと思った』――それは最高の褒め言葉であると同時に、僕の心に火をつけた。「違う、これは本物なんだ」と。
画面越しの「数字」や「文字」だけでは足りない。この滑らかな肌も、繊細な髪も、作り物ではない。僕はこの身体で、確かに息をしている。僕が欲しいのは、もっと生々しい、現実の反応だ。この完璧な『結月』が、データの中だけでなく、現実の世界に存在することを、この目で確かめたい。一人の「女性」として、他人の視線を浴び、その声を聞き、扱われてみたいのだ。
先週、初めてこの姿で外に出た時とは、まるで違う感情が僕を支配していた。あの時は、ぶかぶかのパーカーで必死に身体の線を隠し、フードを目深に被って、まるで罪人のように人目を避けていた。恐怖と、自分の姿を見られたくないという羞恥心からの逃避だった。
だが、今は違う。
SNSで得た自信が、僕の背中を押している。これは逃避じゃない。僕が『結月』であることを世界に証明するための、挑戦だ。フードで顔を隠すなんて馬鹿らしい。この美しい顔を、パールのカチューシャで飾って見せつけてやりたい。人々の視線を浴びたい。値踏みされることさえ、今は快感に変わる気がした。
「……試してみよう」
鏡の中の結月が、自信に満ちた笑みで挑戦的に微笑み返した。
行き先は決めている。近所のお気に入りのカフェ。もし、この姿で、現実の世界でも賞賛の視線を浴びることができたなら――その時こそ、僕は本当の意味で「結月」になれるのかもしれない。
ガラス張りのドアを開けると、コーヒーの香ばしい匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。週末の昼下がり、店内は思った以上に混雑していて、ほとんどの席が埋まっている。カウンターでカフェラテを注文したものの、座る場所が見つからず、僕は少し途方に暮れた。
すると、店員が申し訳なさそうな顔で僕に話しかけてきた。
「申し訳ありません、あちらの二人掛けの席でよろしければ、相席でも構いませんでしょうか?」
店員が指さした先、窓際の席で本を読んでいた男性が、顔を上げた。
その瞬間、僕の心臓は凍りついた。
小野寺陽翔――。
僕が「相沢悠真」として、一方的に知っている大学の先輩だった。彼はいつも人の輪の中心にいて、爽やかに笑っている。僕のような日陰の人間とは住む世界が違う、キラキラした人生を歩んでいる人。共通点なんて一つもない。講義で数回見かけたことがあるだけで、まともに話したことすらない。彼が僕を認識しているはずもなかったが、その存在は僕にとって、拭い去れない劣等感を掻き立てる象徴だった。
陽翔は、僕(結月)を見ると少し驚いたように目を見開き、そしてすぐに柔らかく微笑んで「どうぞ」と頷いた。
彼の視線が、僕の顔に注がれている。なぜ、こんな最悪のタイミングで。いや、最悪で、最高なのか?彼が「相沢悠真」に抱くであろう無関心と、「結月」に向ける純粋な好意。その落差を想像するだけで、背徳的な快感が背筋を駆け上がった。
おずおずと彼の向かいの席に腰を下ろす。気まずい沈黙が流れた。
「……こんにちは」
沈黙を破ったのは、陽翔の方だった。「すごい混んでますね」と彼は自然に言葉を続けた。
「あ……はい、そうですね」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、震えていた。次の言葉が見つからず、ただカフェラテのカップに視線を落とす。頭が真っ白で、何も考えられない。
「緊張してる?ごめん、急に話しかけられても困るよね。ゆっくりでいいよ」
僕の内心を見透かしたような優しい声に、僕はハッと顔を上げた。陽翔は困ったように笑いながらも、僕を責めるような色は一切見せない。
「もしかして、学生さん?」
その問いに、僕は心臓を掴まれたように息をのみ、嘘を重ねる覚悟を決めて小さく頷いた。
「……△△大学です」
「え、本当!?俺もなんだよ!すごい偶然だね!」
陽翔は屈託なく笑う。彼の笑顔が眩しくて、僕は目を逸らしたくなった。
「学部は?あ、いや、言いたくなければ全然大丈夫だよ」
僕が答えに詰まったのを察して、彼は慌てて付け加えた。その細やかな気遣いが、逆に僕の胸を締め付ける。
「……文学部です」
「そっか、じゃあキャンパスは違うかな。でも、すごいな、こんなところで会うなんて」
彼は本当に嬉しそうだった。憧れの先輩と、同じ大学の学生として、初めてまともな会話をしている。僕が「相沢悠真」だったら、決してあり得なかったシチュエーション。その事実に、罪悪感と倒錯した喜びが胸の中で渦を巻いた。
僕が持っていた文庫本の背表紙を見て、彼は「その作家、僕も好きなんだ」とさらに顔を輝かせた。まさか、こんなところで共通点が――。それをきっかけに、陽翔が巧みに会話をリードしてくれたおかげで、僕も少しずつ言葉を返せるようになっていった。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、陽翔が時計を見て「ごめん、もう行かないと」と立ち上がった。
「あのさ」
店を出ようとする彼が、何かを決心したように振り返る。
「もし、迷惑じゃなかったら……連絡先、交換しないかな。また、こうして話したい」
差し出されたスマートフォン。その画面には、LINEのQRコードが表示されている。彼の真剣な眼差しから、これがただの社交辞令ではないことが痛いほど伝わってきた。
この申し出を受け入れてしまえば、もう引き返せない。僕の嘘は、僕が最も劣等感を抱く相手を巻き込んで、さらに大きなものになる。でも、ここで断ってしまったら、二度と彼とこうして話す機会はないだろう。
「結月」としての悦びと、「相沢悠真」としての罪悪感。その天秤の上で、僕の心は激しく揺れ動く。
数秒の沈黙の後、僕はゆっくりと頷いていた。そして、震える指で自分のスマートフォンを取り出す。カシャリ、と軽いシャッター音がして、僕と彼の間に、嘘で塗り固められた細い繋がりが生まれた。
「ありがとう。嬉しい。……結月さん」
僕が教えた偽りの名前を、彼は宝物のように優しく呼んだ。その声の響きが、僕の罪の重さを、そして抗いがたい魅力の甘さを、同時に教えているようだった。
カフェを出て、夕暮れの道を一人歩く。陽翔の優しい声が、まだ耳の奥で響いていた。彼が僕(結月)を、自然に、当たり前のように「一人の女性」として見てくれたこと。その事実が、僕の胸を今まで経験したことのない熱で満たしていく。頬が熱い。心臓が高鳴って、少し歩きにくい。これが、誰かに好意を寄せられるということなのか。
その甘い高揚感は、しかし、すぐに冷たい現実の輪郭を僕に突きつけた。
何を考えているんだ。僕は、男なのに。
陽翔にときめいている。女性として扱われることに、歓喜している。その倒錯した事実に、くらりと目眩がした。この喜びは、すべて嘘の上に成り立っている。僕が「相沢悠真」だと知ったら、彼のあの優しい瞳は、どんな色に変わるだろう。軽蔑か、嫌悪か。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。陽翔からのメッセージだ。『今日はありがとう。すごく楽しかった。また近いうちに会えたら嬉しいな』。その文面が、甘い毒のように僕の心を蝕んでいく。
彼の真剣な好意は、僕が週末だけ纏うこの美しい「皮」を、現実へと縫い付けていく強力な針なのかもしれない。バレてしまったら、この優しい人はどれだけ傷つくだろう。
その恐怖と、それでも彼との関係を失いたくないという強い願いが、僕の中で渦を巻き始めていた。
灰色だったはずの平日は、週末への期待感で鮮やかに色づいて見えた。「相沢悠真」として過ごす退屈な講義も、無味乾燥な通学路も、全ては週末に「結月」になるための助走に過ぎない。そして、待ち焦がれた土曜の朝が、ようやくやってきた。
僕は逸る心を抑えながら、鏡の前で完璧な「結月」へと姿を変える。鏡に映る少女は、僕が作り出した最高傑作だ。
しかし、この美しさは、この閉ざされた部屋の中では僕一人の自己満足でしかない。この存在が、客観的にどれほどの価値を持つのか。僕ではない誰かに、この価値を認めてもらいたい。社会という巨大な鏡は、この『結月』をどう映し出すのだろうか。
その欲望に突き動かされるように、僕はスマートフォンを手に取った。現実の世界に飛び出す勇気はまだない。だが、匿名の仮面を被れるSNSの世界なら、その第一歩を踏み出せるかもしれない。震える指でアプリを開き、新しいアカウントを作る。名前は、もちろん『yuzuki』。
僕は水色のワンピースに着替えた。パールのカチューシャで髪を留め、鏡の前に立つ。
僕はリングライトを点け、何十枚も写真を撮った。光の角度、わずかな表情の違い。その中から奇跡の一枚を選び抜き、深く息を吸ってから、投稿ボタンを押した。僕の分身が、デジタルの奔流へと解き放たれた瞬間だった。
スマホを置いた数分後、控えめな通知音が鳴る。
開いてみると、そこには赤いハートのマークが一つ。たった一つの「いいね」が、乾いた心に染み渡る水滴のように、じわりと僕の胸を温めた。
しかし、それは始まりに過ぎなかった。
通知はすぐに一つ、また一つと増え、やがて途切れることのない奔流となった。フォロワー数が、面白いように増えていく。10、50、100……。僕が「相沢悠真」として生きてきた21年間で、これほど多くの人間から一度に注目されたことなど、ただの一度もなかった。
コメント欄には、結月の非現実的な美しさを賞賛する言葉が、熱狂的な賛辞となって溢れかえっていた。
『天使ですか?』
『AIグラビアかと思った……実在するの?』
『この世のものとは思えない。フォローしました。更新楽しみにしてます!』
画面の向こうの見知らぬ誰かが、僕の創り出した『結月』に熱狂している。その事実が、僕の心を今まで感じたことのない種類の快感で満たしていく。
これは麻薬だ。一つ一つの「いいね」が、一つ一つのコメントが、僕の存在そのものを肯定する証のように思えた。
満たされていくはずなのに、心の奥底では新たな渇望が生まれていた。『AIグラビアかと思った』――それは最高の褒め言葉であると同時に、僕の心に火をつけた。「違う、これは本物なんだ」と。
画面越しの「数字」や「文字」だけでは足りない。この滑らかな肌も、繊細な髪も、作り物ではない。僕はこの身体で、確かに息をしている。僕が欲しいのは、もっと生々しい、現実の反応だ。この完璧な『結月』が、データの中だけでなく、現実の世界に存在することを、この目で確かめたい。一人の「女性」として、他人の視線を浴び、その声を聞き、扱われてみたいのだ。
先週、初めてこの姿で外に出た時とは、まるで違う感情が僕を支配していた。あの時は、ぶかぶかのパーカーで必死に身体の線を隠し、フードを目深に被って、まるで罪人のように人目を避けていた。恐怖と、自分の姿を見られたくないという羞恥心からの逃避だった。
だが、今は違う。
SNSで得た自信が、僕の背中を押している。これは逃避じゃない。僕が『結月』であることを世界に証明するための、挑戦だ。フードで顔を隠すなんて馬鹿らしい。この美しい顔を、パールのカチューシャで飾って見せつけてやりたい。人々の視線を浴びたい。値踏みされることさえ、今は快感に変わる気がした。
「……試してみよう」
鏡の中の結月が、自信に満ちた笑みで挑戦的に微笑み返した。
行き先は決めている。近所のお気に入りのカフェ。もし、この姿で、現実の世界でも賞賛の視線を浴びることができたなら――その時こそ、僕は本当の意味で「結月」になれるのかもしれない。
ガラス張りのドアを開けると、コーヒーの香ばしい匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。週末の昼下がり、店内は思った以上に混雑していて、ほとんどの席が埋まっている。カウンターでカフェラテを注文したものの、座る場所が見つからず、僕は少し途方に暮れた。
すると、店員が申し訳なさそうな顔で僕に話しかけてきた。
「申し訳ありません、あちらの二人掛けの席でよろしければ、相席でも構いませんでしょうか?」
店員が指さした先、窓際の席で本を読んでいた男性が、顔を上げた。
その瞬間、僕の心臓は凍りついた。
小野寺陽翔――。
僕が「相沢悠真」として、一方的に知っている大学の先輩だった。彼はいつも人の輪の中心にいて、爽やかに笑っている。僕のような日陰の人間とは住む世界が違う、キラキラした人生を歩んでいる人。共通点なんて一つもない。講義で数回見かけたことがあるだけで、まともに話したことすらない。彼が僕を認識しているはずもなかったが、その存在は僕にとって、拭い去れない劣等感を掻き立てる象徴だった。
陽翔は、僕(結月)を見ると少し驚いたように目を見開き、そしてすぐに柔らかく微笑んで「どうぞ」と頷いた。
彼の視線が、僕の顔に注がれている。なぜ、こんな最悪のタイミングで。いや、最悪で、最高なのか?彼が「相沢悠真」に抱くであろう無関心と、「結月」に向ける純粋な好意。その落差を想像するだけで、背徳的な快感が背筋を駆け上がった。
おずおずと彼の向かいの席に腰を下ろす。気まずい沈黙が流れた。
「……こんにちは」
沈黙を破ったのは、陽翔の方だった。「すごい混んでますね」と彼は自然に言葉を続けた。
「あ……はい、そうですね」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、震えていた。次の言葉が見つからず、ただカフェラテのカップに視線を落とす。頭が真っ白で、何も考えられない。
「緊張してる?ごめん、急に話しかけられても困るよね。ゆっくりでいいよ」
僕の内心を見透かしたような優しい声に、僕はハッと顔を上げた。陽翔は困ったように笑いながらも、僕を責めるような色は一切見せない。
「もしかして、学生さん?」
その問いに、僕は心臓を掴まれたように息をのみ、嘘を重ねる覚悟を決めて小さく頷いた。
「……△△大学です」
「え、本当!?俺もなんだよ!すごい偶然だね!」
陽翔は屈託なく笑う。彼の笑顔が眩しくて、僕は目を逸らしたくなった。
「学部は?あ、いや、言いたくなければ全然大丈夫だよ」
僕が答えに詰まったのを察して、彼は慌てて付け加えた。その細やかな気遣いが、逆に僕の胸を締め付ける。
「……文学部です」
「そっか、じゃあキャンパスは違うかな。でも、すごいな、こんなところで会うなんて」
彼は本当に嬉しそうだった。憧れの先輩と、同じ大学の学生として、初めてまともな会話をしている。僕が「相沢悠真」だったら、決してあり得なかったシチュエーション。その事実に、罪悪感と倒錯した喜びが胸の中で渦を巻いた。
僕が持っていた文庫本の背表紙を見て、彼は「その作家、僕も好きなんだ」とさらに顔を輝かせた。まさか、こんなところで共通点が――。それをきっかけに、陽翔が巧みに会話をリードしてくれたおかげで、僕も少しずつ言葉を返せるようになっていった。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、陽翔が時計を見て「ごめん、もう行かないと」と立ち上がった。
「あのさ」
店を出ようとする彼が、何かを決心したように振り返る。
「もし、迷惑じゃなかったら……連絡先、交換しないかな。また、こうして話したい」
差し出されたスマートフォン。その画面には、LINEのQRコードが表示されている。彼の真剣な眼差しから、これがただの社交辞令ではないことが痛いほど伝わってきた。
この申し出を受け入れてしまえば、もう引き返せない。僕の嘘は、僕が最も劣等感を抱く相手を巻き込んで、さらに大きなものになる。でも、ここで断ってしまったら、二度と彼とこうして話す機会はないだろう。
「結月」としての悦びと、「相沢悠真」としての罪悪感。その天秤の上で、僕の心は激しく揺れ動く。
数秒の沈黙の後、僕はゆっくりと頷いていた。そして、震える指で自分のスマートフォンを取り出す。カシャリ、と軽いシャッター音がして、僕と彼の間に、嘘で塗り固められた細い繋がりが生まれた。
「ありがとう。嬉しい。……結月さん」
僕が教えた偽りの名前を、彼は宝物のように優しく呼んだ。その声の響きが、僕の罪の重さを、そして抗いがたい魅力の甘さを、同時に教えているようだった。
カフェを出て、夕暮れの道を一人歩く。陽翔の優しい声が、まだ耳の奥で響いていた。彼が僕(結月)を、自然に、当たり前のように「一人の女性」として見てくれたこと。その事実が、僕の胸を今まで経験したことのない熱で満たしていく。頬が熱い。心臓が高鳴って、少し歩きにくい。これが、誰かに好意を寄せられるということなのか。
その甘い高揚感は、しかし、すぐに冷たい現実の輪郭を僕に突きつけた。
何を考えているんだ。僕は、男なのに。
陽翔にときめいている。女性として扱われることに、歓喜している。その倒錯した事実に、くらりと目眩がした。この喜びは、すべて嘘の上に成り立っている。僕が「相沢悠真」だと知ったら、彼のあの優しい瞳は、どんな色に変わるだろう。軽蔑か、嫌悪か。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。陽翔からのメッセージだ。『今日はありがとう。すごく楽しかった。また近いうちに会えたら嬉しいな』。その文面が、甘い毒のように僕の心を蝕んでいく。
彼の真剣な好意は、僕が週末だけ纏うこの美しい「皮」を、現実へと縫い付けていく強力な針なのかもしれない。バレてしまったら、この優しい人はどれだけ傷つくだろう。
その恐怖と、それでも彼との関係を失いたくないという強い願いが、僕の中で渦を巻き始めていた。
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