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第七話 交錯するキャンパス
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床に崩れ落ちたまま、どれくらいの時間が過ぎただろうか。スマートフォンの画面だけが、暗い部屋の中で冷たく光り続けている。陽翔からのメッセージ。それは、僕の心を甘く溶かす劇薬であり、同時に僕の罪を告発する証拠品でもあった。
『よかったら、また来週も会えないかな?』
ダメだ。もう会ってはいけない。この嘘は、いつか必ず破綻する。彼を傷つけ、僕自身も破滅する。それが、正しい理屈だ。頭では、痛いほど分かっている。
だが、指が動かない。「ごめんなさい」の一言が打てない。
僕の脳裏に、今日の出来事が何度もフラッシュバックする。僕を庇うように車道側を歩いてくれたこと。僕の拙い話を、楽しそうに聞いてくれたこと。僕の手に偶然触れた時の、彼の驚いたような、でもどこか優しい眼差し。そして、僕のために流してくれた、あの慌てたような、優しい涙。
楽しかった。
「相沢悠真」として生きてきた人生で、あんなにも満たされた時間は、一度もなかった。
「……無理だ」
かすれた声が、喉から漏れる。あの甘美な時間を、この手で終わらせることなんて、僕には到底できそうになかった。
僕は、幽鬼のようなおぼつかない足取りで立ち上がり、鏡の前に立つ。
そこにいるのは、惨めで、情けない「相沢悠真」。陽翔が決して目を向けることのない、灰色の存在。
――お前じゃない。
僕の心の中で、冷たい声が響く。陽翔が会いたがっているのは、お前じゃない。結月だ。
そうだ。この返信は、僕がしてはいけない。結月が、しなければ。
僕は床に散らばった、結月の抜け殻――白いブラウスを拾い上げた。指先に残る、上質な生地の感触。僕のものではない、華やかな香水の残り香。それだけで、僕の心は再び「結月」に引き戻されていく。
僕はスマホの画面を点灯させ、SNSのアプリを開いた。『yuzuki』のアカウントには、僕が眠っている間でさえ、新たな賞賛の通知が絶え間なく届いている。このデジタルな喝采が、僕の弱った心に再び力を与えてくれる。
「結月なら、どうする……?」
僕はスマホを握りしめ、目を閉じる。僕はもう、相沢悠真じゃない。僕は、陽翔に愛される、完璧な女の子。
ゆっくりと目を開け、陽翔とのトーク画面を開く。震える指で、一文字一文字、愛おしむように打ち込んでいく。
『メッセージ、ありがとうございます。私も、昨日はすごく楽しかったです。泣いちゃって、ごめんなさい。……はい、ぜひ、またお会いしたいです』
送信ボタンを押した瞬間、僕の心は罪悪感を遥かに凌駕する、背徳的な喜びに満たされた。そうだ、これでいい。僕は、この嘘を生きる。
すると、すぐに既読がつき、画面がぽこりと動いた。
『よかった!本当に嬉しい。じゃあ、来週の土曜日はどうかな?』
『もしよかったら、少し早めに会わない?うちの大学のカフェ、結構雰囲気いいから、そこでお茶してから出かけるとか』
そのメッセージを読んだ瞬間、僕の全身の血が、急速に凍りついていくのを感じた。
大学の、カフェ……?
何を言っているんだ、彼は。そこは、「相沢悠真」のテリトリーだ。僕の友人たちも、僕を知る人間たちが、当たり前のように行き交う場所。そんなところに、「結月」として現れることなど、物理的に不可能なのだ。
それは、僕が演じる「結月」と、僕の本体である「相沢悠真」が、決して交わってはいけないという、この世界の絶対的なルールだった。
『どうかな?もし都合悪かったら、全然別の場所でも大丈夫だよ!』
追い打ちをかけるような、彼の優しいメッセージ。彼にとっては、それはごく自然で、論理的な提案なのだろう。同じ大学に通う男女が、キャンパスで会う。それだけの、なんてことのない話。
だが、僕にとっては、それは死刑宣告にも等しかった。
どうする?どう断る?『大学では会えない』と、どう説明すればいい?僕の頭は、完全にパニックに陥っていた。
スマホの画面が、まるで僕を嘲笑うかのように、明るく光り続けている。僕が自ら望んだ、甘い地獄。その最初の試練が、あまりにも残酷な形で、僕の目の前に突きつけられていた。
『よかったら、また来週も会えないかな?』
ダメだ。もう会ってはいけない。この嘘は、いつか必ず破綻する。彼を傷つけ、僕自身も破滅する。それが、正しい理屈だ。頭では、痛いほど分かっている。
だが、指が動かない。「ごめんなさい」の一言が打てない。
僕の脳裏に、今日の出来事が何度もフラッシュバックする。僕を庇うように車道側を歩いてくれたこと。僕の拙い話を、楽しそうに聞いてくれたこと。僕の手に偶然触れた時の、彼の驚いたような、でもどこか優しい眼差し。そして、僕のために流してくれた、あの慌てたような、優しい涙。
楽しかった。
「相沢悠真」として生きてきた人生で、あんなにも満たされた時間は、一度もなかった。
「……無理だ」
かすれた声が、喉から漏れる。あの甘美な時間を、この手で終わらせることなんて、僕には到底できそうになかった。
僕は、幽鬼のようなおぼつかない足取りで立ち上がり、鏡の前に立つ。
そこにいるのは、惨めで、情けない「相沢悠真」。陽翔が決して目を向けることのない、灰色の存在。
――お前じゃない。
僕の心の中で、冷たい声が響く。陽翔が会いたがっているのは、お前じゃない。結月だ。
そうだ。この返信は、僕がしてはいけない。結月が、しなければ。
僕は床に散らばった、結月の抜け殻――白いブラウスを拾い上げた。指先に残る、上質な生地の感触。僕のものではない、華やかな香水の残り香。それだけで、僕の心は再び「結月」に引き戻されていく。
僕はスマホの画面を点灯させ、SNSのアプリを開いた。『yuzuki』のアカウントには、僕が眠っている間でさえ、新たな賞賛の通知が絶え間なく届いている。このデジタルな喝采が、僕の弱った心に再び力を与えてくれる。
「結月なら、どうする……?」
僕はスマホを握りしめ、目を閉じる。僕はもう、相沢悠真じゃない。僕は、陽翔に愛される、完璧な女の子。
ゆっくりと目を開け、陽翔とのトーク画面を開く。震える指で、一文字一文字、愛おしむように打ち込んでいく。
『メッセージ、ありがとうございます。私も、昨日はすごく楽しかったです。泣いちゃって、ごめんなさい。……はい、ぜひ、またお会いしたいです』
送信ボタンを押した瞬間、僕の心は罪悪感を遥かに凌駕する、背徳的な喜びに満たされた。そうだ、これでいい。僕は、この嘘を生きる。
すると、すぐに既読がつき、画面がぽこりと動いた。
『よかった!本当に嬉しい。じゃあ、来週の土曜日はどうかな?』
『もしよかったら、少し早めに会わない?うちの大学のカフェ、結構雰囲気いいから、そこでお茶してから出かけるとか』
そのメッセージを読んだ瞬間、僕の全身の血が、急速に凍りついていくのを感じた。
大学の、カフェ……?
何を言っているんだ、彼は。そこは、「相沢悠真」のテリトリーだ。僕の友人たちも、僕を知る人間たちが、当たり前のように行き交う場所。そんなところに、「結月」として現れることなど、物理的に不可能なのだ。
それは、僕が演じる「結月」と、僕の本体である「相沢悠真」が、決して交わってはいけないという、この世界の絶対的なルールだった。
『どうかな?もし都合悪かったら、全然別の場所でも大丈夫だよ!』
追い打ちをかけるような、彼の優しいメッセージ。彼にとっては、それはごく自然で、論理的な提案なのだろう。同じ大学に通う男女が、キャンパスで会う。それだけの、なんてことのない話。
だが、僕にとっては、それは死刑宣告にも等しかった。
どうする?どう断る?『大学では会えない』と、どう説明すればいい?僕の頭は、完全にパニックに陥っていた。
スマホの画面が、まるで僕を嘲笑うかのように、明るく光り続けている。僕が自ら望んだ、甘い地獄。その最初の試練が、あまりにも残酷な形で、僕の目の前に突きつけられていた。
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