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第八話 灰色の日常と甘い地獄
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駅前の、新しいカフェ。
僕が「相沢悠真」として友人たちと約束した、まさにその場所。小野寺陽翔からの無邪気な提案は、僕の逃げ道を塞ぐための新たな壁となって立ちはだかった。
パニックに陥った頭で、僕は再び「結月」の仮面を被る。完璧な女の子は、こんな時どう切り返す?
答えは一つ。即答を避けること。期待を持たせつつ、主導権はこちらが握る。
『わ、嬉しいです!そこ、私も気になってました!』
『ただ、来週の土曜がもしかしたら少しだけ予定が動くかもしれなくて……。スケジュールがはっきりしたら、すぐに私から連絡してもいいですか?』
我ながら完璧な返答だった。行くことを否定せず、むしろ前向きな姿勢を見せる。だが、日程の確定は先延ばしにする。これで、ひとまず来週土曜のデートは回避できた。安堵と共に、彼の純粋さを利用した罪悪感が胸に広がる。
送信した直後、陽翔から『もちろん!待ってるね!』というスタンプ付きの明るい返信が届き、僕はスマホの電源を切ってベッドに倒れ込んだ。
---
そして今日、また灰色の月曜日が始まった。重い足取りで大学へ向かう。「相沢悠真」として過ごす時間は、日に日に色褪せて見えた。
「相沢」
講義室に入ると、静かな声に呼び止められた。高梨透真だ。どこか色素の薄いピンク色の髪とメガネが特徴で、口数は少ないが観察眼が鋭い。目立たない者同士、講義後に一緒に帰ることが多い、僕の唯一の「男友達」と言える存在だ。
「最近、何かあったのか?」
「え……別に」
「雰囲気が少し違う。甘い匂いがする。香水か?」
透真の鋭い指摘に、心臓が跳ねる。結月の残り香だ。僕の変化に気づく人間なんていないと思っていたのに、この男は、僕が自分でも気づかないうちに漏らしているサインを、いとも簡単に見つけ出す。
「……気のせいだろ」
僕はぶっきらぼうに返し、透真から視線を逸らした。まるで逃げるように向けたその視線の先に、彼がいた。小野寺陽翔だ。
広い講義室の数十メートル先で、友人たちと笑い合っている。僕が知らない、彼の日常。僕が「結月」として会っている時の、少し緊張したような優しい表情とは違う、リラックスした彼の姿。その屈託のなさが、僕の罪悪感を刺激する。
「小野寺先輩を、ずっと見てるな」
隣に座った透真が、独り言のように呟いた。
「別に……」
「あの人は、深入りしない方がいいかもしれない」
その言葉は、ゴシップ好きの好奇心からくるものではなく、温度のない、純粋な事実の提示のように聞こえた。
「どういう、意味だ?」
「映像研の先輩だ。監督としてのあの人の情熱と才能は尊敬している。だが、それ故に危うい時がある」
透真は僕の顔を見ずに、淡々と続ける。
「前の彼女の時もそうだった。あの人が撮る映像の中の彼女は、本当に輝いていた。でも、レンズの外での彼女は、小野寺先輩への依存を隠せなくなっていた。撮影した映像を見返すと、その歪さがよく分かった。ああいう関係は、結局どちらも消耗する」
陽翔の、過去の恋愛。透真の分析的な言葉は、ただの噂話よりもずっと重く、僕の胸に突き刺さった。人を信じやすく、裏の感情に鈍感な陽翔。その彼が、僕の嘘に気づくはずもない。
---
講義が終わっても、透真の言葉は呪いのように僕にまとわりついていた。重い足取りで、僕はそのままコンビニのアルバイトへ向かう。
レジに立つ僕の耳に、客の苛立った声が突き刺さる。
「おいアンタ、態度悪いな!『ありがとうございました』の一言もねえのか!」
「も、申し訳ありません……ありがとうございました」
かろうじて絞り出した声は、自分でも情けないほど小さかった。
――もし、今ここにいるのが「僕」じゃなくて、「結月」だったら?
彼女なら、こんな風に怒鳴られたりしない。そして、「重い」なんて思われずに、愛想よく振る舞えるはずだ。
……いっそのこと、「結月」として、他のバイトを探せないだろうか?
その突拍子もない妄想は、もはや荒唐無稽な夢想ではなく、僕が生き延びるための、切実な処方箋のように思えた。
---
アルバイトを終え、心身ともに疲れ切ってアパートのドアを開ける。一日の汚れをすべて背負ったまま、僕は吸い寄せられるようにクローゼットへ向かった。
奥に隠したケースから、肌色の滑らかな「皮」を取り出す。ひんやりとした感触。僕は震える手でそれを広げ、纏った。
鏡の前に立つと、そこにいたのは惨めな「相沢悠真」ではなかった。完璧な女の子、「結月」が、そこにいた。僕は、ゆっくりと深呼吸をする。強張っていた肩の力が抜け、浅かった呼吸が深くなる。そうだ、これだ。この姿でいる時だけ、僕は世界から肯定されていると感じられる。
大学で「相沢悠真」の無力さを知り、バイトで社会での無価値さを思い知らされ、最後にこの部屋で「結月」になることで、ようやく僕は僕でいられる資格を得る。そんな歪んだサイクルが、ここ最近の僕の全てだった。
その、つかの間の安らぎを打ち破るように、ポケットの中で放置していたスマホがぶるりと震えた。
画面に表示されたのは、陽翔からのメッセージ。
『結月ちゃん、そういえば、来週の土曜じゃなくても、平日でも俺は大丈夫だよ!』
僕は、鏡の中の結月と同じ、完璧な女の子の指つきで返信を打つ。
『わ、本当ですか!?陽翔さん、優しすぎます…!でも、私の都合で振り回しちゃうの、本当に申し訳ないです…』
すぐに、画面がぽこりと動いた。
『全然気にしないで!結月ちゃんが大変なのは分かってるから。俺はいつでも大丈夫だから、結月ちゃんの都合がいい時でいいよ』
底なしの優しさ。その言葉に胸が高鳴ると同時に、昼間の透真の話が毒のように心を蝕んでいく。
この優しさは、本心からのものなのだろうか。それとも、僕を「面倒な女」にさせないための、彼の処世術なのだろうか。
知りたい。彼のことを、もっと。
『陽翔さんは、本当に優しいんですね』
僕は、探るようなメッセージを送ってしまったことに気づき、心臓が冷たくなる。だが、彼の返信は、やはり穏やかだった。
『そうかな?でも、結月ちゃんがそう言ってくれるなら、嬉しいよ』
その言葉を見た瞬間、僕の指は、僕の意思とは関係なく、次の言葉を紡ごうとしていた。
――今まで、どんな人と付き合ってきたんですか?
その一文が、入力画面の上で点滅している。彼の過去を知りたい。彼を傷つけたとされる「重い女」の正体を知りたい。その女と、自分を比べたい。そんな、醜くてどす黒い欲望が、僕の胸の内側から湧き上がってくる。
ダメだ。こんなことを聞いたら、それこそ僕が「重い女」になってしまう。
僕は慌てて入力した文字をすべて消し、当たり障りのない言葉を打ち直した。
『ふふ、ありがとうございます。なるべく早く連絡しますね!』
送信ボタンを押した後、僕はスマホを強く握りしめた。鏡の中の結月は、完璧な微笑みを浮かべている。だが、その瞳の奥には、僕自身の、醜い好奇心と独占欲が、黒い炎のように燃え上がっているのが見えた。僕はその瞳から目を逸らすことができなかった。
僕が「相沢悠真」として友人たちと約束した、まさにその場所。小野寺陽翔からの無邪気な提案は、僕の逃げ道を塞ぐための新たな壁となって立ちはだかった。
パニックに陥った頭で、僕は再び「結月」の仮面を被る。完璧な女の子は、こんな時どう切り返す?
答えは一つ。即答を避けること。期待を持たせつつ、主導権はこちらが握る。
『わ、嬉しいです!そこ、私も気になってました!』
『ただ、来週の土曜がもしかしたら少しだけ予定が動くかもしれなくて……。スケジュールがはっきりしたら、すぐに私から連絡してもいいですか?』
我ながら完璧な返答だった。行くことを否定せず、むしろ前向きな姿勢を見せる。だが、日程の確定は先延ばしにする。これで、ひとまず来週土曜のデートは回避できた。安堵と共に、彼の純粋さを利用した罪悪感が胸に広がる。
送信した直後、陽翔から『もちろん!待ってるね!』というスタンプ付きの明るい返信が届き、僕はスマホの電源を切ってベッドに倒れ込んだ。
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そして今日、また灰色の月曜日が始まった。重い足取りで大学へ向かう。「相沢悠真」として過ごす時間は、日に日に色褪せて見えた。
「相沢」
講義室に入ると、静かな声に呼び止められた。高梨透真だ。どこか色素の薄いピンク色の髪とメガネが特徴で、口数は少ないが観察眼が鋭い。目立たない者同士、講義後に一緒に帰ることが多い、僕の唯一の「男友達」と言える存在だ。
「最近、何かあったのか?」
「え……別に」
「雰囲気が少し違う。甘い匂いがする。香水か?」
透真の鋭い指摘に、心臓が跳ねる。結月の残り香だ。僕の変化に気づく人間なんていないと思っていたのに、この男は、僕が自分でも気づかないうちに漏らしているサインを、いとも簡単に見つけ出す。
「……気のせいだろ」
僕はぶっきらぼうに返し、透真から視線を逸らした。まるで逃げるように向けたその視線の先に、彼がいた。小野寺陽翔だ。
広い講義室の数十メートル先で、友人たちと笑い合っている。僕が知らない、彼の日常。僕が「結月」として会っている時の、少し緊張したような優しい表情とは違う、リラックスした彼の姿。その屈託のなさが、僕の罪悪感を刺激する。
「小野寺先輩を、ずっと見てるな」
隣に座った透真が、独り言のように呟いた。
「別に……」
「あの人は、深入りしない方がいいかもしれない」
その言葉は、ゴシップ好きの好奇心からくるものではなく、温度のない、純粋な事実の提示のように聞こえた。
「どういう、意味だ?」
「映像研の先輩だ。監督としてのあの人の情熱と才能は尊敬している。だが、それ故に危うい時がある」
透真は僕の顔を見ずに、淡々と続ける。
「前の彼女の時もそうだった。あの人が撮る映像の中の彼女は、本当に輝いていた。でも、レンズの外での彼女は、小野寺先輩への依存を隠せなくなっていた。撮影した映像を見返すと、その歪さがよく分かった。ああいう関係は、結局どちらも消耗する」
陽翔の、過去の恋愛。透真の分析的な言葉は、ただの噂話よりもずっと重く、僕の胸に突き刺さった。人を信じやすく、裏の感情に鈍感な陽翔。その彼が、僕の嘘に気づくはずもない。
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講義が終わっても、透真の言葉は呪いのように僕にまとわりついていた。重い足取りで、僕はそのままコンビニのアルバイトへ向かう。
レジに立つ僕の耳に、客の苛立った声が突き刺さる。
「おいアンタ、態度悪いな!『ありがとうございました』の一言もねえのか!」
「も、申し訳ありません……ありがとうございました」
かろうじて絞り出した声は、自分でも情けないほど小さかった。
――もし、今ここにいるのが「僕」じゃなくて、「結月」だったら?
彼女なら、こんな風に怒鳴られたりしない。そして、「重い」なんて思われずに、愛想よく振る舞えるはずだ。
……いっそのこと、「結月」として、他のバイトを探せないだろうか?
その突拍子もない妄想は、もはや荒唐無稽な夢想ではなく、僕が生き延びるための、切実な処方箋のように思えた。
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アルバイトを終え、心身ともに疲れ切ってアパートのドアを開ける。一日の汚れをすべて背負ったまま、僕は吸い寄せられるようにクローゼットへ向かった。
奥に隠したケースから、肌色の滑らかな「皮」を取り出す。ひんやりとした感触。僕は震える手でそれを広げ、纏った。
鏡の前に立つと、そこにいたのは惨めな「相沢悠真」ではなかった。完璧な女の子、「結月」が、そこにいた。僕は、ゆっくりと深呼吸をする。強張っていた肩の力が抜け、浅かった呼吸が深くなる。そうだ、これだ。この姿でいる時だけ、僕は世界から肯定されていると感じられる。
大学で「相沢悠真」の無力さを知り、バイトで社会での無価値さを思い知らされ、最後にこの部屋で「結月」になることで、ようやく僕は僕でいられる資格を得る。そんな歪んだサイクルが、ここ最近の僕の全てだった。
その、つかの間の安らぎを打ち破るように、ポケットの中で放置していたスマホがぶるりと震えた。
画面に表示されたのは、陽翔からのメッセージ。
『結月ちゃん、そういえば、来週の土曜じゃなくても、平日でも俺は大丈夫だよ!』
僕は、鏡の中の結月と同じ、完璧な女の子の指つきで返信を打つ。
『わ、本当ですか!?陽翔さん、優しすぎます…!でも、私の都合で振り回しちゃうの、本当に申し訳ないです…』
すぐに、画面がぽこりと動いた。
『全然気にしないで!結月ちゃんが大変なのは分かってるから。俺はいつでも大丈夫だから、結月ちゃんの都合がいい時でいいよ』
底なしの優しさ。その言葉に胸が高鳴ると同時に、昼間の透真の話が毒のように心を蝕んでいく。
この優しさは、本心からのものなのだろうか。それとも、僕を「面倒な女」にさせないための、彼の処世術なのだろうか。
知りたい。彼のことを、もっと。
『陽翔さんは、本当に優しいんですね』
僕は、探るようなメッセージを送ってしまったことに気づき、心臓が冷たくなる。だが、彼の返信は、やはり穏やかだった。
『そうかな?でも、結月ちゃんがそう言ってくれるなら、嬉しいよ』
その言葉を見た瞬間、僕の指は、僕の意思とは関係なく、次の言葉を紡ごうとしていた。
――今まで、どんな人と付き合ってきたんですか?
その一文が、入力画面の上で点滅している。彼の過去を知りたい。彼を傷つけたとされる「重い女」の正体を知りたい。その女と、自分を比べたい。そんな、醜くてどす黒い欲望が、僕の胸の内側から湧き上がってくる。
ダメだ。こんなことを聞いたら、それこそ僕が「重い女」になってしまう。
僕は慌てて入力した文字をすべて消し、当たり障りのない言葉を打ち直した。
『ふふ、ありがとうございます。なるべく早く連絡しますね!』
送信ボタンを押した後、僕はスマホを強く握りしめた。鏡の中の結月は、完璧な微笑みを浮かべている。だが、その瞳の奥には、僕自身の、醜い好奇心と独占欲が、黒い炎のように燃え上がっているのが見えた。僕はその瞳から目を逸らすことができなかった。
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