悪魔のカナリア

はるの すみれ

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*外伝 …スピンオフ…*

Continued story…*

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    カタカタとキッチンのやかんが小刻みに揺れ、白い湯気が天井に向かって登ってる行く様を横目に、フライパンの上の目玉焼きをフライ返しを使って器用に皿に移す。これも五年も毎日繰り返した今では、ベテランの領域になってきた。


  「よしっ!三人分の朝飯、調理完了っと!後はお姫様達を起こさないとな」


  俺は身に纏っていたエプロンを外しながら、寝室で可愛らしい寝息を立てている二人のお姫様にスリッパの音を立てないように意識しながら、そっと近付いていく。


  寝室の扉の隙間からは寝具に埋もれるように眠る二人の幼い女の子の姿があった。


  「おーい!そろそろ起きろよっ!パパも会社に行かないといけないし、千幸紀も千愛紀も幼稚園に遅れるぞっ!それに早く起きてこないとパパがお前達の分の朝飯、全部食っちまうからな!」


  俺は二人の娘に向かって声を掛けた。これも、愛美家の毎朝の恒例行事なのだが、俺の声に一番に反応して目を覚ますのは妹の千愛紀の方だった。


  今日も千幸紀より先に千愛紀が眠そうな深緑色の目を擦りながらゆっくりと布団から立ち上がって歩いてくる。


  「おは…よ…パ…パ…」


  俺はよたよたと俺の方に近付いて来た、千愛紀の柔らかいブラウンの髪をぐしゃぐしゃと撫で回す。これもまた、愛美家の毎朝の光景だった。


  「おはようさん!今日も千愛紀が一番だったな、全く千幸紀は誰に似たんだか…」


  俺は千愛紀をリビングの子供用の椅子に座らせると、再び寝室に戻って、まだスヤスヤと幸せそうに眠っている眠り姫の耳元に唇を寄せて囁き掛けてみる。


  「…千幸紀さん…朝ですよ…早く起きないと…パパと千愛紀で朝飯食っちまうからな…それと、今日は千幸紀の大好きなフラフープの時間があるって紅花先生に聞いてたけど、千幸紀はお休みしますって言っちゃおうかな…?」


  俺の囁きが終わると同時に千幸紀の大きな瞳がパチリと開いて、俺の顔をじっと見つめて来た。


 「パパ、フラフープのじかんってほんと?!ちゆき、おきる!!!」


  俺は慌てて身体を起こした千幸紀の頭をぐしゃぐしゃになるまで撫で回してから、千幸紀を抱きかかえて千愛紀の待つリビングへと連れて行った。


  「おはよっ!あきちゃん!!」


  「おはよう…ゆきちゃん…」


  二人は瓜二つの顔を見合わせてニカッと笑うと俺に向かって朝食を早く持って来いとせがみ始める。



   「パパはやくごはん!!」


   「ちあきもたべたい…」


   俺は二人に笑顔を向けてからキッチンの方へ足を急がせた。五年前は色々悩んだり、苦労したりした。結婚もしていなければ、子育ての経験なんて尚更ないし、況してや頼れるのは二人の叔父に当たる奈津だけだった。こんな時に姉さんや栞さんが生きていれば…なんて涙した事もあった。


   だけど、今はこうやって三人で暮らしている毎日が幸せで楽しくて、咎愛と釘井に対して感謝の念すら感じている俺がいる。二人とも喧嘩もする事なく仲良く、何より健康で育ってくれている事が嬉しかった。きっと、咎愛や釘井が側で見守ってくれているからなのかもしれない…。


  そんな事を考えながら、俺はキッチンに用意してあった三人分の朝食を忙しく運んで、リビングの木目調のテーブルの上に並べ始めた。


  「うわぁ!!おいしそう!!ちゆき、はやくたべたい!!」


  「ちあきもたべたい…」


  二人は目の前に並べられた朝食に感嘆の声を漏らしながら、ニコニコと愛らしい笑顔を浮かべていた。


  「よしっ!準備完了!それじゃあ、手を合わせてから…せーの、いただきます」


   「いただきます!!」「いただきます…」


  二人は最近、幼稚園で覚えて来た箸の持ち方を一生懸命練習しながら目玉焼きを小さな口に運んでいた。千幸紀はとにかく、何をするにも元気いっぱいで見ている俺も元気をもらっていたりする。千愛紀は千幸紀とは違ってのんびり、マイペースで、外で遊ぶよりも室内で本を読んだりする姿が目立っていた。そんな姿を見ていると、部屋で爬虫類の図鑑を嬉しそうに見ていた咎愛の姿と重なる時があった。


  二人はお互いの事を『ゆきちゃん』『あきちゃん』と呼び合っていた。俺はそんな愛らしい二人の娘の成長を見ているだけで幸せだ。


  心からそう思っていた。


  「ごちそうさまでした!!!」


  三人で空になった食器に手を合わせて椅子から立ち上がった。俺は二人を順番に椅子から降ろすと食器をキッチンのシンクに片付けてから二人の整容に取り掛かる。


  「歯磨き終わったら、着替えるぞ!!順番に来いよ」


  俺は洗面室から一番に駆け寄って来た千幸紀を幼稚園の制服に着替えさせると千幸紀の肩まで伸びたサラサラの髪を高く結ってリボンを付けた。



   千幸紀は派手な色を好んで身に着けたがる為、リボンは真っ赤な色を選んだ。それに対して千愛紀は寒色やパステルカラーを好むので、リボンは千幸紀と対になるように真っ青なもので髪を纏めた。


  「あきちゃんのリボンあお!!かわいい」


  「ゆきちゃんもあか、かわいい…」


  二人は互いの顔を見合わせてニコニコとはしゃいでいた。整容が終わると俺は自分の身支度と洗い物を済ませて車のキーをポケットに入れて二人と一緒に家を出る。


  「しゅっぱつしんこうー!!」「しんこう…」


  二人の掛け声と共に俺は車を幼稚園に向けて走らせる。二人の通う花籠幼稚園は俺達の暮らすマンションから車で十分程のところにあった。


  「とうちゃく!」「とうちゃく…」


  「よしっ、シートベルト外して待ってろよ…一人ずつ降りろよ」


  俺は二人を車から降ろすと俺を挟むように手を繋いで園の中に向かって歩き始めた。園には沢山の園児が出入りしていて俺達もその中に紛れて足を運ぶ。


  「ねぇ、パパ、きょうのおむかえははやくこれそう?」


  俺は不安そうに呟く千幸紀の頭を優しく撫でてから答えを返した。季節は春、桜がチラチラと舞っている中、俺は毎日遅くまで働いていた。それには理由があった。


  「今日も遅くなるかもな…二人とゴールデンウィークを一緒に過ごしたいからそれまでは寂しい思いさせちゃうけど、その分、ゴールデンウィークは遠くに旅行しに行ったりしようぜ」


  千幸紀は小さな手で俺の手をぎゅっと握りしめて俯きながら頷いた。俺はゴールデンウィークの分の仕事を前倒しでこなしている分、千幸紀と千愛紀には毎日寂しい思いをさせているのは分かっていた。だけど、ここを乗り越えれば二人と過ごせる大型連休が待っているから今は、目を瞑って頑張る事しか出来ない。


  しょんぼりと俯いている千幸紀と平然としている千愛紀を連れて二人の所属するりんご組の前までやって来た。


  「あら、おはよう、千幸紀ちゃんと千愛紀ちゃん!今日のリボンもとっても可愛いね!先生も付けてみようかな」


  りんご組の教室の前では登園する園児を出迎える為に、パステルカラーのエプロンが良く似合っている紅花先生が二人を出迎えてくれた。


  「おはようございます、今日もよろしくお願いします」


     俺は笑顔で挨拶をしてくれた紅花先生に頭を下げて二人の小さな手を離した。すんなりと軽くなった右手に対して、俺の左手は子供ながらの精一杯の力で握られた小さな手が離さないと言わんばかりに存在していた。


  「千幸紀?パパ、千幸紀と手を繋いだままじゃ、お仕事行けないだろう?」


  俺の言葉に千幸紀はプクプクとした頬をぷっくりと膨らませて反抗的な態度を示した。


  「ゆきちゃん、べにかせんせいとパパがこまってるよ?はやくいこう?」


  先に手を離して紅花先生と手を繋いでいた千愛紀が千幸紀の説得を試みる。千幸紀はそれでもぷっくりと膨らませた頬から空気を抜く事はなかった。俺が出社時間が気になり始めて千幸紀をどうやって説得しようか悩み始めた頃、紅花先生が千幸紀に視線を合わせて、屈みこんで優しく声を掛ける。


  「千幸紀ちゃん、今日は千幸紀ちゃんの楽しみにしていたフラフープの時間もあるし、三時のおやつはメープルマフィンだよ!それに、居残りの子供達には特別に園長先生からお菓子が貰えるんだよ、千幸紀ちゃんがパパを待ってる間は先生と折り紙して遊ぼう?」


  紅花先生の言葉を聞いて、千幸紀の表情は拗ねていた表情から、ぱぁっと明るいものに様変わりした。すると、俺の左手はすっと千幸紀の体温が抜け落ちて春の空気が通り抜けた。


  俺が紅花先生にお礼を言おうと口を開きかけていた時、紅花先生は二人に見えないように俺に任せて下さいと声を出さずに伝えてくれた。


  俺は紅花先生に一礼すると、二人に手を振ってから一人で来た道を歩き始める。未満児の頃から通っている幼稚園で、千幸紀があんな態度を見せたのは初めてだった。俺は心底紅花先生が担任で良かったと思った。紅花先生は二人が未満児の頃からクラスを受け持ってくれていて、二人が年長になった今も変わらず、担任をしてくれていた。


  何かの偶然なのかと思っていたら、以前、紅花先生は照れ笑いしながら、千幸紀と千愛紀の違いが分かる先生が私しかいないんです。と話してくれた。そんな、経緯も相まって園長先生が二人の担任に選んでくれていたらしい。


  何にせよ、今日の様な事がこれからも続くのなら紅花先生が担任になってくれた事に感謝しかない。


  俺は車に乗りこむと、意識を仕事モードに切り替えて職場へと向かった。

 
    「…はぁ、千幸紀の奴…大丈夫かな…紅花先生に迷惑掛けてなきゃいいけど…、それに、千愛紀も口には出さないけど、寂しいのかな…いけない!いけない!仕事、仕事!」


  俺はハンドルを握る手に力を込めて、深呼吸を一つすると、通い慣れた職場への道を急いだ。


  俺の職場は、萩野目不動産という建物の名称で、その名の通り不動産業である。萩野目家とは不思議な縁で知り合って、今では俺の人生の半分は萩野目家で支えられている。


  それもこれも、今は亡き、心友の萩野目(松雪)咎愛の影響が一番だろう。

俺は、咎愛の異母兄弟の萩野目奈津の父親の経営するこの不動産屋で四年前から働いていた。最初は、営業と雑務メインだった仕事内容も書類の処理やデータ作成などの事務処理も任されるようになり、最近では、専ら事務仕事を任されていた。


  今日も俺が出社すると、この春から入った新人が数名と、俺の先輩に当たる社員が十数名、タイムカードを打ったり、コーヒーを飲んだりと朝の朝礼までの時間を優雅に過ごしていた。


  社内は、広々としていて、足元はグレーのカーペットが敷かれている。清掃員が毎日手入れをしている為、床には塵一つ見当たらない。


  俺は、荷物を自分のロッカーに片付けた後タイムカードを打つと、社内にある自動販売機でブラックの缶コーヒーを購入してプルタブをぷすっと音を立てて開いた。


  社内にある喫煙室の前の簡易キッチンに無料で自由に使えるコーヒーマシーンが設置されているのだが、綺麗な机と観賞植物があり、女性社員の憩いの場になっている為、なかなか近寄れない自分がいた。


  俺が開いた缶コーヒーに口を付けようとした瞬間、背後から誰かに肩を二回叩かれた。確認する為にゆっくり振り返ると、そこには見慣れた漆黒の髪と瞳の青年が笑みを浮かべて立っていた。俺は、青年に微笑むと青年は色味のない唇をゆっくりと動かした。


  「おはよう平さん、今日もいい天気だね、朝から疲れた様な顔してるけど大丈夫?」


  俺は青年…萩野目奈津に苦笑してから口を開いた。


  「おはよ、今朝、千幸紀が俺から離れたがらなくてさ…こんな事初めてだったから、ちょっと心配でな…」


  俺の言葉に奈津は涼しい表情のまま口を動かす。


  「まぁ、毎日遅くまで居残りしてるのは寂しいだろうしね、千幸紀も千幸紀なりの感情表情をしただけでしょ?多分、大丈夫だよ」

 
    俺は奈津の返答に対して困った表情を浮かべていた。俺は小さな溜息を吐いて手に持っていた缶コーヒーを一口ずつ啜るようにして飲んだ。


  「それに、平さんが気にしているのは千幸紀だけじゃなくて、二人の担任の先生だったりして?可愛いんでしょ?紅花先生?」


  俺は口に含んでいたコーヒーを吹き出しそうになって、直前で何とか押し留めた。そして俺を茶化す様な笑みを浮かべている奈津をじっと見つめて呟く。


  「いきなり変な事言うなよな!誰から聞いたんだよ、紅花先生の事、そりゃあ可愛いけどさ、別に恋愛対象にはならねーだろ?それに俺は仮にも二人の父親だぜ?色恋に割いてる時間はねーよ」


 「あはは、平さんらしい回答だね、だけど…僕はそうは思わないな、兄さんの代わりを務めているからといって、平さんが自分の人生を犠牲にする必要はないんじゃないかな?だって平さんは平さんの人生があるんだから…それに兄さんが生きていても同じ事言うと思うけどな」


  俺はにこやかにそう言った奈津の漆黒の瞳をまじまじと見つめた。奈津の言っている事はよく分かるし、咎愛が生きていても同じ事を言いそうな気もする…。本当に奈津と咎愛は似てない様でよく似ている。


  たまに、奈津に咎愛が憑依いているのかと錯覚しそうになるくらいに…。


  俺は俺の方をにこやかに見つめている奈津に対して、問いを投げかけた。


  「なぁ、奈津が俺だったらどうする?今日みたいに千幸紀の変化に戸惑ってるのは親としてどうなのかな…ゴールデンウィークに一緒に居るために残業しているけど、その分平日の夜は一緒に過ごす時間が減っている…それは千幸紀や千愛紀にとっていい事なのかな…俺の考え方は間違っているのかな…?分からないんだ、父親としてどうすべきなのかが…どうするのが一番なのか、分からないんだ…」


  俺の問いに奈津は平然と顔色を変えずに答えを返した。その答えは俺の悩みを吹き飛ばすくらい適当で、的外れなものだった。


  「僕は平さんじゃないから分かんないよ…」


  俺が奈津の答えに唖然としていると、奈津は涼しい顔をして言葉を続ける。


    「だって、この世界に父親をやっている人は何万人も居るんだ、だから、平さんの悩み事の答えはいくつもの選択肢が産まれる、その人によって、その時によって答えは変わるし、選択肢なら樹形図のように枝分かれして永遠に伸びているんだ、一概に僕が回答を出す必要はないんじゃないかな?」


  俺は奈津の瞳を三秒程、見つめてからプッと吹き出した。


  「確かに、考えればそうだよな!こんなに悩むのも俺らしくねーか、それに俺って馬鹿だから考えても無駄なような気がしてきたぜ、ありがとな奈津」


  俺の言葉を奈津はさらりと受け流す。奈津との関係は気を遣わないで済むから、一緒にいて安心出来る。奈津に気を遣わないのは、きっと俺が奈津の遠いところで咎愛を感じているからだろう。


  「じゃあ、平さんまたね」


  そんな俺を他所に奈津は肩まで上げた、右手をひらひらと振ってその場を去って行った。俺はそんな奈津を見送りながら缶コーヒーを一気に飲み干した。


  「さて、今日も頑張るかっ!」


  俺は朝礼の行われる会議室へと足を向かわせた、来たるゴールデンウィークまで血の滲む覚悟で乗り切るぞ、なんて心の中で決意表明をしながら。


  *時刻は午後六時半。俺はいつもより早く車に乗って、幼稚園を目指していた。いつもより早いのには理由があった。一つは単純に仕事が早く片付いた事。もう一つは今朝の千幸紀の事が気になって気が気でなかった…という理由だった。


  幼稚園の駐車場に車を止めた俺は、小走りで二人のいるはずの教室の中をそっと覗いて見た。教室内には千幸紀と千愛紀と紅花先生の姿があった。


  俺は三人に気付かれないようにそっと教室のガラス戸をスライドさせた。


  千幸紀と千愛紀は折り紙で遊ぶのに夢中になっていて、俺の事に気が付いていなかった。紅花先生はいち早く俺に気が付いて会釈をしながら挨拶をしようとした。俺は、そんな紅花先生に対して、自分の口元に人差し指を立てて静かにするように合図した。


  俺は笑顔で頷いてくれた紅花先生に感謝しながら、千幸紀と千愛紀の背後に回り込んで大きな声を出してみる。


  「わっ!!!」


  「きゃああ!!!」「あっ…パパだ…」


  二人の温度差のある反応を楽しみながら、改めて紅花先生に挨拶をする。


  「いつも遅くまですみません、ありがとうございました」


   俺の言葉に紅花先生は立ち上がりながら、首を横に振った。


  「いいえ、愛美さんも毎日、お疲れ様です…こうやって二人と過ごすのが楽しくて、私も毎日感謝してます」


  紅花先生は照れたように笑いながら、俺にそう言ってくれた。例えそれがお世辞だとしても、子供を預けている身としては深い安心感を産んでくれる一言だった。


  「ねぇパパ、あきちゃんとべにかせんせいとおりがみしたんだよ!たくさんつくったからみてね!」


  俺と紅花先生の気を引こうと千幸紀が足元に駆け寄って来てにっと笑って見せた。千愛紀はその頃、一生懸命小さな身体を動かして、千幸紀と自分の荷物を俺の方に運んでくれていた。


  「おっ、折り紙上手に出来たのか?帰ったらたくさん見るからな!千愛紀は力持ちだな、よしっパパが持つからこっちにくれよ」


  俺は千幸紀の頭を撫でてから、千愛紀の運んでくれた荷物を右手に引っ掛けるようにして受け取った。


  そんな光景をにこやかに見守っていた紅花先生が、何かを思い出したように小さな声を上げた。


  「あっ!そうだった!」


  俺達は小さく声を上げた紅花先生に視線を合わせて、紅花先生の次の言葉を待っていた。


「そうだ、先日お話しした懇談会の事なんですけど、お話しなくちゃいけない事があるんです…、今週でお時間が空いている日はありますか?昨日、悠人君の親御さんも話し終わって、愛美さん家が最後に残ってて、お時間を取っていただく事って難しいですよね?」


  紅花先生から、数日前に懇談会がある事は聞かされていた。俺はその都度、残業や私用で懇談会を延期してきたのだから、今週中に済ませないといけない事は痛いくらいに分かっているのだが…。


  「今週…ですよね、そうだった…すっかり忘れててぎっちり仕事入れちゃったな…えっと…」


  俺がもごもごと口ごもっていると、足元にいた二人の小さなお姫様がタイミング悪く、我儘を言い始める。


  「パパ、おなかすいた」「ちあきも…」


  俺は大きな溜息を吐いて、二人に視線を合わせた。こんな時に何を言っているんだ…と。俺が口から言葉を放とうとした時、意外なところから空腹を知らせる合図が教室内に響き渡った。


     俺は敢えて犯人探しはしないでおこうと決意をし、胸の内に今の出来事をしまおうとした時、お姫様達の小さな口は恐ろしい言葉を紡いで響かせた。


  「わぁぁぁ!べにかせんせいもおなかすいてる!」「おおきなおと…!」


 俺は二人の発言を耳にして顔を真っ赤にして俯いてしまった、紅花先生に何と声を掛けていいのか悩んでいた。


  「お前達、人間は誰だってお腹が空くんだ!そんな事を一々口に出すんじゃねーぞ!ほら、先生に謝りなさい」


  紅花先生は俺の言葉を聞いて、俯いていた愛らしい顔を上げると、慌てて俺に言葉を返した。


  「いいんです!私が悪いんですから!二人は悪くありません」


  「でも…先生に失礼な事を…本当にすみません…」


  俺が申し訳なさそうに呟くのを聞いた千幸紀が、俺の服の裾を小さな手で引っ張って俺の意識を自分に向けさせた。


  「ねぇ、パパ?べにかせんせいもいっしょにごはんたべようよ」


  俺は千幸紀の提案に唖然として身動きが取れないくらいに呆然としていた。


  「ちあきもべにかせんせいとごはんたべたい!」


  「お前達なぁ…じゃあたまにはレストランにでも行くか!紅花先生、もし良ければ一緒にどうですか?先生の都合が良ければ、食事しながら懇談会もいいかなって…あ、すみません、迷惑ですよね…」


  俺は正直、驚いていた。
  あんなに幼かった二人が自分の考えで 俺に意見をしてくるなんて…子供の成長は早いって言うけど、本当に…みるみる大きくなっていく。咎愛にも見せてあげたかったな…。


  「いっ…行ってもいいですか!?愛美さん達が迷惑でなければ…ご一緒してもいいですか?」


  俺が別の考えに耽り出した頃、紅花先生が顔を真っ赤にしながら俺に返答をしてくれた。あんなに顔を紅潮させて、先程の事がよっぽど恥ずかしかったのだろうか…。そうであれば、お姫様達には反省してもらう必要がある。


  「是非、娘達の提案ですから、それじゃあ紅花先生の仕事終わりに迎えに来ましょうか?あっ誰かに見られたら迷惑ですよね…俺って園でも変な噂されてるし…現地集合でもいいですか?」


  俺と紅花先生はそんな話をして、一時間後に町内にあるファミリーレストランで待ち合わせる事になった。幼稚園の制服を食事中に汚されたら大変だから、俺達は一旦、家に帰って私服に着替えた。 


    千幸紀と千愛紀の着替えを済ませて、俺もスーツから普段着ているパーカーとジーンズに着替えて、銀のピアスを耳に通す。このピアスは咎愛に見せた事のある姉の形見だった。情けない事に俺は今もこうして姉の遺品を身に付けては、姉の事を時折思い返していた。


   鏡を見ながら髪の毛を整えていると、パタパタと千幸紀が俺に近寄って来て、とんでもない事を口にした。


  「よかったねぱぱもべにかせんせいも、ラブラブになるんでしょ?」


  「へっ?」


  俺は千幸紀の言動の意味が理解出来ずに間抜けな声を漏らし、ぽかんと口を開けたままの状態になってしまった。


  「だって、べにかせんせい、ぱぱのことすきだっていってたもん!きょうだっておかおまっかだったもん」


  紅花先生が俺の事を好き?一体、何が起こったらそんな事になるんだ。千幸紀も奈津も今日はどうかしている。紅花先生に対して、可愛いなとか愛想がいいな…。なんて印象を抱いた事はあるけれど、恋愛対象として見た事はないし、況してや紅花先生の方が俺を好きになる事は絶対に有り得ない。


  その理由ははっきりとしていた。


  俺は内情を知らない人から見れば、二十六歳でシングルファザーをしている。園の保護者達からは奥さんに捨てられたとか、俺が奥さんに暴力を振るって奥さんが家を出たとか、若気の至りで妊娠させて産ませた子供とか、そんな的外れな噂が立てられ、あまりいい顔をされていなかった。


  中には、俺の事を可哀想だと考えて擁護してくれる人達もいた。そして、子供にも俺の所為で迷惑をかける場面もあった。千幸紀や千愛紀の事を悪く言われた事もあった。そんな日々の中で、紅花先生は二人を守ってくれていた。


  普段から、紅花先生には言い表わせないくらいの迷惑を掛けているのだから、俺が好意を寄せられる確率は有り得ないんだ。


  そんな事を考えている俺を他所に千幸紀はニカっと笑って見せると、パタパタと積木で遊び始めた千愛紀の方へ走って行ってしまった。


  「はぁ…咎愛…お前の子供は結構なおませさんだぜ…ま、それが可愛いんだけどな…」


  俺は鏡に映る自分にポツリと独りでに呟いた。もういない心友に対するメッセージを。


  *時刻は午後七時半。俺達一家は月に一度くらいのペースで来る、ファミリーレストランに到着して紅花先生の姿を探した。 


    「あっ!いた!べにかせんせーい!」


  キョロキョロと紅花先生を探していた俺を他所に、千幸紀と千愛紀は早々に一人の女性の待つテーブル席の方に足早に歩いて行った。


  「おいおい、走るなよ!」


  俺も二人の後を追うようにして女性の待つ席へと足を運んだ。席に着くと、俺の視界には普段のエプロン姿とは違って印象の紅花先生が入ってきた。
  パステルピンクのワンピースを着こなした紅花先生は、まるで御伽噺に出てくる妖精のような愛らしさだった。


  「千幸紀ちゃん、千愛紀ちゃん、愛美さんも、今日はありがとうございます…折角の家族の時間にお邪魔してしまって申し訳ありません」


  俺達の姿を確認した紅花先生は慌てて立ち上がって、俺に深々と頭を下げた。


  「いえいえ、とんでもないです、こちらこそ我儘を聞いてもらってすみません…」


  俺も紅花先生に対して頭を下げて返した。


  「パパ、おなかすいた!ハンバーグ!!」


  俺と紅花先生のお辞儀合戦に痺れを切らした千幸紀が、俺の服を強く引っ張りながら空腹を訴えてくる。そんな光景に思わず俺と紅花先生はプッと吹き出した。


  「あいよっ!それじゃあ、メニュー決めるか!」
 


  
  俺は千幸紀と千愛紀に子供向けのメニューを見せて、好きなものを選ばせた。俺は特に食べたい物がなかった為、日替わりメニューで済ます事にした。チャイムを押して四人分のオーダーを伝えた後、ふと懐かしい記憶を思い出す。そういえば…カナリアのデスゲームの最終日に、咎愛は栄養ゼリーを食べたいって言っていたな…。


  もう、あの日には戻れないんだよな…。


  「パパ…?どうかしたの?かなしい?」


  「ん?なんだ千愛紀?おしっこか?」


  「ううん、パパがかなしいかおしてたから…」


  悲しい顔か…。こうやって悲しめるだけ俺はましなんだ。咎愛はもう…。


  「大丈夫!悲しくない、悲しくない!お腹が空いちまって困ってただけだよ」


  俺は心配そうに俺の顔を眺めている千愛紀の頭をぐしゃぐしゃに撫でて安心させた。俺の感情は千幸紀と千愛紀には全て見抜かれてしまう。
  それくらい、俺達が家族として成り立っているって事なのかな。


    *「ご馳走様でした!」「ごちそうさまでした」


  四人分の食器が空になり、紅花先生と俺は懇談会という名目で此処に来ていた事を思い出す。


  「先生、懇談会の内容について伺ってもいいですか?」


  「あっ!そうでした、楽しくてすっかり忘れちゃってました…すみません…」


  俺の言葉を聞いて、紅花先生は慌てて持参した鞄からクリアファイルを取り出して、その中から、二枚のプリントを俺に広げて見せた。


  「パパ?ちゆきとあきちゃんでおもちゃのところであそんできてもいい?むずかしいおはなしするんでしょ?」


  机の上にプリントが広がったのを見て、自分達には分からない事だと悟ったのだろう。千幸紀と千愛紀は近くに設置されているキッズコーナーへと急いで向かって行った。


  「うふふっ、本当に可愛い」


  「家でも賑やかですよ、だけど…俺にとって、二人がいてくれる事が生き甲斐で、幸せなんです」


  自分で言い終わった言葉に、身体中がむず痒くなる程、恥ずかしくなる。きっと親バカだなとか、何を言ってるんだろうとか、思われてるんだろうな…なんて思いながら、紅花先生の表情をチラリと窺うと、紅花先生は俺をキラキラとした純粋な眼差しで見つめていた。


  「愛美さんは凄いです…毎日、遅くまで働いて…家事だってこなして、二人もいつも楽しそうにお家の事話してくれます!私、二人と毎日一緒にいれて幸せなんです、二人ともとってもいい子で…きっと、愛美さんが素敵な人だから二人もしっかり育つんですね…あっ、なんか偉そうに、すみません…」


  俺は、紅花先生の言葉に深い安心感と信頼感を覚えた。この人が二人の担任を受け持ってくれて、本当に良かった…。


  「あっ、あの…個人的な質問をしてもいいですか?もし、気分を害されたら申し訳ありません!」


  俺には紅花先生のしようとしている質問の内容が、なんとなく理解出来た。紅花先生の表情は一変して、緊張で強張っているのが伝わってくる。
  きっと、二人の母親についてだろう。誤魔化す術も、必要もないと判断した俺は当たり障りのない話だけをする覚悟を決めた。


  「何でも聞いてください、答えられる範囲で答えますから!」


  俺は、紅花先生の緊張が和らぐように優しい声色で言葉を返した。 


    「はい!じゃあ…愛美さんって普段はラフな格好されてるんですね、驚きました!毎日、スーツを格好良く着こなしてるから、今日の風貌は新鮮で…あっ、えっと、愛美さんっておいくつなんですか?」


  俺は妙な緊張をしていた俺自身に溜息を吐きたくなった。おいおい、そんな質問なら幾らでも答えてられるぜ…。


  「えっと、俺、普段はだらしないですよ…二人にもよく怒られます、髪型とか服の裾がズボンから出てるとか…歳は…今年で二十六になります」


  そういえば、咎愛と歳の話したな…。あいつが生きてたら二十四歳か…父親にしたら若い歳だよな…。


  「以外でした!ピアスも…普段は付けていらっしゃらないから…あっ、お歳は二十六歳なんですね!あのっ私も、二十六歳になるんです!」


  「紅花先生もですか、なんか親近感湧きますね!」


  「あの、それじゃあ…二人は愛美さんが二十一歳の時に産まれたお子さんなんですね」


  急な話の展開に、消えかけていた緊張感が身体の芯から噴き出してくる。心拍数が異常な程に上がっているのを体内から響いてくる心音で確認出来た。


  「あっ、そうなんですよ!あはは」


  いきなりの踏み込んだ質問に動揺するあまり、あまりにもわざとらしい演技を披露してしまった。こんな大根役者は舞台に上げてもらえないだろう。


  「愛美さん…園で広まってる噂は本当ですか…?最近ちょっと困った事がありまして…私も今まで気にはしてなかったんですが、確認しておきたくて」


  園で広まってる噂というのは、きっと俺が奥さんと揉めて別れた、みたいな話だろう。だけど、二人が卒園の年を迎えた今、何か困る事があるのだろうか。


  俺は緊張から小さく震える唇を一回、強く噛み締めてから唇を動かした。


  「あのっ、困った事ってなんですか?噂なら俺も知ってますし…それは二人が入園した時から言われてますよね?今になって何があったんですか?もしかして…いじめとか?」


  俺は楽しそうに積木や玩具で遊ぶ、千幸紀と千愛紀にちらりと目を向けた。今まで二人からいじめなんて聞いた事はない。園でも同じマンションに住んでる悠人君という男の子が仲良くしてくれていると、毎日聞かされていたから、安心しきっていた。


  焦り始めた俺に真剣な表情を向けて、紅花先生はグロスの光る桃色の薄い唇をゆっくりと動かした。 


    「千幸紀ちゃんが…園にお迎えに来るママ達を見て、千幸紀のママはどこにいるんだろう?って最近言うんです…千愛紀ちゃんは普段通りなんですけど…悠人君が帰っちゃうと寂しくなるのか、頻繁に口にしてます…すみません、私の力不足で…」


  俺はそう言って、俯いてしまった紅花先生に顔を上げるように声を掛けた。


  「先生は何も悪くないです…俺が寂しくさせてるからいけないんです…だけど、千幸紀にはまだ話せない事だから…」


  俺の言葉に紅花先生は口を開いた。


「失礼を承知で伺います…二人が産まれてすぐに離婚なさったんですか…?それとも噂通り、二人の出産後に奥様は亡くなられて…」


  「違いますよ」


  俺は紅花先生の言葉を遮るように声を出した。


  「違うんです…結婚もしてなければあの子達は俺の子でもない…あの子達の母親は既に亡くなってます…だけど、それを分かってて彼女は出産に臨んだんです…俺は、俺は…」


  何を口走っているんだろう。


  そう思った時には俺の頬には涙が伝っていた。


  「すみませんっ!失言でした!本当にすみません…」


  俺は、慌てて鞄からハンカチを取り出して差し出してくれた紅花先生にすみませんと言って、ハンカチで涙を拭ってから顔を上げた。


  「すみません、感情的になっちゃって…こんな事、話すつもりなかったのに、俺、適当に誤魔化すつもりだったんです…だけど、やっぱり嘘付くの苦手なんだな…口から勝手に余計な言葉が溢れてました…」


  紅花は首を横に大きく振ると、俺の方に笑みを向けた。


  「大丈夫です…私こそすみません…愛美さんは二人の母親と知り合いで、二人を引き取った、という事ですか?そしたら二人の父親は?」


  俺は深呼吸をして、紅花先生に視線を合わせた。全て…話せる範囲で全てを話してしまおうと、俺は覚悟を決めて口を開いた。


  「紅花先生なら、二人を…千幸紀と千愛紀とちゃんと向き合ってくれると思います…そう思うから話します、二人の父親と母親はカナリア(罪人)でした…俺は、二人の父親と心友でした…彼は俺より二つも歳下で、頼りなくて、だけど…誰よりも優しい奴でした…二人の母親は余命宣告されるくらい、身体が弱い女性で、二人の顔立ちがくっきりしてるのは彼女がクォーターだったからです…」


  紅花先生は俺の話を真剣に聞いてくれていた。 


    例え、この話を聞いた後、紅花先生に嫌われようと俺は構わない。だけど、紅花先生なら二人とちゃんと向き合ってくれるような、そんな気がしていたから、言葉を続けられた。


  「二人は悪魔の鳥籠(刑務所)の中で産まれました…俺は二人の父親から二人が産まれたら育てて欲しいと頼まれて、了承しました、簡単な決意じゃなかったし…勿論、結婚もした事のない俺には荷が重い、重すぎるのも分かってました…だけど、あいつの決意に負けたんです…あいつは…咎愛は、出産後に亡くなった彼女を一人にしない為に自ら命を絶ったんです…二人が成長するのを見ていると、死んだあいつを思い出します…本当に…あいつは何処までも俺に借りを作るのがうまいんだから…」


 紅花先生は俺の話を聞き終わる頃、目尻から溢れる涙を細くて長い指で慌てて拭っていた。


  「愛美さんは優しいんですね…私なら、もし、私が同じ立場に立ったら…二人を育てるなんて出来なかったかもしれない…よかった…二人の話を聞けて…私、二人は幸せだと思います、愛美さんに育ててもらえて、二人を産んでくれた両親がいてくれて…私にも出来る事があったら言って下さい!何でもしますから!二人の為なら何でも!私、千幸紀ちゃんと千愛紀ちゃんが大好きですから!」


  俺は紅花先生に話して良かったと、心の底からそう思った。


  「紅花先生に話せて良かったです!ありがとうございました!」


  紅花先生に感謝の気持ちを伝えて、テーブルに置かれていたお冷やを手に取って口に含んだ。


  紅花先生もお冷やを手に取って口にしていた。俺が二口目の水を口に含んだ時。


  「あのっ!愛美さん…今、お付き合いされてる方はいますか?」


  紅花先生の唐突な質問に驚愕した俺は、ギリギリのところで口内の水を吹き出しそうになるのを耐え忍んだ。


  今朝もこんな事あったな…。デジャヴ…。


  「えっ!?あっ!?ごほっ…彼女は居ません…けど…ごほっ…ごほっ」


  慌てて水を飲み込んだせいで、噎せてしまって情けない姿を晒してしまった。


  「あのっ!良かったら、プライベートで連絡したりしてもいいですか!?千幸紀ちゃんと千愛紀ちゃんの話もしたいし!それに…愛美さん…素敵な人だからもっとお話ししたいんです!…迷惑ですか?」 


    「迷惑じゃないですけど、俺なんかとその…親しくなって大丈夫なんですか?…ほら、園の噂とか…」


  心配する俺に首を大きく横に振ってから紅花先生は返答した。


  「大丈夫です!」


  俺は紅花先生の決意に満ちた眼差しを見て、今の言葉が本心から出たものだと確信した。


  「分かりました!じゃあ、仲良くして下さい」


  俺は紅花先生と連絡先を交換して、レストランを後にした。紅花先生が駐車場を出るのを見送って、俺達も家路についた。チャイルドシートに座った二人は遊び疲れたのか、仲良く手を握りながら眠りについていた。


 「はぁ…千幸紀が母を恋しがるのか…咎愛…どうしよう…」


俺は運転しながら、虚空に向かって嘆くように呟いた。


  『平らしく、平にしか出来ないように接すればいいんじゃない?僕は平の事、凄いと思ってるよ…』


  あいつなら、きっとこうやって励ましてくれるんだろうな…。もし、咎愛と釘井が生きていたら、二人にどうやって愛情を注ぐんだろうか…。


  「あぁ!悩んでても仕方ねーか!帰って風呂入って寝よう!嫌な事は寝て忘れて、リフレッシュ、リスタートに限る!そんでもって五月は旅行して…!よしっ!頑張れ俺」


  俺は新たな決意を胸に、家に帰宅した。


  小さなお姫様達を優しく揺すって起こすと、眠い目を擦りながら、二人はヨタヨタとマンションの自室を目指して歩き出した。


  「ただいま!」「ただいま…」


  俺達は脱いだ靴を揃えてから、三人でリビングに入った。ソファに座って、テレビを付けて寛いでいると、俺の隣にヨタヨタとやって来た千幸紀がポツリと思い出したように呟いた。


  「ねぇパパ?パパはなんでないていたの?」


  「えっ!?なんだ?見てたのかよ…」


  千幸紀は小さな首をこくんと、縦に振ると、俺の答えを求めて、キラキラした眼差しを向けてくる。赤ちゃんの頃は分からなかったが、千幸紀と千愛紀の瞳は咎愛と同じ深緑色をしていて、見ていると吸い込まれそうな、そんな何かを持っていた。


  「いや、泣いていたんじゃないぜ!あれは、目にゴミが入ったんだ!コンタクトもずれて痛くて、泣いてたみたいに見えたんだよ」


  俺の回答に満足したのか、千幸紀は新しい質問を用意して口を動かす。 


    「じゃあ、なんでべにかせんせいもないていたの?かなしかった?」


  俺は新たな千幸紀の質問に、慌てながら、口を開いた。


  「いやっ、あれは、その…」


  「パパがいじめたの?いじめはダメだよってゆうくんがよくいってるよ?」


  何とか誤魔化さないと、このままでは、千幸紀の中の俺が悠人の言ういじめっ子になってしまう…。それだけは避けたい。何とかして千幸紀の中の悠人の上の存在でありたい。


  「違うんだ!紅花先生は皆でご飯を食べられて、嬉しくて泣いていたんだ、だからパパは虐めてないし、いじめっ子じゃない!」


  俺の回答は知りたがり屋の千幸紀を、安心させられたらしい。千幸紀は満足そうに頷いて、ソファから降りると、パタパタと絵本を読む千愛紀の元に走っていった。


  「はぁ、ゆきちゃん恐るべし…無事に一難去ったな…さて、風呂でも入るか!」


  俺は何事もなかったように千愛紀の隣で絵本を読んでいる千幸紀と、三冊目の絵本を手に取って開こうとしていた千愛紀に声を掛けた。


  「おーいっ!二人とも、風呂入るぞ!」


  「はーいっ!」「はい」


  二人は絵本を置いて、仲良く手を繋ぎながら俺の元へやって来た。何とも心が温まる光景なんだろう。咎愛が見たら、きっと笑みを零しそうだ。


  「見せてやりたいな…こんなに可愛いんだぜ、お前の子」


  「パパ?」


  「ん?、悪りぃ悪りぃ、考え事してた…よしっ!風呂に行くぞ!」


  *二人のお姫様が眠りについた後、一人でビールを飲みながら寛いでいると、俺の携帯が机の上で振動しているのが目に入った。


  「はい、愛美です」


  『もしもし、平さん?二人はもう寝てる頃かな?』


  発信元を確認せずに電話を受けたが、一言目ですぐに奈津からの着信だと気が付いた。


  「おっ?!奈津か!?どうした?」


  俺の問いに奈津はふふっと笑うと、いつもの様に涼しい声色で言葉を放った。


  『ゴールデンウィークの旅行先について話そうかと思ってさ、後、僕の友達も呼んでいいかな?平さんも紅花先生を呼んだら?』


  俺は奈津の発言に困惑しながら口を開いた。


  「おいおい、冗談はよしてくれよ!俺、咎愛以外に友達いないから呼ぶやつ何ていねーよ!あっ…もしかしたら千幸紀の友達が一人来るかも…ご両親が忙しい人だから、ゴールデンウィークも一人かもしれないし…」 


    俺の脳裏を過ったのは、千幸紀のお婿さん候補に立候補している。白瀬悠人『しらせゆうと』君だった。


  悠人は俺達の住んでいるマンションの二つ上の階に住んでいて、休みの日になれば、千幸紀や千愛紀と遊ぶために一人で此処にやって来る。


  両親が有名なミュージシャンで悠人はそんな多忙な両親に文句一つ言わず、いつも笑顔で毎日を送っていた。悠人は千幸紀の事を気に入っているらしく、園でも手を繋いでいたりするらしい。


  俺は幼い悠人に、大人気ない嫉妬心を抱きながらもあいつには感謝していた。


  『ふぅん…まぁ、平さんに任せるよ!それじゃあまた明日!いい夢見てね』


  「あいよっ、また明日な…おやすみ」


  俺は、奈津との通話を終了すると、残っていたビールを一気にごくりと飲み干した。
  アルコールの苦味が喉をサラリと通り抜けていく。


  テレビでは、毎日見掛ける通販番組が流れ、いつの間にか夜が深くなっていた事に気が付く。


  「はぁ、寝るか…」


  俺は簡単に歯磨きを済ませて、二人の娘の眠っている隣に、横になった。


  「おやすみなさい…」


   悪魔の鳥籠に居た頃は、不眠が目立っていた俺だったけど、今となっては快眠じゃない日が珍しいくらいになっていた。


  布団が体温で温まり始めるのと同時に、俺は深い眠りに落ちた。


  こうやって、愛美平の一日は過ぎて行く。


  幸せを紡ぎながら…。 





 
  


 



 


 
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