夜に散る純花

花梨姫子

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割り切れない……それでも

美津子のスニーカーが、薄暗いフロアを歩くたびにキュッ、キュッと摩擦音を立てた。

パーテーションの向こうから漏れる女の声と、トランス音楽の重い響きが、心臓をぎゅっと締め付けた。
手に握った籠のおしぼりとウェットティッシュは、ずっしり重かった。

避けられない現実に直面し、これまでの自分を裏切る痛みがナイフのように深く突き刺さった。

フロアのカーテンをくぐるとき、麗華の笑い声が耳に響いた気がした。
次の客が来る前のざわめきに焦りを覚え、美津子は足早に控室へと向かった。

控室のドアを開けると、汗と香水の匂いがむっと鼻をついた。
冷たい蛍光灯の下で、汗でびっしょりの肌がむき出しに見えた。

散乱したタオルや化粧品が、この場の無秩序な現実を否応なく突きつけた。
その時、ドアの隙間から「ムーンブロッサム」という遠くのアナウンスが漏れ聞こえ、美津子の胸に一層の緊張が走った。

美津子の足は震え、彼女はそのまま椅子へとへたり込んだ。
汗でぴたりと密着したワイシャツからは、胸のラインがくっきりと浮かび上がる。
鏡に映った自分の姿――乱れた髪、頬に残る涙の跡、汗で透ける肌――は、もはや別人のようだった。

「私が……あんなことを……」

美津子の唇が小刻みに震えた。
口にする行為に対する根源的な嫌悪、そして客のねっとりとした手つきの記憶が、胃の底からこみ上げる吐き気を引き起こす。

麗華が控室に入ってくるなり、美津子の顔を見て声を上げた。

「ミナ、大丈夫? めっちゃひどい顔してるよ!」

麗華の声が控室に響き渡り、静寂を打ち破った。

ワイシャツとひざ丈スカートというOL風の装いは、汗で肌に吸い付き、麗華の細い身体の輪郭をうっすらと露わにしていた。

麗華の口元から、ふと笑みが消えた。

「え、ほんとに……何!? 泣いたの?」

彼女はすぐに椅子を美津子のそばに寄せ、その肩にそっと触れた。

温かい麗華の指先は、美津子にとっては目の前の重い現実を否応なく意識させるものだった。
麗華の視線が、汗で透けたワイシャツと震える手に落ち、驚きが強まった。

「マジで……何も知らなかったんだ、ミナ。雫に騙されたんだねー。あの子、ほんとひどいよね、新人に何も教えないんだから」

麗華の声は普段通り軽かったものの、そこには美津子への同情と、雫への呆れのような感情が浮かんでいた。

美津子の胸が締め付けられた。
香織の笑顔――「キャバクラと大差ない」と誘った言葉――が、警鐘のように頭をよぎる。

「雫……香織に騙されたの……? でも、私が選んだんだ……」

声が震え、自らが選んだこの状況と、それによって生じた深い自己への裏切りの間で、心が激しく揺れ動いた。

震える唇のまま、美津子は麗華に絞り出すように言った。

「麗華さん……キスとか……あんなこと……知らない男の人と……どうして平気なんですか……?」

その声は小さかったが、この場所にいること自体を拒むような、美津子の確固たる意思が込められていた。

麗華の笑みが一瞬固まり、その目に鋭い光が宿った。

「は? 何それ、ミナ」

麗華の声は一段と低くなり、椅子がミシリと小さく音を立てた。

「あんなことって何? 私たちがやってる仕事、否定すんの?」

麗華が机をバン!と叩く。
その勢いで置いてあったスマホが滑り落ちた。
麗華の汗で濡れたワイシャツが、身動きするたびに肌に張り付いたり離れたりした。
控室にはむせるような汗と香水の匂いが充満した。

「何も知らないくせに、仕事バカにするなよ、ミナ! ここで働くって、そういうことだろ!」

麗華の言葉は厳しかった。
しかし、その声には、この過酷な現実を受け入れ、生き抜いてきた麗華の痛みが透けて見えた。

美津子の喉が締め付けられ、涙が頬を滑った。

「ご、ごめんなさい……そんなつもりじゃ……」

声が震え、麗華の怒りに押し潰されそうだった。

鏡に映る自身の姿が、まるで縮んでいくかのように小さくなった。

「でも……私……」

麗華を見据えながら、声の震えを抑えきれずに言葉を紡いだ。

美津子は震える腕で、自分を抱きしめるように体をぎゅっと寄せた。
汗で張り付いたワイシャツが、豊かな胸の輪郭を妖しく浮かび上がらせた。
麗華は一瞬目を逸らし、深い吐息を吐いた。

「……ミナ、さ。誰も最初は慣れないよ。私だって……まあ、いいや」

麗華の声はわずかに和らいだものの、その響きにはぴりりとしたものが残っていた。

「でもね、ここにいる以上、割り切らないと。じゃないと、潰れるよ」

麗華はスマホを手に取ると、そのまま椅子に深くもたれかかった。

麗華の背中には、この世界で立ち続けるための、静かなる強さが宿っていた。
控室のドアが軋み、店員の足音が響いた。

若い店員が顔だけを控室に突っ込み、美津子の震えが止まらない姿をちらりと見た。

「ミナさん、先ほどのお客様が大変喜んでいらっしゃいましたよ。経験と技術は浅くとも、一生懸命でよかったと」

彼の声は低く、どこか満足げな響きをはらんでいた。

若い店員の言葉に、美津子の喉が再び締め付けられた。
褒められているはずなのに、その言葉が鉛のように重く、心に突き刺さる。
同時に、なんとか役目を果たしたという小さな安堵も胸の奥に灯った。
その場にへたり込みたい衝動と、どうにかこの場をやり過ごさなければならないという焦りが、美津子の身体をさらに震わせた。

若い店員は、美津子の反応を気にする様子もなく、まるで事務連絡のように言葉を続けた。

「あ、それと、言い忘れてましたが、お客様がお帰りになる際は、フロアの入り口のカーテンのところまでお見送りをお願いしますね」

彼の声は変わらず穏やかで、その業務的な響きが、美津子の心に重くのしかかった。

静けさが戻った控室で、麗華が小さく鼻を鳴らし、スマホを膝に置いた。

「私もね、最初から平気だったわけじゃないよ。気持ち悪くて、何度も吐きそうになった。でも、この仕事を選んだ以上、割り切るしかないんだ。ここにいる女の子たちは、みんな必死で生きてる。簡単に諦めるわけにはいかないの」

麗華の声は柔らかく、初めて見せる優しさが美津子の心をそっと撫でた。

美津子は、麗華の言葉にわずかな共感を覚えた。
確かに、誰もがそれぞれの事情を抱えているのだろう。
しかし、美津子には、自分だけが場違いな場所に放り込まれてしまったような感覚があった。
麗華たちは、知った上でこの道を選んだ。
でも、私は……。
美津子は、自分だけが意図せずこの現実に巻き込まれてしまったという、拭いきれない思いを心の中で繰り返した。

しかし、麗華の目はすぐに鋭さを取り戻した。

「でもね、ここに来る客は口でして欲しくて来るのよ。それに金払ってるんだから。仕事だもん、割り切るしかないよ」

その言葉は優しく、しかしこの場所の冷たい現実を美津子に突きつけた。
「客はそれに金払ってる」という言葉が、美津子の胸に重くのしかかった。

「客はそれに金払ってる……」
美津子の喉奥で、その言葉が苦く、ざらついた感触で転がった。
自分がこの場所に意図せず来たことなど、客にとっては知ったことではない。
彼らがお金を払っている以上、自分にはそれに応える義務がある。
この単純かつ強固な論理が、美津子の生真面目な根っこを容赦なくえぐり取った。

美津子の唇の震えが止まり、表情に張り詰めていたものが少し緩んだ。
鏡に映る目には、もはや純粋な拒絶の色だけが宿っているわけではなかった。

そこに宿るのは、目の前の醜い現実を「仕事」として受け入れ、自己を強制的に割り切ろうとする、ある種の悲壮な潔さだった。
感情に流されるのではなく、真面目さゆえに目の前の現実を直視し、今日一日をただ乗り切るために、自らをその枠にはめ込もうとする覚悟が、美津子の心に深く刻まれていく。

麗華の汗ばんだワイシャツの向こうで、細い肩が僅かに揺れる。
彼女の言葉が重い余韻を残す中、ガチャリと控室のドアが開き、店員の声が響き渡った。

「ミナさん、3番シート、お願いします!」

その言葉が、美津子の胸に直接響き、大きく鼓動が波打った。
麗華はゆっくりと振り返り、美津子の変化を認めるかのように、わずかに口元を緩めた。

「ほら、ミナ。次、行くよ。肩の力、抜いてね」

麗華の言葉は励ましだったが、美津子には張り詰めた糸をさらに強く引かれるような、新たな重圧として響いた。
再び震え始めた手で籠を握りしめ、美津子は鏡の中の自分から目を離せなかった。

口でする行為への嫌悪と自己への裏切りの痛みが、美津子の身体を激しく震わせた。
それでも、麗華の言葉――「割り切らないと、潰れるよ」――は、どこか冷徹に、しかし確実に、美津子に適応の道を指し示していた。

まとわりつくような汗と香水の匂いが満ちる控室で、遠くから聞こえるトランス音楽が有無を言わさず、次の瞬間へと誘った。
美津子はふらつきながら立ち上がり、未来が閉ざされたかのような、あのカーテンの奥へ消えていった。
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