帝都の緋 ー少女剣士、桐の誓いー

えびまよ

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1908年

第五章:緋色の怒りと無政府の俗物

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明治四十一年(一九〇八年)六月二十二日。

 季節は梅雨。湿った熱気がこもる東京の午後、内閣直属特務官である藤原朱音の元へ、緊急の報が飛び込んだ。

 神田・錦輝館(きんきかん)前。

 荒畑寒村(あらはた かんそん)、大杉栄(おおすぎ さかえ)らを首魁とする社会主義者、無政府共産主義者の一団が、集会を終えた後、「無政府共産」と墨痕鮮やかに書かれた赤旗を掲げ、屋外行進を試みたという。
 「無政府共産」——その四文字は、朱音の耳には、国体と天皇陛下の御世に対する、最大級の冒瀆と響いた。国家を否定し、社会の階級を、そして何より血統の尊さを否定する、最も許しがたい逆賊。

 朱音は、特務機関から支給された乗合馬車を乱暴に降りた。緋色の羅紗袴と黒革のブーツ。上には、任務服の赤い羽織を纏っている。彼女の冷たい美貌には、今、明確な怒りの熱が宿っていた。

 錦輝館の前の広場は、既に騒乱の渦中だった。
 数十人の警官隊が、赤旗を掲げた一団を食い止めようと、警棒を振り上げている。しかし、その一団の眼差しは狂信的であり、警官隊の規制を突破しようと、激しい攻防が繰り広げられていた。
 そして、風になびく「無政府共産」の赤旗。

 朱音の冷静さの皮は、この光景を前に、瞬時に引き裂かれた。

(陛下の土地を汚し、御世の根幹を否定する俗物どもが)

 彼女の血統主義的な短気が、抑えきれない怒りとなって噴出した。
 朱音は、人垣をかき分け、騒乱の中心へ向かって一直線に進む。警官隊の隊長が、その緋色の羽織に気づき、慌てて敬礼した。

「ふ、藤原特務官!ここは我々が…」

 朱音は、その言葉を無視した。彼女の右手が、腰の刀の柄
に触れる。天皇家から拝領した三層鋼の刀が、抜き放たれた。夜の討伐任務とは違い、昼間の、そして衆目の前での抜刀。
 銀色の切っ先が、湿った午後の光を吸い込む。
 その光を見た「無政府共産」の一団は、一瞬の戸惑いを覚えた。彼らが相手にしていたのは警官隊の警棒であり、真剣の達人ではなかった。
 朱音は、荒畑寒村と大杉栄を見据えて言った。

 「お前たちは、己の命が惜しくないようだな」

 朱音の声は、静かであったが、その発せられた殺気は、警官隊の騒ぎをも鎮静するほどの重みがあった。
 荒畑寒村は、怯むことなく叫び返す。

「お前こそ、反動政府の走狗!我々は真の解放のために立ち上がったのだ!貴族の血など、我らの理想の前では無価値だ!」

 「無価値」——その一言が、朱音の怒りの導火線に火をつけた。

(この俗な血が、藤原の血統の価値を否定するだと!)

 朱音は、一歩踏み出した。真剣を構えた剣士の気迫に、周囲の警官隊が後ずさりする。

「やめろ!朱音特務官!抜刀の許可は…!」

 警官隊の隊長が、慌てて朱音を抑えようと、彼女の腕に触れた。
 その接触が、朱音の短気を極限まで刺激した。自分の使命遂行を、俗な警官に阻まれたことに。
 朱音は、冷たい眼差しで隊長を一瞥した。

「退け!この俗な手が、陛下の剣に触れるな」

 隊長は、その眼の奥の殺気に凍りつき、反射的に手を引っ込めた。
 朱音は、赤旗を掲げた一団全員に、その鋭い切っ先を向けた。

 「分かった。命はいらぬのならば、殺さねば良い」

 その言葉と共に、刀が一閃。
 朱音の剣術の達人としての技が、活人剣の極致として発揮された。彼女は、刀身を瞬時に返し、峰打ちの型へと移行したのだ。
 風切り音は、ただ一度。
 朱音は、一団の中央へと飛び込み、舞うように刀を振るった。
 一。二。三。四、、、数え切れぬほどに
 荒畑寒村、大杉栄、そして彼らに続く主だった扇動者たちの頭部や側頭部に、三層鋼の「峰」が、寸分の狂いもなく打ち込まれる。

 ドンッ!ドンッ!という鈍い音と、男たちの断末魔の叫び。
 その一撃一撃は、訓練された剣士の、完璧な打突だった。命を奪うほどではない。だが、即座に意識を奪い、二度と立ち上がれないほどの衝撃を与える。
 行進に参加していた者たちは、瞬く間に、次々と意識を失い、地面に崩れ落ちた。赤旗は、風から力を失い、地面に横たわる男たちの血のように、広場の石畳に広がった。

 数秒後。朱音は、静かに刀を鞘に納めた。
 彼女の周りには、数十人の「逆賊」が、呻き声を上げながら気絶している。そして、呆然と立ち尽くす警官隊と、息を呑む群衆。
 朱音は、一切の汗も乱れもない、完璧な姿勢で直立した。

 「警官隊。これらは逆賊。憲兵隊へ引き渡し、厳正に処罰させよ。この事態は、特務官として、内閣へ報告する」
 彼女は、警官隊の隊長に、冷酷な目で命令を下した。

「そして、二度と、この朱音の使命遂行を妨げる俗な真似をするな」

 その緋色の羽織は、血に塗れることなく、神田の午後の熱気の中で、絶対的な「国家の剣」として、鮮烈な印象を残したのだった。
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