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1909年
第六章:緋色の剣士と板チョコレートの誘惑
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明治四十二年(一九〇九年)三月。
特務官・藤原朱音は、藤原家私邸の静謐な一室で、朝刊を広げていた。外では早春の柔らかな日差しが、先祖伝来の刀身を収めた黒漆の鞘に、かすかな光沢を与えている。
朱音は、新聞に並ぶ世俗の文字の羅列に、深く息を吐いた。政治、経済、社交界のゴシップ……すべてが彼女の血統的な価値観から見れば、取るに足らない俗な事柄に過ぎない。特に、無政府共産主義者らを峰打ちで打ちのめした「赤旗事件」以来、新聞の扇情的な書きぶりは目に余る。
その時、朱音の視線が、紙面の一角に描かれた広告に釘付けになった。
「森永板チョコレート新発売」
(森永、といえば、これまではクリームチョコレートではなかったか?)
甘味には煩い乙女としての朱音の興味が、その新しい形状の菓子に強く惹きつけられた。浮世離れした貴族であっても、甘味への好奇心は抑えられない。
朱音は、護衛の尾崎に言伝を頼み、すぐに支度を整えた。緋色の羅紗袴はそのままに、上には目立たない灰桜色の羽織を纏う。
「灰桜色を纏えば、目立たぬとでも思っているのか、この俗な世間は」
私邸から日本橋方面へ向かう途中、通行人の視線が引っ切りなしに朱音に注がれているのを感じた。道行く誰もが、緋色の袴の女剣士の噂を知っている。
(困ったものだ。どうやら、この緋色の羅紗袴は、灰桜の羽織を纏ったところで、もはや隠しようのない象徴と化してしまったらしい)
朱音は、心の中でため息をつく。次の休暇では、この目立ちすぎる装束の代わりに、全く異なる衣を用意する必要があると感じた。
日本橋の老舗百貨店、白木屋(しろきや)。当時としては珍しい三階建ての土蔵造りは、近代化の波を象徴していた。数年後には、「えれべーたー」なるものが設置されると聞く。
朱音は、店内に入り、目当ての板チョコレートを探す。すぐに、一つの販売台の前にできた長い行列が目に入った。皆が皆、興奮した面持ちで、その新しい甘味を求めているようだ。
朱音は、行列の最後尾に立つ、地味な身なりの男に声をかけた。
「…この列は、板チョコレートを求めてのものか?」
男は振り向いた。朱音の浮世離れした美貌と緋色の袴、そして何よりその威圧的な気配に、男はギョッと目を見開き、反射的に直立不動の姿勢を取った。
「ひ、左様でございます!藤原様!」
朱音は、再び確信した。
(やはり休暇は、緋色の羅紗袴を止めよう)
やがて、列は朱音の前で途切れた。販売台の前に立つ若い女性店員は、目の前に現れた「緋色の特務官」に緊張で顔を紅くしている。
朱音は、その緊張を和らげるように、格式張った口調で告げた。
「板チョコレートを、十(と)枚」
「は、はい!かしこまりました!」
店員は震える手で商品を包み、朱音に渡した。朱音もまた、貴族然とした一礼をもって答える。
「有り難き」
久々ぶりの新しい甘味。その期待感に、朱音の心は弾んだ。
私邸に戻った朱音は、自室で早速、板チョコレートの包みを開けた。一口。
パリッという、クリームチョコレートにはない、新しい食感。口の中に広がる香ばしさと苦味、そして洗練された甘さ。
(これは…!)
朱音の口元に、思わず笑みが漏れる。浮世離れした貴族である彼女が、世俗の流行が生み出した新しい味覚に、純粋な喜びを感じていた。
一枚、二枚と、その新しい味覚を堪能したところで、背後から声がかかった。
「お嬢様」
声の主は、先祖代々、藤原家に仕える執事、中村源蔵(なかむら げんぞう)だった。彼は、盆に淹れたての紅茶を携えて立っている。
「甘味の食べ過ぎは、身体に悪うございますぞ。明日からの任務に差し支えます」
朱音は、残りのチョコレートを惜しむように手に持ちながら、源蔵を振り返った。
「よいではないか、源蔵。久方ぶりなのだぞ。この俗な世間にも、稀に良いものがある」
源蔵は、朱音の機嫌の良さに、小さく微笑んだ。
「仕方ございませんな」
源蔵は、湯気の立つ紅茶を朱音の前に配する。朱音もまた、納得したように頷く。
「そうだ。仕方ないのだ」
朱音は紅茶を一口啜り、再び板チョコレートに手を伸ばした。
数日後。朱音は、新聞を読んでいた。森永板チョコレートの全面広告。
その広告の下には、朱音の表情を正確に捉えたであろう、誇張された版画が添えられていた。そして、その版画の横には、目を疑うような活字が踊っていた。
「森永板チョコレート、緋色の剣士・藤原朱音特務官も御用達!」
「新時代を担う女性が愛する甘味!」
政府のプロパガンダ、そして世俗の商業主義は、彼女の私的な行動すらも見逃さなかった。
朱音の血統主義者としての矜持と、貴族としての私生活の平穏は、完全に俗世に暴かれてしまった。彼女の顔が、緋色の袴よりもさらに鮮烈な紅色に染まる。
(…源蔵!あの世俗の男め、私の私的な買い物を…!)
朱音の冷静さの皮が剥がれ、短気が爆発する寸前だった。彼女にとって、これは逆賊の討伐よりも、遥かに不粋で屈辱的な事態だったのである。
特務官・藤原朱音は、藤原家私邸の静謐な一室で、朝刊を広げていた。外では早春の柔らかな日差しが、先祖伝来の刀身を収めた黒漆の鞘に、かすかな光沢を与えている。
朱音は、新聞に並ぶ世俗の文字の羅列に、深く息を吐いた。政治、経済、社交界のゴシップ……すべてが彼女の血統的な価値観から見れば、取るに足らない俗な事柄に過ぎない。特に、無政府共産主義者らを峰打ちで打ちのめした「赤旗事件」以来、新聞の扇情的な書きぶりは目に余る。
その時、朱音の視線が、紙面の一角に描かれた広告に釘付けになった。
「森永板チョコレート新発売」
(森永、といえば、これまではクリームチョコレートではなかったか?)
甘味には煩い乙女としての朱音の興味が、その新しい形状の菓子に強く惹きつけられた。浮世離れした貴族であっても、甘味への好奇心は抑えられない。
朱音は、護衛の尾崎に言伝を頼み、すぐに支度を整えた。緋色の羅紗袴はそのままに、上には目立たない灰桜色の羽織を纏う。
「灰桜色を纏えば、目立たぬとでも思っているのか、この俗な世間は」
私邸から日本橋方面へ向かう途中、通行人の視線が引っ切りなしに朱音に注がれているのを感じた。道行く誰もが、緋色の袴の女剣士の噂を知っている。
(困ったものだ。どうやら、この緋色の羅紗袴は、灰桜の羽織を纏ったところで、もはや隠しようのない象徴と化してしまったらしい)
朱音は、心の中でため息をつく。次の休暇では、この目立ちすぎる装束の代わりに、全く異なる衣を用意する必要があると感じた。
日本橋の老舗百貨店、白木屋(しろきや)。当時としては珍しい三階建ての土蔵造りは、近代化の波を象徴していた。数年後には、「えれべーたー」なるものが設置されると聞く。
朱音は、店内に入り、目当ての板チョコレートを探す。すぐに、一つの販売台の前にできた長い行列が目に入った。皆が皆、興奮した面持ちで、その新しい甘味を求めているようだ。
朱音は、行列の最後尾に立つ、地味な身なりの男に声をかけた。
「…この列は、板チョコレートを求めてのものか?」
男は振り向いた。朱音の浮世離れした美貌と緋色の袴、そして何よりその威圧的な気配に、男はギョッと目を見開き、反射的に直立不動の姿勢を取った。
「ひ、左様でございます!藤原様!」
朱音は、再び確信した。
(やはり休暇は、緋色の羅紗袴を止めよう)
やがて、列は朱音の前で途切れた。販売台の前に立つ若い女性店員は、目の前に現れた「緋色の特務官」に緊張で顔を紅くしている。
朱音は、その緊張を和らげるように、格式張った口調で告げた。
「板チョコレートを、十(と)枚」
「は、はい!かしこまりました!」
店員は震える手で商品を包み、朱音に渡した。朱音もまた、貴族然とした一礼をもって答える。
「有り難き」
久々ぶりの新しい甘味。その期待感に、朱音の心は弾んだ。
私邸に戻った朱音は、自室で早速、板チョコレートの包みを開けた。一口。
パリッという、クリームチョコレートにはない、新しい食感。口の中に広がる香ばしさと苦味、そして洗練された甘さ。
(これは…!)
朱音の口元に、思わず笑みが漏れる。浮世離れした貴族である彼女が、世俗の流行が生み出した新しい味覚に、純粋な喜びを感じていた。
一枚、二枚と、その新しい味覚を堪能したところで、背後から声がかかった。
「お嬢様」
声の主は、先祖代々、藤原家に仕える執事、中村源蔵(なかむら げんぞう)だった。彼は、盆に淹れたての紅茶を携えて立っている。
「甘味の食べ過ぎは、身体に悪うございますぞ。明日からの任務に差し支えます」
朱音は、残りのチョコレートを惜しむように手に持ちながら、源蔵を振り返った。
「よいではないか、源蔵。久方ぶりなのだぞ。この俗な世間にも、稀に良いものがある」
源蔵は、朱音の機嫌の良さに、小さく微笑んだ。
「仕方ございませんな」
源蔵は、湯気の立つ紅茶を朱音の前に配する。朱音もまた、納得したように頷く。
「そうだ。仕方ないのだ」
朱音は紅茶を一口啜り、再び板チョコレートに手を伸ばした。
数日後。朱音は、新聞を読んでいた。森永板チョコレートの全面広告。
その広告の下には、朱音の表情を正確に捉えたであろう、誇張された版画が添えられていた。そして、その版画の横には、目を疑うような活字が踊っていた。
「森永板チョコレート、緋色の剣士・藤原朱音特務官も御用達!」
「新時代を担う女性が愛する甘味!」
政府のプロパガンダ、そして世俗の商業主義は、彼女の私的な行動すらも見逃さなかった。
朱音の血統主義者としての矜持と、貴族としての私生活の平穏は、完全に俗世に暴かれてしまった。彼女の顔が、緋色の袴よりもさらに鮮烈な紅色に染まる。
(…源蔵!あの世俗の男め、私の私的な買い物を…!)
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